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2017年10月28日

「遠泳」の気分

 何だかんだと忙しく、遠泳をしているような気分である。
 泳ぐスピードはたいしたことはないが、「はるか遠くのゴールをめざして、延々と泳ぎ続けるような気分」と言えばわかっていただけるだろうか。

「日帰り温泉でも行って、ザブンと入ってくればいいのよ」

 愚妻はノーテンキなことを言う。

 そのザブンの時間がないから、しんどいのである。
 現に愚妻はヒマだから毎日、ザブンに行っておるではないか。

 それでも気晴らしに、映画の上映案内をウェブでチェックする。
 行く時間がないが、チェックする。

 『運慶展』も行きたいし、もうすぐ『ゴッホ展』も来る。

 読まなければならない本、読みたい本も用意してある。

 知人から催し物の案内がいくつも来ているが、行く時間がない。

 だから、店に食事の予約を入れる。
 泊まりがけの旅行も予定し、ホテルを予約する。
 そうすれば何が何でも出かける。

 だが予定を入れると、結局、しわ寄せがほかの日に来る。
 出かける前日になると、
「予約なんかしなければよかった」
 と、毎度、後悔するのだ。

投稿者 mukaidani : 15:50

2017年10月21日

「コメント」と「発想」

 朝起きると、ネットでニュースをチェックする。
 メディアからコメントを求められることがあるからだ。

 ちょっとした出来事が、そのうち事件として大きく発展したりすることもあるので、一応、目を通しておかなければ、
「どう思いますか?」
「何でしたっけ?」
 ということになりかねない。

 私も元週刊誌記者なのでよくわかるが、〆切に追われながら電話でコメントを取っていく。

 相手がいまどういう状況にあるか、構ってはいられない。

 逆を言えば、こっちの状況にお構いなしに電話がかかってくるということでもある。

 道路を渡るため、信号待ちをしているところに電話がかかってきて。
「コメントをいただきたいのですが」
 いきなり言われて、
「それはですな」
 と、瞬時に応じなければならない。

 手短に、しかしコメントにしやすいことを話す。

 私が記者時代そうだったが、グタグダと、まわりくどく能書きを言われるとイラつく。
 それがわかっているだけに、手短でユニークなコメントを心がけるという次第。

 しかし、こういう思考を日常的にやっていると、瞬時にいろんなことに気づくようになる。

 数日前、某メディアから、モノマネ芸人である清水アキラ氏の息子の一件でコメントを求められたときのことだ。

「親が謝罪するということについて、どう思うか」
 と問われ、咄嗟に「墓離れ」ということが脳裡をよぎった。

「家制度」という組織形態が崩壊しつつあり、それが「墓離れ」の一因とされるが、ならば、
「成人した子供の不始末に対して親が謝罪する」
 というのは、「家制度の崩壊」と逆行しているのではないか?

 むろん、人気商売なので、親として謝罪しておかなければならないという思惑もあるだろうが、「家制度」は本当に崩壊しつつあるのか。
 それが「墓離れの一因」なのか、ということを考えさせられたのだ。

 頭の隅でそんなことを考えつつも、コメントは掲載しやすいように別のことを手短に話したが、コメントは求められずとも、「コメントする」という発想でニュースをチェックするのは、「発想」の訓練にとても役立つと、このとき改めて思った次第である。

投稿者 mukaidani : 13:14

2017年10月17日

スズメ百まで

 年齢のせいか、それとも性格的なものか、これまでルーチン的に継続してきたことに区切りをつけたくなった。

 たとえば毎年、お歳暮を頂戴する年長者がいらして、私もお返しとしてお贈りする。
 盆暮れの挨拶は感謝を表するということにおいて、大切だと思っている。

 ところが、何事も急ハンドルを切る私は、
(やめようかな)
 と突如、思ってしまうのだ。

 ある集まりで、毎年、贈っていただいている年長者に、そのことを告げた。
「もう、やめましょうか」
 ざっくばらんが私の持ち味だが、いきなり切り出された年長者は驚いていた。

 こういうことを最近、何回が繰り返している。

 現状維持というのが、どうも性に合わないらしく、人生という湖に小石を投じたくなるのだ。

 どんな波紋が広がっていくか、ワクワクしながら見ている。

 むろん、いい波紋ばかりでなく、波紋が「波乱」になってしまうことも少なくない。

 だが、波紋も波乱もない人生は、退屈なだけだ。

「治にいて乱を忘れず」という言葉があるが、「治にいては乱を起こす」という生き方でありたいと思っている。

 だから愚妻を筆頭に、周囲の人たちは振りまわされ、迷惑を蒙るのだ。

 そのことはわかってはいるが、雀が百まで踊りを忘れないように、私の性格は死ぬまで直るまい。

投稿者 mukaidani : 14:34

2017年10月13日

「馴れ」を戒める

 愚妻は連日、日帰り温泉に通っている。

「行ってくるわね」
「ただいま」

 と、これまで言っていたが、最近は口にしなくなった。
 当たり前になったからだ。
 これが、馴れの恐さである。

 蓮如上人にいわく、

『ひとつのことを聞きて、いつもめずらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり』

 意味は、
「同じ教えを聞いても、いつも目新しく初めて耳にするかのように思うべきである」
 というもので、聴聞の心構えを説いたもの。
 
 真宗僧侶の私としてはこの教えを守り、愚妻がいつも初めて日帰り温泉に行ってきたように接するのだ。

「どこへ行ってきたんだ?」
「日帰り温泉」
「ほう、キミは日帰り温泉へ行っているのか!」
「ちょっと、それってイヤ味じゃない」

 ヘソを曲げ、
「もうこれから週に2、3回にするわ」
 と、プリプリ怒っている。

 私は決してイヤ味ではなく、
「同じ教えを聞いても、いつも目新しく初めて耳にするかのように思うべきである」
 という諭しを忠実に実践しただけなのだが、夫婦仲が険悪になってしまった。
 蓮如上人も罪作りなものである。

投稿者 mukaidani : 12:35

2017年10月10日

「継続」という苦しさ

 昨日は、佐倉市民空手道大会だった。
 市外からの参加選手も多く、630名が出場。
 盛況で、ありがたいことだ。

 試合である以上、メダルを手にするのは、ほんの一握り。
 特に子供たちには、みんなに勝たせてやりたいが、そうはいかない。

 それでも、みんな一所懸命に頑張っている。
 継続は力なりと言うが、技量の優劣でなく、継続すること自体に意味があるのだと、本部席で観戦しながら思いを新たにした。

 これは武道に限らないことだが、ひとつ道を歩いていると、必ず迷いが生じる。
 目が、別の道に向く。
 これは大人も子供も同じで、人間とはそうしたものだ。

 だが、一つ道から別の道へ行っても、必ず迷いが生じる。
 大事なのは、迷いが生じないことではなく、「生じたときにどうするか」である。

 ずいぶん前のことだが、野球もやっていた小学6年生の男子が、
「道場をやめます」
 と言ってきたことがある。

 やめる子は引き止めない。
 それぞれの道で頑張るよう励まして送り出す。
 なぜなら、新たな道で、また継続することの迷いが出てくることを知っているからだ。
 迷いを重ねることによって、継続ということの意味をわかってくれ、それが人生に資すればいいと期待する。

 道場をやめると言ってきた小6男子の母親が、翌週、道場にやってきた。
 子供が、
「どうして僕はやめると言ったんだろう」
 と、泣いていると言う。

 聡明で真面目な子だったので、道場をやめようとした自分の心に思い至ったのだろう。
 再び道場に通い始めた。
 やがて父親の転勤で引っ越して行ったが、この子のことは、いまだにどうしているかと思い出し、「継続」ということについて考えさせられるのだ。

 継続は、迷いとの戦いだ。
 自分との戦いだ。
 だから苦しい。
 それを知るだけに、メダルが取れずとも頑張る子供たちに拍手を送るのだ。

投稿者 mukaidani : 20:03

2017年10月06日

旧い写真

 昨日は道場の仕事部屋に行かず、自宅の自室で仕事をした。
 長机の上には、パソコンとプリンター、本立てなどが雑然と乗っかっている。
 机の下は資料類が積んであるが、何の資料かわからない。
 何年もそのままになっている。

 ひょいと気になり、執筆の手をやめてゴソゴソと引っ張り出して見ると、資料の束にまじって、旧いアルバムが何冊も出てきた。

 写真の日付を見ると、30年前のものもある。

 ということは、私は30代。
 若い。
 愚妻を部屋に呼んで見せると、
「私は若かったわねぇ」
 と、これまた自分の写真を見て、愚かにも喜んでいる。

 だから、私はさとした。
「いいか、あと10年ほど頑張って生きていれば、いま撮った写真でも、あのころは若かったと懐かしく思うだろう。ということは、いまが若いのだ」
「それもそうね」
 いつもは私の言説にケチをつける愚妻が、こういうことには臆面もなく賛意を表するのだ。

 ずいぶん昔だが、三島由紀夫は旅行に際して、カメラを持っていかないということを、何かで読んだことがある。
 カメラがあると、脳裡に焼き付ける力が弱くなるといった理由だったように記憶している。

 確かに旅行にカメラを持参すると、撮ることに気がいってしまい、旅行そのものも、その土地を楽しむことも半減するようだ。

 となれば、人生という旅はどうか。
 思い出を写真に残そうとする行為は、ひょっとして人生という旅の楽しみを半減させているのではないか。

 脳裡にとどめた思い出であれば、いかようにも変えることができる。
 嫌な思い出だって、受け取り方が変わってくれば、懐かしくすることもできる。

 しかし、写真というリアルは、そうはいかない。
 これは、いいことなのかどうか。
 古いアルバムを前に、写真を撮るということについて、しばし考え込むのである。

投稿者 mukaidani : 01:01

2017年10月04日

「清き一票」ということ

 連日、テレビは総選挙モード一色。
 隣国の「将軍様」は注目度が下がり、気を悪くして何かしなければいいがと、いささか気になるところだ。

 選挙といえば、「清き一票」という言葉をあまり聞かなくなったような気がする。

 候補者も、そうは言わない。

「清い」などと、候補者も有権者も、気恥ずかしくて口にできないのだろう。

 選挙というのは、欲と欲のぶつかり合いだ。
 投票する方も、これは同じ。
「どの候補を選べばよいか」
 という価値判断の根底には、広義の意味も含めて、損得という打算がある。

 それが悪いと言うのではなく、「清き一票」という言葉が目くらましになってきたということである。

 現実にそくして、
「打算の一票」
 と言っていたら、選挙に対する考え方も変わっているだろう。

「どうか、この私に〝打算の一票〟をお願いします!」
 と、候補者が連呼する選挙戦を想像してみればいい。
 選挙戦もガラリと変わるに違いない。

 そんなことをつらつら考えていると、
「希望の党は、ひょっとして、その先鞭をつけることになるのではないか」
 と、ひらめいた。

 惜しむらくは、「希望の党」ではなく「打算の党」としてくれればよかったのに思うのだ。

投稿者 mukaidani : 16:03