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2016年01月27日

さて、何が効いたか

 左の肩胛骨の痛みが、少し治まってきた。
 痛いことは痛いのだが、「継続的な痛み」から「断続的な痛み」に変わってきた。
 結構なことだが、さて鍼が効いたか、マッサージが効いたか。
 癪だが、愚妻が言ったとおりになった。
 当面、両者併用ということにするか。

 痛みで原稿の執筆が遅れ気味になり、いま必死で巻き返しをはかっている。
 お陰で先週、今週と早朝ウォーキングは中止。

 いま、ふと思ったが、新幹線は、あれだけの本数を超スピードで運行しながら、定刻をきちんと守っているではないか。
 そのことを考えれば、肩痛や仕事ごときで一日の予定を変えてしまうのは、何とも恥ずかしいことだ。

 生活に時間を合わせるのではなく、決めた時間に合わせて生活していこう。
 窮屈に見えて、実はそのほうがきっと楽なのだ。

投稿者 mukaidani : 11:40

2016年01月23日

注射と、マッサージと、鍼

 昨夜は、横浜支部から二人、稽古にやってきた。
 あれこれ教えてあげたいが、何しろ左の肩胛骨のあたりがズキズキと痛むのである。

 頸椎からきているらしいというのは、レントゲンでわかっている。
 飲み薬では治らないので、先日、当該部分へ注射してもらった。
「これはね、効く人にはよく効く注射ですよ」
 と、医者に言われる。

「効く人には」
 という言葉にいささか引っかかった。
「効かない人には、効かない」
 ということに、論理的にはなるではないか。

 イワシの頭もなんとやらで、信じれば痛みは治まったかもしれないが、ヒネくれた性格が禍して、「効かない人」になってしまった。

 で、いつものマッサージ屋に行って事情を話すと、
「マッサージでは筋肉のこれ以上の深い部分は無理ですねぇ。鍼がいいかもしれませんよ」

 で、マッサージ屋を出た足で、そのまま鍼灸屋へ。

 帰宅して、愚妻にそのことを告げると、
「いっぺんにあれこれしたら、どれが効いたかわからなくなるじゃないの」
 私の身体を心配するより先に、そんな悪態をつくのだ。

 たしかに一理ある。
 一理あるが、それを認めるのは亭主としての沽券にかかわるし、愚妻を調子づかせてしまう。
 だから言った。
「バカ者。どれが効こうが、要は治ればいいのだ」

 仕事は山積。
 実際、治ってくれなければ困るのだ。

投稿者 mukaidani : 15:59

2016年01月19日

老兵は消えゆくのみ

 観光客の急増で、ホテルが取れませんな。
 花見に京都へ行こうと思っていたが中止。
 紅葉の時期なら取れるという。
 そりゃ、そうだろう。
 何しろ10ヵ月先だ。
 一応、予約しておくか。

 先日、愚妻と銀座のデパートへ行くと、中国人の方がたくさんいらした。
 爆買いだから、デパートにとって上客だ。
 日本人は肩身が狭い。
「おい」
 と、愚妻に小声で言った。
「日本人だと店員に粗末に扱われるから日本語は使わないで、中国人みたいな顔をしていろ」
「じゃ、爆買いしなくちゃ」
 嬉々として、バカなことを言っていた。

 時代は変わる。
「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」
 マッカーサーの言葉だったかな。
 銀座を久しぶりに歩くと、そんな心境になるのだ。

投稿者 mukaidani : 18:40

2016年01月15日

犬は飼えないかな

 ガッチリと着込んでいるので、ウォーキングはちっとも寒くない。
 持参する水も、お湯を混ぜているので飲むと体内がポカポカ。
 汗が出てくる。
 これが何とも心地よく、そのあとの朝風呂がいっそう楽しくなるのだ。

 途中で、犬の散歩に会う。
 わが家の駄犬が亡くなってまもなく二年。
 私は犬好きなので飼いたいと思うが、私たち夫婦のほうが先に逝けば犬が可哀相なので、それは無理か。
 そう考えると、寿命というものか現実味を帯びてくる。

 観念というやつは、いかに現実に落としてみるかが大事と言うことか。
 朝のウォーキングは、いろんなことを考えるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:54

2016年01月11日

地獄について考えた

 昨日は、新宿のホテルで、わが昇空館の新年会。
 楽しいパーティだった。
 単なる趣味の会と違い、稽古衣を着て、ともに切磋琢磨する同門ということで、人間関係にひと味違う結びつきがあるのだろう。

 武道の稽古は、楽しみのなかにも凛としたものがある。
 健康にもよい。
 この楽しさと効用がわかるのは、たぶん人生の甲羅を経てからではないだろうか。
 高齢の方にはぜひ勧めたいものと、このごろ切に思うところである。

 頭痛は医者にかかり、血液検査の結果、炎症反応が強いと言うことでクスリを処方してもらい、少しずつ収まってきた。

 10年ほど前に過労で入院したときの症状に似ているので、ヤバイかな、と思っていただけに、とりあえずひと安心である。

 そんなこともあり、今朝からウォーキングを再開した。
「ちょっと、頭、大丈夫なの」
 と愚妻が顔をしかめたが、天の邪鬼の私は逆療法が大好きなのだ。

 今朝は冷え込み、寒さが苦手の私は、頭痛にかまっているどころではなかった。
「明日はベンチコートを用意しろ」
 と愚妻に厳命し、ガタガタ震えながら歩きつつ、
「不幸から救われる方法は、より不幸のなかに身をおくことだ」
 と、忽然と悟った。
 寒さに震えれば頭痛はどこかに消し飛ぶのだ。

 となれば、幸不幸の定義にもよるが、
「最高の幸せは、不幸のどん底に落ちることによってのみ、獲得することができる」
 ということになる。

「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
 とは『歎異抄』に出てくる親鸞の言葉で、ざっくり意訳すれば、
「念仏以外の修行によって仏に成ることのできる私であるなら、念仏して地獄に落ちれば法然上人に騙されたと後悔もするだろう。
 しかし、私はそのような者ではなく、どのような修行もやり遂げることができないような人間なのだから、地獄こそが私の決定的な居場所なのです」

『歎異抄』のいろんな解説書を読んでも、「地獄は一定すみかぞし」が、どうもよくわからない。
 いや、理屈ではわかっているのだが、腑に落ちてこないのだ。
 
 私たちは浄土の対極に地獄を置く。
 本当に対極にあるものなのか。

 浄土と地獄は一体ではないか。

 表裏一体というのは違う。

 私たちの心に善悪が渾然一体となって棲むのと同じ。
 生死一如と同じ。
 不可分。
 浄土と地獄は一つなのだ。

 春先に「死」をテーマにした本を書くので、あいまを見て仏教関係の書籍を読み、風呂に浸かってあれこれ考をまとめているせいなのだろう。
 〆切の最中に、余計なことが脳裏に浮かんできて困ったものだが、そんなことを考えていると俄然、、地獄というものに興味が沸いてくる。

「おい、閻魔大王は、ひょっとしたら如来かも知れんぞ」
 先ほど風呂から上がって愚妻に告げると、
「何よ。なかなか出てこないから心配していたら、そんなくだらないこと考えたの」
 と怒っている。

 閻魔大王の化身が、一つ屋根の下に棲んでいることをすっかり忘れていたのだ。
 

投稿者 mukaidani : 19:47

2016年01月07日

頭痛が続く。

 頭痛が依然として治まらず、困ったものだ。
 痛いのは一向に構わないのだが、原稿を書くのに差し支える。
 で、ネットで頭痛について調べてみると、頭痛持ちの人が多いのには驚いた。
 あれこれ原因が書いてあるが、要するに「わからない」ということか。

 わからないものを考えても仕方がない。
 頭痛については忘れることにしよう。
 忘れられなければ、「頭痛が常態」であると思えばいいのだ。

 それで頭痛は解消されたか。

 されない。

 されないが、あきらめはつく。

 あきらめがつけば、イライラはしない。

 いや、「あきらめ」と言うと後ろ向きな感じがするので、「諦観」と呼ぶことにしよう。

「諦観」こそ、人生の妙薬なのである。

投稿者 mukaidani : 18:46

2016年01月02日

めざせ、隠遁生活

 カレンダーを見て驚いた。
 まだ正月2日ではないか。
 そう言えば、愚妻も昼間、そんなことを言っていた。
 年末から正月仕度でバタバタしていたからだそうだ。
 みんなが集まって賑やかに「おめでとう」もいいが、静かに迎える正月も悪くないのではないかと思ったり。

 そう言えば、
「遠からず隠遁生活に入る」
 と正月に宣言すると、娘がジロリと睨んで、
「借金があるんじゃないでしょうね」
 私は家族に信用がないのだ。

 それにしても隠遁生活をマジメに考えると、残された時間はそうはないことに気づく。
 まず、健康でなければならない。
 ヨロヨロしていたのでは風流とはほど遠く、〝爺捨て〟になってしまう。

 健康だけではダメだ。
 粋で、おしゃれで、遊びができなくては、これも〝爺捨て〟になってしまう。

 コインランドリーとか、しゃれたレストランとかを考えると、里山では具合が悪かろう。

 仕事の打ち合わせを考えれば、交通の便も気になる。

 あれこれとブツクサ言っていると、
「そういうの、隠遁とは言わないんじゃないの?」
 愚妻が鋭いことを言う。

 さっそく「隠遁生活」を辞書で引いてみると、
「世俗を離れて生活すること。世間を去って山中などに住み、仏教の修行に専心すること。また特に、自力門を離れて、浄土教の信仰に入ることもいう」
 仏教修行、それも浄土教とは私にドンピシャリではないか。

 もう何もいらん。
〝爺捨て〟で結構。
 望むところではないか。
 よし、これを人生の目標に、新たなスタートだ。

 風邪も抜けつつある(たぶん)。
 もう一日、大事を取って、明後日からウォーキングを再開しよう。

投稿者 mukaidani : 22:26

2016年01月01日

謹賀新年

 元旦から風邪である。
 昨日は、孫たち二家族が来ていたが、調子が悪く、午後7時にはベッドにもぐりこんだ。
 誰も私のことを心配しないのは、日ごろの行いのせいであろう。
「今年は好々爺にならねば」
 と反省しつつ、夢うつつのなかで朝まで頭痛と格闘していた。

 体調は悪いし、元旦くらいテレビでも観ながらゆっくりしたいところだが、スケジュールが押しているため、朝から原稿書きである。

 楽になったはずの肩胛骨のあたりの痛みがブリ返している。
 肘も、膝も、痛い。
 加齢が実感できて、これはこれで心地よいものである。

「一年計は元旦にあり」
 と言うが、一年の計どころか目前のハードルをいかに飛び越えていくか。
「東海道の赤い石」の譬えもある。
 これはこれでよしとしよう。

 改めて、「明けましておめでとう」である。

投稿者 mukaidani : 11:20