« 2018年04月 | メイン

2018年05月28日

いじけますな。

 昨日は、早朝から外出し、あわただしい1日だった。
 夜の8時、仮眠しようとベッドに入ったら、明け方4時まで熟睡していた。
 毎週、月曜日は連載コラムの〆切であることをコロリと忘れていて、あわてて書き始める。

 いま、階下の玄関でドアが開く音がした。
 愚妻が日帰り温泉へ出かけたのだ。
 この元気は、いったいどこからくるのか。

 愚妻が元気になればなるほど、私は萎えてくるような気がする。
 人生は「ゼロサム」で、プラスとマイナスは足してゼロが私の自論だが、どうやら夫婦もそのようである。

 私はこれから限りなくゼロに向かい、愚妻は限りなく無限大に近づいて行くのだろう。

 愚妻が輝く時代。
 亭主の私は、漆黒の闇に落ちていく。

『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』

 親鸞さんの言葉が脳裏をよぎる。

 疲れてくると、ホンマ、いじけますな。

 私はこれから自宅の風呂に入る。
 昼は、都内で知人に会う。

投稿者 mukaidani : 07:18

2018年05月24日

価値観の変化

 連日、朝から夜中まで、森友・加計学園と日大アメフト部の問題がテレビで報じられている。

 だから愚妻は、テレビを観つつ、朝から夜中まで怒り、
「みんなウソつきばっかり」
 私をジロリとニラむ。

「わしは、これっぽっちもウソはつかん」
 あわてて弁解するが、
「あなたは私を騙してばっかりでしょ」
 と責めてくる。

 とんだ、とばっちりの日々である。

 それぞれの問題についてはここで書くまでもないが、世相に対する私の感覚としては、価値観が大きく変わりつつあるような気がしてならない。

 中央官庁の堕落、人格まで否定される政治家、セクハラ、パワハラ、体罰、勝利至上主義、マイノリティーの権利、大国のエゴ、男女機会均等、残業廃止・・・。
 さらに言えば、大企業でさえ経営危機に陥る。

 これまで、社会で是とされたもの、許容されてきた価値観が崩壊し、排除されてきた価値観が認められる。
 そんな時代のうねりを感じる。

 健康年齢を考えれば、私など今さらなすべきことは限られているが、著述業者として、あるいは僧籍にある者として、この変化しつつある時代にどう対処すべきか、いささか考えないでもない。

 価値観の変化は空白を生む。
 その空白に、何かを提言できればいいと、あれこれ考えているところなのだ。

投稿者 mukaidani : 15:07

2018年05月22日

継続の要諦

 今朝も快晴。
 目覚ましがなくても4時30分に目が醒める。

 今日はあれこれ忙しいので、読経だけして朝の散策は中止にするつもでいたが、どうしても行きたくなり、そそくさと着替えて出かけた。

 やはり気分がいい。

「継続は力なり」というが、要は何事も習慣化すればいいのだということに改めて気づく。

 ということは、習慣化するまで、つまり出だしが勝負ということになる。

 マニュアルギアのクルマで言えば、ローギアだ。
 スピードは出ないが、力がある。
 ところが私たちは快走をイメージし、すぐにトップギアに入れようとする。
 だからエンストするのだ。

 スピードは出なくても、ローギアでまず発進すること。
 これが「継続」のコツということだ。

 帰宅すると、愚妻が入れ違いに日帰り温泉に出かけた。
 これも継続に変わりないが、愚妻のこの継続はいきなりトップギアで発進し、さらにスピードアップしている。

 発進はローギアとは限らないのではないか。
 散策で気づいた「継続の要諦」は、いまグラついているのだ。

投稿者 mukaidani : 08:05

2018年05月19日

「温泉」と人生訓

 愚妻が、近所の日帰り温泉へ行くのを、週2日にすると言い出した。

「それがいい。朝寝、朝酒、朝湯で身上をつぶしたのは小原庄助さんだ。おまえはまだ朝寝と朝湯だからいいが、これに朝酒が加わったら・・・」
「うるさい!」
 柳眉を逆立てた。

 愚妻が言うには、朝7時に出かけるには、それまでに掃除や洗濯をすませておかなければならず、それが楽ではないのだそうだ。

 朝風呂に浸かるために疲れる。
 朝風呂に浸かるための準備が負担になる。
 朝風呂に浸かるために寝不足になる。

「アホの見本だな」
「そうなのよ」
 と、珍しく納得している。

 どんなに楽しいことも、ずっと続けていれば、必ず虚しくなるものだ。

 漢武帝の言葉に、
『歓楽(かんらく)極(きわま)って哀情(あいじょう)多し』
 というのがある。

「楽しみや喜びが極まると、悲しみや侘(わび)しさがやってくる」
 と言う意味だ。

 人生の苦楽は振り子になっている。
 振り子が「楽」に振れ、振り切ったら一転、対極の「苦」に振れていく。
 だから、振り切ったらダメなのだ。

 私は故事ことわざが大好きで、著書もある。
 名句・名言に接すると、いろんなことを考えさせられる。

「温泉は週に2日にするわ」
 という愚妻の溜め息に、『歓楽極って哀情多し』という故事を重ねると、具体的でわかりやすい人生訓に昇華するのだ。

投稿者 mukaidani : 15:51

2018年05月17日

「逆張り」という生き方

 朝の読経を終え、散策のため着替えようとしたら、外が何となく暗い感じがする。
 雨の予報はなかったので曇天か?
 
 外をのぞいて確かめてみればいいのだが、生来のものぐさゆえ、手もとのアイパッドで「いま現在」の天気予報を見る。
 曇りである。

 二日続けて晴天だっただけにガッカリするが、曇天があるからこそ、晴天の心地よさがある。
 曇天こそ「心地よさの素」ではないか。

 そんなことを思うと、不意に親鸞聖人のご和讃が脳裏をよぎる。

『罪障功徳の体となる こおり(氷)とみず(水)のごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし』

 このところ「親鸞教義」を読んでいるせいだろうが、なるほど視点を変えれば真逆の発想になる。
 黒いものも白くなるのだ。

 そういえば、ヤクザ社会は、
「親分が白と言えば、黒いものでも白くなる」
 と言われるが、これは理不尽なことを象徴して言っているのではなく、「真逆の発想」という高邁な哲学的見地なのかもしれない。

 深い。
 実に、奥が深い。

 そんなことを考えているうちに、出発が遅れてしまい、大急ぎで飛び出して行った。

 田んぼがあり、畑がある。
 家庭菜園もあちこちにある。

 趣味でやっているだろう。
 ネットを張ったり、杭を打ってヒモで囲ったり、見るからにシロウトの手作業である。
 だが、見てくれが悪いからこそ、そこに人間の営みが見てとれる。

 AIの時代を迎えたが、こうした営みにこそ、まさに「人間のいのち」というものを感じる。

 AIという時代のベクトルに背を向けて生きていこう。
 逆張りの人生である。
 世間が黒と言ったら、私は白と言うのだ。 

投稿者 mukaidani : 08:47

2018年05月16日

早朝散策と風呂

 昨日も、今日も晴天。
 新緑を愛でながらの早朝散策は、何とも心地よい。
 ウォーキングを再開してから、朝が楽しみになっている。

 家を出るのは毎朝6時。
 以前、夏場は未明から歩き始めたが、季節に応じて時間を変えたのでは、季節の移ろいがわからない。
 それで、冬場の出発時間に合わせ、毎朝6時としている。

 帰宅は7時。
 愚妻が、近所の日帰り温泉へ出かける時間だ。

 道草を食って帰宅が7時を過ぎると、愚妻に怒られる。
 昨朝がそうだった。
「ちょっと、洗濯機を回して出かけるんだから、早く脱いでよ!」

 ウォーキングで汗をかくので、衣類を洗濯機に放り込んでから出かけるというわけだ。

 私は叱責に尻を叩かれながら急いで裸になり、自宅の朝風呂。
 愚妻はすぐさまクルマを飛ばして、日帰り温泉へ。

 私は狭い自宅の風呂に手足を縮めて浸かり、愚妻は肥満体を露天風呂にプカプカ浮かべ、サウナでムダに汗を流す。

 人生は何と不公平にできていることか。
 いや、不公平であることを人生と呼ぶのかもしれない。
 私は湯船でそんなことを考えるのだ。

投稿者 mukaidani : 10:55

2018年05月13日

メモは財産。

 私は「白か黒か」で生きてきた。
「やる」と決めたらトントコン、「やらない」と決めたらテコでも動かない。

「あなたは両極端だ」
 と愚妻はあきれるが、そういう処し方が男らしいと思ってきた。

 ところが最近、考えが変わってきた。
「白か黒か」と決めつける生き方は、独善的な価値観によって線引きされているため、楽な生き方なのだ。

 そうではなく、白でもない、黒でもない、「別の何か」という視点、価値観こそ大事なのではないか。
 そんなことを考えるようになったのである。

 キッカケは、釈迦の説いた「中道」である。
 中道とは「両極端にかたよらない」という意味だ。

 つまり、白にも黒にもかたよらないということだが、両者の中間をとって灰色ということではない。

 私流の言い方をすれば、
「白か黒かという二者択一を超越したもの」
 ということになる。

 西洋哲学で言うアウフヘーベンがそれに近いだろう。

 別のことにたとえると、「有」と「無」がそうだ。
 書は「余白」で見せると言うが、墨痕は「有」で余白は「無」。
 すなわち、墨痕と余白は対立概念ではなく、相乗することで芸術に昇華する。

 ならば、ヤクザとカタギの関係はどうだ?
 北朝鮮と米国の関係は?
 さらに、「中道」を人間関係術や交渉術で考えたらどうなるか。

 ヒマだからそんなことを考えているわけではない。
 あれやこれやと処理しなければならないことが山積しているときに限って、こんな考えが脳裡をよぎるのだ。

 だが、あとでゆっくり考えようと後回しにすると、ひょいと浮かんだ思いは雲散霧消する。
 だから忙しくても書き留める。
 妙想は突如、飛来して、瞬時に飛び去る。
 メモは財産なのだ。

投稿者 mukaidani : 15:37

2018年05月10日

自然公園を散策

 伊豆の下田へ3泊4日で出かけた。

 数年前に訪れた修善寺の自然公園『虹の里』が気に入っているので、途中で立ち寄った。

 うろうろと歩き回り、ひょいと前方の歩道を見やると、何やら長いモノ。

(あっ、ヘビだ)

 長い(と言うのかどうか)、優に1メートル以上はあるヘビが、ノロノロと歩道を横断して池に向かっているではないか。

 愚妻はヘビが大嫌い。
 だが、行く手にヘビがいる以上、黙っているわけにいかない。

 私は愚妻を脅かさぬよう、パニックにならないよう、声を荒げず、
「おい、あれ」
 前方にアゴをしゃくった。

 ところが愚妻は、
「ン?」

 ヘビを目にしてもキョトンとしている。
 愚かな女だ。
 春の公園にはヘビがいるという認識が欠如しているのだ。

 このマヌケさ加減に腹が立ち、
「ヘビだ!」
 指で示し、語気を強めて言ったとたん、
「ウワーッ!」

 野獣のような叫び声をあげ、モーレツな力で私の腕にしがみついてきたので、これにはこっちがアワを食い、
「ウワーッ!」
 私も思わず叫んだ次第。

 だが、愚妻の立ち直りは早い。
「ヘビは金運の象徴でしょう? いいかもね」
 その場を離れながら言う。

「よし。じゃ、もう1度、見に行こう」
「いやよ」
「金運だぞ」
「絶対にいや」
「1千万やると言われたら見に行くか?」
「1千万じゃねぇ」
「1億ならどうだ」
「行こうかしら」

 せっかくの自然公園も、愚妻と歩くと四季に心を遊ばせるどころか、俗な話しになってしまうのだ。
 

投稿者 mukaidani : 12:20

2018年05月04日

取材を受ける楽しみ

 今日は、仏教名句について週刊誌の取材を受けた。
 連休にもかかわらず、仕事場までご足労願った。
 私はこれから一週間ほど予定が詰まっていて、取材時間が取れないため、無理を言った次第。

 かつて私も週刊誌記者をやっていただけに、取材に見える記者氏の心情がよくわかる。
「わざわざ行くほどのこともなかったな」
 という取材が少なからずあるものだ。

 だから今回に限らず、取材を受けるときやコメントを求められるときは、記事を書きやすいようにしゃべる。

 記者も探りながら質問するが、話す私も記者が何を訊きたがっているかを探りながら答える。
 この探り合いが、取材を受ける時の楽しみでもある。

 明日は空手の大会だ。
 県下北総地区の大会で、今年の会場は佐倉市。
 そして、夜は懇親会。
 長い一日になる。
 

投稿者 mukaidani : 19:48

2018年05月01日

大河に身をまかせる

 人生は「因縁生起」である。
「因」に「縁」が作用して「果」を生み、その果が「因」となり、別の「縁」によって新たな「果」となる。
 これを延々と繰り返す。

 だから人生は、自分の意志と関係なく、あっちに跳ね、こっちに跳ね、まるでラグビーボールである。

 ところが、私たちは自分の望む方向へボールを跳ね飛ばそうとする。
 言葉を変えれば、「縁」を自分の意志に従わせようとする。
 うまくいかないのも道理である。
 
 そうではなく、ボールが飛んだ方向に合わせて、人生というゲームをプレイする。
「縁」を自分の意志に従わせようとするのではなく、「縁」を活かすという処し方だ。

 だが、これがなかなか難しい。
 なぜなら、「縁」は自分の意志の外にあるものだけに、これに従うという生き方は度胸がいるからだ。

 だが、来し方を振り返ると、自分の意志で切り拓いてきたように見えて、「縁」に導かれていることがよくわかる。

 日々に一喜一憂せず、「縁」という滔々たる大河に身をまかせつつ、今を根限り生きていれば、やがて大海に流れ至る。
 これを「現実を甘受する」と言う。

 今日から5月。
 真夏の陽気をよそに、仏教書を読みつつ、あれやこれやと思いがよぎるのだ。

投稿者 mukaidani : 22:09