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2015年12月28日

今年も、あと4日

 怒濤の日々が続いている。
 それでも、連続して執筆するのは12、3時間が限度だ。
 朝5時から始めて、夕方6時ころで能率はガクンと落ちる。
「集中力」というエネルギーが底をつくのだろう。
 人間の身体はよく出来ている。

「年末年始はゆっくりですか?」
 と問われて、
(あっ、年末なのだ)
 と気がついた。

 医院は休みに入る。
 肩胛骨のあたりの痛みが少し楽になったので、薬をもらいに行きたいが、この医院は混んでいるので、とても待っている時間はない。
 痛みはガマンするしかないか。

 新国立競技場は納期厳守が求められているが、担当者の気持ちがよくわかる。
 担当者は、これから怒濤の日々になることだろう。

 正月は孫たちが来るそうだ。
「わしは忙しい」
 と言うと、
「あら、いなくていいのよ」
 道場へ行って仕事をしていろと愚妻は言う。

 あからさまに言われると、あまり気分がいいものではない。
「ちょっとくらいなら、相手をしてやってもよい」
「好きにして」
 不機嫌な響きがあるのだ。

 そういえば、「亭主元気で留守がいい」という言葉が流行ったことがあった。
 あれは流行語ではなく、普遍の真理を喝破したものではないか。
 ニーチェの言葉より、良寛の言葉より、グサリと心に響くのだ。

投稿者 mukaidani : 07:58

2015年12月21日

安藤昇氏、逝去。

 すでにメディアに大きく報じられたが、12月16日午後6時57分、安藤昇氏が肺炎で亡くなった。
 翌日の昼、所用があって病院にお伺いする予定になっていたこともあり、奥様からお電話を頂戴して、すぐに駆けつけた。
 体調を崩して入院されたのが11日で、回復に向かっていたとお聞きしていただけに、青天の霹靂であった。

 今月は諸々の用事があり、安藤宅に何度もお邪魔していた。
 奇しくも、本日発売の週刊アサヒ芸能で『安藤昇 90歳の遺言』と題した連載エッセイがスタートした。
 秋口に決まった企画で、タイトルは先月、安藤氏がお元気なころに了解を得て決めたものだ。
 まさか、本当に遺言になろうとは、夢にも思わないことだった。

 エッセイの内容は、安藤氏が折りに触れて私に語ってくださった言葉の意味を、私なりに解釈したものだ。
 生前を偲びつつ、しばらく続けたいと思っている。

投稿者 mukaidani : 21:36

2015年12月17日

肩胛骨が痛テテテ

 ここ2週間、左肩の下、肩胛(けんこう)骨あたりの深いところがズキンズキンと痛む。
 我慢していたが、じっとしていもズキンズキン。
 深夜に痛みで起きてしまう。

 仕事どころではなく、原稿が遅れている。
 ヤバイ。
 今朝は特に痛かったこともあり、整形外科医院で診てもらうと、頸椎の5番目が狭くなっているそうだ。

 薬を処方してもらい、「これで痛みが取れなければ注射しましょう」ということになったのだが、私が驚いたのは、
「首を後ろにそらさないようにしてください」
 という一言だった。

 最近、やたらと「スマホ首」がテレビなどで盛んに取り上げられ、警鐘が鳴らされている。
 パソコンのモニターも高目にして、目線を机と平行にするのがいいという。

 私のように長時間、パソコンに向かっている人間は、「スマホ首」には特に気をつけなければなるまいというので、モニターの高さを上げるのはもちろん、ヒマなときは首を後ろにそらせるストレッチ。

 なんと、私のいまの首は、それがよくないというのだ。

 家に帰ってそのことを愚妻に告げると、
「いつも首を後ろにそらしているから、この人、何やってるのかしらと思っていたのよ」
 愛情のカケラもないことを言うのだ。

「スマホ首」がよくないことは確かなのだろうが、その一面だけをとらえた健康法はヤバイのだ。
 これは健康法に限らず、すべてについて言えるのだろうと、また一つ勉強になった次第。

 

投稿者 mukaidani : 01:15

2015年12月13日

「安いもの」に価値なし

 中小出版社の社長に会うと、
「誰かいい人いませんかね」
 と、必ずと言っていいほど問われる。
 優秀な編集者はいないか、というわけだ。

 すると、私はこう言う。
「いますよ。ただし、その人の今の年収の三倍を払うなら」
 これで話は終わる。

 私たちは価値観を「金銭」において換算する。
「今の年収の三倍」を支払ってくれる会社は、「いい会社」だ。

 料理だってそうだ。
 たとえば、AとBのステーキを比較する場合、
「どっちがうまいか」
 という視点で比較すべきものであるにもかかわらず、Aが千円で、Bが三万円のステーキとなれば、「三万円」のほうが価値が高くなる。

 こう書くと、
「対価が価値のバロメータになるのは当たり前だ」
 という反論が出るだろう。

 ならば、私の空手道場を月謝なしにしたらどうか。
 会員は得をする。
 では、会員がどんどん入会してくるだろうか?

 来ないだろう。
 同じ指導であり、無料は金銭的に得をするにもかかわらず、「価値」は低くなるのだ。

 ここに「対価=価値」のまやかしがある。

 対価を高くすれば、価値は高くなる。
「このマフラー、十万円だぜ」
「すげえ!」
 と、こうなるのが私たちなのである。

「易きものに価値」なしと言うが、「安いもの」にも価値はないのだ。
 残念だが、私たちはそういう価値観で生きている。
 
  

投稿者 mukaidani : 00:02

2015年12月06日

ガリレオと「お浄土」

 いろんな帽子を買ったら、帽子ケースが欲しくなった。
 部屋のあちこちに散らばっていては、型崩れもするだろう。
 で、帽子ケースをいくつか買い、しまい込んだ。

 しまい込んだら、出すのが面倒になった。

 着物と同じである。

 着物を着るのはいいのだが、箪笥から出し、着たあと風を通し、そして再び畳んで箪笥にしまうのが面倒なのである。

 そんなわけで、着物は畳むことなく吊しっぱなしにしている常着のウールを着る。
 ウールは感触がよくない。
 ならば大島でもお召しでも着ればいいのたが、畳むのが面倒だ。
 だからウールになる。

 そんな、くだらないことを考えながら、今日も一日が始まった。
 65歳になったからといって、何がどう変わるわけでもない。
 変わるわけはないが、一秒一分一時間一日ごとに、身体も心も人生も確実に変わっているはずだ。 
 地球の自転を意識しないで日々を過ごすのと同じということか。

「それでも地球は動く」
 と宗教裁判で地動説を唱えたガリレオは、「地球は動く」を体感したわけではあるまい。

 理屈である。

「お浄土」を説く坊主の多くは、そんなものかもしれないと、自戒を込めて思うのである。

投稿者 mukaidani : 16:24

2015年12月02日

65歳である

 師走である。
 明日、3日で私は65歳になる。
 年金受給者である。

「思えば遠くへきたもんだ」
 といった歌詞のフレーズが脳裏をよぎり、感慨深いものがある。

 マラソンにたとえれば、35キロ地点を過ぎ、まもなく競技場に入って行くような心境といったところか。

「やれやれ」
 と、ひと息つくのではなく、これから大観衆の前でラストスパートするのだ。
 順位は関係ない。
 存分に走りきりたと思う。

 歳を取るにしたがって気力が充実してくるのは、残り時間の少なさを自覚してなのだろう。
 そうと承知しながらも、腹の底からムクムクムとファイトが涌いてくるのだ。

投稿者 mukaidani : 20:53