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2015年11月27日

愚妻は元気だ

 来年に向けて、あれこれ打ち合わせが続いている。
 昨日も、某社と都心のホテルで〆切の打ち合わせ。
 私のスケジュールが非常にタイトなので、発売日を一週間でも後ろにずらすことが可能かどうか、編集者と製作日程表をいじる。

 帰宅してから、ああでもない、こうでもないと執筆進行表の修正。
 どうしてもパスできない忘年会もある。
 年末年始は稽古が休みのため存分に仕事ができ、これはありがたい。
 愚妻も、
「家にいるとうるさいから、仕事場に籠もって」
 と言う。

 昔から、口うるさいと思っているのだろうが、亭主に対する気づかいもなく、それを堂々と口に出すところが「歳を取った」と言うのだろう。

 そのことを愚妻に告げると、
「なんとでも言ってよ」
 と動じないで、鼻歌まじり。

 安倍総理は、さかんに「女性が輝く社会」ということを言うが、少なくともわが家に限れば、愚妻は元気でピカピカに輝いているのだ。

投稿者 mukaidani : 12:43

2015年11月20日

私は亀になりたい

 今朝は曇天だったが、雨続きだったのでウォーキングに出かけた。
 6時はまだ暗く、クルマがヘッドライトを点けて走っている。
 雑林も、ずいぶん葉を落としている。
 冬の実感である。

 散歩途中で、小川に架かる橋から鴨や鯉、亀を見下ろすのを楽しみにしているのだが、今朝は鴨も亀も姿がない。

「どうしたのかしら?」
 愚妻が問うので、
「鴨は冬支度、亀は冬眠仕度に入っておる」
 と答えてから、
「わしも冬眠したい」
 と言うと、
「ダメ!」
 言下に却下である。

 自分でも何をやっているのかわからないくらい、毎日がせわしい。
 数時間がいいから、コタツにでも潜り込んで冬眠の真似事をしてみたいと思うのだが、これがなかなかできないのである。

 もう小一時間もすると稽古が始まる。
 原稿は遅れている。
 胃が痛い。

 それなのに愚妻は、
「ちょっと、粗大ゴミを捨てに行く日を決めてよ」
 とノンキなことを電話で訊いてくる。

 亀の冬眠が脳裏をよぎる。
「私は亀になりたい」
 と、マジにつぶやいてみるのだ。

投稿者 mukaidani : 16:00

2015年11月14日

「時間の借金」はしない

 一昨日は、上野の東京都美術館へ『モネ展』を観に行った。
 忙しくて、それどころではないのだが、忙しいからといって予定を取りやめるのは「時間の借金」である。
 そんなことをしていたのでは、やがて時間において〝破産〟することになる。
 そう思って『モネ展』に出かけた次第。

 平日だったが、結構な人出だった。
「やっぱりモネは絵が上手だな」
 作品の前で愚妻に言ったら、周囲の人がジロリと私を睨んだ。

 画家だもの、うまいに決まっているか。
 そんなこともあってか、美術館に行くと、愚妻はたいてい私のそばを離れて一人で観賞するのだ。

 今日は、在家仏教協会主催の講演会を聞きに出かけた。
 講師は、阿満利麿先生。
 東西本願寺に対して、厳しいことをおっしゃるので、どうしても講演を聞きたかった人だ。

 ご著書は何冊か拝読してはいるが、法然、親鸞、そして念仏についてのお話しはさすがであった。
 ことに『歎異抄』はよかった。

『歎異抄』については、前々から現代という文脈で書いてみたいと思っているのだが、視点が定まらず、発酵待ちの状態だったので、大いに参考になった。

 来春刊行で、「名僧」をテーマに、これも現代という文脈で書くことが決まっているのだが、これの参考にもなり、さすが阿満先生である。

 実を言うと、出かけるギリギリまで、中止にしようかと迷っていた。
 執筆は時間との競争状態にある。
 だが、『モネ展』同様、中止にすれば、これは「時間の借金」となる。
 そう思い直して、出かけた次第。

 行ってよかった。
 と言うよりも、行動すれば、必ずリアクションがある。
 対人関係のリアクションであったり、精神的な意味でのリアクションであったり。

「生涯青春」などと青臭いことは言わないが、人生というジャングルを鉈(なた)でハッサバッサ切り拓きながら進んでいこう。
 人生にリタイアはないのだ。

投稿者 mukaidani : 15:12

2015年11月09日

「信念」と「独善」

 昨日の日曜日は、七回忌のお勤めをした。
 いつものことだが、施主とお話しをすると、法事の先に人それぞれの人生模様が見えてくる。

 来年の執筆予定の一つに、仏教関係のものもあるのだが、机上の学問を離れ、実際の活動をとおして現場に接していくうちに、どう書くべきか迷いが生じてくる。

 教義を振りまわすのは「説く側」の視点であって、「説かれる側」の視点が抜け落ちているのではないか。
 そう考えていくと、何をどう書くか、実に難しくなってくるのだが、これも自分に課せられたハードルだろうと思っている。

 空手や古武道も同じだ。
 ややもすれば「指導する側」の視点に居着いてしまい、情熱を込めて指導すればするほど「指導される側」の視点が抜け落ちていくようだ。

 指導でも、説法でも、持論でも何でもそうだが、
「本当に、これで正しいのだろうか」
 という自分に対する懐疑がなければ、これは独善というものだろう。

「信念」と「独善」の差は紙一重に見えて、実は天地の差があるように思うのである。

 明日、一冊分の原稿を渡すので、年内、あと二冊。
 好きで書いているので苦にはならないが、
「もっとうまく書けるのではないか」
「もっと深く書けるのではないか」
 と自分を叱咤する。

 法事で、人さまの人生に真摯に接すると、甘い自分にムチが入るようだ。

投稿者 mukaidani : 01:25

2015年11月02日

考えさせられた一日

 昨朝のウォーキングは、田圃を流れる小川の堤を歩いた。
 風情は最高なのだが、夏場は草が繁り、朝露で濡れているため歩けない。
 夏場に一度、ここを歩いたのだが、靴がびしょ濡れになって愚妻が怒ったことがある。
「泥んこになった靴を洗うのは大変なのよ!」
 目を三角にしていた。

 それで、草が枯れるのを心待ちにしていた。
 万一の場合に備え、防水のウォーキングシューズも、ひそかに買ってある。
 これなら多少の朝露も大丈夫だ。

 で、昨朝、小川の堤を歩いた。
 草も枯れてきている。
 朝露は何とか大丈夫だ。

 ところが、堤なので道が凸凹している。
 転ぶと大変なので、足元ばかりを見て歩く。
 私の背後をついてくる愚妻が文句を言う。
「下ばかり見て歩いているから、景色を見られないじゃないの」

 確かにそうだ。
「その日を精一杯に生きろ」
 と仏法では教えるし、その通りだとは思うが、足元ばかり見て生きるのもどうかな、という思いがよぎる。

 日曜日に七回忌法要のお勤めを頼まれているので、頭の片隅に法話のことがあるのだろう。
 そんなことを思ったウォーキングであった。

 そのあと、昼から新宿で大学サークルの同窓会。
 先輩、後輩と会うと学生時代に返ったような気分になる。
 年に一度の催しで、心待ちにしていた。

 で、いつもはクルマを運転して出かけるが、何となく電車に乗りたくなって、電車で出かけた。
 私が立っている前の席が空いたので、隣に立つ中年女性に、
「どうぞ」
 と勧めると、
「すぐ降りますから」
 と固持する。

「坐ればいいじゃない!」
 とデカイ声で言ったら、その女性はそそくさと逃げて行った。

 私としては悪気は毛頭なく、
「遠慮なんかしないで坐ればいいんですよ」
 ということを言いたかったのだが、言い方に配慮がなく、また言葉が足りなかったということか。

 そう言えば愚妻がかねがね、
「あなたは誤解されやすいから、知らない人に話しかけないほうがいいわよ」
 と言われたことを思い出した。
 意を伝えるというのは難しいものだ。

 朝のウォーキングといい、電車の一件といい、昨日は考えさせられる一日であった。

投稿者 mukaidani : 06:25