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2017年03月31日

「おい、お茶!」

 コーヒーを控えることにした。
 能登で、塗りの湯呑みを買ったからだ。
 湯呑みを買ったからには、日本茶にすべきだと、唐突に思ったに過ぎない。

 コーヒーが好きで、一日に10杯以上は飲む。
 仕事場では、ネスカフェのナントカという装置にカプセルをハメ込んで煎れるのだが、カプチーノは、コーヒーとミルクとカプセルが2ついるので割高である。
「喫茶店で飲むよりは安い」
 と私は言っているのだが、愚妻のご機嫌がよかろうはずがない。

 家では、挽いたコーヒー豆を買ってきて、濾紙で抽出する。
 この方法も、いろいろ試行錯誤し、基本的には私が煎れる。
 愚妻にやらせると、大雑把になってしまうからだ。

 だが、お茶は愚妻に煎れさせる。
 意味はない。
 面倒だからだ。

 最初は「おい、お茶!」と言っていたのだが、こんな名前のペットボトル茶があることを思い出した。

 製品名を呼ぶのは釈然しないので、
「おい、ブラウン」
 と呼ぶことにした。

「何よ、それ?」
「わからんのか。茶色から取って、お茶のことだ」
 と、愚妻に説明したところが、
「バカみたい」
 フン、と鼻で笑ってから、
「老夫婦は会話がなくなるってテレビでやっていたけど、わが家はくだらないことばっかり言ってるから疲れるわ」
 ブツクサ言って、嘆息するのである。

投稿者 mukaidani : 13:54

2017年03月28日

「満たされる」という不幸

 能登の温泉に2泊ほどして、いま帰宅。
 露天風呂でのんびりしたが、温泉好きの愚妻が、今回は風呂に入る回数がいつもより少なく、こんなことを言う。

「家の近くに温泉のスーパー銭湯ができたから、温泉地もあまりありがたくないのよねぇ」

 鋭いことを言うではないか。
 満たされることによる「不幸」を、愚妻は温泉に仮託して見事に喝破してみせた。
「煩悩即菩提」という言葉があるが、愚妻の場合は無自覚に「本音即真理」になっているのだ。

 私が「満たされることによる不幸」に思いが至ったのは、先日、西日本新聞から「原発再稼働の説明会」についてコメントを求められ、私なりに原発について考えてみたからだろう。

 原発は経済成長に寄与したが、経済的に満たされていくことに反比例して、私たちは〝不幸〟になっているのではないか。
 経済成長をし、どんどん便利なった結果、私たちは「ありがたみ」という大事な感性を次第に失いつつあるのだろう。

 近所に温泉スーパー銭湯ができなければ、愚妻は能登の温泉に感激したはずだ。
 満たされないこと、足りないことこそ〝幸せのタネ〟なのかもしれない。

 この話を愚妻にすると、
「私、不幸になってもいいから、満たされるほうがいいわ」
 バチ当たりのことを平気で口にする。

 だが、よくよく考えてみると、愚妻のこの言葉は「本音即真理」のような気がしないでもない。

 さらに考えをめぐらせれば、真理とは煩悩のことではないか。

 すなわち「本音即煩悩」であり、このことを腑に落ちて知るのが浄土真宗ということになる。

 愚妻の本音で、私はいい勉強をさせてもらった。
 思わず、愚妻に合掌である。

投稿者 mukaidani : 18:39

2017年03月24日

「政治家失格」ということ

 連日、森友学園のニュース。
「ああでもない、こうでもない」
 とにぎやかなことだ。

 真相は知るよしもないが、逆説的に言えば、
「政治家に頼んで便宜を図ってもらえないなら、それは政治家として役に立たない」
 ということになる。

 つまり、政治家失格。
 ずいぶん前に、『政治家の実戦心理術』という本を書いた私としては、そう思うのである。

 それにしても、ワイドショーを見ていると、「安倍擁護」のコメンテータが多いのにはあきれてしまう。
 本人たちは、それを悟られないようニュートラルを装うことに腐心しているが、それを見るのは楽しいものだ。

投稿者 mukaidani : 16:35

2017年03月22日

指導者の反省

 一昨日、当道場の春季・昇段級審査会が終わった。
 上手な子もいれば下手な子もいる。
 では、審査基準をどこに置くか。

 私はこう思っている。
「試合は優劣を競うもの、審査会は本人の努力を評価するもの」

 とはいえ、なかなか努力はしないものです。

 で、つい小言を口にすることになるが、放っておいても頑張って稽古をするなら、指導者はいるまい。

 指導者は、技術を教えることよりもむしろ、いかにすれば努力する気になってくれるか、その舵取りが大事なのかもしれない。

 反省しきりだが、そう言えばかつて「反省だけならサルでもする」という流行語があった。

「サル」を「指導者」に置き換えれば、私になるということか。

投稿者 mukaidani : 13:14

2017年03月18日

「オメデトウ」という言葉

 今朝は、築地本願寺にお参りしてきた。
 お参りはともかく、友人で、若い僧侶のT君といろいろ話もあり、築地で待ち合わせたという次第。

 私も年齢からして、そろそろ僧侶活動に本腰を入れなくてはと思いつつ、日々の仕事に追われて、ままならないでいる。
 だが、そうは言ってもいられないので、一歩を踏み出さなければならない。
 T君は僧侶としては駆け出しだが、彼の話は刺激になり、意を強くした。

 人生、何歳になってもチャレンジ。
 燃え尽きるまでチャレンジである。

 いま卒業式のシーズンだ。
 来月は入学式だ。
 道場の子供たちを見ていて、「入学」と「卒業」と、どっちがお目出たいのか、ふと考えてしまう。

 愚妻に問いかけると、
「どっちもメデタイのよ」
 と、浅学そのままに、ざっくりとした言い方をする。

 入学は「誕生」、卒業は「往生(死去)」と、私は置き換えて考えてしまう。

 浄土真宗は、「死」を「往生素懐(そかい)を遂げる」と受け取る。
「現世を去って、極楽浄土に生まれたいという平素からの願いが果たされた」
 というわけだ。

 だから、お目出たい。

 仏教は、「生」を「苦」と説く。
 となれば「誕生」は果たしてお目出たいのか。

 こう考えると、オギャと生まれたら、
「このたびはご愁傷様でした」

 亡くなったら、
「このたびはお目出とうこざいました」

 こう言うのが正しいということになる。

 愚妻に告げると、
「そんなこと言ってたら、人に嫌われるわよ」
 これも、ざっくりとした言い方をするのだ。

「オメデトウ」
 とは、いったい何なのか。

 しばし考えつつ、
「ヘタな考え、休むに似たり」
 そんな言葉が、私の脳裡をよぎるのだ。

投稿者 mukaidani : 15:25

2017年03月16日

夫婦の「間合い」

 愚妻は早々にスーパー銭湯に出かけた。
 クルマで5分ほどの距離だから、気軽に行けるのだろう。
「朝は空いているのよねぇ」
 と、ノー天気なことを言っている。
 朝から露天風呂に浸かるヒマ人がどこにいる。

 これまでであれば、
「行く?」
 と私に声をかけていたはずだが、いまはそういうことはない。
「行ってくるわ」
 言い置いて、さっさと出かける。

 お互い、干渉の度合いが低くなってきている。
 ほどよい距離感である。
「君子の交わりは、淡きこと水の如し」
 と言うが、夫婦も一定の年齢になれば、「水の如し」がいいということか。

 武道の極意は「間合い」にある。
 相手と対峙しつつ、近寄ったり離れたり、「虚」をつくったりしながら、勝ちという「実」を得る。

 空手を50年やってきて気づいたのは、人間関係を制するのは、武道と同じく「間合い」ということである。
 言葉を変えれば、
「虚と実の狭間に勝機あり」
 ということになる。

 そのうち、愚妻との「間合い」はうんと離れ、最後は「この世と、あの世」になる。
 もはや戦いにはならない。
 虚も実も不要。

 となれば、虚と実を用いて駆け引きする今を、もっと楽しむべきだろう。
 
 今夜は、編集者と打ち合わせ。
 テーマは「生き方論」になる。

投稿者 mukaidani : 10:33

2017年03月13日

親御さんに話しをするか?

 サウジのサルマン国王が特別機で来日。
 エスカレーター式の特製タラップで降りてきた。
 同行者は千人とか。

 一方、南スーダンとイエメン、ソマリア、ナイジェリアの4カ国で計2千万人以上が餓死の危機にあると、国連は発表した。

 富の偏在というのは、かくも残酷なものなのか。
 
 私ごときが言うのもなんだが、「これでいいのだろうか」と思ってしまう。

 太古の昔から人間は争いを続けている。
 人類は、戦争の歴史である。
 結局、生き物としての人間は、生存競争という名の弱肉強食を繰り返すしかないということなのか。

 それでも「平和」と「人道」を説く。
「戦争がなくならないからと言って、反戦活動を否定するのは間違いだ」
 と言う。

 そのとおりだろう。
 だが、皮肉を込めて言えば、
「棒切れが月や星に届かないからいって、振りまわすのをあきらめるのは間違いだ」
 と言うと同じであり、これを詭弁と言う。

 人間社会は弱肉強食である。
 是非の問題ではない。
 現実であることを、サウジ国王の来日ニュースを見ながら、再確認した次第。

 そう言えば私が子供のころ、
「騙す人より、騙される人になりなさい」
 と、しつけられた。

 いまの子供や、若い親御さんにこのことを話しても、この言葉の持つ真意は通じまい。

 時期を見て、私の道場にお子さんを通わせている保護者に、「子供を育てること」をテーマに話してみようかと考えている。

 この20年、空手指導を通じて多くの子供たちに接してきた。
 私は教育者ではないが、少なくとも「机上の空論」ではないという自負はあるし、「しつけ」に関して著書もある。
 話してみたいこともある。

 問題は、いつやるか。
 話しをするには、考えを順序立ててまとめなければならない。
 さて、その準備の時間が取れるかどうか。
 いま、頭を悩ませているところなのである。

投稿者 mukaidani : 00:09

2017年03月11日

人生の〝地ならし〟

「戦争でも起きるのかしらねぇ」
 愚妻が、テレビニュースを見ながら言った。

 北朝鮮のミサイル打ち上げ、トランプの強行政策、大統領罷免で揺れる韓国、中国の横暴、英国のEU離脱、シリアやスーダンの内戦、IS、金政男の暗殺・・・。
 さらに言えば、森友事件、安倍内閣の驕り、文科省の天下り、豊洲問題など、愚妻は気分的に世情不安を感じ取っているのだろう。

 こういう心理になったときは、たとえ戦争が起きても「意外性」はない。
「なんでことを!」
 という憤りは起こらず、
「ああ、やっぱり」
 と受容してしまう。

 ここに怖さがある。

 つまり、人間はムードに〝地ならし〟をされてしまうのである。

 謹厳実直な亭主が浮気すれば家庭は修羅場だが、
「この人、浮気するかも」
 と、ムード的に〝地ならし〟のできた亭主であれば、
「ああ、やっぱり」
 という気分になる。

 とりあえず修羅場にはなるだろうが、
「なんてことを!」
 という〝青天の霹靂〟にはなりにくいというわけだ。

 愚妻は私のことを「極楽とんぼ」と揶揄するが、これは愚妻の思慮が浅い。
「この人には何を言ってもダメだ」
 と、私は平素から〝地ならし〟をしているのである。

 ついでに言っておけば、人生も同じ。
 自分で自分の人生を〝地ならし〟しておけば、
「まさか!」
 というショックは受けないですむ。

 私にとって〝人生の地ならし〟は、
「うまくいかないのが人生」
 と笑い飛ばす「積極的な諦観」なのである。

投稿者 mukaidani : 10:41

2017年03月05日

「素直」ということ

 春眠の季節には少し早いが、このところ毎日が眠い。
 愚妻に告げると、
「誰だって眠いわよ」
 と、憎まれ口を叩く。

 道場で椅子に座り、居眠りしていると、
「ちょっと館長、そんなところで寝ないでよ」
 と非難する子供たちのほうが、素直で気持ちがいい。

 人間は素直が一番。
 このことを改めて思うのである。

 今朝、日の出は、太陽がオレンジ色に輝いていて、とてもきれいだった。
 といっても、所用でクルマで出かけ、バックミラーに映っていたのだ。
 この日の出が映画のシーンであれば、わざとらしく思うのだろう。
 素直というのは難しいものだと、運転しながら思うことであった。

投稿者 mukaidani : 14:19

2017年03月03日

「私は悪くない」という主張

 マレーシアの金正男暗殺事件も、国有地払い下げの森友問題も、「ああ言えば、こう言う」で、言葉は重宝なものだと、改めて感じる。

 わが家の愚妻など特にそうだが、
「私が悪うござんした」
 と、非を認める謝罪の言葉など、とんと聞かなくなった。

 これは、いわゆる「価値観の多様化」と「個の尊重」、さらに「新旧価値観の相違」が背景にあるのだろう。

「あんたは間違っておる」
 と非難する尺度がなくなってきたのだ。

「あんたは間違っておる」
 と言おうものなら、
「それって、旧い価値観!」
 たちまち噛みつかれてしまう。

 そう言えば先日、
「こら、腰を落とせ!」
 稽古中に小学校高学年の女子を怒鳴りつけたら、
「あっ、館長、それってパワハラだよ」

 私をカラかっているのはわかるが、何だかイヤな世のなかになってきたもんじゃないか。

 子供も大人も、主張だけは口達者になってきたが、
「私が悪うござんした」
 と、素直に非を認めることがなくなってきた。

 盗人にさえ三分の理があるのだ。
 居直れば、誰だって「言い分」はあり、
「だから、私は悪くない」
 という主張になる。

 それで、ホントにいいのか?

投稿者 mukaidani : 13:39

2017年03月01日

前向きに考える

 昨夜は、築地本願寺が運営する『KOKOROアカデミー』に出講させていただいた。

「僧侶になって、何がどう変わったのか/わが身に問いかけて見えてくるもの」
 といったテーマだ。

 多くの人においでいいだき、ありがたいことである。
 もっとも、私のことだから、話の内容はありがたくもなかったろうが、反面教師にしていただければそれなりに意味があるだろうと、勝手に思っている。
 何事も前向きに考えるのが、私流である。

 この夜は、僧侶の方々と遅くまで話し込んだが、どう布教していくか真摯に取り組んでらっしゃることに頭が下がる。
 だが、私のような「傍目八目」の末端坊主も必要だろうと、これも私流で前向きに考えるのだ。

 愚妻は、私のそんな生き方を「ワガママ」と非難するが、それは考えが甘い。
 前向きに生きようとすると、必然的にワガママになってしまうのだ。

投稿者 mukaidani : 12:26