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2017年07月28日

憎まれ口

『驕るなよ 丸い月夜もただ一夜』

 一休禅師の言葉である。

「安倍総理、調子に乗っているわね」
 とは、かねて我が家の愚妻でさえも言っていたことだ。

 そのことを諫言する側近が安倍総理にはいなかったのか、言っても耳を貸さなかったのか。

 憲法改正を悲願とするのなら、支持率を維持するため、むしろ謙虚に振る舞うベきであったろう。

「人間は得意の絶頂でつまづく」
 とは、私が折りに触れて書くことだが、ホントにそうである。

 私は残念ながら「得意の絶頂」は、はるか彼方。
「丸い月夜」にもならず、細い三日月のままである。
 したがって、つまづきようがないのだ。

 そう言って愚妻に胸を張ると、
「最初からつまづいているんじゃないの?」

 稲田辞任のニュースを見ながら、愚妻の憎まれ口は絶好調なのだ。

投稿者 mukaidani : 16:32

2017年07月25日

英会話の極意

 沖縄の古武道総本部・文武館からの依頼で、日曜、月曜の2日間、来日中の外国人の方に、都内でトンファ(武具)の個人レッスンをした。

 所用で来日し、東京に数日滞在するので、朝か夕刻、1時間30分程度の指導を希望しているということだ。

 41歳の壮年である。
 佐倉市の私の道場へ来てもらえばいいのだが、彼は過密スケジュール。
 それで、私が都内に出向いたという次第。

 彼は英語を母国語としない国の人間だが、流暢に英語を話す。
 私は超ブロークンの英語。

 だが、私は「教える人」で、彼は「教わる人」。
 超ブロークンであっても、彼は必死で理解しようとする。
 そんなわけで指導はスムーズにいった(たぶん)。

 古武道の技術指導もさることながら、礼(お辞儀)についての解説に、彼は興味を示してくれた。
 日本の文化や精神について話そうとしたが、日本語で説明しても容易に理解できないテーマ。
 まして、私の超ブロークン英語では、誤解の元である。
 やむなく所作だけ説明した。

 それでも、コミュニケーションはじゅうぶん取れたようだ。
 ペラペラと言われたのでよくわからないが、私について「ユニーク」「インタレスト」という単語は聞き取れた。

 その意味するところは不明だが、11月に来日するので、また会って話がしたいといったようなことを言っていた。
 繰り返し「ノーベンバー」と言っていたので、来日するのだろう。
 フェイスブックで連絡するようなことを言っていた。

 それはともかく、かねて英会話を勉強しなくてはと思っていたが、やはり必要のようだ。
 帰宅して、愚妻にこのことを告げると、
「ちょっと、あなた、英会話を習いに何カ所行ったのよ。もうペラペラのはずでしょ」
 嫌味なことを言うのだ。

 で、昨夜、考えた。

 きちん英語をしゃべろうとするから、言葉に詰まるのだ。

 最初からブロークンと割り切り、文法など無視してブロークンで覚えればいいのではないか。

 これなら簡単だ。
 目からウロコである。
 トンファを指導して、英会話の極意に気づいた2日間であった。

投稿者 mukaidani : 09:42

2017年07月21日

朝のひとコマ

 早朝ウォーキングは6時スタート。
 すでに太陽は昇っていて暑い。
 だが、季節によって出発時間を変えると、季節の移ろいを感じることができない。
 で、真冬に焦点を合わせ、夏といえども朝6時に出発するというわけだ。

 愚妻が浸かりに行く近所の温泉は、7時オープン。
 露天風呂で日焼けするのがイヤだということで、愚妻は7時に出かける。

 だから、私がウォーキングから帰宅すると、玄関で鉢合わせする。
 私は自宅の風呂で汗を流すと、そそくさと仕事に取りかかり、愚妻は温泉に浸かってのんびり。
 きっと鼻歌でも歌っているのだろう。

「幸せとは何か」
 ということを、考えさせられる朝のひとコマである。

投稿者 mukaidani : 08:33

2017年07月18日

「千里の道」ということ

 早朝ウォーキングしながら、
「千里の道も一歩から」
 という言葉が唐突に脳裏をよぎる。

「千里もある遠い道のりであっても、まず踏み出した第一歩から始まる」
 という意味から転じて、
「どんなに大きな事業でも、まず手近なところから着実に努力を重ねていけば成功するという教え」
 ということになる。

「大きな事業」を「夢」や「志」に置き換えてもよい。

 なるほど、これは理屈である。

 だが、一歩を積み重ねたからといって千里に到達するかどうかはわからない。
 頑張って歩き続け、結果はせいぜい十里ということだってある。

 すなわち、「千里」という結果から、「目前の一歩」という努力を発想するところにまやかしがある。

 正しくは「一歩の先に千里はある」ではないか。
「目前の一歩」という努力が、結果として「千里」になるかもしれないというわけだ。

 経典『華厳経』に、
「初めて発心(ほっしん)する時、便(すなわ)ち正覚(しょうがく)を成(じょう)ず」
 と説く。

「真剣に悟りを得たいと発心したときには、すでに悟りの本質をつかんでいる」
 という意味だ。

 これも「悟り」という結果から「発心」を考えているのではないか。

 すなわち「千里」も「悟り」も終着点であり、終着点から「今」を見ているということになる。

 では、今生において命の終着点である「死」から「今」を見るとどうなるか。

「門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」
 と、正月を詠んだ一休禅師の狂歌が脳裡をよぎる。

「めでたくもあり、めでたくもなし」
 とするところが、さすが一休である。

「割り切れないものは割り切ろうせず、そのまま受け取る」
 と私は解釈する。

 千里に到達しようがしまいが、一歩を踏み出そうがしまいが、そんなことはどうだっていいことではないのか。
 悟りも同様。
 悟ろうと、煩悩に苦しもうと、どっちだっていいのではないか。

 オギャと生まれ、やがて命を終えていく。
 東から太陽が昇り、西に沈んでいくのと同じで、ただそれだけのこと。

 ならば、
「あれもよし、これもよし」
 と、自分の人生を肯定し、呵々大笑すればよい。

 家を出てちょうど1時間。
 早朝ウォーキングで、そんなことも考えるのだ。

投稿者 mukaidani : 10:54

2017年07月15日

カエルとヒアリ

 今朝もウォーキングをしていると、小さなカエルが道端をピョコピョコと跳ねていた。
 田圃(たんぼ)があるからだろう。
 1センチ程度の大きさなので、足元を見ながら歩かないと踏みつぶしそうになる。

 唐突に、「安居(あんご)」という言葉が脳裡をよぎる、

 安居とは、個々に活動していた僧侶たちが一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること。およびその期間のことを指すが、本来の目的は、雨期は数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐことである。

 お釈迦さんの時代からそうだという。
 今朝、カエルを踏みつぶさないように気をつけて歩いていて、お釈迦さんに思いを馳せていると、これまた唐突に、いま問題になっているヒアリのことが脳裡をよぎる。

 ヒアリは殺していいのだ。

 人間に害を及ぼすからだ。

 それは当然だと思いつつも、「危険だから殺す」という発想は、人間の都合ではないのか。

「ISは危険だから抹殺してしまえ」
 という発想と、論理的にどこがどう違うのだろう。

 だが、ISもヒアリも放置しておくわけにはいかない。

「すべての命は平等に尊い」としながらも、これを抹殺することを「正義」とする。

「害を及ぼす」という理由が、殺傷という行為を正当化するのであれば、戦争は永遠になくなりはしない。

 平和を求めるがゆえに、人間は戦争をする。
 矛盾である。
 私たちは、こうして矛盾を生きてる。
 テロと戦い、ヒアリの駆逐を通して、このことを忘れてはなるまいと自分に言い聞かせるのだ。

投稿者 mukaidani : 08:28

2017年07月12日

ものごとは考えよう

 昨夜は、築地本願寺『GINZAサロン』に出講した。
 今年の2月に続いて2度目だ。

 前回は『僧侶になって、何がどう変わったか』ということについてお話しをしたが、今回は『仕事も人生もうまくいく 人間関係「間合い術」』という現実的なテーマにした。
 私の思うところを述べ、後半は僧侶のA氏と対談をさせていただいた。

 詳細は割愛するが、結論を言えば、人間関係は「技術」であるということだ。
 技術である以上、「人間関係術」はノウハウの取得と努力によって向上させることが可能ということになる。

 このことに気づかず、「自分が人間関係を苦手にしているのは、引っ込み思案の性格による」といった内面的なものに起因していると思うから、悩みのドツボにハマる。
 これが、経験から得た私の考え方である。

 それはそれとして、「ものごとは考えようである」ということを、最近、つくづく感じる。

 雨が降れば、
「おっ、チャンス。今日はお気に入りの雨傘をさして出かけよう」
 と心を浮き立たせる。

 ジリジリと暑い日は、
「おっ、チャンス。今日は着物に日傘をさして出かけよう」
 と、心を浮き立たせる。

 天気を厭(いと)うのは意味のないこと。
 ポジティブにとらえれば楽しくなるのだ。

 きっと人生も同じなのだろう。
 ものごとは、考えようで、苦もなれば楽にもなるのだ。

投稿者 mukaidani : 21:43

2017年07月06日

「得」という「まやかし」

 愚妻は、今朝も近所の日帰り温泉へ。
 連日、出かけるのにはわけがある。
 JAFの会員カードを見せると、バスタオルとタオルの使用料が無料になることを先日、知ったのだそうだ。

「だから、行けばいくほど得なのよ」
 と言いながら、JAFの年会費を一回当たりのタオル使用料で割り算し、何回で元が取れるか計算している。

 浅はかな女だ。
 タオル使用料は無料でも、入館料がかかるではないか。
 行けば行くほどカネがかかるのだ。

「バカ者」
 と叱責しようとして、唐突に「朝三暮四」の故事が頭をよぎる。
 ハハーン、愚妻は連日の温泉通いに「正当性」を持たせるため、タオル使用料タダの話を私にしているのではないか。
 そこに気がついた。
 サルではあるまいし、そんなことで私は騙されないのだ。

「おい、ホテルのディナーバイキングは、65歳以上は通常料金の2割り引きだ。行けば行くほど得をするぞ」
「おい、映画は60歳以上は1100円で見られる。700円引きだ。行けば行くほど得をするぞ」

 黙って聞いていた愚妻があきれ顔で、
「バカみたい」

 自分のことは棚に上げて言うのだ。

投稿者 mukaidani : 22:45

2017年07月02日

人生のオトシマエ

 人生は「ゼロサム」である。
 つまり、足してゼロ。

 若いころにワガママ放題やっていると、晩年に至って、そのオトシマエをつけさせられることになる。

「わが子の世話を一切したことのないあなたが、いま道場で幼児の世話をしているんだから不思議よねぇ」
 と愚妻があきれる。

 幼児が私のことを「おじいさん」と呼び、スキンヘッドをピシャリとやっても、私はニコニコしている。
 それを見てハラハラするのは、私の短気さを知っている娘で、
「人間て、変わるのねぇ」
 と、愚妻とヒソヒソやっている。

 人間が変わったのではない。
 私は人生のオトシマエをつけさせられているのだ。

 ここ2週、続けてホテルのディナーバイキングに愚妻と出かけた。
 愚妻は定額の「飲み放題」を頼み、私はお茶である。

 当然ながら、私はすぐに食事が終わるが、愚妻は元を取るべくグビグビ飲んでいる。
 だから、長っ尻になる。

「早く飲めよ」
 とイラ立って言えば、
「急いで飲んだら悪酔いするでしょ」
 柳眉を逆立て、さらに、
「今までさんざん飲んできたのは誰なのよ。千葉駅だ、船橋駅だって、深夜、私にクルマで迎えに来させたのは誰なのよ」

 昔のことをほじくり返せばエンドレスになる。
 周囲の目もある。
「わかった、わかった。家までちゃんと連れて帰るから、死ぬほど飲んでくれ」
「言われなくても飲むわよ」

 こういうのを「人生のオトシマエ」というのだ。

投稿者 mukaidani : 14:33