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2017年12月28日

早朝散歩をやめる

 執筆に疲れてくると、ブログを書くのは気分転換になる。
 知人など、「ブログに何を書こうかと頭を悩ます」と言っていたが、私はそんなことはない。

 書きたいことは山ほどあるが、仕事の原稿を優先するので時間がないだけで、ひと息つくときに気分転換に書く次第。

 昨日は弁護士を取材し、大阪トンボ帰り。
 ヤクザが登場する土地がらみの事件について貴重な話をお聞きしたが、登記関係の話はややこしく、浅学の身を痛感。

 そういえば、かつて倒産関係の本を書くのに取材したときも、浅学の身を痛感した。
 仏教本も何もかも、知識の乏しさと、本質を見すえる視点の曖昧さに忸怩たる思いをいだく。
 最近は、文章技術ということも、あれこれ考えさせられる。

 そんなこんなで、この歳になってようやく仕事の難しさに気がつくのだから、困ったものだ。

 やるべきことは山ほどある。
 だが、時間が足りない。

「よし!」
 と、今朝、一念発起。
「おい、新年を期して早朝ウォーキングをやめるぞ!」

 愚妻に宣言したが、
「あ、そう」
 素っ気ない返事をしてから、
「ウェアやシューズをいくつ買ったのよ。下着やら、手袋やら、帽子やら、時計やら、歩くときに舐める飴玉まで買わせておいて」

 バチ当たりが、「諸行無常」ということを知らないがゆえの批難である。
 これを無知という。
 意識も生活も行動も、刻々と変化していくのだ。

投稿者 mukaidani : 16:04

2017年12月22日

夫婦は他人

 今年も、残すところ、あと10日。
「早いねぇ」
 と、人は感慨深げに言うが、〆切をかかえる身となれば、ノンキに相づちを打っているわけにはいかない。

 しかも、用事というのは忙しいときに限って入るもので、来週は日帰りで大阪に所用ができた。
「取りあえず年内に打ち合わせておきたい」
 と言われれば、来年に先送りにするわけにはいかない。

 知人が入院し、友人から、
「年内に一緒にお見舞いに行こう」
 と言われれば、来年に先送りにするわけにはいかない。

 ご無沙汰している人から、
「年内に、一度会いたい」
 と言われれば、来年に先送りにするわけにはいかない。

「年内」という言葉は、実に曲者で、たちまち手帳が予定で埋まってしまうのである。

 今日は午前中、保護観察対象者の面接を2件行った。
 明日は朝の10時から道場の稽古納めで、稽古のあと子供たちに豚汁を出し、お菓子を配り、そのあと中学生以上が大掃除。
 明後日も保護観察対象者の面接があり、その次の日は都内で所用が入っている。
 そのあと、大阪、そしてお見舞い・・・。

 年末〆切の単行本がある。
 年明けから少しずつ僧侶活動をするので、お寺から「このお経を練習しておいてください」と宿題を出されている。
 あせりつつ、机の前のカレンダーと時計を交互に見やる。

 ところが、私はこれほどアセっているに、愚妻はノンキなもので、
「冬休みに入ると、日帰り温泉は混むかしらねぇ」
 と話しかけてくる。

「そんなこと、わしにわかるか!」
 一喝すると、
「あら、イライラしちゃってどうかしたの?」

 結婚して間もなく44年。
 ひとつ屋根の下に何年いようと、夫婦は所詮、他人であることを噛みしめる師走の今日この頃である。

 

投稿者 mukaidani : 13:03

2017年12月16日

お互い干渉せず

 一昨日、久し振りに近所の日帰り温泉へ仕事をかかえて出かけた。
 この日も愚妻は早朝から同じ日帰り温泉に行っており、私は愚妻の帰宅を待ち、入れ替わるように出かけるのだ。

 一緒に行けばよさそうなものだが、愚妻も私も「一緒に行こう」とは口が裂けても言わない。

 何事においても「夫婦別々」が我が家のキィーワードになっているからだ。
 日帰り温泉へ出かけたこの日、私は断食をしたが、愚妻は知人から頂戴した越後の「にごり酒」をグビリ。

「断食はせんのか?」
 問うと、
「あなただけでどうぞ」
 生ハムをツマミにグビリなのである。

 しかし、お互いが干渉せずというのは、精神衛生上、すこぶる快適だ。
 心を煩わせるものが一つ減るのだから当然だろう。

「お前が死ねば、もっと楽になるな」
 私が憎まれ口を叩くと、
「ガスの使い方も知らないあなたが、どうやって生きていくのよ」

 確かに、そうだ。
「お互い干渉せず」は、生きていてこその値打ちであると腑に落ちた次第。

投稿者 mukaidani : 16:14

2017年12月12日

人間の劣化

 先夜、テレビで「瞬間翻訳ツール」のことが放送された。
 日本語でしゃべれば、その声が瞬時に英語の音声になるというやつだ。
 WIHIでなく、オフラインだ。
 私と愚妻の目が合う。

「買ったら?」
 愚妻が即座に言い、私がウェブで検索し、先行販売予約をする。

 この機械はICレコーダくらいのサイズなので携帯に便利だ。
 日本語から英語(もしくはへ韓国語、中国語)の一方通行だが、こちらの意志が相手に伝わればいい。

 愚妻は愚妻、私は私で、お互い密かに旅行英語を勉強(というほどでもないが)していただけに、この機械は強力な味方になるではないか。

 旅行するたびに会話にはひと苦労である。
 愚妻は、会話は私まかせなので、私がまごついていると、
「あなた、英語がしゃべれないの?」
 軽蔑の眼差しで見るのだ。
 これでもう大丈夫である。

 あれこれ記事を調べて見ると、これからは英語でなく、お互い母国語で会話し、それを相手の国の言葉に置き換える時代になるとのこと。
 英語の勉強よりも、母国語で「伝える能力」の勉強のほうが大事になってくるそうだ。

「英語をしゃべる」は、もはや能力ではなくなるということだ。

「よかったな、勉強しなくて」
 愚妻に言うと、ジロリとニラんで、
「あなた、あちこちの英会話教室に通ったわね。そういえば、原宿まで行かなかった?」
 嫌味を言うのだ

 時代は変わる。
 読経だって、テープで流れるご時世だ。
 クルマも自動運転になる。
 結構なことだが、便利になって人間は次第に劣化していくのだろう。

投稿者 mukaidani : 11:02

2017年12月08日

「世相」と人生観

「人に、後ろ指を差されるような人間になってはいけない」
 と、母親から言われて育った。

 小学生のとき、女の先生が、
「騙す人より、騙される人になりなさい」
 と授業で話したことを、いまも覚えている。

 だが、世間を見まわすと、トランプ大統領が象徴するように、「人に後ろ指を差される人」が主役となり、良くも悪くも常に脚光を浴びている。

 一連の相撲騒動だって、「後ろ指を差される人」が主役を張り続けている。

「モリ・カケ疑惑」を引き合いに出すまでもなく、「騙す人」がいい目を見て、「騙される人」が貧乏クジを引かされる。

 問題はここからで、
「だから、自分もうまく立ち回ろう」
 と考えるか、
「自分はそうはやらない」
 と、世相を批判するか。

 残り少ない人生を前にして、いまさら人生観でもないが、これから自分はどう処していくべきか、いささか気になるのだ。

投稿者 mukaidani : 11:43

2017年12月06日

「うなずく」ということ

 茶の間でテレビを観ながら、
「お茶、飲む?」
 愚妻に問われて、私がコクリとうなずく。

「バナナ、食べる?」
 愚妻に問われて、私がコクリとうなずく。

「風呂、入る?」
 愚妻に問われて、私がコクリとうなずく。

「いいわよねぇ、うなずいていればいいんだから」
 愚妻が溜息をついて、文句を言う。

 浅はかな女だ。
 うなずくということが、どれほど心身に負担になるか知らないのだ。

 ことに週刊誌記者時代がそうだったが、取材というのは「聞き役」である。
 要点を過不足なくしゃべってくれる場合はいいが、ピント外れのことを延々と聞かされることがある。

 話の腰を折ってはいけないので、相づちだけは熱心に打ちつつ、話を核心にもどすべく機会をうかがう。

 だが、相づちは、うなずくという動作をともなう。
 これが楽ではないのだ。

 まして、相手が渦中のキィーパーソンで、どうしても話を引き出したいときは、うなずきもオーバージェスチャーになる。
 これが何時間も続けば、マジに首が痛くなるのだ。

 私は首を痛くしながら、妻子を養ってきたのだ。
 かつてのこの苦労も知らず
「いいわよねぇ、うなずいていればいいんだから」
 と、愚妻はノーテンキに言い放つ。

 私はこうして今日も、報(むく)われざる人生を歩んでいるのだ。

投稿者 mukaidani : 14:24

2017年12月04日

偶然を「縁」と考える

 昨日は、小生の誕生日。
 67回目となれば、さして感慨もなし。
 愚妻も同様のようで、子供たちはプレゼントをくれたが、愚妻は「おめでとう」の「お」の字も口にしない。

「なぜ、言わぬ」
 癪なので愚妻を叱責すると、
「言って欲しいの?」
 質問で切り返してくる。

「バカ者。言って欲しわけではない」
「でしょう。だから言わないのよ」

 ああ言えばこう言うで、夫婦の論戦は頭の体操にはなっても、不毛であることに今さらながら気づくのだ。

 そんなこともあり、誕生日ということで気分一新のため、昨朝は朝6時前に自宅を出て、築地本願寺の晨朝にお参りした。

 書いてみたい仏教テーマがあり、何かヒントがあるのではないかという思いもあった。
 妙想飛来が私の信条なので、本堂で一緒に読経していたら何か良い切り口が浮かぶのではいかと期待したが、何にもなし。

 ところが、たまたまこの朝、知人が常例布教で出講しており、お茶を飲みながら雑談していたときのこと。

 このあとの法話会で何を話すのか問うたところが、まさに今、私が書いてみたいと思っているテーマと同じだったのである。

 こういうのを縁というのだろう。
 いろいろアドバイスを受け、参考になったと同時に、誕生日に思い立ってお参りしただけなのに、こうした縁に出遇ったことに意を強くした次第。

 日々起こる偶然を「縁」として前向きにとらえることで、人生はいかようにも変わっていくのではないかと、帰途のクルマの中で思うことであった。

投稿者 mukaidani : 10:44

2017年12月02日

スリ換えという「悪」

 将軍様のミサイルよりも、〝日馬富士のシャンパンボトル〟のほうがリアリティがあるのだろう。

「あれで頭を殴られたら危ないわよね」
 と愚妻が眉をしかめている。

「バカ者。いまは国家の非常時。ミサイルが打ち込まれたら、シャンパンボトルどころではない」
 叱りつけるが、
「ボトルで殴られるほうが恐いわよ」
 と譲らない。

 ミサイルが飛んでくるという恐怖は、リアリティを持たないということなのだろう。

「いいか、もしミサイル警報が出たら、すぐにコタツの下に潜り込むんだぞ」
 愚妻にアドバイスすると、
「コタツより、トイレのほうがいいんじゃない?」
 真顔で言っている。
 地震じゃあるまいし、こんな程度の認識なのだ。

 もっとも、私が心配したところでどうにもならない。
 トイレで〝フン死〟するのは情けないので、日帰り温泉で溺死することにしよう。

 それにしても、日馬富士の一件は、本質のスリ換えがあまりに多すぎるな。

「貴ノ岩が『すみません』と謝ればその先にいかなかったと思われる」
 といった報告が危機管理委員会でなされたが、これは、
「謝らなかった貴ノ岩に非がある。したがって、日馬富士は悪くない」
 というスリ換えである。

「シャンパンボトルを振り上げたが、濡れていたので手からすべり落ちた」
 という説明は、
「ボトルで殴ったわけではない」
 と日馬富士を擁護しているわけだが、視点を変えれば、
「すべり落ちなければ殴っていた」
 ということになる。

 同じ理屈で、ヤクザがこう言ったらどうか。
「拳銃の引き金を引いたら、壊れていて弾が出なかった。せやから、ワシは悪うない」
「そうかそうか、アンタは悪うない」
 なんてことはあり得まい。

「貴乃花親方はどうして協会の聴取に応じないのか」
 と、横審で華道家元夫人が批難していたが、日馬富士は暴行を認めているのだから、「事件」はハッキリしている。
 貴乃花が協会の聴取に応じることと、事件とはシンクロしないにもかかわらず、貴乃花を批難することで、問題の本質をスリ換えている。

 そして何より危惧するのは、
「被害者にも落ち度がある」
 といった論調が見られることだ。

 こうした思考は、
「いじめは、いじめられる側にも問題がある」
 といったスリ換えにつながっていく。

「北朝鮮の暴走は、それを許した側にも問題がある」
 といったスリ換えにつながっていく。

 悪いものは悪いのだ。

「盗人の三分の理」などに、惑わされてはならない。

投稿者 mukaidani : 11:04