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2018年03月30日

「中途半端」考

 昨日の昼、友人で、キックボクシング元世界チャンプのN氏が遊びに来てくれる。
 どんな話しをしていても、最後は技術論や指導論になっていく。
 彼は50代に入りながら、キックに懸ける真摯で熱い姿勢は大いに刺激を受ける。

「ゆとり教育」などというバカげた時代があったが、何事も一所懸命でなければならないというのが、私の変わらぬ信念である。

「何事も」というところが大事で、自分の得になることは誰でも一所懸命になる。
 これは動物。
 彼らは、まさに命懸けでエサを獲りにいく。

 人間は違う。
 得にならなくても、引き受けたこと、始めたこと、頼まれたことは、たとえ自分に損になろうとも全身全霊を打ち込んで当たる。
 ここが動物と人間の違うところだろうと思っている。

 私はそうありたいと願っているから、すべてにおいて極端だ。
 やるなら「命懸け」、やらないなら見向きもせずに「昼寝」。

「あなたは何でそう極端なのよ」
 と、愚妻は結婚して以来、40年に渡って文句を言い続けているが、口幅ったいのを承知で言えば、「責任」ということを念頭において行動すれば必然的にそうなるのではないだろうか。

 ヤクザは自己を評して、
「バカでなれず、利口でなれず、中途半端でなおなれず」
 と、自嘲を装いつつ、矜持を込めて言う。

 含蓄に富んだ言葉だ。

 眼目は「中途半端」にある。

 中途半端を蔑んでいるのだ。

 だから、「中途半端であってはならない」と自戒し、責任を貫こうとすれば、処し方はおのずと極端にふれる。

「だから、わしは悪くない」
 と胸を張るのだが、愚妻はむろん耳を貸すことはない。

投稿者 mukaidani : 01:01

2018年03月28日

早朝ウォーキング

 天気もいいし、結石も出たし、早朝ウォーキングの再開である。
 この時期、春霞の田園風景はまた格別のものがある。

 だが、歩いていると、いろんなアイデアが湧いてくる。
 一瞬の閃きは、一瞬ゆえにすぐに跡形もなく消えてしまう。
 このことがわかっているので、帰宅してメモにしなくてはと、自然と足が速くなる。

 春霞を楽しみ、楽しむがゆえにアイデアが閃き、忘れないようにと帰宅を急ぐため、春霞を楽しむ余裕がなくなる。
 妙な連鎖ではないか。

 ポカポカ陽気なので、着物に袖無し羽織を着て、道場の仕事部屋へ行くことにする。
 ハットを被ったらどうかと思い、愚妻に問うと、
「ちょっと、春先に妙な格好して歩いていると、ヘンな人に間違われるわよ」

 こうして今日も、夫婦して足を引っ張り合いながら幕を開けたのだ。

投稿者 mukaidani : 08:52

2018年03月27日

結石が出た!

 結石が出た。
 小便と一緒に出た。

 出た、出た、石が、まあるい、まあるい、まんまるい・・・わけではない。

 大きさは芥子粒。
 茶褐色。
 ギザギザの、カチカチの結石である。

 石が出たときに備え、毎回、網で濾(こ)して小便をしているので、指でつまんで確認。
 来月、病院に行ったときに成分の検査をするため、提出する。

 これでひと安心。
 もう外出しても大丈夫だと喜ぶ私に愚妻が言う。
「また、すぐできるわよ」

 悪い女だ。

 だが、一理ある。
 普段からしっかり水分をとらなくては、いつ結石ができるかわからない。
 飲もう。
 水をガブガブ飲もう。
 2リットルのペットボトル1本をノルマと決めた。

 酒を飲んでいたころは、毎日、ビールに日本酒にワインにと鯨飲していたものだが、これが水となれば、なかなか飲めないものだ。
 人間の身体に必須のものでありながら、酒ほどには飲めない。
「なぜだ」
 と、疑問がよぎり、忙しいにもかかわらず、回答を求めて頭を悩ますのだ。

投稿者 mukaidani : 22:48

2018年03月25日

さて、浄土真宗一道会である。

 このHPのトップにあるように、浄土真宗一道会による「還骨一日葬」を始めることにした。

「還骨一日葬」は私が名付けたもので、葬儀費用が高額になり、「うっかり死ねない時代」になってきたことへのささやかな抵抗である。

 葬儀が高額になるのは、祭壇など諸々の費用が高いからだ。
 もちろんそれを否定はしないが、簡素な葬儀を望む人は少なくない。
 私が応えられるとしたら、簡素な葬儀だ。

 葬儀が簡素というのではなく、きらびやかにせず、身内だけで送るという意味で、葬儀は儀式に則って懇(ねんご)ろにお勤めすることは言うまでもない。

 私は暮れで68歳になる。
 年齢から考えて、今年は僧侶として本格活動する年と決めていたが、仕事が忙しく、いきなり通夜・葬儀の依頼があっても、対応しきれない場合がある。
 実際、大事な取材と重なってお断りしたこともある。

 その点、法事は前もって日時がわかるため、予定が立てられる。

 何かいい方法がないか考えをめぐらせるうちに、「還骨一日葬」にたどりついたという次第。

 近隣に知らせることなく、身内だけで葬儀をやりたいという人が増えている。
 ならば、先にご遺骨にしてご自宅に安置し、日取りを決めて私が一人でおうかがいして葬儀を行えば、近隣に知れることもない。
 私も予定が立つし、ご遺族もお布施以外に出費がかからない。

 そんなわけで始めた試みである。

「一道会を始めるなら、HPを新しく作り直してはどうか」
 という話もあった。
「HPのカテゴリーを増やすだけでもいいのではない」
 か、という助言もあった。

 仲間にHP作成の専門家もいる。
 依頼すればすむことだが、大々的にやることに躊躇した。
「必要とする人がいるなら、そしてご縁があるなら出勤しよう」
 そう考えているからだ。

 法事も年忌にこだわらず、故人を偲びたくなればやればいいと思っている。
 私は法事の場を通して、生きること、人生の幸不幸など、いろんなことを話してみたいし、話しを聞いてもみたい。
 必要があれば、メールで問い合わせていただきたい。

 私は浄土真宗本願寺派だが、どの宗派も「釈迦の弟子」。
 こだわることはないと思っている。

 

投稿者 mukaidani : 16:01

2018年03月22日

愚妻の怨念

 昨日は当道場の春季審査会。
 東京、神奈川の支部からも審査委員に来てもらい、無事終了。

 それはいいのだが、夜になって結石が痛みだした。
 痛みは収まるのか激しくなっていくのか。
 この見極めで、残り少なくなった鎮痛座薬を用いるかどうかを判断しなければならない。

 迷った末、座薬を用いるが、これがなかなか効かない。
 2個用いればいいことはわかっていても、残りが少ないので我慢。
 次回の検査は4月早々。
 あと二週間、座薬をもたせなくてはならない。
 そんなわけで結局、朝まで痛みに輾転とする。

 朝、愚妻にそのことを言うと、
「さっさと石を出しなさいよ。いつまで持ってるのかしらねぇ」

 薄情なことを言うので、厳しく叱責すると、
「私が胆石になったときに、そう言ったじゃないの」
 柳眉を逆立てた。

 胆石!
 フラッシュバックである。

 いまから40年前、愚妻が胆石になったとき、そんなことを言ったらしいのだ。
「いつまで石を持っておる!」
 そう言ったと主張する。
 私のことだから言っただろう。

 それにしても、まさか40年、この言葉を怨念のごとく脳裡に刻んでいたことに唖然、慄然である。
 言葉には気をつけねばと、あらためて反省した次第。

 今日は、保護司の年度末研修があったが、結石の事情を話して欠席。

「これがホントの、結石よる欠席だ」

 と、痛む横腹を押さえつつ、ダジャレが脳裏をよぎるのだ。


投稿者 mukaidani : 16:35

2018年03月20日

人生のアジテーター

 盤石と言われた安倍政権が火だるま。
 戦争が懸念された米朝関係が一転して首脳会談。
 収束に向かったはずの森友問題が、文書改竄問題でまさかの再爆発。

 一寸先は闇である。
 世のなかは動いている。
 
 私が感心するのは、一寸先は闇であるにもかかわらず、テレビで堂々の発言をするコメンテーター諸氏である。

「米国よる先制攻撃の可能性はじゅうぶんにあります」
 と煽ったその口で、米朝首脳会談に流れが傾くや、
「さて、どこまでトランプ大統領が譲歩するか、これは目が離せません」
 と、たちまち軌道修正である。

 彼らを見ていてつくづく思うのは、有能なコメンテーターとは「アジテーター」であるということだ。

 たとえば、
「米朝の戦争はありますかね?」
 と司会者に振られたとき。

「さあ、あるかもしれないし、ないかもしれないし、わかりませんねぇ」
 とコメントしたのでは、視聴者は面白くない。

 ここは語気を強めて、
「米軍による先制攻撃もあり得ます!」
「北朝鮮はグァムを核攻撃するかもしれません!」
 ガンガン煽れば、視聴者は引きこまれる。

 ポイントは、コメントにつけ加える一言。

「という可能性も排除できない」
「可能性は決してゼロではない」
「何が起こっても不思議ではない」
「もし、そうであるとするなら」

 こうした前提条件をつければ、何を言っても言い放題で、人気コメンテーターは「アジテーター」というわけである。

 私も夕刊紙や雑誌からコメントを求められることがある。
 かつては、自分が得手としない分野のコメントを求められるのは気が進まなかったが、そのうちコメンテーターかアジテーターの役目だとわかってくると、何でもござれになった。

 つまり、「私はこう思う」という「私見」には正解はないということ。
 ところが、正解を探して「公見」を言おうとする。
 だから、どっちつかずのコメントになる。

 言いたいことを、言いたいように言えばいいのだ。
 これはコメントに限らず、生き方も含めてすべてのことについて言えるのではないか。
 我が人生において、最高のアジテーターになる。
 自分を鼓舞するとは、つまりはそういうことではないかと、つらつらと脈絡なく考えるのである。

投稿者 mukaidani : 05:26

2018年03月18日

多果一因

 週に1度を目安にマッサージに行っている。
 ところが、結石のせいで今週はドタキャン。
 鈍痛があるのに背中のモミモミはヤバイだろうと思ってのことだ。

 ところが、首が凝ってしょうがない。
 原稿を長時間書くと、てきめん首まわりにくる。
 それで週1のマッサージを心がけていたが、結石で行けない。
 体調悪しという悪循環。

 1ヵ所のアクシデントが連鎖反応を起こしていくということだ。

「風吹きゃ桶屋が儲かる」
 とはよく言ったもので、一見、脈絡がないように見えて、実は連鎖反応ということが何事にもあるのだろう。
 まさに「一因多果」であり、逆をたどれば「多果一因」ということになる。

 諸現象という「多果」から、根本の「一因」をいかに見抜くか。
 この視点を忘れてはならないと、首を自分で揉みながら思うのである。

投稿者 mukaidani : 07:59

2018年03月16日

精神の復元力

 昨夜も遅くになって右脇腹が痛み始め、結局、朝まで眠れなかった。
 夜になると痛むようだ

 愚妻に言うと、
「どうしてかしらねぇ」

 そんなこと、私にわかるわけがないが、規則性があるということは、何らかの原因があるのだろう。
 考えてみようかと思ったが、考えることが他にたくさんあるのでやめた。

 今日は昼に都内で知人と約束があった。
 未明、痛いのでメールでキャンセルを伝えようかと思ったが、泣きごとを言うのは恥ずかしいことだ。
(なるようになれ)
 と思って出かけたら大丈夫だった。

「断じて行えば鬼神もこれを避く」
 と言うが、なるほどそのとおりだ。
「断じて行動すれば、結石もこれを避く」
 ということか。

 知人とお茶を飲みながらあれこれ話をしたが、
「結局、人間は死ぬまで忙しい」
 というところで意見が落ち着いた。

 チマチマと泣きごとなんか言ってないで、ガンガン前に進もう。
 
 結石のお陰で、ファイトがわいてきた。

 何事もマイナスに振れ、振れ切ったところからプラスに転じる。
 これを私は「精神の復元力」と呼んでいる。
 そういう意味で、マイナスはウェルカム。
 つまり、人生に於いてマイナスはないということになるのだ。 

投稿者 mukaidani : 17:36

2018年03月14日

依然、痛し

 結石の痛みが依然、続いている。
 断続的なので我慢できないわけではないが、このまま強烈な痛みが続いたらどうしようと気が気ではない。

 結石は微細なものなので、小便と一緒に出てくれば一挙解決するため、せっせと水を飲んではトイレ通い。

 だが、出てこない。
 やむなく、いろんな予定を1日ごとにキャンセルしている。

「あなたの結石はしつこいのねぇ」
 愚妻が人ごとのように言う。

「しつこいとはどういう意味だ。一般的に結石は何日で出てくるのだ」
「そんなこと知らないわよ」
「知らないのに、なぜしつこいと言えるのだ」
「バカなこと言ってないで、水を飲みなさいよ」

 論戦を続けたかったが、「痛テテテ状態」なので矛を納め、ヨロヨロしながら机に座る。

 次第に腹が立ってきて、痛む脇腹の部分を拳でガンガン叩いて、
「結石野郎、出てこい!」
 怒鳴ったところが余計に痛くなって、先ほど動けなくなった。

 愚妻が2階に上がってきて、
「あら、寝てるの?」

 絞め殺してやりたくなった。

 座薬はあと5個。
「効きが悪いときは2個いっしょ使って下さい」
 と医者に言われている。

 とすると、使用できるのは2回か3回。

 気安くは使えない。
 いざというときのために、取っておかなくては。

 鎮痛剤アレルギーでなければ、対処の仕方はいろいろあるだろうに、難儀なことである。

 以前、頭痛のときにバファリンを服用して、顔から頭から発疹が出できて、えらい目にあったことがある。
 クルマで取材にいく途中で、東北自動道のサービスエリアでのことだ。
 先方に電話で事情を話してキャンセルし、発疹に顔と頭を腫らして帰宅したものだ。

 だから痛みには敏感で、結石の予兆があれば、すぐに跳んだり跳ねたりしていたが、今回は予兆ナシの不意打ちである。

 卑怯な結石なのだが、文句を言っても始まらない。。
 とにかく、これからは水を飲もう。

 しかし、加齢でトイレが近くなっている。
 水分の取りすぎは困る。
 とはいえ、結石ができるのもヤバイ。

 なるほど人生は二律背反という矛盾に満ちていると、痛みをもって悟るのだ。

投稿者 mukaidani : 14:48

2018年03月12日

七転八倒

「痛みをこらえながらブログを書く」などとノンキなブログを昨夜書いたが、あれからが大変だった。

 痛いの何の、七転八倒である。
 朝まで唸りどおし。
 座薬を一晩で2回使用した。

 座薬の使用は4時間以上の間隔を空けろと医者が言っていたから、
「痛テテテ」
 と唸りながら時計と睨めっこ。

 横になっているより、ピョンピョン跳ねているほうが気が紛れるので、明け方まで水のペットボトルを片手に、断続的にピョンピョン。
 激痛だが、激痛だからこそ死ぬ気でピョンピョンができることを知った。

 テレビの深夜放送で、女性アイドルグループの音楽番組をやってたので、アップテンポがちょうどいい。
 彼女たちは、よもや千葉の片田舎で、爺さんが自分たちの歌に合わせてピョンピョンやっていようとは、夢にも思うまい。

 愚妻は早々に寝室に引き上げている。
「私がいてもしょうがないでしょう?」

 そう言ったのだ。
 確かにそうだが、3月11日は東日本大震災の日ではないか。
 朝から特番をやっている。
 手は差しのべられなくても、悲しみに寄り添うという気持ちが大切なのだ。

「人の苦しみを我が苦しみとする。これが仏教なのだ」
 と、痛みに顔をゆがめながら愚妻に説いたが、
「あら、そうなの」
 意に介さない。

 結石も、何度もやっていると、同情もされないのだ。

 結局、朝まで七転八倒。
 今日、都内で人に会う約束があったので、メールで事情を話す。
 とても都内までは無理。
 それでも仕事があるので、6時には家を出て、ヨロヨロと道場の仕事場へ。

 実は自宅の自室で仕事をしたかったのだが、
「ピョンピョン跳ねるなら、家より道場のほうがいいでしょう?」
 愚妻に言われて出てきたのである。

 そして、愚妻は昼に電話をかけてきて、
「石、出たの?」
 ノンキな声で言う。
「出ない」
「しつこい石よねぇ」
「コラッ、笑ってるだろ!」
「笑ってなんかいわよ」
「バカ者、その声を笑い声というのだ!」

 いま夜の8時過ぎ。
 まだ右脇腹がシクシクするが、原稿も一段落。
 さて、家に帰るか。

投稿者 mukaidani : 20:12

2018年03月11日

結石の激痛、再び

 「母」は「はは」と読む。
 人生の甲羅を経て心身ともに朽ち、濁ってくると、まさに濁点がついて、
「ばば」
 と濁る。

 すなわち「婆(ババ)」である。

 このことがふいに閃き、愚妻に教えてやった。
「おまえは〝はは〟が濁った存在なのだ。だから、これらは〝お濁りさん〟と呼ぶことにしよう」

「ちょっと、父も同じでしょ。〝ちち〟が濁れば〝ぢぢ〟じゃないの」

 口の減らない女だ。

「亭主にタテついて幸せになった女は、古今東西いないのだぞ」
「勝手なこと言ってなさいよ。また結石が痛くなるから」
「バカ者が、もう結石は直ったのだ」
「出たの?」

 ここでハッと我に返る。
 まだ結石は出ていない。

 そういえば、医者がCT画像を見ながら、
「腎臓を出たすぐのところに引っかかっているから、出るまで、長ければ1カ月かかるでしょう」
 と言ったことを思い出した。

 だから座薬の鎮痛薬も10日分が処方されている。

(ヤバいな)
 と、思った矢先、マジに右脇腹に痛みが起こってきた。

 二階の部屋でジャンプするわけにはいかないので、階下の居間に降りて、ピョンピョン飛び始めた。

 痛みで動けなくなる前に、飛び跳ねて結石を動かすのだ。
 私がいつもやる方法である。

「ちょっと、うるさいわね」
 テレビを観ている愚妻が文句を言う。

「結石だ」
「ほらごらんなさい! 私の悪口を言うと痛くなるわよって言ったばかりでしょ」

 勝ち誇ったように言う。
 癪な女だ。

「座薬を出せ!」
 受け取ってパンツを下ろすと、
「ちょっと、トイレに行って入れなさいよ!」
「バカ者! トイレは出すところで入れるところではない!」
「あら、面白いはね。けっこう元気じゃないの」

 笑ってやがる。
 私は結石で愚妻に復讐されているのだ。

追伸
 痛みをこらえながらブログを書くとどうことになるか、実験しながら書いてみた。
 結構、書けるものだ。
 顔は痛みに歪んでいるが。
 

投稿者 mukaidani : 20:18

2018年03月09日

変化はウェルカム

 昨夜は、若手僧侶のT君と都内で食事。
 結石の翌日なので、医者に処方してもらった座薬の鎮痛剤を持参したが、ことなきを得てひと安心である。

 いつもは作務衣で出かける。
 ホテルであり、雨に濡れる心配がないので、大島の作務衣にインパネスを羽織り、ソフト帽をかぶって行こうかと思ったら、
「ちょっと、痛くなったときのことを考えたらズボンのほうが動きやすいでしょう」
 愚妻に怒られ、
「なに考えてるのかしらねぇ。昨日はあんなに迷惑をかけて」
 ブツクサ言っている。

 それもそうだと思い直し、スボンにセーターにしたが、
「ちょっと、クルマで行って大丈夫なの? 途中で痛くなったらどうするのよ」
 さらに不安をあおるので、
「バカ者! 電車の中で唸れるか!」
 一喝した次第。

 僧侶のこと、葬儀の現状について意見交換。
 ギョーカイは急速に変化しつつある。
 いや、世のなか全体が大きく様変わりしつつある。
「無手勝流」で生きる者にとっては、変化はウェルカムなのだ。

投稿者 mukaidani : 03:43

2018年03月07日

結石の激痛にのたうつ

 今朝8時、年配の保護観察対象者と喫茶店で会った。

 保護司は月2回、対象者に面接して生活状況を聞き、相談に乗ったり、助言したりして、それを報告書として提出する。

 自宅に来てもらうのが基本だが、たまには外で会う。

 年配者なので、たまたま寿命の話になり、
「いい人は早く死にますね」
 と、対象者が言った。

 ヒネクレ者の私は、
「言い換えれば、早く死ねばいい人ということになるな」
 と受け取り、帰宅するや、愚妻にそのことを言った。

「いいか、まだ間に合う。いま死ねば、お前さんはいい人だったと言われるぞ」

 愚妻はキッと睨んで、
「私は、いい人と言われなくて結構です!」

 せっかく話してやったのに、「馬に念仏」「愚妻に人生の真理」である。

 救い難い女だと思いつつ、道場の仕事場に行くため、荷物を取りに二階の自室に入ったところで、右脇腹が痛み始める。

(結石だ!)

 いつもは予兆があるのだが、今回はいきなりである。

 私は階下に駆け下り、
「結石だ! 病院に行くぞ、支度しろ!」

 すると愚妻は平然と、
「早く死んだほうがいいとか、朝から人のこと悪く言うからよ」
「議論はあとだ!」

 激痛にのたうち、脇腹を押さえつつ、ヨロヨロとクルマの助手席に乗り込んで愚妻を待つ。
 遅い。
 激痛。
 愚妻が明るい顔で出てくる。
 何と、手にゴミ袋をかかえているではないか。

「いまゴミを出して来るから、ちょっと待ってて」

 ノンキなことを言う。
 私はこのときほど愚妻を呪ったことはない。

 結石が動いたのか、病院で苦しんでいるうちに少し楽になり、何とか耐えられるレベルに納まった。
 鎮痛剤アレルギーなので、10日分の合成麻薬の座薬を処方してもらった。

 帰途のクルマの中で、
「早く死んだほうがいいとか、朝から人のこと悪く言うからよ」
 同じことを繰り返し口にして、愚妻は私を責め続けたのである。

投稿者 mukaidani : 14:25

2018年03月04日

言葉とは何なのか

「寸鉄人を刺す」
 という言葉がある。

「短い刃物で人を刺し殺す」
 ということから転じて、
「短く鋭い言葉で、人の急所をつく」
 という意味に用いる。

 政治家であれ、実業家であれ、ヤクザであれ、ひとかどの人物の言葉は、まさに「寸鉄人を刺す」なのだ。

 ある実業家は、
「根っこがなければ、桜は咲かない」
 と、私に言った。

 花を咲かそうとするなら根をしっかりと張れ、という意味に、そのとき若かった私は解釈したが、この歳になって振り返ると、
「あせるな」
 という意味ではなかったかと思うのだ。

 多忙なヤクザ親分に、
「忙しくて大変ですね」
 と私が言うと、親分はこともなげにこう言って笑った。
「お宅、息をするのに疲れるかい?」

 解釈は人それぞれだろう。
 含蓄に富んだ言葉だと今も思っている。

 いかな「万言」を費やそうとも、「寸鉄」たる言葉にはかなわない。

 人間は「言葉の動物」である。
 言葉とは、いったい何なのか。
 そんなことを、このころ本気になって考えるのだ。

投稿者 mukaidani : 12:19

2018年03月02日

トイレの間違い。

 昨夜は、築地本願寺の『銀座サロン』に出講した。
 わざわざ足を運んでいただき、それに見合う話ができるのか、講演をするときはいつも気になる。

 それと、もう一つ。
 出講者が時間に遅れてたのでは切腹ものなので、途中、電車がアクシデンで止まっても、迂回ルートで間に合う時間の余裕を見ていく。

 銀座なら、会場入り時間の1時間前に現地付近に着く計算で家を出ればよい。

 で、早めに銀座に着いたので、まず三越デパートへ行き、中国人観光客の爆買い状況がどうなっているのか、見に行く。
 以前ほどではないが、中国語(だと思うけど)が飛び交っていて、日本人客は肩身が狭い感じ。

 日本人にとって、もはやデパートの時代は終わったということを感じる。
 一度、離れた客を呼びもどすのは容易ではない。
 何事もそうだが、坂道を転げ落ち始めると、加速度がついて止めることはできなくなる。
 いかにして坂道を転げ落ちないか。
 ここが勝負になると改めて思った。

 次いで松屋をのぞき、同じような感慨をいだきつつ、トイレに入る。

 ピッカピッカで、モダン。
 トイレの入口は一つで、途中で男女別に入口が左右に分かれている。

(うっかりすると、高速道路の入口と出口を間違えて逆走するように、女性用に入っちまうな。気をつけなければ)
 と自分に言い聞かせる。

 かつて私が若いころ、新宿の伊勢丹デパートで女性用トイレに間違って入ったことがある。
 そのトラウマが私にはあるのだ。

 愚妻からも、
「あなたは軽はずみなところがあるから、気をつけなさいよ」
 と、よく言われている。

 だから、男性用であることを念入りに確認して入り、用を足して外に出た。
 あとは出口に向かえばいいだけなので、おそらく気が緩んだのだろう。
 ノコノコ歩いて行ったところが、オバちゃんが鏡に向かって化粧をしているではないか。
(あッ!)
 出口でなく、女性用トイレに入っていた。

「失礼!」
 あわてて外へ出たが、もしこのとき「キャッ!」と叫ばれていたら、私は警察のご厄介になり、1時間も早く現地につきながら出講することはできなかっただろう。

 どんなに気をつけていても、私たちは常にアクシデントと二人三脚であることを再認識した次第。
 心せよ、心せよ。

 出講して、冒頭にこの私の失敗談をお話ししたが、果たして私の真意はどこまでみなさんに伝わっただろうか。

 それにしても、この一件で、トイレを間違えるというトラウマは、私から生涯消えることはあるまい。

投稿者 mukaidani : 12:15