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2018年02月28日

スカイツリー

 今日は取材があり、クルマで下町へ出かけた。

 帰途、カーナビの指示に従わず、迷走していて、ひょいと左上を見上げると、何とスカイツリーではないか。

 私は、スカイツリーの真下を走っているのだ。

 これまでスカイツリーに行ったことはない。
 近くに行ったこともない。

 高い。
 聳え立っている。

 すぐさま携帯電話で愚妻に報告。
「聞け、わしは今、スカイツリーの下を走っている。高いぞ!」
「ちょっと、前見て運転しなさいよ!」

 ロマンのない女なのだ。

 そして、帰宅すると、
「スカイツリー、人が入っていた?」
「そんなこと知るか」
「どこ見て走ってたのよ」

 こういう女なのだ。 

投稿者 mukaidani : 15:38

2018年02月25日

マクドナルド

 今朝は6時出発で、昇空館合同稽古のため横浜へ。
 あれこれ用事が詰まっていたが、かねて予定されていたことなので、時間をやりくりして出かけた。

 高速道路がすいていて少し早めに着く。
 マクドナルドが目にいたので、時間つぶしに入った。

 私がマクドナルドに入るのは、さて何年ぶりだろうか。
 思い出せないほど昔だ。
 しかも、一人で入った記憶はまったくなく、初体験である。

 注文カウンターに立つと、若い女性が笑顔で注文を訊いてくる。
 何か軽いものを食べたかったが、ハンバーガーはちと思い。
 さりとて、ここには何が置いてあるのかわからない。
 カウンター上部にメニューが書いてあるが、商品が理解できないのだ。

 オロオロ迷っていると、女性に重ねて注文を問われ、あせりつつ、
「コ、コーヒー」
 思わず言っていた。

 席に着くと、みなさん、パイのようなものやポテトなどを食べている。
 あんなのが欲しかったのに、何と言っていいのか商品名がわからず、口ごもってしまった。
 自分は一人ではマクドナルドにも入れないのかと、ガク然とした朝であった。

 ついでに言えば、お盆を下げる場所もわからなかった。
 ウロウロしていたら、整然と何やら並べている棚があった。
「みなさん、行儀がいいんだな」
 と感心しつつ、お盆をその棚に突っ込んで出口に向かったところが、その途中に、雑然とお盆やカップを下げるコーナーがあるではないか。

 すると、さっきの整然とした棚は何だったのか?
 妙な場所に置いたのではないか?

 私は、こういう場所が苦手なのだ。

投稿者 mukaidani : 19:24

2018年02月23日

「石の上にも3年」の意味

 お経の練習は気が重い。
 だから、そそくさとやってしまう。
 
 だが、それはこれまでの話で、少し称(とな)えられるようになると俄然、面白くなってくる。

 風呂で唸るのが楽しみになってくる。
 もっと別のお経を覚えたくなる。

「石の上にも3年」
 という意味が、このころようやくわかってきた。

 これまでは「3年も頑張ればモノになる」と解釈していたが、そうではない。
「頑張って継続してるうちに楽しくなってきて、積極的に取り組むようになる」
 というのが正しいのではないかと思うのだ。

 何事もそうだが、モノにならない人は結局、「辛抱」に負けたということになる。

 このことがわかってくると、イヤなことであっても、
「続けていれば楽しくなってくる」
 と自分に言い聞かせることができる。
 イヤなことを組み伏せる一つの方法なのだ。

 ただ、いまだに不思議なのが夫婦。
 私たち夫婦は、石の上に3年どころか、結婚して43年になり、私は辛抱に辛抱を重ねているが、ちっとも楽しくならないのだ。
 きっと、楽しさを知らないままで人生を終えるのだろう。
 何事も例外があるということか。

 今朝も所用で朝早くから都内に出かけた。
 先ほど帰宅すると、ニュースで「プレミアムフライデー」のことを報じていた。

「わしのプレミアムフライデーはどうなっておる?」
 愚妻に問うと、
「あなたにそんなものがあるわけないでしょ」
 ニベもない。

 1日くらいゆっくりしたいものだが、所用が次から次へと押し寄せてくる。
 楽しみは、風呂でお経を称えることくらいだ。
 嫌々称えていたお経が、いまは慰めになっている。
 やはり辛抱は大事のようである。

投稿者 mukaidani : 16:32

2018年02月20日

無事の一年

 人生を長く生きていると、「流れ」というものが感覚でわかってくる。

 経験則というやつだ。

 たとえば仕事が忙しいとき。
 予定表とニラめっこしてスケジュールを細かく決め、
「これでよし」
 となるが、こういうときに限って突発的な用事が入ることを、経験則でわかっている。

 だから、綱渡りのスケジュールを組みつつ、
「何か飛び込んでくるぞ」
 と警戒し、心の準備をするのだ。

 昨日も友人から電話で、
「木曜日に葬場勤行の練習があるんだけど、案内がいってる?」

 突発事態である。

 木曜日は稽古がないため、自由に使える一日。
 仕事の積み残しや、調べごとなどに時間を充てる予定にしていたが、
「何かある」
 と警戒していたので、平静に受け止めることができた。

 流れがわかるので、忙しいときほど私は頻繁に予定をチェックし、「飛び込み案件」に備える。

 そんなこともあって、私は随時、愚妻に予定を口頭で告げておくのだが、外出の予定を伝えると、
「じゃ、食事はいらないのよね」
 愚妻の声が明るくなる。

 ところが、
「いや、夕方には帰ってくる」
 と言おうものなら、
「出歩いていないで、仕事したらどうなの」
 とたんに機嫌が悪くなる。
 予定を入れるのも楽ではないのだ。

 昨夜は近所のイタメシ屋へ出かけ、愚妻と年間予定の打ち合わせ。
 12月まで手帳をめくったので、何やら今年が終わった気分になった。
 明日の命はわからないが、とりあえず手帳の上では、この一年を無事に生きたことになるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 15:41

2018年02月18日

会話の主導権

 お経を称えていたら、急に饅頭が食べたくなった。
 仏壇に供えてあったからだ。
 左右に2個ずつ計4個。
 手を合わせてから1個食べた。

 しばらくして、仏間から、
「ちょっと、饅頭を食べたでしょ!」
 愚妻の怒声。

「油断も隙もないんだから」
 ブツクサ言うので、
「よくぞ気がついた。お前は、まだまだ若い」
 ホメてやったのだが、
「左右ふぞろいになっていれば、誰だってわかるわよ!」

 私としたことが、うっかりしていた。
 左右1個ずつ食べればよかったのが、お供え物とあって、無意識に遠慮したのだろう。

「饅頭を1個しか食べなかったということは、わしも立派な僧侶になったということになるな」
 話題をちょこっと転じる。
「どこが立派なのよ」
「見てからんのか?」
「わからないわよ」

 愚妻が食いついてきたところで、
「ところで、日帰り温泉はどうした?」
 ガラリとテーマを変え、愚妻自身のことを問いかける。

「今日は日曜だから満員よ」
「明日か?」
「そう」
「何時だ?」
「7時」

 かくして「饅頭を食べた」という批難は消し飛んでしまったという次第。
 夫婦の会話で主導権を保つ一例である。
  

投稿者 mukaidani : 23:56

2018年02月16日

平昌オリンピック

 連日、平昌オリンピックの放送。
 金だ、銀だ、銅だと、番組のMCがあおる。
 選手のプレッシャーは大変なものだろう。

 どの競技もそうだが、最初は市町村大会で勝つことを目指し、勝てば満面の笑顔。

 ところが、次ぎは県大会で勝ちたくなる。
 さらにブロック大会、全国大会、そして世界大会にオリンピック。

 オリンピックに出場すること自体、最高の栄誉であるにもかかわらず、メダルが獲れなければ肩身が狭くなる。

 だからプレッシャーに苦しむ。

 まるで「イカロスの翼」である。

 高みを目指すことは素晴らしいことだ疑いなく思っているが、本当にそうなのだろうか。

 一流選手には「燃え尽き症候群」という言葉がある。
 一流校、一流会社に就職した若者には「五月病」というのがある。
 
 何に向かって全力疾走するのか。
 この視点を見失ってはなるまいと、平昌オリンピックを観ながら思うのである。

投稿者 mukaidani : 09:51

2018年02月13日

英会話の「変換器」

 このところ、私は愚妻に英語で話しかけている。
 と言っても、英会話の「自動変換器」を通してである。

 愚妻に英会話を仕込んでやろうという、これは私のやさしさである。
 日本語で言えば即座に英語に直して発声してくれるので、実に便利だ。

 今朝、日帰り温泉へ出かけようとしている愚妻に、
「紅茶!」
 と、「自動変換器」を通して命じると、
「ティー、プリーズ!」(英語です)
 と、女性の声で発音してくれる。

 すると愚妻がジロリとニラんで、
「そんな英語、私だってわかるわよ」
 憎まれ口を叩くのだ。

 このところ海外旅行にはまったく興味がなく、私は温泉でごろごろしているほうがいいのだが、英会話で遊んでいると、
(行ってみようかな)
 という気になる。

「今年はどこか行くか?」
 愚妻に提案すると、
「パリなんかいいんじゃない?」
 こともなげに言う。
「バカ者、パリは英語じゃない」

 愚か者が、何のために私がわざわざ英語の「自動変換器」を買ったと思っているのか。
 にわかに海外旅行の気持ちは萎(な)えてしまい、愚妻は意気軒昂として日帰り温泉へ出かけて行くのだ。

投稿者 mukaidani : 10:38

2018年02月11日

 中央区立「泰明小学校」の制服をアルマーニにしたというので、連日、大バッシングである。

 愚妻も怒っている。
「子供がどうしてアルマーニなのよ」
 と、極めてストレートな理由。

 私もそう思うが、引っかかったのは、校長の次の言葉。
「銀座にある泰明小らしさを具現化するための一つの方法としてブランドの力を借りた」
 これを「服育」という造語で語っている。

 銀座=高級=ファッショナブルといった発想か。

 となれば、たとえば治安の悪い地域にある小学校の「服育」はどうするのか。
 ド派手な〝特攻服〟でも着せて、
「治安の悪い地域にある小学校らしさを具現化するための一つの方法ととして、特攻服の力を借りた」
 と言うのか。

 あるいは、歴史ある城下町の小学校であるなら、子供にチョンマゲをさせて、
「城下町にある小学校らしさを具現化するための一つの方法として、チョンマゲの力を借りた」
 ということも「服育」ということになるだろう。

「どんな屁理屈をつけようと、アルマーニの制服なんて〝あるまいに〟なのだ」
 私が愚妻に〝キメゼリフ〟を口にすると、
「ちょっと、親父ギャグは、もっと若い人が言うのよ」

 かくして、アルマーニの制服は夫婦ゲンカを誘発したのである。

投稿者 mukaidani : 00:58

2018年02月10日

メールは3拍子

 このHPに「ご意見・コメント受付」のカテゴリーがある。

 取材の申し込みや講演依頼も、ここに書き込まれるのでとても便利だが、時に何十年ぶりかで知人から〝お便り〟をちょうだいすることがある。

 何かの拍子で、このHPに行き当たったのだろう。
 私も胸を弾ませながら、付記されたメルアドに返信を書くのだが、再返信が来ないと心配になる。

 メルアドが間違っているのか、何かの不具合で私のメールが届かなかったのか、あれこれ気をもむのだ。

 電話なら実際に話しをするので心配はないが、メールはそういう意味で厄介だ。

 仕事の打ち合わせでもそうで、私のメッセージが伝わっているか気になることがある。

 だから私はメールを出す場合、常に「3拍子」を心がけている。

「私がメールを出す」「相手から返信が来る」「私から了解メールを出す」という具合だ。

 逆を考えてみればわかる。

「相手からメールが来る」「私が返信する」で2拍子で終わると、私の返信が相手に届いたのかどうか気になる。
 だから発信した側が3拍子で「了解メール」を出すのが親切だというわけだ。

 当たり前と言ってはいけない。
 内容によっては何度かやりとりをすることがある。
 そんな場合は、私から発信したのであれば5拍子、7拍子と奇数を心がけてメールを締めくくる。

 メールは機械的なやり取りに見えて、気配りというものが実によくわかるのだ。

投稿者 mukaidani : 00:59

2018年02月08日

死ぬまで働け

「働き方改革」をもじって、愚妻は「働け働け改革」だと言って、悦に入っている。

「働け」を二つ重ねにするところに、愚妻の不気味さと本気度が見て取れる。

 そのうち、この言葉に「死ぬまで」をくつっけて、
「死ぬまで働け働け改革」
 と言い出すのではないか。

 いや、「まで」ではなく、「死んでも働け働け改革」になるやもしれぬ。

 私の晩年は、ますます厳しさを増すに違いない。

「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古は、「人間、死ぬまで働け」という言葉を残しているが、秋山に言われるぶんには奮い立ちもするが、愚妻に言われたのでは、「なんだかなァ」の気分である。

 だが、つらつら考えるに、一定の年齢まで頑張って働き、晩年は好きなことをやってのんびり暮らすという生き方は、ゴールを目指して必死に走るのに似ていないか。

 と言うより、会社人生にゴールはあっても、生きて在(あ)ることにおいゴールはない。
 生き続けるというのは必然的に現在進行系であり、したがって死ぬまでゴールに辿り着くことはできないことになる。

 ゴールが存在しないのに、ゴールを目指す生き方は矛盾であり、それが蜃気楼と気づかず、オアシスを求めていることになる。

 そう考えると、ゴール目指して必死に走るのではなく、走ること自体を楽しむ生き方をすべきだろう。
 私はそう思って生きてきたし、いまも生きている。

 だが、愚妻には、私の人生観が理解できない。
 楽をして生きているように見えるのだ。
 だがら、「働け働け改革」だと言って、私を責めているに違いない。

「私は決して怠けているわけではない」
 と抗弁するが、愚妻は聞く耳を持たない。
 人生観の違いは、埋めがたい溝があるのだ。

 そんなとき、私は仏壇に向かって、お経を称える。
 去来するのは、心の平静ではなく、ただただ無常観なのだ。


投稿者 mukaidani : 18:03

2018年02月05日

生きるに強し

 今日の午後、横浜で、僧侶でもある友人と食事。
 友人と言っても私より若く、働き盛り。
 行政書士の女性もご一緒。
 ある企画について、忌憚のない意見交換である。

 私は特技と呼べるものは持ち合わせていないが、時として「ヒョータンから駒」を出して見せることがあるので、
「あなたは人ができることはできない、人ができないことはできる」
 というのが愚妻の見立て。

 つまりは、ヒネクレ者のアマノジャクだと事あるごとに言うのだが、ま、その傾向は確かにある。

 明後日は、葬儀のお手伝いで、都内の寺に出かける。
 明日は忙しくて時間がないため、先ほど準備をした。
 袈裟や衣体(えたい)、念珠、中啓、白衣など、あれやこれやとカバンに詰めなければならないが、こういうことは私は大の苦手。

 だから、箇条書きにしたものを私が読み上げ、愚妻が箪笥から取り出してカバンに詰めていく。

 だが、行きはきちんとカバンに納まっているが、帰りは着替えたものを私が詰めるので、ぐちゃぐちゃになる。
 だから、私は言うのだ。

「おまえは、帰りのことまで考えないで荷造りをする。そこが愚かなところだ」
「じゃ、自分でやりなさいよ!」
 キッと睨んだので、
「冗談だ」
 あわてて機嫌をとった次第。

 だが、飛行機の離陸は、着陸が前提である。
 学校だって、卒業を念頭に入学するし、「生」は「死」を前提にしている。
 ならば荷造りだって、当然、帰りを念頭におくべきではないか。

 そのことをやんわりと愚妻に諭したのだが、
「ちょっと、荷造りしているんだから、ごちゃごちゃ言ってないで向こうへ行ってなさいよ」
 プンプンと怒っている。

 どんな崇高な諭しも、愚妻の耳には届かない。
 だから、生きるに強いのだろう。
 私も見習わなくては。
 

投稿者 mukaidani : 21:22

2018年02月02日

働き方改革

 2月も2日目。
 明日は節分である。

 人に会うと、
「早いねぇ」
 と言うが、私は何だかんだ忙しく、すでに何ヶ月も経ったような気がしているので、「これから2月なのか」とガク然とする。

 今月は、どこぞ温泉地でも行きたいが、日程が取れそうもない。
 こんなことではよくない。

 テレビでちょうど働き方改革のニュースをやっていたので、
「どうだ、わしもそろそろ働き方改革をせねばなるまい」
 愚妻におうかがいを立てると、
「そうね。楽ばかりしているから、もっともっと働かなくちゃ」
 バチ当たりなことを、平然と口にするのだ。

「67歳になってからも働くのか」
 憤然と抗議すると、
「当然でしょ。若いころ人の何倍も遊んだはずよ。遊ばなかったとでも言うの?」
「遊んだ」
「だから、これから死ぬまで働けばいいの。それが、あなたの働き方改革よ」

 人生は結局、プラスとマイナスを足せばゼロになるということか。

 ゼロと言えば、作家でクラブ『姫』のママさんだった山口洋子さんが生前、
「稼ぎ方にはね、足し算と掛け算があるのよ」
 と、私にさとしてくれたことがある。

 原稿料は足し算、歌謡曲の作詞は掛け算で印税が入ってくるということから、仕事の効率を考えろと言ってくれたのだが、ヘソ曲がりの私は、
「しかし、掛け算もゼロを掛けるとゼロになりますね」
 つまらぬ冗談を返したところが、
「ゼロなら御の字でしょう。人生、ヘタすりゃ、マイナスになるんだから」
 そう切り返された。

 なるほど、人生はゼロをもって至福とすべきなのかもしれないと、働き方改革への思いは、なぜか妙な方向へずれていくのだ。

投稿者 mukaidani : 13:02