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2016年02月29日

心機一転である

 あわただしい一週間が過ぎた。
 仕事をせねばならぬが、さて何から手をつけたものやら。

 取りあえずコーヒーを淹れてみる。
 溜め息。
 ココアを淹れる。
 やっぱり溜め息。

 こういうときは、執筆スケジュールを眺める。
(ヤバイ!)
 と、脳にスイッチが入るのだ。

 先週は2冊ほど重版がかかり、4刷りと10刷り。
 物書きにとっては、何よりの励みである。

 明日から3月。
 心機一転である。
 物事にこだわらない私は心機一転が得意なのだが、何度も一転を繰り返すので、いつのまにか「元の位置」にもどっている。
 心せねばならない。

投稿者 mukaidani : 09:15

2016年02月20日

「終わり」があるからいいのだ

 微熱も解消。
 風邪はバカにできない。
 近所の小学校はインフルエンザで学年閉鎖とか。
 道場で子供たちを相手にするので、できるだけマスクをするようにしている。

 26日は神戸で講演を頼まれているし、27日は結婚式、28日は「お別れの会」と続くため、寝込むわけにはいかないのだ。

 机の前のカレンダーをニラむと、あと十日で3月。
 今年もスタッドレスに履き替えたが、まだ雪道を走っていない。
 早くしなければ、雪がなくなってしまう。
 東北は何度か走っているので、行くなら北陸か。

 仕事に追われ、季節に追われ、ついでに寿命にも追われている。
 定年という「終わり」のない仕事というのは、楽じゃない。
 寿命も同じで、亀や鶴のように千年も万年も生きたら、きっと、しんどいことだろうな。
 何事も「終わり」があるからいいのだ。
  

投稿者 mukaidani : 10:44

2016年02月13日

微熱に頭痛

 一昨日、微熱に頭痛。
 ヤバイ。
 道場で子供たちに接するので、マスクに花粉防止用の鼻栓をして万全を期していたが、鼻栓を子供たちに笑われて外したのがマズかったか。

 頭が痛くて原稿が進まず、一昨日は午後7時からベッドに入り、12時間ほどぶっ続けで眠った。

 で、昨日はすぐに医者へ。
「風邪を引くのはいいんですが、いま忙しくて寝込むわけにはいかないんですよ」
 と正直に言ったのだが、医者は何も返事しなかった。
 薬を処方してもらい、何とか小康をたもっている。

 〆切や取材準備など、切羽詰まってくると追いかけられる夢を見る。
 昨夜は、ラスベガスに行った夢で、帰りの飛行機に乗り遅れそうになり、タクシーの中で「ヤバイ、ヤバイ」とあせっていた。

 目が醒めて、「あ、夢か」となるのだが、追いかけられる夢もしょっちゅう見ていると、馴れてきて、余裕の苦笑いである。

 馴れを恐いと思うか、何事も馴れればどうってことないと思うか。
 おそらく、どっちも正解なのだろう。

投稿者 mukaidani : 11:36

2016年02月08日

「悟り」という煩悩

「かくあらねばならぬ」
 という思いが、苦の根源である。

「怒ってはならない」とか「人には親切しろ」とか「少欲知足であれ」とか。

「目標」としては正しい。
 正しいが、煩悩と二人三脚の私たちにはできないことだ。
 できないことをやろうとするのだから、これは無理がある。

 ならば、そんなことはやめればよさそうなものだが、「かくあらねばならない」という思いが、ときおり頭をもたげる。
 そして、できないことをやろうとして、またまた苦しむ。

 人生は、これの繰り返し。
 すなわち、「いい人間になろう」という思いもまた、煩悩ということになる。

 いや、そもそも悟りを求めること自体が、煩悩の最たるものだろう。
 求道を突き抜けた先に見えるのは結局、煩悩である。
 ということは、煩悩にまみれて生きていること自体を「悟り」と呼ぶ。

 拙著に『煩悩バンザイ!』というのがあるが、この内容をさらに深めていけば、もっともっと素晴らしい発見があるのではないかと、ウォーキングしながら思うことである。

投稿者 mukaidani : 09:22

2016年02月01日

カネは使い方、人生は生き方

 予定どおり、今朝からウォーキング再開。
 といっても、仕事が押せ押せなので、徹夜のまま出かけた。
 健康にあまりよろしくはないが、「2月から再開」と決めた以上、これは貫かなければならない。

 前作の『人は理では動かず情で動く 田中角栄 人心収攬の極意』は依然として売れ行き好調。
 そんなこともあり、3月には別の版元から「角栄本」を出すため、いま書いている最中なのだが、田中角栄のバイタリティーには頭が下がる。

 およそ彼には「溜息」というものがない。
「人生、のんびり」
 という生き方に惹かれはするが、角栄の半生をたどると、それは違うのではないかという思いにとらわれたりもするのだ。

 角栄には「金権政治」という批判がついてまわる。
 だが、それは的外れだ。
 なぜなら日本の政治史において、「金権」でなかった時代などないからである。

 角栄の資料を読んでいて、つらつら思うのは、マネー哲学の根幹は、
「カネを稼ぐために働くか」
「より働くために、カネを稼ぐか」
 ということのような気がする。

 先輩が、
「カネは汚く稼いで、きれいに使え」
 と言ったことがある。

 私たちは「稼ぐこと」には関心はあっても、「使うこと」には無頓着のような気がする。

「カネは使い方、人生は生き方」
 要はアウトプットが大事のだ。

投稿者 mukaidani : 14:56