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2015年02月27日

ウォーキングを思い立つ

 ウォーキングを始めることにした。
 意味はない。
「なぜウォーキングが人気なのか?」
 ふと、そんな思いがよぎり、体験してみたくなったのである。

「おい、ウォーキングを始めるぞ」
 愚妻に命じると、
「一人でやって」
 アクビをしながら言う。

「そうか。だがな、人間は足から衰えるんだぞ。歩けなくなったら旅行に行っても難儀するぞ。飲みに行くのも難儀するぞ。健康ランドに行くのも難儀するぞ。それでもいいのか?」
「やるわ」
 ゲンキンな女なのだ。

 さっそく、愚妻用にトレッキングステッキを購入。
 キリがいいところで、3月1日の朝6時スタートと決めたころが、
「あら、天気予報は雨だわね。2日からでいいんじゃない?」
 こともなげに「先送り」を口にする。

「なぜ2月28日からと、前倒しにしないのだ」
 と叱責しようとして、やめた。

 これは性格の違いなのだ。
「違い」は認めるものであって、正すものではない。
 正そうとするから、腹も立つ。
 このことに思い至ったという次第。

 それにしても、ウォーキングを継続できるのだろうか。

 その昔、スカッシュをやろうと思い立ち、ラケットも揃えたが、 ほんの数回やっただけで、
「足が痛いわ」
 と言って愚妻はやめた。

 居合いを習うため、模擬刀も袴も、木製の槍も買いそろえたが、
「手首が痛いわ」
 と言って愚妻は途中でやめた。

 プチ断食も、愚妻はさっさとやめてしまった。

 私は「坊主」で、愚妻は「三日坊主」。
 そんなフレーズが脳裏をよぎる。
 いま、深夜の3時過ぎである。

投稿者 mukaidani : 03:12

2015年02月23日

「早着」は三文の徳

 昨日は午前中、三回忌のお勤めを頼まれ、霊園の式場へ出かけた。
 一応、地図で場所を確認はしていたのだが、新しい霊園だと聞いていたのでカーナビには出てこない。

 近くまで行けばわかるだろうと思って出かけたところが、あせった。
 当たり前のことだが、霊園がある一帯はだだっ広く、店もないので訊くことができない。
 しかも、土地勘ゼロとあって、
「ヤバ!」

 幸いにも、じゅうぶん時間を見て行ったので、グルグル走りまわっているうちに案内標識を見つけ、間に合った。

 これは週刊誌記者時代の習性で、私は約束の時間よりうんと早く現地に着く。
 インタビューに遅れると大変だし、アタフタと駆けつけるようでは、ろくな取材はできないからだ。

 だから、愚妻のように、
「エー、一時間で着くから、家を出るのは・・・」
 と、費やす正味時間で計算する神経が私には理解出来ない。

「途中でクルマがパンクしたらどうする」
「あら、パンクなんかするかしら?」
 実に呑気なことを言う。

「羽田空港に行くとき、パンクしたことがあるではないか。早めに出たからパンク修理して飛行機に間に合った」
「そんなこと、めったにないでしょ」
「空港の駐車場が満杯で入れなったこともある。飛行機の時間に遅れるので、路上に駐車して出かけたら、保管法違反で罰金を取られた」
「早く出ればいいのよ」
 バカ者が、だから早くでなければならないという話をしているのだ。

 昨日は回忌法要のあと、夕刻から成田市内で空手関係の懇親会があった。
 これも、例によって早く出かける。
 一時間ほど早く着いた。
 せっかくだからと、成田山新勝寺の参道から脇道に入って歩いてみた。
 小粋な店があり、新たな発見があった。

「早く着きすぎて時間がもったいない」
 と考えるのは間違いで、早く着きすぎるから新たな発見がある。
 早起きと同様、「早着」にも三文の徳があるのだ。

投稿者 mukaidani : 11:44

2015年02月20日

ヘンな目で見られている

 〆切の都合で、一昨日から昨日の朝6時まで22時間、パソコンに向かって原稿書き。
 久しぶりの徹夜である。
 しかも2時間ほど寝ただけで、クルマを運転して埼玉に打ち合わせに出かけた。

 さすがに疲れたので、夕方、帰宅するとマッサージ店へ。
 施術中、眠っていた。

 終わったところで起こされ、
「お疲れですね」
 と、馴染みの担当者が訊く。

「徹夜をしたんだ」
「年度末だとお忙しいんですか?」
「いや、一年中、忙しいね」
「そうですか」

 そのあと、彼は沈黙。
 私の頭がスキンヘッドで、怪しい雰囲気でもあるのか、何をやっているのか直接的には訊かないで、時折、そんな探りを入れてくる。
 私は面白がって、わざと「謎の雰囲気」で接している次第。

 そう言えば、うちの娘が中学生のころ、学校の先生に父親の職業を問われて答えられず、
「お父さんの仕事、何やってるの?」
 と、帰宅して愚妻に訊いたそうだ。

 家でゴロゴロしていたり、朝帰りしたり、地方へ飛んだり、酔っ払って帰ったり。
 父親というのは朝、電車に乗って会社に行くものだと思っている娘は、頭が混乱したのだろうと、愚妻が言っていた。

「何十年たっても、ヘンな目で近隣に見られている」
 と愚妻が非難がましく言うので、
「よし。明日から輪袈裟をして、坊さんの格好で歩いてやる」
 と言ったら、
「やめてよ。もっとヘンな目で見られるから」
 バチ当たりなコトを言うのだ。

投稿者 mukaidani : 23:59

2015年02月14日

旅行が億劫になる

 今年は旅行をどうしようか迷っている。
 年々、遠出が億劫になってくるのだ。

 それでも去年は頑張ってラスベガスに出かけた。
 喜んだのは愚妻だけで、夜を徹してスロットゲームをやっていたが、私はホテルのバスタブに浸かり、持参した本を読んでいる。
「何しに来たのよ」
 愚妻があきれるのも当然だろう。

 海外旅行は英語に難儀をする。
 だから基本的に会話はしない。
 レストランなどでペラペラペラとウェイターに語りかけられたら、私の返事は「イエス」か「オーケー」か「サンキュー」のどれかだ。

「ノー」
 と返事をすると、
「ホワイ?」
 になって、ホワイのあとには必ず理由を聞こうとしてペラペラペラペラが続くことになるが、問いかけに対して「イエス」であれば、
「ホワイ?」
 という質問は基本的にあり得ない。

 だから、ペラペペラをやられると、相手の表情をうかがいながら、余裕の表情をカマしつつ、「イエス」「オーケー」「サンキュー」を使い分けるというわけだ。

 ラスベガスのホテルで、ウェイターがニッコリ笑顔でペラペラペラをやったときは、
「オー、サンキュー!」
 笑顔を返すと、ウェイターは満足そうな顔をした(たぶん)。

「何て言ったの?」
 愚妻が小声で聞いたので、
「うん、この席は庭の景色がよく見えていいだろうって、あいつは言ったんだ」
「ホント、いい景色ね」
 私のでまかせに愚妻は納得したものだ。

 最近は、そういうことも面倒になってきた。
 さて、今年はどうしたものか。

投稿者 mukaidani : 00:12

2015年02月11日

自分に言い訳

 日曜、月曜と所用を片づけ、昨日は夕方からマッサージに行った。
 原稿が溜まっているが、まずマッサージ。
 稽古だって、準備運動から始めるのだ。

 そのあと原稿を書き始めた。
 いま深夜の2時。
 マッサージがよく効いていて眠くなってきた。

「こういうときは寝たほうが効率がいいのだ」
 と、都合よく考えるのが私流で、原稿は即座に中止。
 それに水曜日は祭日で稽古は休みだから、仕事ができるではないか。

 これもまた都合のいい考え方で、こうやって自分に言い訳しつつ、その日を暮らしていくのだ。

投稿者 mukaidani : 02:13

2015年02月06日

ワガママに生きる

「あっ、芽が出ている!」
 先日、庭で愚妻が騒いだ。

 何のことかと思ったら、「プランター畑」に植えた野菜が芽を出したのだという。
 庭を「プランター畑」にすることを、私はすっかり忘れていた。
 前へ前へと走る性分の私にすれば、「プランター畑」はとっくに過去のものになっているのである。

 プランターどころか、私は家にいても窓の外を見ることがない。
 自宅にいるときは、コタツに寝そべってアイパッドでニュースをチェックしているか、風呂に入っているかのどっちかなので、庭に目をやることもない。

 したがって、道場の仕事部屋に行こうと玄関を出て、
「ありゃ、雨か!」
 ということが、よくある。

 私は、関心があることにはトコトンこだわるが、そうでないものに対しては見向きもしないのだ。

「それって、ワガママなだけじゃないの」
 と愚妻は悪態をつくが、限られた人生、ワガママに生きなくてどうする。

投稿者 mukaidani : 00:42

2015年02月02日

「したり顔」を戒める

 後藤建二さんが、イスラム国に殺害された。
「なぜ、危険地帯に取材に行くのか」
 ということが、テレビ番組で論議されていた。

 紛争地帯の取材は不可欠であり、ここにジャーナリストの使命があることは言うまでもない。

 だが、このことを、大手メディアの人間がしたり顔で口にするのを聞くと、
「じゃ、お前が行けよ」
 と毒づきたくなる。

 戦争現場や紛争地帯で命を落とすのはフリーのジャーナリストであって、大手メディアの高給取りは、安全地帯にいて「解説」をしているだけではないか。

 若いころ、フリーライターとして、週刊誌を舞台に斬った張ったをやってきた私としては、何かにつけて「したり顔」をして見せる大手メディアには、いささかうんざりなのである。

 一介の僧侶にすぎない私が、きらびやかに着飾ったエライ坊さんたちに懐疑的な気持ちをいだくのは、そんな「出自」と無関係ではないのかもしれない。

 仏法を説くなら、市井という「紛争地帯」に飛び込み、命懸けで布教すべきではないのか。
 何事においても、戒めるべきは「したり顔」だ。
 連日、後藤建二さんのニュースに接しながら、そんなことを考えたのである。

投稿者 mukaidani : 13:37