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2015年05月26日

「煩悩の道」を歩く

 今朝からウォーキングの開始時間を5時15分に早めた。
 日差しが暑いと愚妻が文句を言うからだ。

 コースも修正した。
 私はこれまでどおり小川と田圃の周囲をぐるりと廻るが、愚妻は日差しを避けて、日陰の道を往復する。

 橋のところで二人は分かれ、私は右コース、愚妻は左コース。
 小川と田圃を挟んで、両者の距離は150メートルほどだろうか。

 愚妻がストックをついて歩く姿を、遠目に見る。
 チラリチラリと見やっていると、小川の向こうが煩悩にまみれた此岸(しがん)で、こちらが悟りの世界である彼岸(ひがん)のような気がしてくる。
 日陰は「煩悩の道」で、暑くとも日当たりのいいそれは「悟りの道」ということか。
 さっそく、そう命名した。

 京都には「哲学の道」があり、佐倉市には「煩悩の道」と「悟りの道」があるのだ。

「どうだ、わしは〝悟りの道〟で、お前が歩く道は〝煩悩の道〟だぞ」
 愚妻と合流し、得意になって告げると、
「ちょっと、こっちの道を歩いている人がいるんだから、大きな声で言わないでよ」
 眉間にシワを寄せた。

 かくのごとく、早朝ウォーキングでさえ、「煩悩の道」は人目を気にしながら歩くのだ。

投稿者 mukaidani : 10:20

2015年05月21日

ウォーキングの新コース

 日焼けを懸念する愚妻のために、グーグルマップで調べ、新コースを設定。
 昨朝、新コースを歩いてみたところが、
「ちょっと、こんな長い坂道、歩けないじゃないの」

 愚妻がブーブー言うので、
「ヘビだ!」
「ワーッ!」

 脅かしたら、いっぺんに元気になった。

「火事場の馬鹿力」は本当なのだ。

 ということは、自分を「火事場」に追い込めば、「馬鹿力」を発揮することができるという理屈になる。

 ならば、いかにして自分を「火事場」に追い込むか。
「この方法論は書籍企画のヒントになるのではないか」
 ピピピピッと、そんなことが閃(ひらめ)いたのだった。

 かくのごとく、行住坐臥、私の頭は、寝ても醒めても仕事をしているのだが、愚かな妻にはそこがわからず、
「なまけ者で、極楽トンボで、ワガママ放題に生きていて、あなたほど幸せな人間はいないわよね」
 と、ことあるごとにバチ当たりなことを言う。

 嘆くまい。
 いつの時代も、ホンモノは報われないのだ。

 今日は保護司会の総会と研修、そのあと懇親会。
 夜、疲れて帰宅した私に、
「ちょっと、明日のウォーキングは畑に行かない?」
 愚妻が、底抜けに明るい声で言う。

 何とかして自分を「火事場」に追い込まなくては、明朝のウォーキングは力が出そうもないのだ。

投稿者 mukaidani : 21:07

2015年05月18日

季節の移ろい

 快晴である。
 トンボが田圃の上を飛んでいる。
 鳥の囀(さえず)りが耳に心地よい。

 そういえば、太陽の昇る方角が、ずいぶん変わってきている。
 季節は確実に、そして足早に移ろっている。

 そんなことを実感しながらの早朝ウォーキングであったが、愚妻は風情とは程遠く、
「顔に日焼け止めを塗らなくちゃ」
 と、極めて現実的なことを口にしていた。

 四季の移ろいに心を遊ばせるということが、どれほど楽しいことか、リアリストにはわかるまい。


 昨日は、四十九日法要(納骨法要)を二ヶ所でお勤めした。
 読経しながらも、
「人は必ず死ぬ」
 という自明の理が、頭ではわかっていても、自分のこととは考えないでいる。

 私こそ、親鸞聖人の言う「悪人」の一人であり、阿弥陀如来が救わんとする、まさに目当てなのである。

 居直りのような気がしないでもないが、そう思うと気分がいい。
 気分がいいと、ウォーキングの足取りも弾む。
 帰宅して、湯船に浸かる。
 実に、気分がいい。

 が、気分がいいのはここまで。
 湯船で今日の予定を頭のなかで反芻すると、
「原稿」
 という二文字が脳裏を行きつ戻りつする。
 そういえば、ゲラの校正もあった。

(こうしてはおれない!)
 あわただしく湯船を飛び出したのである。

投稿者 mukaidani : 11:19

2015年05月10日

苦悩の正体見たり、枯れ尾花

 今日は朝7時から11時まで、古武道の支部合同稽古を横浜で行った。
 第1回古武道世界大会(8月1日開催/沖縄)に向けての稽古だ。
 わが昇空館から20数名がエントリーするため、指導員諸君の指導にも熱がこもる。

 3泊4日の日程なので、旅行担当者も大変だ。

 それに先立つ6月21日は、昇空館恒例の稽古発表会(支部交流演武会)があるため、各担当者も大変である。
 組織は人に支えられて存在するということを、いまさらながら痛感する。


 ウオーキングの効用か、何事においても取り掛かりが早くなった。
「早朝に起きて歩く」ということが「一日のヘソ」になるため、これに合わせて用事を手早く片づけるようになったのだろう。
 午後11時に就寝と決めてあるので、グズクズしている時間はないというわけである。

「習慣」は、なかなか直すことができない。
 言い換えれば、何事も習慣にしてしまえばいいということでもある。

 こういう発想をすると、
「世のなか、そう難しいことはないんだな」
 と思う。

 ダイエットだって、食事をガマンしようとネガティブに思うからつらいのであって、
「よし、胃を小さくしてやろう」
 とポジティブに発想すれば、これはこれで楽しいものだ。

 そういえば昔、ある人が私にこんなことを言ったことがある。
「原稿を書くと思うから、しんどくなる。プリンターで原稿を刷り出すときに、お札を刷っていると思え」

 なるほど、うまいことを言うと感心したことがある。

 人生には「苦」も「楽」も存在せず、あるのは、目前の事象をどうとらえるかの違いだけだ。
 しかるに私たちは、「苦」と「楽」が別個に存在していると錯覚してしまう。
 存在しない「苦」に悩み、存在しない「楽」を求めるとなれば、溜息だって出るだろう。

 人生の壁にぶつかったら、
「苦悩の正体見たり、枯れ尾花」
 そう嘯(うそぶ)いて、カラカラと笑い飛ばせばいいのだ。

投稿者 mukaidani : 19:39

2015年05月04日

早朝ウォーキングで考える

 早朝ウォーキングを続けている。
 5時に起き、お勤めをしてから出かけるせいか、気分的に仏教テイストを引きずっていて、周囲の風景を楽しみながらも、いろんな思いがよぎる。

 群生して咲き誇るツツジはきれいだ。
 だが、田圃の片隅に一輪、ひっそりと咲く小さな名もない花も、凛として美しい。
 無縁社会、孤独死ということが不幸の代名詞のように言われているが、そうではあるまい。
 群生するツツジより、私は一輪の花がいい。

 土手の草も花も朝露に濡れ、陽光にキラキラ輝いていて、まるで生命の息吹のようだ。
 それを見ながら歩いていると、「仏性」ということが脳裏を過ぎる。
 朝露を仏性に見立てれば、山川草木に仏性が宿るということが腑に落ちてわかるのだ。

 愚妻が、藤の花を見て「きれいね」と言う。
「いや、こっちの花のほうがいい」
 と私が田圃のあぜ道を指さすと、
「それ、草じゃないの」
 と言い返す。
「草」かそうでないかは人間が勝手に決めたもので、「草」とってはいい迷惑だろう。

 農道をクルマが走って来る。
「散歩の邪魔をしくさって、ふざけた野郎だ」
 私が毒づくと、
「あの人も用事があるのよ」
 と愚妻。
 なるほど、「ふざけた野郎」と毒づくのは、私の都合ということか。

 すれ違う〝散歩人〟に、
「お早うございます」
 と挨拶して無視されると、これも腹が立つ。
 まったくもって身勝手なもので、「ギブ・アンド・テイク」の価値観で生きている自分に気づかされる。

 早朝ウォーキングはいいものだ。

投稿者 mukaidani : 12:21