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2017年06月29日

「孤独」ということ

 昨日は、兵庫県西宮市で講演。
 建設大手・新井組主催「安全推進大会」の第2部として登壇した。
 場所は、西宮市立勤労会館ホール。
 300人以上の方々にご参加いただき、ありがたいことだった。

 これは常々思っていることだが、講演というのは実に難しい。

 私は会話本も書いており、会話は何とかなると自負している。
 週刊誌記者当時、数え切れないほどインタビューしてきた経験があるからだ。

 だが、「会話」と「講演」は違う。

 会話は「言葉のキャッチボール」であるに対して、講演は言葉をこちらから一方的に投げるのみ。
「投げて、受けて、投げて」という言葉の応酬がない。

 要するに、ひとり相撲。

 これが50人程度のセミナーであれば、聞き手の反応がダイレクトに伝わってくるので、気持ちの上でキャッチボールが成立する。
 だから話しやすい。
 ところが、大勢を前にした講演は、そうはいかないというわけだ。

 つまり「一人対数百人」という図式は、話し手にとって「孤独」ということなのである。

 そんなこともあって、帰途の新幹線の中で、「孤独」ということを考えた。
 結論は、孤独とは「ひとり」という意味ではなく、言葉のキャッチボールができない状態のこと。
 大家族や組織であっても、孤独はあるということになる。

 駅の到着時間を知らせてあったので、愚妻が珍しくクルマで迎えに来ていた。
「どうして最後に降りてくるのよ」
 開口一番、愚妻が言う。

「バカ者。まず、お疲れさまと言うべきではないか」
「疲れているのはわかっているわよ」
「わかっていても、口に出すのが愛情というものだ」

 わが家は「ヤクザ式」で、何かというと言葉の揚げ足取りで勝負し、自分が優位に立とうとする。

 だが、考えてみれば、それだけ「言葉のキャッボール」が多いということでもある。

 となれば、私は孤独ではないということになる。

 愚妻に感謝すべきかどうか、これは難しい問題なのだ。

投稿者 mukaidani : 09:28

2017年06月25日

人工知能と浄土真宗

 今夜、NHKテレビでAI(人口知能)の番組をやっていた。
「神か悪魔か」
 というわけだ。

 将棋もプロ棋士は現時点では、AIに太刀打ちできない。
 クルマも自動運転になれば、便利だがドライバーの需要は当然ながら減る。
 ドライバーだけでなく、多くの職業で人間が不要になるだろう。

「じゃ、少子化でちょうどいいじゃないの」
 と、一緒にテレビを観ていた愚妻が、ノー天気に鋭いことを言う。

 私は相手にせず、幕末の「黒船来航」のことを思い浮かべていた。
 国民にとっては驚天動地の驚きだったろう。

 黒船とAI。

 いつの時代も、
「これから日本はどうなるのか」
「世界はどうなるのか」
 という論議が絶え間なく続いている。

 だが、黒船が来ようが、月に人類が降り立とうが、コンピュータ社会になろうが、人間の喜怒哀楽は昔と何ら変わらない。

 すべては煩悩ゆえだ。

 ひょっとして煩悩は、不変であるがゆえに尊いのではないだろうか。

 どんな世の中になろうとも、私たちに煩悩が具(そな)わっている限り、人間でいられるのだ。

 かつて私は『煩悩バンザイ!』という本を書いたが、AI到来の今、あらためて「煩悩バンザイ!」と言いたい。
 煩悩を滅して悟りに至ろうなど、とんでもないことである。

 AIの対極にあって、私たちは煩悩にまみれ、人間らしく生き、そしてこの世に縁がつきれば、阿弥陀如来のはたらきによって極楽浄土に生まれ変わらせていただく。
 私が僧籍を持つ浄土真宗では、このように説く。

 まさにAIの時代にあって、浄土真宗は人間讃歌になるものと、たまには私も坊主らしいことを考えるのだ。

投稿者 mukaidani : 22:25

2017年06月19日

温厚になる

 昨日は、私の道場の稽古発表会(支部交流演武会)だった。
 各支部とも、趣向を凝らした演武を披露してくれたが、運営には私はいっさいノータッチ。
 若い諸君の時代である。

 そう言えば、演武会の練習も、子供たちにおまかせである。
「親はなくても子は育つ」というが、館長の私がいなくても、子供たちでちゃんとやってくれる。

 なまじ口を挟むと、
「館長は黙って見ててよ」
 と口をとがらせる。

 試合に勝たせようと思えば、もちろん手取り足取り指導しなければいけない。
 それも大事だが、道場は部活動ではない。
 空手の稽古を通じて、何か一つでも、その後の人生に資するものをつかんでくれればいいと思っている。

 私がバンダナを巻いていると、
「あっ、タコ焼き屋のオジさん!」
 と、子供が笑う。

 笑われていい。
「恐い指導者」にならないようにと、これは私が自戒していることだ。

 そんな私を見て、いつも愚妻がイヤ味を言う。
「子供たちは、あなたが短気でワガママなことを知らないのよ」

 石だって風雪にさらされれば丸くなる。
 私だって、60半ばを過ぎれば温厚にもなる。
 そう言うと、
「でも、雀百まで何とかって言うから」
 愚妻はどこまでもイヤ味なのだ。

投稿者 mukaidani : 11:07

2017年06月15日

姿勢を正して見せても

 内面は姿勢に現れる。

 大失敗をやらかしたときは肩を落とし、手柄を立てたときは胸を張る。

 気力の充実が姿勢に現れるということは、逆説的に考えるなら、姿勢を正せば気力が充実してくるということでもある。

 そんなわけで、道場では子供たちに姿勢をやかましく注意する。

 で、昨日。

 幼稚園の女児に、
「背中を丸めるとお爺さん、お婆さんになるよ。ほら、館長のように背筋をピッと伸ばしなさい」
 と注意したところが、
「館長」
「なんだ」
「館長、お爺さんでしょ?」

 真顔で問われ、私は一瞬、返答に詰まったのである。

 まだまだ若いと思っているのは、自分だけ。
 私がいくら背筋を伸ばして見せようと、幼児から見れば所詮、お爺さんということなのだ。

投稿者 mukaidani : 11:17

2017年06月12日

別々の楽しみ

 曇り空が続くが、早朝ウォーキングにはちょうどいい。
 ウェアも何着か新しく購入し、赤、青、緑の上下がそろい踏みである。
 それに合わせて、カラフルなバンダナも用意。
 靴も、鮮やかなグリーン。
 ウォーキング用に、安価だが極薄の腕時計も買ってある。

 そして、ステッキを手に、背にたすき掛けのボデーバッグ。
 ボディーバッグにはペットボトル、塩飴、携帯、タオル、ティツシュなどが入れてある。
 これで1時間のウォーキングである。

「ヘンな人が歩いていると思われているわよ」
 と愚妻はイヤ味を言うが、構うことはない。
 生きたいように生きるのだ。

 今朝もそうだが、帰宅すると、入れ違うようにして愚妻が近所にある温泉に出かけていく。
 露天風呂は、日が昇る前に入らないと日焼けするのだそうだ。
「いまさら」
 という言葉を吞みこんで送り出す。
 無用のトラブルは避けるのが賢者なのだ。

 私は早朝ウォーキング、愚妻は早朝温泉。
 一つ屋根の下に暮らし、お互いがそれぞれの役割をこなしながら、別のことを楽しむ。
 ある年齢を過ぎれば、こういう生き方が精神衛生にはよそさうである。

投稿者 mukaidani : 09:01

2017年06月03日

「怠け者」という幸福

 いまの季節は、早朝ウォーキングには、とても気持ちがいい。
 今朝もカラリと晴れた青空に、鳥たちの囀(さえず)り。
 広々とした田んぼの上を、モンシロ蝶がヒラヒラと舞っている。

 ウォーキングしながら、蝶はあのヒラヒラゆえに、動作がノロくても鳥に捕食されないという話を思い出した。

 ヒラヒラとあっちこっち飛ぶため、方向の予測がつかず、鳥も捕食しにくいのだそうだ。

 人間も同じで、早く飛ぶばかりが能じゃない。
 ノンキに、気ままに、ヒラヒラと生きていくことこそ、ハッピーになる要諦なのかもしれない。

「アメリカ、ファースト!」
「都民、ファースト!」
 と叫ぶのもいいが、もっと気楽にヒラヒラでいいのではないかと、ウォーキングしながら思うところである。

 トランプさんも、アベさんも、コイケさんも、権力闘争の何がそんなに面白いのだろうと、ヒラヒラ志向の私は首を傾げるのだ。

 愚妻に言わせば、そんな私は「怠け者」ということになるが、
「怠けてなお、こうして生きいられる」
 という事実こそ最大の幸福ではないかと、私はひそかに思っているのだ。

投稿者 mukaidani : 11:31