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2015年10月29日

「世も末じゃ」

 昨日は昼食を自宅でとるため、道場の仕事場から帰宅。
 食事して、再び道場に出かける途中、下校する小学生たちとすれ違った。

「今日は」
 すれ違うたびに、私が挨拶する。
「今日は」
「今日は」
 と、低学年児童の元気な声が返ってきて、
「ハロー!」
 英語で挨拶した児童がいて、つまずきそうになった。

 子供の英語教育に熱心なのは知っているが、まさかここまでとは。
 唖然としつつ、「世も末じゃ」と私は心でつぶやいたのである。

 そういえば、長崎では南島原市にある原城の城趾跡に寄った。
 周知のように、天草四郎による「島原の乱」で一揆郡が籠城した城である。
 この乱で幕府に虐殺された一揆軍は三万七千人。
 すべての遺体は、廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められた。

 そんなことに思いを馳せながら城趾跡を散策していると、若い男女のグループがキャッキャッとはしゃぎながら、記念撮影をしていた。
「そんなものかな」
 と思いつつ、やはり「世も末じゃ」とつぶやいたのである。

投稿者 mukaidani : 11:23

2015年10月24日

生涯現役で、人生街道を走る

 明日は仕事を兼ねて長崎へ行く。
 朝一の飛行機で、日帰りである。
 そういえば数年前、長崎刑務所に受刑者の面接に行ったときも日帰りだった。
 ゆっくり長崎見物でもしたいところだが、時間がない。
「また今度」
 と思っているうちに、その機会はなかなかやってこないということになる。

 今回の行き先は雲仙近くの南島原なので、長崎空港でレンタカーを手配している。
 片道2時間ほどか。
 あわただしい一日になる。

「生涯現役」と腹をくくったのだから、忙しいのはウェルカムである。
 さて、どこまで走り続けられるか。
 人生はゴールのないマラソンであり、倒れるか、死ぬか、ギブアップしたところがゴールだ。
 さあ、猛然と走り続けよう。

投稿者 mukaidani : 20:47

2015年10月17日

時間を追いかける

 昨日は、ノンフィクションノベル執筆のため、某大学空手部OBの方々に集まっていただき、同部出身の某氏について思い出を語っていただいた。

「某」ばかりになってしまうが、現段階では、いろいろと事情もあったりで。
 うまく作品として結実すればいいが、五里霧中を歩くが如しの心もとない状況である。
 とはいえ、出版社も決まっており、溜息をついてもいられないが、やはり溜息。
 仕事も詰まっているので、何とか年末あたりから書き始められればいいのだが。

 昨日、今日と雨。
 ウォーキングは中止だ。
 以前は、雨だと何やらホッとしたものだが、いまは逆で、ガッカリ。
 習慣の恐ろしさである。

 いつぞやも書いたと思うが、何事も習慣化すれば継続できるということだ。
 継続に至るかどうかは分岐点があり、そこに行くまでは坂道を登るがごとくのつらさで、そこを超えれば楽しみ気分の下り坂になる。
 そう思って取り組むと、あまり重荷に感じないものだ。

 いま、ざっと仕事部屋を見渡すと、時計が5つある。
 尋常ではないと自分で思う。
 だが、何をしていても時刻が自然と目に入ってくるため、これは助かる。

 いま14時40分。
 幼児・1年生の稽古まであと1時間20分。
(そうだ、この間にゲラを読もう)
 と瞬時に予定が立つ。
 同時に、幼児・1年生に何を話して聞かせるか、5分ほど考えることにする。
 時計が絶えず、そして無意識に目に入るのはとても助かるのだ。

 自宅は、こうはいかない。
 愚妻がうっとうしがるのだ。
 時計を四方に置けと命じると、
「何時だっていいでしょう」
 とノンキなことを言う。
 バチ当たりも、ここに極まりなのだ。

 私は朝のウォーキングも、必ず腕時計を嵌めていく。
 時間に追われているのではない。
 時間を追いかけているのだ。
 そう思えば、溜息をつきつつも踏ん張れるのである。

投稿者 mukaidani : 14:41

2015年10月13日

濃霧の中のウォーキング

 今朝の田圃一帯は濃霧。
 ウォーキングする道を遠方に見渡せば、
「霧で道が見えないんじゃないか?」
 と心配になるほどだった。

 しかし、歩いていくと、視界は良くはないものの、道も周囲もよく見え、歩くのにまったく支障はない。

 きっと、人生もそれと同じなのだろう。
 先を見ようとすれば五里霧中。
 心配になってくるが、いざその場に到達すると、目前の道はよく見えるものだ。
 このことに気づくのが60半ばでなく、もっと早ければ、いま以上に気楽に生きて来れたのではないかと、いささか忸怩たる思いである。


 一昨日は佐倉市民空手道大会があり、市内のほか県下から600名近い選手が出場。
 盛況でありがたいことだが、これだけの規模になると審判員の数は50名以上が必要になり、県内外から応援に来ていただかなければならない。

 また、得点や記録など、各コートを担当してくださる保護者も60名ほどが必要で、これは市連各道場で用意する。

 毎年のことだが、秋の市民大会は市連あげての〝総力戦〟。
 大変だが、大変であるだけに市連は結束力が強くなる。
 一人では何もできないということを思い知らされる一日である。

 ウォーキングは個人のことなので五里霧中でも何とかなるが、大会のようにお互いが協力して事に当たるものは、「何とかなる」の楽観は許されない。

 人間関係には「責任」ということがついてまわることに、改めて思いを馳せつつのウォーキングであった。

投稿者 mukaidani : 10:09

2015年10月07日

「重版」と「コスモス」

 拙著『ヤクザは人を5秒で9割見抜く』(悟空出版)が発売一週間で重版。
 読者諸氏に感謝です。

 何しろこの出版不況で、本は売れてナンボ。
 いくら企画がよくても、あるいは良書であっても、文章が素晴らしくても、売れなければ刊行の機会はない。
 ま、そういう意味では厳しい世界ではあります。

 悟空出版の社長は大手出版社の出身。
 私とは週刊誌時代からの「戦友」で、同社は昨年立ち上げたルーキー出版社。
 私で役に立てるならと気合いを入れて執筆した本なので、発売早々の重版で、ひと安心である。

 本を出版するというのは、野球のバッターボックスに立つような気分で、三振や凡打では、たちまちスタメン落ち。
 シングルヒットをコツコツと打ちつつ、二塁打、三塁打、たまにホームランが要求される。
 楽じゃないが、それはそれで面白い世界である。

 今週は天気もよく、ウォーキング日より。
 稲を刈り取った広大な田圃(たんぼ)一面にコスモスが咲いている。
 私はコスモスが大好きなので、これはとても気分がいい。

『年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず』
 という唐詩の一節が脳裏をよぎる。

「自然界の花は、時期がくれば毎年同じように美しく開くが、それにひきかえ、人の境遇は年々変わっていく」
 と人の世の移り変わりを詠んだものだが、自然のなかを毎朝歩いていると、「無常」ということが、むしろ清々しく感じられるのである。

 本を書いてヒットを飛ばすという現実生活の格闘と、早朝散歩に無常を感じる詠嘆的な心。
 死ぬまで働いてやるというファイトと、コスモスに心を和ませるひと時。
 きっと、人間にはどちらも必要なのだろう。

投稿者 mukaidani : 12:58