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2017年11月18日

「茶髪」考

 高校生の茶髪問題をめぐり、学校の指導法について論争が起こっている。

 発端は、女子生徒が生まれつき茶色の頭髪を黒く染めるよう学校から強要され、精神的苦痛を受けたとして提訴したことだ。

 生まれつきの頭髪の色を変えろというのは論外であるとしても、なぜ学校はこうまで茶髪に神経をとがらせるのか。

 因果関係はわからないが、茶髪にするのは非行に走る兆候であると、これは保護司としての私の実感である。
 地毛は別として、おしゃれで茶髪に染めるべきではないと私は思っている。

 だが、私が引っかかるのは、そんなことではない。

 たとえばサッカーの本田圭祐選手は茶髪である。
 メディアが「英雄」と持ち上げる選手が茶髪であれば、若者がそれをマネしたくなるのは自然なことだろう。

 あるいは、人気芸人の松本人志も金髪である。
 世相について論評したりコメントし、それがネットで大きく取り上げられる。
 彼もまた、存在としては有名人という「英雄」である。

 となれば、たとえばサッカー部コーチと部員の間で、次のような会話になるべきだ。

「おまえたち、頑張って本田選手のようになるんだぞ!」
「じゃ、コーチ、自分は茶髪にします」
「よし、それがいい。まず形からマネをするんだ! わがサッカー部は全員、茶髪にしろ!」
「校長先生、怒りませんか?」
「バカ者。英雄のマネをしてどこが悪い!」

 なぜ、そうはならないのか。
 価値観や評価は所詮、ダブルスタンダードということなのだ。
 
 

投稿者 mukaidani : 07:54

2017年11月13日

「老い」と「若さ」

 昨日は大学時代のサークルの同窓会が新宿であった。
 年1回開かれるもので、毎年、顔ぶれがだいたい決まっているため、先輩・後輩を見ると、確実に歳を取っていくのがわかる。
 
「歳を取るのは生きている証拠。死んだら、そうはいかん」
 と、うそぶいてはみるものの、そっと溜め息である。

 昇空館でジャケットを新調することになり、同窓会の前に新宿の洋服屋に寄って採寸してもらった。

 若いお兄ちゃんが採寸しながら身長を聞いてきたので、
「いま167センチだが、実は加齢とともに縮んでしまったんだ」
 と答えると、
「えッ、そうなんですか!」
 マジにリアクションしたので、こっちが驚いて、
「キミねぇ、縮むと言っても10センチも20センチも縮むわけじゃないんだから」
 やんわりたしなめたのである。

 それにしても、歳を取るというのはいいものだ。
 面倒なことは、
「歳だから、身体が動かなくてねぇ」
 とパス。

「来週? 歳だから外出するのが億劫でねぇ」
 とパス。

 興味があることは、
「まだまだ若いから大丈夫」
 と積極参加。
「老い」と「若さ」を自在に使い分けることができるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:58

2017年11月10日

人間さまざま

 連日、ニュースの主役はトランプ大統領。
「史上最低」
「史上最悪」
 と罵詈雑言を浴びせられたトランプ大統領が、世界の鼻ヅラを引きまわしている。
 中国ですら、気をつかっている。

「悪名は無名に勝る」
 と、私は折りに触れて書くが、まさにそのとおり。

 悪名とは「存在感」のことであり、存在感が強ければ強いほど周囲を巻き込み、台風の目となる。

 こう考えれば、チマチマと世間の評判なんか気にすることが、いかに愚かで無意味なことか、腑に落ちてわかってくる。

 好き勝手に、堂々と生きればいいのだ。
「そうは思わんか」
 と、トランプ大統領を報じるテレビのワイドショーを見ながら愚妻に言うと、
「それって、自分のこと擁護しているんじゃないの?」
 憎まれ口を叩く。

 ここ数日、連続で日帰り温泉に行った愚妻は、
「疲れた」
 と、罰当たりなことを言っている。
 朝7時に行こう思えば早起きしなければならず、寝不足になるのだそうだ。

 私のように仕事で寝不足になるマジメ人間もいれば、早朝温泉に入るため寝不足になるバチ当たりもいる。

 好き勝手を言って周囲の鼻ヅラを引きまわす大統領もいれば、「排除」と言って人気急落の都知事もいる。

「人間さまざま」という言葉が脳裡をよぎるのだ。

投稿者 mukaidani : 15:47

2017年11月06日

「触発」という財産

 自己啓発に重点を置く若者向けの月刊誌が、昨日、取材に来た。
 道場の仕事部屋が狭いため、カメラマン同行の取材はいつも困る。
 照明スタンドなどあれこれ機材を持参するめため、スタンドを立てる場所がないのだ。

 だから道場へ椅子とテーブルを持ち出して取材を受け、話している間にカメラマンがシャッターを押していくことになり、たいていこのパターンである。

 部屋の広さというのは心理的な影響が大きく、広いと声が大きくなり、話す内容も力強くなる。
 反対に狭いと、話の内容は自然と細かいところに気を配るようになる。

 講演と同じで、壇上からしゃべれば、ヒソヒソというわけにはいかないし、狭い飲み屋で話せば、でかい声にはならず、話す内容はヒソヒソになるという次第。

 私は取材を受けるのが好きで、申し込みがあれば媒体を問わず、引き受ける。
 記者やカメラマンと雑談するのが楽しみだからだ。
 それぞれ業界の最新情報がわかるし、記者の質問の仕方などは方法論としてだけでなく、対人関係術を考える上で大いに参考になるのだ。

 編集者と雑談するのも楽しい。

「人間は人間によって触発される」
 ということが実感としてわかる。

 この触発された何かが、きっと私の財産になるのだろう。

投稿者 mukaidani : 10:06

2017年11月03日

先輩の死

 昨日は、拓殖大学のK先輩の葬儀に参列した。
 5月にK先輩と後輩のH君と3人で食事したが、ご両人とも硬派だけに談論風発。
 楽しい一時であった。

 H君からK先輩急逝のメールをもらった日の前夜、なぜか3人で食事したときのことが唐突に思い浮んできて、
(何でそんなことを思ったのかな)
 と自分で首を傾げた。

 これが虫の知らせというやつなのだろうか。
 人間の心とは不思議なものだ。

 生ある者が滅するのは世の習いと頭ではわかっていても、いざ現実をつきつけられると不条理のように思ってしまう。
 死を不条理と思う気持ちがどこかにあるうちは、我が死を受け入れられないのかも知れないと、読経を聞きながら思ったことだった。

「生は偶然、死は必然」
 と言う。

 そうだろうか。

 死が必然であるなら、死ぬまでは確実に生きている。
 といことは、「生もまた必然」ということになるのではないか。

 身近な人の死は、いろんなことを考えさせられるのだ。

投稿者 mukaidani : 21:09