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2016年10月28日

拙著『子どもの「なぜ」の答え方』

 私は、ヤクザ式から角栄、仏教まで様々なテーマを扱っているが、前々から書いてみたかった本が、10月31日に発売される。

『考える力を育てる/子どもの「なぜ」の答え方 』(左右社)だ。

 私は長きにわたって空手道場で子供たちと接してきているが、
「どうして?」
「なんで?」
 と子供たちが問いかけてきたことに対して、私が話して聞かせたことをまとめたものだ。

「なぜ親切にしなくちゃならないのか」
「どうして努力が大事なのか」
「学校はどうして行かなければならないのか」
「差別ってなに?」
 など、たくさんの「なぜ」に答えた。

 僧侶として、保護司として、物書きとして、武道に携わる者として、経験と知識を総動員した。

 親御さんや学校の先生方に読んでいただければ、必ず役に立つものと、いささか自負する次第だ。

投稿者 mukaidani : 16:11

2016年10月26日

愚妻の生存本能

 日曜日は、成田のホテルへ泊まった。

 以前、ご紹介したが、天然温泉があり、これにディナーバイキングと朝食がセットされたプランで、格安なのだ。

 露天風呂もサウナもあり、茶褐色の源泉は気分がいいし、食事も悪くない。
 チェックインして湯船に浸かり、翌朝も浸かる。

 しかも、自宅から35分と近く、移動時間のロスがないので、仕事もできる。
 愚妻が一緒でなければ言うことはないが、これはナイショ。

 こんなことを書けば、ノンキに生活しているように思えるだろうが、さらあらず。
 相変わらず尻に火がついていて、インフルエンザの注射を打ちに行く時間もない。

 道場で子供たちを相手にしているので、インフルエンザの予防はしておかなければならないが、その時間が取れない。

「早く行きなさいよ」
 と愚妻がうるさく言うので、
「わしに構わず、先に行け」
 と命じると、
「あら、とっくに打ったわよ」

 生存本能において、愚妻は私をはるかにしのぐのだ。

投稿者 mukaidani : 15:16

2016年10月20日

テレビ番組の収録

 今日は、BS日テレ『久米書店』の収録に出かけた。

 この番組は、久米宏さんが書店の「店長」、壇蜜さんが「店員」という設定で、著者(私)を交えてのトーク番組である。

 テーマは拙著『ヤクザ式 最後に勝つ「危機回避術」』(光文社新書)。
 お二人とも、さすがに話題の盛り上げ方がうまく、あれこれ楽しくトークさせていただいた。

 といっても、調子に乗ってしゃべったので、何を話したのか忘れてしまった。
 ただ、途中でふと気になり、
「私がペラペラしゃべっていていいんですか?」
 と訊くと、
「全然、大丈夫です」
 と、久米さんがおっしゃってくださったことだけは覚えている。

 そんなこんなで、収録の一時間があっという間であった。

 あとはどういう編集になっているか。
 楽しみである。

 放送予定は11月11日(金)、夜の11時30分から(BS日テレ)。
 お時間があれば、のぞいてみてください。

投稿者 mukaidani : 21:55

2016年10月18日

「弱小人間」の時代

 フィリピンのドゥテルテ大統領が、中国に大接近。
「他国との協議に興味はない。中国と話し合いたいだけだ」
 と述べたそうな。

 あるいは、対ロシア。
「米国が武器を売りたくないのであれば、ロシアに頼む。ロシアは『心配することはない。フィリピンが必要とするものはすべてそろっており、供給しよう』と言っている」
 と語ってみたり、アメリカの鼻ヅラを引きまわしている。

 米、中、ロという対立構造のなかで、弱小国がキャスチングボードを握る時代がやってきたということか。

 それだけに、弱小国の指導者は「駆け引き術」が要求されるが、ドゥテルテ大統領のやり方は、政治力というより「悪女の手練手管」である。

 気のある素振りを見せたり、嫉妬させたりで、大国を手玉に取ろうとしている。

 揶揄(やゆ)しているのではない。
 これは私の勘だが、〝弱小〟とされている人間が躍り出る時代がやってくるような気がしている。

 キイーワードは「手玉に取る」だ。

「手玉に取る」は、小が大に対してなすことであって、その逆はない。
 面白い時代になってきた。

投稿者 mukaidani : 02:37

2016年10月12日

夫婦の攻防

 今朝、二階の自室から階下におりようとして手すりをつかみそこね、あやうく頭から階段を転げ落ちるところだった。
 何かとせわしく、急いでいたためだ。

「おい、頭から転げ落ちるところだったぞ」
 愚妻に言うと、
「気をつけてよ」
 ノンキな声で言って、あとはテレビを観ている。

「死んだかもしれないんだぞ」
 私が憮然としてアピールするが、
「死ねばいいけど、寝たきりになったらどうするの」
 と、受け流す。

 私は頭にきて、
「おまえが世話するしかないだろう!」
 と攻め込む。
「イヤよ」
「じゃ、どうするんだ」
「だから階段から落ちないように気をつけてと、さっきから言ってるじゃないの」
 夫婦の攻防は、いつも平行線をたどるのだ。

投稿者 mukaidani : 21:48

2016年10月09日

ブドウと皮

 明日、月曜の祭日は、空手の市民大会である。
 夜は招待審判員を交えた懇親会があるので、丸一日の長丁場になる。
 本部席に座っているだけで、表彰のとき以外は何もしないのだが、何もしないというのは、実に疲れるのだ。

 懇親会も、酒を飲まない人間には時間が長い。
 主催者側としては途中で帰るわけにもいかず、最後まで残っていなければならない。
 楽ではないのだ。

 忙しいので、なるべく予定を入れないようにしているのだが、
「予定を入れまい」
 とすると、どんどん予定が入ってくる。
「現実」は常に「思い」を裏切るようにできているということか。

 夜、湯船に浸かっていたら、にわかにブドウが食べたくなった。
 愚妻を呼びつけ、持ってくるように告げると、
「あら、珍しいわね」
 と言う。
 ブドウは食べるのが面倒なので、私が敬遠しているからだ。

「ちゃんと、皮を剥いて持ってくるのだぞ」
 そう厳命し、風呂場に持ってこさせたが、皮を剥いたブドウは、殻を剥いて出されたゆで卵のようで、簡便すぎて物足りない。

 愚妻に文句を言うと、皮ごと食べられるブドウがあるので、今日はそれを買ってくるという。

 愚かである。
「皮を剥かないブドウは、ブドウではない」
 叱責すると、
「じゃ、食べなきゃいいでしょ! 皮があると面倒だとか、なければ物足りないだとか勝手なことばかり言って!」
 ブチ切れた。

 ブドウを食べるのも、これでなかなか難しいのだ。

投稿者 mukaidani : 00:51

2016年10月02日

万年筆の使い分け

 万年筆は結局、3本のペン先を調整してもらった。
 その店で買ったものではなく、「持ち込み」となるため、1万5千円ほどかかった。
 安くはないが、書き味が抜群によくなった。

 これにもう2本、お気に入りがあるので5本を使っているが、そのうち3本は1970年代のものなので、いまから40年前のシロモノ。
 大事に使おう。
 残りの人生を考えたら、きっと死ぬまで使用できるだろう。

 だが、お気に入りが5本となると、それぞれ用途を決めておかなければ、どれを使おうかと迷ってしまう。
「迷う」は、私がもっとも嫌うことなのだ。

 したがって手紙用のもの、執筆の想を練るもの、アトランダムにメモするもの、その日の出来事や忘備用にメモするもの、そして校正用に赤インクを詰めたものとなる。

 これらを分けて入れておくのに、ペンケースが3つ。
 このうち2つをカバンに入れて持ち歩いている。
 
 用途別に取っ替え引っ替えするのは、正直言って、手間である。
 だが、この手間を「楽しみ」と考えれば、これはこれで楽しいものである。

「すぐに飽きるわよ」
 と愚妻は罰当たりなことを言うが、これは思慮が浅い。

「飽きるまでは楽しめる」
 と、私はポジティブに考えるのだ。

投稿者 mukaidani : 20:55