« 2015年08月 | メイン | 2015年10月 »

2015年09月29日

「死ぬまで働け」

 当道場の秋期審査会も日曜日に終わった。
 今年もあと3ヵ月。
 用事も仕事も山積しているが、必要があって、「日本騎兵の父」と呼ばれる秋山好古大将のことを調べていたら、

「人間は一生働くものだ。死ぬまで働け」

 という好古(よしふる)の言葉に出くわし、思わず唸った。

 還暦以後は余生と決め、実際、そのつもりで日々を過ごしているが、
「余生だから働かなくていいということにはならないのではないか」
 と、そんな思いがよぎったのである。

 結論から言えば、余生だからこそ、真剣に、もっともっと働くべきだということである。
「働く」とは趣味に生きることではなく、社会的な意味を持つ活動ということだ。

 好々爺であってもちろん構わないし、ノンキな生活でもかまわないが、やはり人間は死ぬまで働くべきだろうと、秋山好古の言葉を噛みしめた次第。

 忙しくてしばらく畑をサボっていたが、もう一度、本格的にやってみることにした。
 原稿は、空手の指導をしながらでも、散歩しながらでも、畑をしながらでも頭のなかで書けるし、これまでもそうやってきた。
 それをもっと真剣に集中してやれば、時間はつくれるはずである。

 ネットのニュースによれば、「幸福の国」と呼ばれるブータンが、いま深刻な薬物汚染に揺れているそうだ。
 その背景として、若者の高い失業率が指摘されている。
 人生にとって「働く」ということの意味は、経済的問題だけなのだろうか。

「死ぬまで働け」
 という好古の言葉の意味は深く、そして重い。

投稿者 mukaidani : 20:08

2015年09月23日

歳を取れば達観に至る

 このところ、目がチカチカするので、眼科に行った。
 結論から言えば、眼精疲労ということだ。

 涙の流れが悪くなっている。
 加えて、パソコンと睨めっこなので、まばたきの回数が少なくなり、ドライアイのようになってしまう。

 で、処方された目薬をさす。
 楽になる。
 これはいい。
 目薬を何本か処方してもらってくるよう愚妻に命じると、
「本人が行かなきゃだめなのよ」
 と抵抗する。

「バカ者。医者が処方した目薬を、その医者から再び処方してもらうのだから、これほど確かなことはないではないか。それがイヤだと医者が言うなら、処方が間違っていたということになる」
 ということで、強引に眼科に電話させると、
「経過診察をしてからでなければ、目薬の処方は出せません」
 と言われたという。

「経過は、すこぶるよろしい」
「じゃ、行って、そう言えば」
「電話で伝えても同じではないか」
「ダメだって言ってるんだから、ダメなの」
「なぜだ」
「知らないわよ!」

 これが連休前のこと。
 さて、眼科に行って経過説明をすべきかどうか。

 世間はシルバーウィークだと浮かれているが、私は目をチカチカさせながら、パソコンと睨めっこで原稿書き。

 今日は9時から県空手道連盟の審査会があり、弟子を3人ほどクルマで連れて行ったが、会場にいる時間が惜しく、すぐに帰宅して執筆。
 2時30分、再びクルマを運転して迎えに行った。

 日曜日は、私の道場の審査会。
 50名ほどが受審するので、名簿の準備もしなくてはならない。

 そういえば、スーパー銭湯も、日帰り温泉も、とんとご無沙汰である。
 入浴も楽しめないほど忙しい人生は、きっと何かが間違っているのだろう。
 そのことはわかってはいるが、どうにもならない。
 こうして人生は、ある日、突然、終わるのだ。

 先ほど、旧知で、私より年上の元ヤクザ氏から電話をもらった。
 拙著『もうひと花の咲かせ方』を読んでくれたそうで、
「あんたが書いてあること、俺とおんなじ考えだねぇ」
 と、しきりに感心していた。

 人生の不条理に揉まれ、ある年齢に達すれば、人間はある種の達観に至るもののようだ。
 坊主の説法など所詮、自己満足に過ぎないのではないかと、このころ法話の本を読むと、そんな思いにとらわれるのである。

投稿者 mukaidani : 21:03

2015年09月18日

駅のキップ自動販売機

 今朝、浅草のホテルで知人に会うため出かけた。
 それはいいのだが、問題は帰途の浅草駅。
 電車に乗ることはめったにないので、路線図を見上げながらキップの値段を探していると、
「何かお困りですか?」
 と、若い女性の駅員さん。

 いまや浅草は国内外から人気の観光地とあって、案内係がいるのだろう。

「それが、キップの買い方がよくわからなくて」
 私は咄嗟に言った。

 私の頭のなかでは、
「降車駅までの値段がわからないので、路線図を見て探しているところです」
 と言うつもりだったが、短絡して「キップの買い方がよくわからない」と言ってしまったのである。

 案内係の女性はやさしく微笑んで、
「どちらまでですか?」
 行き先を告げると、私が手に持つ千円札に目をやりながら、
「では、ここからお札を入れて下さい」
「ハイハイ」
 入れると、
「はい、では次ぎに画面の720円のところをタッチしてください。ここ、ここですよ」

 このときハタと気づいた。
 彼女は、私が「老人」で、自動販売機の買い方を知らないと思っているのである。

 これには、さしもの私もいささかショックだったが、どうせなら遊んでやれと思って、
「ほう、画面にタッチするだけでキップが出てくるんですか?」
「そうなんですよ」
 彼女がやさしく微笑んで言う。

「どこの駅でも、やり方はおなじなんですか?」
「はい、同じです」
「便利ですな」
「ウッフフ」
 どこまでも、やさしい笑顔であった。

 そして、降車駅。
 ポケットを探ると、
「ない!」
 キップを紛失してしまっていたのだ。

「あのう、キップを落としたみたいなんですが」
 中年のオッサン駅員に言うと、
「乗車駅からの運賃をいただくことになりますので、よく探してみてください。どこかポケットに入っているんじゃないですか?」
「探すの、面倒ですからお金を払います」
「どこからですか?」
「浅草です」
「エー、浅草からですと・・・」
 料金表を見始めたので、
「720円です」
 私が言った。

 浅草駅で、〝お嬢さん駅員〟相手にくだらないことをやったので、しっかり料金を覚えてしまったのである。

投稿者 mukaidani : 16:24

2015年09月12日

「継続」と「力」

 村上春樹氏の『職業としての小説家』というエッセイを読んだ。
 読んだといっても、時間がないので、パラパラとめくり、目を惹いた箇所だけを斜め読みである。

(おっ!)
 と目を惹いたのは、彼が30年間、毎日、走り続けているという下りだ。

 走ることが健康にいいのはもちろんだが、彼は「それだけのことじゃない」として、こんなふうに記す。

《これは僕の人生にとって、とにかくやらなくちゃならないことなんだ」と自分に言い聞かせて、ほとんど理屈抜きで走りました》
《そういう思いが、いつも僕の背中を後ろから押してくれていたわけです。酷寒の朝に、酷暑の昼に、身体がだるくて気持ちが乗らないようなときに、「さあ、がんばって今日も走ろうぜ」と暖かく励ましてくれたりしました」》

「走ること」に意味や理屈を見いだすのではなく、走ることそのものを、「自分の人生において、やらなければならない行為」ととらえていることに興味をおぼえた。

 似たようなことを、一昨年、鳥取県で会ったプロ野球最年長投手の山本昌選手(中日ドラゴンズ)が言っていた。

「僕は野球には神様がいると思っているんです。小学生のころからそうでした。自分に何かを課し、それを実行することで野球は上達すると信じていた」

 その一例として山本選手は、たとえばランニングするときは、
「これを走りきらなければ上手になれないぞ」
 と自分を叱咤するのだという。
 そうすることで、きっと自分を奮い立たせていたのだろうと言った。

 行為が結果に直結するのではなく、
「自分はこのことを継続している」
 という思いが、精神的な支えになっているということなのだろう。

 このことは、私も実感としてよくわかる。
 毎朝4時30分に起きているが、最初のころは辛くて、自分を励ましてばかりだった。
 だが、これを継続するうちに、精神的な意味で張りが出てくる。

(自分はこうして毎朝4時30分に起きている)
 という思いが、精神に一本筋を通す。

 必要があって起きるわけではない。
 寝ていてもいっこうにかまわない。
 だが、「起きよう」と自分で決め、それをやり抜くことで、何かが見えてくるのである。

 実は先夜、編集者との打ち合わせのなかで、
「自分を変える方法、自分を強くする方法は、なんでもいいから継続することである」
 と、私が自分の経験から話をしたばかり。

 そんなこともあっても、村上春樹氏の一節に目がとまった次第。

「継続は力なり」
 とは使い古された言葉だが、その意味するところは奥深いのだ。

投稿者 mukaidani : 15:44

2015年09月07日

逆走車にドキリ

 昨夜は大宮支部へ指導に出かけた。
 帰りは土砂降りの雨で、前方がよく見えない。
 真ん中を鉄道が走り、その両脇に片側2車線ずつになっている。

 私が右側の車線を走っていると、前方からヘッドライトが近づいてくる。
(ン?)
 と訝(いぶか)るや、
(逆走車だ!)

 そう、前方から逆走してきたのである。

 私は咄嗟に左車線に避け、事なきを得た。
 もし対向車が、私を避けようとして右側にハンドルを切ったなら、正面衝突していた。

 よくぞ対向車は直進してくれたと安堵しつつ、
(だけど、対向車はよく避けようとしなかったな)
 と、これは何とも不思議なことだ。
「自分は正しい」
 と思い込んでいると、そうなるのかな。

 土砂降りで背後はよく見えなかったが、後続車のパッシングがバックミラーに写り、くだんのクルマは停車したようなので、事故は起きなかったのだろう(たぶん)。

 当たり前のことだが、私たちは危険と紙一重で暮らしていることを再認識した次第。
「明日の命」はマジ、わからないのである。

投稿者 mukaidani : 20:21

2015年09月03日

東京五輪なんて。

 五輪エンブレムは使用中止になったが、デザイナーの佐野研二郎氏に対するバッシングはヒッアップするばかり。
「あれに似ている、これに似ている」
 とネットはにぎやかなものだ。

 いつぞや、このブログで、
《 五輪に採用さえされなければ、トップデザイナーとして今も、これからも活躍し続けることができるだろう。
「人間は得意の絶頂でつまずく」》
 と書いたが、その思いを新たにしている。

 私は東京五輪には関心がなかった。
 昭和39年の東京五輪がそうであったように、五輪は「発展途上の国」がそれをステップにして、より発展を遂げればいい。
「いまさら東京が」
 という思いがあり、東京五輪には反対だったし、いまもそうだ。
「浮かれている場合か」
 と腹立たしくさえある。

 だけど、皮肉にも、新国立競技場とエンブレムが論議を呼び、白紙になったことで、東京五輪は大いに国民の関心を集めることになった。

「やめちまえ!」
 という声は起こらず、
「今度つくるエンブレムは」
 と、〝前向きの論議〟になっている。

「悪名は無名に勝れり」
 というが、ホントですな。

 そのうち、「アクシデントを乗り越えて成功させよう」と世論はリードされるのだろう。

 年金も、原発も、あれほど大騒ぎしておきながら、すっかりエンブレムの陰に隠れてしまった。

 大騒ぎというやつは、それが大きければ大きいほど、ひとたび関心が薄れ始めると、一気に忘れ去られてしまうのだ。

 安保法制が気になる。


投稿者 mukaidani : 13:35