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2014年09月28日

思案するより歩き出せ

 今夜は埼玉県の大宮支部へ空手の指導に出かける。
 先般の秩父合宿で、支部長の体調がよくないと聞いて、
「じゃ、行こう」
 と決めたのである。

 ものぐさな私は、支部へはめったに行かないのだが、ものの弾みで、
「じゃ、行こう」
 ということが、ごくたまにあるのだ。


 空手に限らず、私の人生は、たいてい「ものの弾み」で動いている。

「大事の思案は軽くすべし。小事の思案は重くすべし」
 とは『葉隠』の一節だが、私は「大事」も「小事」も思案することなく、軽いノリでやってしまう。

 そんな私を、愚妻は「軽はずみな人間」と言う。
 そうかもしれない。

 だが、思案とは、
「不確定な未来に対して、自分の都合をもとに、あれこれ考える」
 ということに過ぎない。

 だから、迷いが生じる。
 決断できず、グズクズする。
 私は「グズグス」が大嫌いなのだ。
 
 したがって、
「じゃ、行こう」
「じゃ、やろう」
「じゃ、やめた」
 何事も即決となる。

 当然ながら、後悔することも少なくない。
 だが、思案して決断しても、後悔は常について回る。
 だったら、グズグズと迷うことはないのだ。

「大事の思案は軽くすべし。小事の思案は、もっと軽くすべし」

 グスグズと思案なんかしていないで、さっさと腰を上げて歩き出せばいいのだ。

投稿者 mukaidani : 10:04

2014年09月24日

墓参り行って思う

 昨日は、当道場の秋期審査会。
 緊張した顔というのは、大人も子供もいいものですな。
 それにしても、昔にくらべて緊張する場面が少なくなってきているように感じる。
 そういう社会になってきたのか、私が歳をとって緊張感が足りなくなってきたのか。
 審査しながら、ふと思った次第。

 審査のあと、愚妻とお彼岸の墓参り。
 広い霊園だが、たくさんの人がお参りしていた。

 坊主は「仏教離れ」を嘆くが、とんでもない。
 仏教離れではなく、寺と坊さんに愛想をつかせているだけなのだろうと、お墓に手を合わせる人々を見ていて思うのである。

 先夜は、坊さんや葬儀関係者と会って話をしたが、両者を取り巻く「時代の変化」を誰もが口にするが、ほとんどが「評論家」になっている。

 無理もあるまい。
 ことに坊さんは、伝統にあぐらをかいているため、新しい発想や視点が持てないからだ。

 私が週刊誌にいたころ、
「斬新な企画が欲しければ、人を入れ替えろ」
 と、ある先輩から教わった。

 既存の人間がいくら企画会議をやったところで、「視点」が変わらないのだから、斬新な企画など出るわけがないというのである。

 坊さんがいくら「寺離れの危機」を口にしようとも、寺離れ、坊主離れ、葬式離れはますます加速していくことだろう。

 いつの世も、時代は「傍目(おかめ)八目(はちもく)」が切り開くということを忘れてはならない。

投稿者 mukaidani : 23:50

2014年09月15日

足るを知る

 土、日は、埼玉県秩父の山中にある温泉地で合宿した。
 若者から熟年まで40名ほどが集まり、空手と古武道をみっちり稽古である。

 土曜日なんか、午前9時から夕方5時までという長丁場。
 といっても、稽古するのは指導員と会員諸氏で、館長の私は「用なし人間」。
 所在なく、ただ見ているだけだが、「傍目(おかめ)八目」とはよく言ったもので、ボーッと全体の稽古を見ているだけで、いろんな長所や欠点に気がついた。

「当事者でありながら、いかに当事者にならないか」
 というスタンスを時折とってみることの大切さを、改めて再認識した。
 それがドツボにハマらない秘訣なのだろう。

 今週は、東京スポーツ紙が、「足るを知る(小欲知足)」について取材に来る。
 ありきたりの仏教解説なら、私に取材はしないだろう。

「人間は、足るを知ることはできない」
 というのが私のスタンスだ。

 正確に言えば、
「人間は煩悩がそなわっている以上、欲から逃れることはできない。したがって、足を知るという生き方はできないが、『足るを知る』という考え方があるということなら理解できる」
 となる。

 これが、自分が自分の煩悩を「傍目(おかめ)八目」で見るということなのだ。

「なんや、わしは欲をかいとるやないか」
 と気がつくだけで、「足るを知る」に一歩近づくのである。

 そして、近づくのは一歩だけでよい。

 一歩が二歩に、二歩が三歩にという生き方こそ、まさに「足るを知る」に反するからである。

 

投稿者 mukaidani : 02:11

2014年09月09日

自分を活かす

 10月発売の拙著について、編集者からタイトルの打診があった。
 タイトルに関しては、どうしてもマズイと思うもの以外は編集者に一任である。

 正直言って、
(どうかな?)
 と思うタイトルもたまにはあるが、編集者が知恵を絞ったものだ。
 私は、その努力に敬意を表するのである。

 それにこの世界、「勝てば官軍」で、売れた本は、
「いいタイトルですねぇ」
 と周囲から賞賛されるが、売れなければ、
「タイトルが、ちょっとわかりにくいかもしれませんね」
 と言われたりする。
 タイトルは結果論である、というのが私の考え方なのだ。

 実は、人間の苗字や名前も、これと同じことが言える。

 知人の苗字は変わっていて、よくイジられていた。
「俺は苗字で人生を損している」
 と、飲むとよく歎いていたが、同じ苗字で有名人になった人間がいて、この人の場合は、苗字変わっているがゆえに世間に、よりアピールするのである。

 妙な苗字であっても、「勝てば官軍」なのだ。

 名前だけではない。
 短所も同じで、短所がトレードマークになる。
 こうした処し方を「自分を活かす」というのだ。

投稿者 mukaidani : 14:23

2014年09月04日

僧侶は「労働者」か

 先輩僧侶にお会いして、僧侶や寺院の在り方などについて雑談した。
 土曜日は、坊主仲間たちと会う。
 再来週には、永代墓を推進している友人僧侶に会う。
 また先日は、特別養護老人ホームの所長さんと会い、孤独のうちに亡くなっていく老人の現状と葬儀についてお話をうかがった。

 どういう心境の変化か、このところ「僧侶」というものについて、よく考える。

「教義」と、それを説く「僧侶の現実」とのギャップが、どうしても気になるのだ。

 ひらたく言えば、「教義」でメシを食っているのではないか、ということである。
「違う」
 という僧侶もいるだろうが、どんな立派な説教であろうとも、それがメシのタネになれば、世間では「仕事」と言うのである。

 かつて「教師は聖職」と呼ばれた。
 戦後になって、「教師も労働者」と主張するようになった。
「聖職」が「労働者」になり、「子供を教えるのは仕事」ということになった。

 僧侶も、それと同じ道をたどっているのではないか。
 読経の向こうから、
「坊主も労働者」
 という声が、私には聞こえて来るのだ。

投稿者 mukaidani : 22:07