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2017年11月29日

「足らざる」考

 昨夜、京都から帰宅。
 この忙しいのに、愚妻と紅葉見物である。

 京都のホテルがなかなか取れず、毎年、紅葉見物に行ったときに一年後の予約を頼んで帰る。
 仕事が詰まっていて京都どころではないが、一年前に予約しているので、仕方なく出かけた次第。

 国宝展は大混雑だというので、事前にチケットを購入していたが、やっぱり大混雑。
 曜変天目茶碗だけ見て、
「さあ、ホテルに帰ってサウナに入るぞ」
 愚妻に言うと、
「ちょっと、観光に来てサウナのことを考える人、いないでしょ」

 たいてい二泊するが、ホテルの会員はサウナは無料なので、これが私の楽しみでもある。

 紅葉見物と言っても、毎年、南禅寺など同じ場所に行き、ホテル内でこれも毎年、同じ料理を食べる。
 何年、通ったことだろう。

 唐突に、厭(あ)きがきた。

「もう来年は京都はやめだ」
 愚妻に宣言する。

「どうしたの?」
「今年のルームナンバーは555号室ではないか。ゴーゴーゴーで、今まで京都に来ていたが、それはもうよせというシグナルだ」
「フーン」

 愚妻は首を傾げていたが、もう京都は堪能したのだろう。
 あえて異はとなえなかった。

 旅行に行けないときは出かけたくなり、ちょこちょこ出かけていると感激は薄い。

「足らざるをもって至福とするなり」
 京都で思ったことである。

投稿者 mukaidani : 10:07

2017年11月23日

今日はテレビ取材

 今日は午後から、TBS『ビビット』(朝8:00~)の取材があり、撮影クルーが道場に来てくれた。

 テーマは『進次郎と角栄の共通点』。
 上路雪江リポーターのインタビューに、私が答えるという形だった。
 明日の放送である。

 来年は角栄生誕100年であり、今度の総選挙で進次郎人気はさらに高まった。
 私は現在、「週刊アサヒ芸能」で『角栄と進次郎「人たらしの遺伝子」』という連載コラムを持っているが、両者には確かに共通するものが多く、二人の共通項は人間関係術として私たちの参考になるものと自負している。

 ちょうど今日は、拙著『角栄の流儀』の発売日である。
 ノンフィクション・ノベルの形式で書いた。
 私自身、角栄本は何冊か書いているし、世間にあふれているが、角栄の素顔と魅力に迫るにはノンフイクションでは限界を感じ、「ノベル」を加味する方法論をとってみた。

 単に「ノベル」の要素では読み物として平板になるので、私の得意分野である「ヤクザ式」の視点から書いた。
 この試みがうまくいけば、いろんなテーマに応用できるものと楽しみにしている。

 先週の日曜日は、都内のお寺で報恩講に出勤した。
 執筆だけでなく、坊主活動を本格化させるつもりでいる。
 住職から課題も出され、練習しておくようにと言われた。
 時間をどうヒネリ出すか。

 12月下旬の〆切が2冊続くこともあり、早朝ウォーキングはとりあえず中止にしようと、いま決めたところだ。

 僧籍を得て十年。
 そして、この歳になってみて、仏教の面白さがようやくわかってきた。
 世俗の垢(あか)にまみれた私だからこそ書ける「仏教」があるのではないか。
「進次郎と角栄」についてインタビューを受けつつ、なぜか唐突にそんな思いがよぎったのである。 

投稿者 mukaidani : 22:17

2017年11月18日

「茶髪」考

 高校生の茶髪問題をめぐり、学校の指導法について論争が起こっている。

 発端は、女子生徒が生まれつき茶色の頭髪を黒く染めるよう学校から強要され、精神的苦痛を受けたとして提訴したことだ。

 生まれつきの頭髪の色を変えろというのは論外であるとしても、なぜ学校はこうまで茶髪に神経をとがらせるのか。

 因果関係はわからないが、茶髪にするのは非行に走る兆候であると、これは保護司としての私の実感である。
 地毛は別として、おしゃれで茶髪に染めるべきではないと私は思っている。

 だが、私が引っかかるのは、そんなことではない。

 たとえばサッカーの本田圭祐選手は茶髪である。
 メディアが「英雄」と持ち上げる選手が茶髪であれば、若者がそれをマネしたくなるのは自然なことだろう。

 あるいは、人気芸人の松本人志も金髪である。
 世相について論評したりコメントし、それがネットで大きく取り上げられる。
 彼もまた、存在としては有名人という「英雄」である。

 となれば、たとえばサッカー部コーチと部員の間で、次のような会話になるべきだ。

「おまえたち、頑張って本田選手のようになるんだぞ!」
「じゃ、コーチ、自分は茶髪にします」
「よし、それがいい。まず形からマネをするんだ! わがサッカー部は全員、茶髪にしろ!」
「校長先生、怒りませんか?」
「バカ者。英雄のマネをしてどこが悪い!」

 なぜ、そうはならないのか。
 価値観や評価は所詮、ダブルスタンダードということなのだ。
 
 

投稿者 mukaidani : 07:54

2017年11月13日

「老い」と「若さ」

 昨日は大学時代のサークルの同窓会が新宿であった。
 年1回開かれるもので、毎年、顔ぶれがだいたい決まっているため、先輩・後輩を見ると、確実に歳を取っていくのがわかる。
 
「歳を取るのは生きている証拠。死んだら、そうはいかん」
 と、うそぶいてはみるものの、そっと溜め息である。

 昇空館でジャケットを新調することになり、同窓会の前に新宿の洋服屋に寄って採寸してもらった。

 若いお兄ちゃんが採寸しながら身長を聞いてきたので、
「いま167センチだが、実は加齢とともに縮んでしまったんだ」
 と答えると、
「えッ、そうなんですか!」
 マジにリアクションしたので、こっちが驚いて、
「キミねぇ、縮むと言っても10センチも20センチも縮むわけじゃないんだから」
 やんわりたしなめたのである。

 それにしても、歳を取るというのはいいものだ。
 面倒なことは、
「歳だから、身体が動かなくてねぇ」
 とパス。

「来週? 歳だから外出するのが億劫でねぇ」
 とパス。

 興味があることは、
「まだまだ若いから大丈夫」
 と積極参加。
「老い」と「若さ」を自在に使い分けることができるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:58

2017年11月10日

人間さまざま

 連日、ニュースの主役はトランプ大統領。
「史上最低」
「史上最悪」
 と罵詈雑言を浴びせられたトランプ大統領が、世界の鼻ヅラを引きまわしている。
 中国ですら、気をつかっている。

「悪名は無名に勝る」
 と、私は折りに触れて書くが、まさにそのとおり。

 悪名とは「存在感」のことであり、存在感が強ければ強いほど周囲を巻き込み、台風の目となる。

 こう考えれば、チマチマと世間の評判なんか気にすることが、いかに愚かで無意味なことか、腑に落ちてわかってくる。

 好き勝手に、堂々と生きればいいのだ。
「そうは思わんか」
 と、トランプ大統領を報じるテレビのワイドショーを見ながら愚妻に言うと、
「それって、自分のこと擁護しているんじゃないの?」
 憎まれ口を叩く。

 ここ数日、連続で日帰り温泉に行った愚妻は、
「疲れた」
 と、罰当たりなことを言っている。
 朝7時に行こう思えば早起きしなければならず、寝不足になるのだそうだ。

 私のように仕事で寝不足になるマジメ人間もいれば、早朝温泉に入るため寝不足になるバチ当たりもいる。

 好き勝手を言って周囲の鼻ヅラを引きまわす大統領もいれば、「排除」と言って人気急落の都知事もいる。

「人間さまざま」という言葉が脳裡をよぎるのだ。

投稿者 mukaidani : 15:47

2017年11月06日

「触発」という財産

 自己啓発に重点を置く若者向けの月刊誌が、昨日、取材に来た。
 道場の仕事部屋が狭いため、カメラマン同行の取材はいつも困る。
 照明スタンドなどあれこれ機材を持参するめため、スタンドを立てる場所がないのだ。

 だから道場へ椅子とテーブルを持ち出して取材を受け、話している間にカメラマンがシャッターを押していくことになり、たいていこのパターンである。

 部屋の広さというのは心理的な影響が大きく、広いと声が大きくなり、話す内容も力強くなる。
 反対に狭いと、話の内容は自然と細かいところに気を配るようになる。

 講演と同じで、壇上からしゃべれば、ヒソヒソというわけにはいかないし、狭い飲み屋で話せば、でかい声にはならず、話す内容はヒソヒソになるという次第。

 私は取材を受けるのが好きで、申し込みがあれば媒体を問わず、引き受ける。
 記者やカメラマンと雑談するのが楽しみだからだ。
 それぞれ業界の最新情報がわかるし、記者の質問の仕方などは方法論としてだけでなく、対人関係術を考える上で大いに参考になるのだ。

 編集者と雑談するのも楽しい。

「人間は人間によって触発される」
 ということが実感としてわかる。

 この触発された何かが、きっと私の財産になるのだろう。

投稿者 mukaidani : 10:06

2017年11月03日

先輩の死

 昨日は、拓殖大学のK先輩の葬儀に参列した。
 5月にK先輩と後輩のH君と3人で食事したが、ご両人とも硬派だけに談論風発。
 楽しい一時であった。

 H君からK先輩急逝のメールをもらった日の前夜、なぜか3人で食事したときのことが唐突に思い浮んできて、
(何でそんなことを思ったのかな)
 と自分で首を傾げた。

 これが虫の知らせというやつなのだろうか。
 人間の心とは不思議なものだ。

 生ある者が滅するのは世の習いと頭ではわかっていても、いざ現実をつきつけられると不条理のように思ってしまう。
 死を不条理と思う気持ちがどこかにあるうちは、我が死を受け入れられないのかも知れないと、読経を聞きながら思ったことだった。

「生は偶然、死は必然」
 と言う。

 そうだろうか。

 死が必然であるなら、死ぬまでは確実に生きている。
 といことは、「生もまた必然」ということになるのではないか。

 身近な人の死は、いろんなことを考えさせられるのだ。

投稿者 mukaidani : 21:09