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2015年06月29日

潜水艦の「隔壁」と「田中角栄」

 昨日は、千葉県北総地区の空手大会があった。
 当道場は予想以上の成績で、選手諸君はよく頑張ってくれた。
 私は〆切直前で、自宅に籠もっていたかったのだが、立場上そうもいかず、本部席で他会派の先生方と雑談しながら、頭の中で草稿を書いていた。

 これは私の特技だと思っているのだが、色んなテーマや考え事、さらに原稿を、頭の中で同時並行処理ができる。

 多分、子供のころ、潜水艦を見学に行ったことと関係があるのではないかと、このごろ思っている。

 私の郷里である呉市は海上自衛隊の潜水艦基地があって、何度か見学に行ったのだが、潜水艦は浸水に備え、こまかく隔壁で仕切られている。
 扉を閉めれば、浸水するのはその部屋だけで、沈没をまぬがれるというわけだ。

「じゃ、浸水した部屋にいる自衛官は溺れ死ぬじゃないですか」
 子供の私が心配して質問すると、
「そうですね」
 説明してくれた仕官があっさり言ったものだ。

 その記憶が鮮明に残っており、仕事や物事を処理するときに、無意識に脳の中を隔壁で仕切るイメージが浮かぶというわけである。

 ま、そんなわけで、私は潜水艦になって、仕事をしているのである。

 今朝、新刊の『人は理では動かず情で動く 田中角栄 人心収攬の極意』が重版になっというメールが、出版社からあった。

 発売2週間である。

 田中角栄という人間は「人心収攬術」の宝庫であり、前々から興味を持っていて、これも潜水艦の〝隔壁〟に閉まっておいたテーマである。

 読んで下さる人がいて、我が意を得たりの気分である。
  

投稿者 mukaidani : 11:15

2015年06月24日

わが人生は、わが手中にあり

 さる日曜日、近くの小学校体育館を借りて昇空館の演武会を行った。
 9時開始の15時終了。
 実行委員会でやってもらったので、私は椅子に座ってアクビしているうちに終わった気分である。
 今年は賑やかで楽しかった。

 プログラムを見ると、11回になっている。
 思いつきで始めた年に1回の演武会だが、いつの間にか二ケタになって11回。

 こうなると勝手なもので、欲が出てきて、これを継続させたく思ってくる。
 だが、継続しようとすると、その思いに縛られて窮屈だ。
「じゃ、やめるか」
 ということもあるかな、と思ったりもする。

 私は何でもそうだが、思いつきで始め、思いつきで手仕舞いする。
 急発進、急ブレーキ、急ハンドルだ。

『葉隠』に、「大事の思案は軽くすべし。小事の思案は重くすべし」というのがあるが、私の場合は、
「大事も小事も、みな軽く」
 というわけだ。

 愚妻はこれを「軽はずみ」と批判する。
 私もそう思う。
 だが、これからのことに対して、思慮が重ろうが浅かろうが、そんなことで正解が見つかるわけがない。
 見つかるなら、人生に失敗はあるまい。
 つまり、思慮の軽重と的中率は正比例しないというのが、私の経験則なのである。

 だから人生は軽はずみに考え、行動し、思いもかけぬ結果が訪れることに期待し、胸をときめかせたい。
 たとえ最悪の事態が訪れても、それもまた人生。
 悲観するか、笑い飛ばすか、それは私自身が決めること。
 これを称して、「わが人生は、わが手中にあり」と言うのだ。

投稿者 mukaidani : 03:14

2015年06月19日

天気予報に思う

 テレビの「お天気キャスター」に対して、いささか腹立たしく思っている。

 晴れても降っても本当はどちらでもいいのだが、雨に濡れると紬の着物は縮むことがあるので、一応、天気を気にする。

 以前、塩沢紬の単衣を着ていて、水滴がポツンと袖に降りかかり、帰宅して何気なく見やると、そこだけ縮んで凸凹になっていた。

 だから、雨が振るかどうか、前夜の天気予報は気になるというわけだが、これが腹立たしいのだ。

 予報だから外れるのは仕方がない。
 だが、外れたら一言あってしかるべきではないのか。

「明日は気温が上がりますので、熱中症に注意してください」

 したり顔で言っておきながら、翌日、曇り空になると、
「今日は過ごしやすい一日になるでしょう」
 昨日の予報は頬っかむりして、シラっとして言う。

「コラっ! 今日の予報をする前に、間違っていましたと一言あやまらんかい!」
 思わずテレビに噛みつくのである。

 昔、競馬をやっていたころ、船橋競馬場に行くと、私は興味があって予想屋の行動をずっと見ていた。

 レースが終わって予想が外れると、予想屋氏はそそくさと別の場所へ移動していく。

 そのときの雰囲気が、
(外れてヤバ!)
 という感じがよく出ていて、実に微笑ましかった。

 ところが、「お天気キャスター」には、この〝申しわけない感〟がまったくない。

 おそらく気象庁の発表をもとに、「しゃべり口」を変えてみせるだけで、
「責任は気象庁にあって、私にはありません」
 という気持ちが潜在的にあるからだろう。

 自分で考えた「予報」であるなら、競馬の予想屋氏のように、それぞれ予報は違ってくるのではないか。

「明日は気温が上がって熱中症に注意を気象庁は呼びかけていますが、私の予想では曇ると思います」
 と堂々と言ってのけ、的中率を誇ってこそのプロの「キャスター」なのだ。

「私は今週の予報は、すべて的中させました!」
 といったキャスターは出てこないものか。

投稿者 mukaidani : 15:02

2015年06月13日

「経験」という真理

 梅雨時の雨は、1週間に3日だと天気予報士がテレビでウンチを話していた。
 その他の季節は平均して週に2日の雨だから、たいした違いはない。

 それにもかかわらず、梅雨というと、毎日、雨が降っているような気がする。
 これが、先入観というやつなのだろう。

 故人になったが、土佐犬の闘犬をやっていた元ヤクザ氏が、
「オレは、自分の目で見たことしか信じない」
 とよく言っていた。

 ことに人物評は要注意で、人間関係には利害が絡むため、ウワサや評判にはバイアスがかかっている。
 だから一切耳を貸さず、自分が実際に会って話してみるまで、どんな人間であるか決めつけないというわけだ。

 つまり、先入観にとらわれないということ。

 仏教では、先入観にとらわれず、あるがままに見ることを「如実知見」と言う。
 このヤクザ氏は仏教とは無縁の人間であったが、ヤバイ橋を渡ることで体得した「真理」は、仏法にも匹敵するということか。

 イタンーネットを媒介としてバーチャルな世界に浸る私たちには、この経験というやつが欠けつつあるのように思う。

 ピケティ氏の『21世紀の資本論』を読まずとも、現実生活と格闘して得た経験則は、経済学者の知識をもしのぐのではないだろうか。

 先のヤクザ氏は全身刺青をしていたので、入浴可能なサウナは限られているため、よく一緒に千葉県某市のサウナまで出かけたものだが、折りに触れて彼が口にする「人生観」は、経験に裏打ちされているだけに、
「なるほど」
 と納得させられることが多かった。

「机上の空論」という言葉はあっても、「経験の空論」という言葉ない。
 このことを、私たちは今一度、考えてみる必要があるのではないかと、今朝、「悟りの道」ウォーキングしながら思ったのである。

投稿者 mukaidani : 09:05

2015年06月08日

習慣の恐ろしさ

 土曜、日曜は原則として早朝ウォーキングは休みだ。
 身体を休めるためではなく、お寺にお参りに行ったり、早朝から諸々の用事があるからで、4時30分起床は変わらない。

 今日は月曜だが、土、日と徹夜したので、とてもじゃないがウォーキングどころではない。
 中止にはしたのだが、「中止」というのが、どうも私の性分に合わない。

 そこで、愚妻に命じ、同じコースを夕刻ウォーキングすることにした。

 薄暮のなかを歩く。
 早朝の雰囲気に似ているため、すれ違うウォーカーにいつもの気分で、
「お早うございます!」
 と挨拶して、ギョッとさせてしまった。
 習慣とは、げに恐ろしいものなのである。

 明日は都内で打ち合わせ。
 着物は夏の薄物にするつもりでいるが、雨が残るとマズイかな。
「忙しい、忙しい」と言いながら、くだらないことも頭の隅で考えているのだ。

投稿者 mukaidani : 22:58

2015年06月06日

二元論からの脱却

 先日は、格闘技界の知人の仲立ちで、神職(宮司)の方とスピリチュアル関連の会社をやっている方とお会いした。

 私とは異分野で活躍されている方々の話は刺激的で、とても興味深いものがある。

 神道と仏教、ことに浄土真宗の教義とは相容れないものがあるが、
「どっちが正しいか」
 という視点で観たのでは、イスラム国と同じになってしまう。

 これは宗教に限らないが、「どっちが正しいか」という視点は、相手を否定することの上に自己存在が成り立つことでもある。

 正邪、黒白、善悪など、対立する二元論の視点から、いかに脱却するか。
「黒と白の境目には灰色がある」
 という物の見方をすると、世間も人生も価値観も、そして幸と不幸も、また違った様相を見せてくるようだ。

 二元論から一元論に立ち返るか、あるいは三元論へと向かっていくか。
 興味は尽きず、このあたりのことを、これから考えてみたい。

投稿者 mukaidani : 08:55

2015年06月01日

杖に気をつけよ

 今朝も橋の上で分かれ、愚妻は日陰の「煩悩の道」を、私は陽光燦々たる「悟りの道」を行く。

 早朝5時15分とはいえ、この時期の陽光燦々はちと暑いが、全身から吹き出る汗は、まさに煩悩のような気がして、実に気持ちがいい。

 汗というやつは、どんなに大量に流しても死ぬまで決して尽きることはなく、まさに煩悩はかくあらんということ気づかされる。
 これも「悟りの道」のおかげということか。

 口笛を鳴らして小鳥たちに挨拶しながら歩いていたら、前方から熟年オヤジが歩いて来る。
 手に棒を持っている。
 私も持っている。

 習性で、神経をとがらせながら、
「お早うございます」
 と用心深く挨拶を交わしつつ、熟年オヤジの棒を見やると、長めの竹の杖(つえ)だった。

 このとき私は、私がいつもウォーキングのときに手にする木刀風のステッキが、いかに周囲の人の神経にさわっているか、判然と悟ったのである。

 そういえば先日、散歩中の犬に吠えられとき、飼い主のオッサンが、
「棒を見ると咆えるんです」
 と、曖昧な笑顔を見せて言った言葉を思い出した。

 犬も、私を警戒していたのだ。

 そこで帰宅するや、ネットで、「どこから見てもステッキ」とわかるやつを探して購入した。
 私はステッキは何本か持ってはいるのだが、グリップが小さいため、握り込んでしまうと、散歩する人の遠目には木刀に見えるかもしれないと思い、グリップが傘の柄のように大きく湾曲したのを買ったのである。

 素手で歩けばよさそうなものだが、「ステッキをつきながら歩く」ということに、私は魅力を感じてるいるのだ。

 着流しか、水戸黄門の〝野袴〟で散歩したいのだが、
「そんな格好で杖ついて歩いたら、怪しい人とがいると警察に通報されるわよ」
 愚妻が頑として反対するのだ。

 まったく、早朝ウォーキングも、あれやこれやで楽ではないのだ。

投稿者 mukaidani : 14:53