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2015年01月27日

「死」が持つ意味を考えた

 日曜日は、都内の斎場で通夜のお勤めをさせていただいた。
 密葬で、会葬者は二十人ほどだった。
 故人から昨秋、「死んだら頼む」と直接依頼されていたもので、ご遺族にもそのことを言い残されていた。

 学者として社会的立場もあり、密葬としたのは、諸々ご遺族への配慮なのだろう。

 葬儀もお勤めする予定でいたが、前日になって遺族から連絡があり、
「通夜だけをして、葬儀は不要。近親者だけで見送るように」
 といった故人のメモが出てきたそうだ。

 今年に入って、容態がよくないと聞いていた。
 葬儀を依頼された立場としては、いつ連絡が来てもいいようにと、スケジュールにも気を配り、落ち着かない日々だった。

 以前にも、同じ経験をした。

 何事においても、「日時」が決まらないというのは落ち着かないものだが、決まれば決まったで、その日時が刻一刻と迫ってきて、やはり落ち着かないものだ。

 いずれ人間は死んでいく。
 通夜のあと、帰途のクルマのなかで、「余命宣告」ということが、唐突に脳裏をよぎる。

 このところ、取り留めのないことが、次から次へと浮かんでくる。
 肩の力が抜けてきたというのか、物事へのこだわりが少しずつ希薄になってきた自分を意識するのだが、そのせいかもしれない。

 すると不思議なもので、仕事をはじめ、いろんなことに意欲がムクムクとわき起こってくる。

 故人にアドバイスを頂戴しつつ、進めているテーマがある。
 これを何としても書きあげなければならないと、決意を新たにしたところだ。
 人間の死は、残った者に大きな意味を遺すということを、いま噛みしめるのである。
 

投稿者 mukaidani : 23:53

2015年01月23日

「正義」とは何か

 イスラム国の人質事件。
 期限の72時間が過ぎた。
 どういう結果になったか、現段階では不明だ。

「命は地球より重い」ということから言えば、身代金で命が助かるならそうすべきだろう。

 一方、アメリカは、テロリストへの身代金支払いは、すべての市民を危険にさらすとして、反対を重ねて表明した。
 これも「正しい」

 勝手に危険地帯に行った以上、それは自己責任であるという意見もあり、これも納得させられるものがある。

 身を賭してジャーナリストとしての使命を果たそうとしたという意見も、まったくそのとおりだと思う。

 視点を変えれば、それぞれが「正しい」のだ。

 すべてが正しいと言うことは、すべては正しくないということでもある。

 イスラム国は「正義」を主張する。
 アメリカも、ロシアも、中国も、韓国も、すべて「正義」がある。

 かつて大英帝国は七つの海を支配した。
 フランス、スペイン、ポルトガルは植民地で何をしたのか。

「歴史に学べ」とは、歴史を教訓にせよという意味で使われるが、それは違う。

「歴史に学べ」とは、「人間は愚かゆえ、同じことを何度でも繰り返すことを知れ」という意味に、私はとらえている。

 正義は「絶対値」ではなく、力の強い者が常にその時代の「正義」とされるのだ。

投稿者 mukaidani : 22:56

2015年01月17日

子供は残酷である

 明朝は、佐倉市空手道連盟主催の合同稽古と餅つき(鏡開き)である。
 毎年恒例で、佐倉市の公共施設「草ぶえの丘」で行われる。

 自然豊かな場所にあるのだが、それだけに体育館が寒いのだ。
 したがって、指導は若手に一任し、私など年配者たちはストーブを囲んで、
「最近の子供は稽古をせんな」
 と、勝手なことを言いながら時間をつぶすのが、これまた恒例なのである。

 年々参加者も増え、保護者同伴も多い。
 餅をつき、親子で楽しんでいただければと思う。

 夜は埼玉県の大宮支部に指導に行く。
 机の目の前に、〆切一覧表が貼ってある。
 餅をついたり、大宮まで行っている時間はないのだが、進行表をつくると、それだけでひと仕事したような気分になる。
 これが「計画の落とし穴」というやつだ。

 完璧な計画を作れば作るほど、「落とし穴」は深くなる。
 落ちたらエラいことだ。
 そうだ、インフルエンザがヤバイではないか。
 道場は、子供たちがたくさんいるのだ。

 すぐさま道場に備えつけた消毒液を手につけ、子供たちにうながしてから、
「消毒液は手につけるものであって、うがいなんかしゃダメだぞ!」
 思いついて冗談を言ったら、誰も笑わなかった。

「うがいなんか、するわけないじゃん」
 小学校低学年の女の子が冷ややかに言う。

 これが大人なら、気をつかって笑ってくれるだろうに、子供は正直というのか、実に残酷なのである。

投稿者 mukaidani : 20:45

2015年01月16日

「風刺」と「宗教」と「言論の自由」

 テロは言語道断。
「言論の自由」は保証されるべきだ。
 これは言うまでもない。

 そうとわかっていながら、フランスの政治週刊紙シャルリー・エブド襲撃は、「風刺」とは何かということについて考えさせられる。

 ためしに「風刺」の意味を辞書で引いてみると、
「社会や人物の欠点・罪悪を遠回しに批判すること。また、その批判を嘲笑的に表現すること」
 とある。

 では、「嘲笑」とは何かについて引くと、
「あざけり笑うこと」
 とある。

 さらに、「あざけり」とは何かについて引くと、
「相手をバカにしてからかうこと」
 とある。

 つまり風刺とは、
「バカにしてからかい、笑うこと」
 という意味になる。

 風刺は、ジャーナリズムにとって「寸鉄」の威力がある。
 政治家や実業家、芸能人など、世俗的な利害に絡む人たちに批判はついてまわるし、風刺されて当然だろう。

 だが、宗教に対してはどうなのだろうか。
 それがどんな宗教であれ、「信教の自由」が保証された社会において、「バカにしてからかい、笑うこと」が許されていいのだろうか。

 このたびの襲撃事件は「言論の自由」に対する挑戦とされる。
 まさしくそのとおりだ。
 だが、それは現象面であって、本質は違うところにあるのではないかと、僧籍にある私は思ってしまうのである。

 ここまで書いて、
「疲れが溜まってくると、理屈をこねる文章になる」
 ということに、ふと気づいた。

 そういえば、原稿を書いていて頭が疲れてくると、文章はくどく、理屈っぽくなる。

「読んでいただく」
 という気持ちの余裕がなくなり、「主張」が前面に出て来るからだろう。

 風刺をテーマにこのブログを書き出しながら、話がヨレているのは、
「まさに疲れている証拠だわい」
 と、ひとり納得するのである。

投稿者 mukaidani : 02:04

2015年01月13日

知恵は、汗と一緒に出てくる

 日曜日は、夕方から新宿のホテルで、わが昇空館の新年会。
 気の置けない面々と楽しい時間を過ごした。

 パーティに先立って理事会が開かれ、議決した事項についてH理事長から報告と相談をされたが、すべて一任。
 思いつきで私が余計なことを言うと、みんなに迷惑をかけるだけだ。
 新体制になったそうで、新統括本部長の手腕に期待である。

 帰宅して、朝まで原稿。
 そのため昨日は昼まで寝ていて、午後から愚妻と久しぶりにスーパー銭湯へ。
 あれやこれや企画と計画があるので、サウナで考える。
 汗がドッと出ると、それに連れて知恵もドッと出てくるような気がしてくるから不思議である。

 休憩室で、ドッと出た知恵をメモにする。
 次から次へと、あまりに出過ぎるため、メモの字がぐちゃぐちゃになってしまった。
 ノートパソコンを持参すればいいのだが、きちんと用意して臨むと知恵は出てこない。
 自分の脳ミソでありながら、天の邪鬼で、なかなか言うことをきかないのである。

 夜、資料読み。
 愚妻は、知人から頂戴した新潟の濁り酒をグイとやって、自室で高いびき。
 時計を見ると、すでに3時45分。
 何と言うことのない一日であった。

 明日は、午後から都内で打ち合わせが2つ。
 それにしても、腰が痛い。
 明日は帰宅したらマッサージにでも行くか。
 

投稿者 mukaidani : 03:46

2015年01月09日

ひそかな愉悦

 人間は、死んだらゴミになるという人がいる。
 死に意味はないという人がいる。

 そうかもしれない。

 だが親を亡くして泣きじゃくる幼子に、そんなことが言えるのだろうか。
 死は、残った者にとって意味を持つ。

 そう考えていくと、
「お浄土へ生まれ変わる」
 という言葉は、これから死んでいく人のためよりも、むしろ残された人にとって意味を持つように思うのである。

 忙しいときに、そんなことを考えることはないと思うのだが、忙しいときに限って、余計なことが次から次へと脳裏をよぎる。

「これは、忙しいことに対する精神的逃避のなのか?」
 と、これまた余計なことを考えてみたり。

 鈴木大拙の『東洋的な見方』という本が面白く、
「寝ようか、もう少し読もうか」
 と毎晩、煩悶している。
 睡眠不足は、あらかに執筆に影響するからだ。

 だがら眠ろうと思う。
 思いつつも、
「ちょっとだけ」
 と自分に言い訳し、ページをめくる。

 私のひそかな愉悦なのだ。

投稿者 mukaidani : 01:11

2015年01月07日

私は「二日坊主」

 今日は道場の「稽古始め」。
 毎年のことだが、子供たちは笑顔でやってくる。
 しばらく休んでいたため、「初心」にもどるからだ。

 ところが、笑顔はせいぜい二週間。
 やがて、
「稽古、やりたくないな」
 ということになる。

 このことから、武道では、
「初心忘るべからず」
 と教え、真宗においては、
「一つことを幾度聴聞申すとも、珍らしく、始めたるようにあるべきなり」
 と蓮如上人は説く。

 裏返せば、こう戒めなければならないところに、人間の飽きっぽさがあるということなのだろう。

 さらに裏返せば、
「飽きっぽい人ほど、人間らしい」
 ということになる。

 となれば、私は人間らしさにおいて、誰にも負けないということになる。

 すぐ飽きてしまうことを「三日坊主」と世間に言うが、私は「二日坊主」なのだ。

投稿者 mukaidani : 15:48

2015年01月03日

もう一年が終わった気分

 新年が明けて、早くも三日が過ぎた。
 壁に貼りつけた〆切一覧をニラみつけながら、一所懸命に原稿を書いているが、予定どおり行きそうもない。

 とてもヤバイのである。

 ブログを書いている場合ではないのだが、ブログ一本書く時間がないとするなら、それは間違った生き方であると思い、こうして書いている次第。

 明日は日曜日だ。
 仕事関係のメールも電話も来ないだろう。
 だが、5日の仕事始めになったら、そうはいくまい。

 一年が経つのはアッという間だと言うが、私は、もう今年一年が終わったような気分になっている。

 それに引き替え、愚妻は元気だ。
 嬉々として「プランター畑」の整備に精を出している。

 愚妻は「嬉々」、私は「危機」の正月なのだ。

投稿者 mukaidani : 20:02

2015年01月01日

世代交代の足音

 今年は『紅白』を観た。
 私にとっては、異例である。
 例年、早々と7時か8時にはベッドにもぐりこんで本を読むのだが、
「歳を拾うと、紅白が終わるまで起きていられないそうよ」
 という愚妻の一言で、
「よし!」
 と気合いを入れた次第。

 それに、歌番組を観る機会がないため、どんな歌や歌手が流行っているのか知らないこともある。

 天下の『紅白』に出場するということは、今まさに人気ということなのだろう。

 これは観なければなるまい。

 で、観た。

 愕然とした。

 知らない歌手やグループ、楽曲が相次いで登場。
「なんじゃ、こりゃ!」

 時代に取り残された自分を、まざまざと見せつけられた思いがしたのである。

 ひょいと目を転じれば、日本酒をグビとやった愚妻は、コタツで高いびき。
 なるほど、歳を拾うと『紅白』が終わるまで起きてられないというのは本当のようである。

 私はチャンネルを切り換え、将棋の番組を観た。
 ちょいとばかり、辛気臭い大晦日であった。

 今日、元旦は、孫たちがやって来た。
 昨夜は頑張って『紅白』を最後まで観たのだと、小二の孫娘が自慢する。
 舌を噛みそうな歌手やグループの名前を、こともなげに口にする。
 元旦早々にして、世代交代の足音が、私の耳の奥で響くのだ。

投稿者 mukaidani : 18:24