« 2014年05月 | メイン | 2014年07月 »

2014年06月28日

「悪いクセ」は蓄積する

 空手の指導していて、気づいたことがある。
「悪いクセ」は蓄積していくということだ。

 たとえば、横着をして腰を落とさないでいると、次第にそれが蓄積していって、「腰高」が常態となってしまう。

 一方、「良いクセ」は、残念ながら蓄積しない。
 腰をきちんと落としていても、それは頑張っているからであって、気を抜けば腰は高くなり、それが続けば常態になってしまう。

 これは空手の稽古に限らず、すべてについて言えることではないか。

 悪い習慣は蓄積しても、良い習慣は蓄積しない。
 だから、自分を厳しく律しなくてはならない。

「良い習慣」は、たとえていえば、河の流れに逆らって泳いでいるようなもので、泳ぎ続けるかぎり、その場にとどまっていられるが、横着をすればたちまち下流に流されてしまう。
 昨夜、子供たちを指導していて、そんなことを思った次第。

 明日は、近くの小学校体育館で、当道場の年に一度の稽古発表会である。

投稿者 mukaidani : 09:41

2014年06月25日

ワールドカップ、敗退ですな

 日本チームが、ワールドカップ敗退。
 選手はよく頑張ったと思うが、メディアの〝無理無理ヨイショ〟は、いただけない。
 視聴率稼ぎ、部数稼ぎはわかるが、ちょっとシラケてしまうが、ま、メディアはそうしたものだろう。

 それにしても、〝無理無理ヨイショ〟には、定番パターンがある。
 先の冬期五輪でもそうだが、試合前は、
「金メダル」
 という期待をガンガン煽る。

 予選でヤバくなれば、
「まだ望みはある」
「奇蹟を信じたい」
 と、さらに煽る。

 昨夜のNHKだったか、ワールドカップ予選最下位で決勝トーナメントに進出した例をあげて、「まだまだ望みはある」とさかんに煽っていた。

 そして敗退が確定すると、
「これを糧(かて)に、次回に向けて頑張って欲しい」
 と、四年後という将来に目を転じさせ、
「それにしても、彼らはよくやった」
 と労(ねぎら)って大団円、というわけだ。

 こうした目で見ている限り、スポーツは楽しめない。
 小説だってテレビドラマだって、登場人物に感情移入するから楽しめるのであって、一歩引いて見ていたら、シラケるだけである。

 それを承知で、あえて感情移入して見ることができる人が、
「楽しみ上手」
 ということなのだろう。

 遊びと同じで、遊びはくだらないと承知しながら楽しめるかどうか。
 この視点がなく、ただ遊びを楽しんでいる人をノーテンキというのだ。

 

投稿者 mukaidani : 08:50

2014年06月21日

帰国して、やれやれ

 所用でラスベガスへ行き、昨夕帰国。
 ラスベガスは2度目だが、JALの直行便は今はなく、サンディエゴ経由である。
 これには行く前からうんざりしていたが、しょうがない。

 米国は入国のセキュリティー検査がうるさいことは承知していたが、これもしょうがない。
「ベルトを外せ」だの「靴を脱げ」だのと居丈高で、入国と同時に、
(もうアメリカへ行くのはやめよう)
 と決心した次第。

 ラスベガスは文字どおり不夜城だが、持参したノートパソコンで、夜中はせっせと原稿書き。
 私だって、不夜城なのだ。

 お陰で、帰りの飛行機は爆睡状態。
 乗り継いだサンディエゴから成田まで11時間ほどだが、目が醒めたら着陸1時間30分前。
「よくお休みでしたね」
 と、CA嬢がニッコリ笑顔で、
「まもなく軽食サービスが終わりますが、お茶漬けでもお持ちしましょうか?」

 JALも経営破綻して以後、ずいぶんサービスがよくなったようだ。
 一度、地獄を見れば、組織も人間も強くなる言うが、なるほどそうかもしれない。
 私が強くなれないのは、たぶん地獄を見ても、都合よく極楽に見てしまう性格からだろう。

 一週間の留守で、雑用山積。
 さっそく明日は成田市で空手の試合がある。
 パスしたいが、立場上、そうもいかない。
 いま手帳とニラめっこしながら、予定のやりくりである。

投稿者 mukaidani : 13:26

2014年06月14日

W杯と「お立ち台ギャル」

 サッカーW杯が始まった。
 観戦していて、理屈抜きに面白い。
 日本にもぜひ勝ってもらいたいものだ。

 ただ、これはいつも思うことなのだが、スポーツを観戦していて、
「何で面白いのだろう」
 と、つい考えてしまう。

 ボールを蹴ったり、球を投げたり打ったりすることに、どうしてここまで私たちは熱狂するのか、ということだ。

 プレイヤーは名誉と報酬がかかっているのだからわかるとしても、見ている側が、なにゆえそこまで大騒ぎするのか。

 ここが、よくわからない。

 ナショナリズムとか地元ひいきとか、代償行為とか、心理的背景はもちろん承知しているし、
「人間は遊びの動物である」
 と言われれば、そうだろうとも思う。

 でも、うんと冷静になって考えると、やっぱりヘンである。

 ことにサッカーは、試合に負けたからといって暴動まで引き起こすが、これを「社会的に糾弾する」ということは、ないのではないか。

 メディアの報道も、根底に、
「これほどW杯はすごいんです」
 という、煽(あお)りのようなものを感じてしまう。

「ちょっと、視聴者のみなさん。たかがゲームで、暴動を起こすのはヘンじゃないですか?」
 とは言わない。

 オリンピックもそうだが、スポーツの世界的イベントは経済効果がケタ違いだ。
 各国の経済界にとっても、メディアにとっても、プロパガンダの政治においても、ウェルカムなのである。

 もちろん、ニュースに接する我々も、
「へぇ、ピストルをブッ放したのか」
 と、野次馬の興味である。

 かつて、バブル景気の象徴として、派手なボディコンのミニスカート姿で扇子を振りながらディスコで踊る「お立ち台ギャル」というのがいた。

 これに対して、「良識ある世間とメディア」は眉をひそめた。
「軽薄」だとか「世も末だ」とか批判した。

 しかし、なぜサッカーW杯の熱狂は許されて、「お立ち台ギャル」のそれは批判されたのか。

 スポーツを見ていると、いろいろ考えさせられるのである。

投稿者 mukaidani : 10:26

2014年06月10日

老兵は憎まれ口を叩くのだ

 小学二年の孫娘が、愚妻にこう言ったそうだ。

「館長は、お爺さんなのに、元気だよね」

 これは、果たして私をホメているのだろうか。

「お爺さん」
 という一語が引っかかる。

「元気」
 という一語にも引っかかる。

「お爺さんなのに元気」
 という孫娘の言葉を心理分析すれば、
「館長は、お爺さん。本来ならヨボヨボしているはずだけど、なぜか元気。これって、ヘンじゃない?」
 と愚妻に問いかけたことになる。

「悪かったな、爺さんで。悪かったな、元気で」
 愚妻に毒づくと、
「バカみたい。孫の言葉に怒る人がありますか」
 そう言いつつも、嬉しそうに笑っている。

「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
 と言ったのは、確か、マッカーサー元帥がトルーマン大統領に追われたときの言葉ではなかったか。

 冗談じゃない。
 消え去ってたまるか。
 これから、ますます煩悩に磨きをかけてやる。
 老兵は死にもしなけれ、消え去りもせず。
 元気で、憎まれ口を叩くのだ。

 

投稿者 mukaidani : 21:17

2014年06月07日

講演準備で気づいたこと

 今朝、千葉県は大雨警報が出ていた。
 このところ忙しく、疲れもたまっていたので、
(じゃ、稽古が始まる夕方まで寝てるか)
 ということになるのだろうが、今日は「千葉県総合型地域スポーツクラブ」の総会があり、そこで記念講演を依頼されていた。

 テーマは「命の大切さ」で、〝僧侶色〟の強いものである。

 いい機会でもあり、ここ数日、「命」ということについて考えをめぐらせた。
「命」と「いのち」は違うという仏教的な視点は、もちろん承知はしているが、「命の大切さ」となると、これがよくわからない。

 いのちが尊いことはよくわる。
「自分のもの」でないという仏法の教えもわかる。
 大切にするという意味も理解できる。

 それでも、何となく腑に落ちないものがあるのは、
「いのちを大切にする」
 ということが、具体的にどういう生き方を言うのか、ピンとこないからだろう。

 ヤクザが抗争事件で命を懸けるのは、「いのちを大切にする」ということに反するだろう。

 ならば、宇宙飛行士はどうだ。
 彼らのチャレンジは、「いのちを大切にする」という生き方に反しないのか。

「人類のために」
 ということで正当化されるなら、「いのちを大切にする」には前提条件がつくことになる。

 それで本当に、いのちを大切にしたことになるのか。

「いのちを大切にする」
 という、誰もが口にし、その意味を疑うことのないテーマは、実に難しいということに改めて気づかされた。

「いのち」だけでない。
 私たちがその本質を深く考えることなく、日常的に用いている「当たり前の言葉」はたくさんある。

 概念として見過ごしてはなるまい。

投稿者 mukaidani : 21:35

2014年06月05日

「お坊さんですか?」

 昨日午前、ブラブラ歩いて道場の仕事部屋に向かっていると、ある家の前で、庭掃除をしていた初老の男性から声をかけられた。

「あのう、先日もお見かけしましたが、お坊さんでらっしゃいますか?」

 不意をつかれ、
「はい、そうですが」
 丁重に返事すると、
「やっぱり!」

 何がやっぱりなのか、よくわからないが、
「そうじゃないかと思っていたんですよ」
 ニコニコしながら、おっしゃったのである。

 帰宅して愚妻にそのことを告げると、
「でしょうよ。ハゲ頭で、着物を着て、袴を穿いて歩いていれば、誰が見ても、まともな人には見えないわよ」

 相変わらず、憎まれ口を叩くのである。

 そんなことがあってから、今日も、その家の前を通るとき、声をかけられるのではないかと気になる。
 坊さんと知れた以上は、肩を揺すって歩くわけにはいくまい。
 何やら世間が狭くなったような気分なのである。

投稿者 mukaidani : 16:39

2014年06月01日

空腹の深夜

 まもなく、深夜〇時。
 次作の「前書き」を書き終え、メールで送稿したところである。

 実は、今日は断食日だった。
 朝になれば、お粥が食べられる。
 楽しみである。

 そういえば、テーブルの端に、みたらし団子が置いてあった。
 これは昼に食べよう。

 断食日は、いつやるかに頭を悩ます。

 今日は、原稿やら諸々あるので断食はしたくなかったのだが、明日は取材が来るし、夜は保護観察官に同道して、対象者のアパートを訪ねる。

 明後日は都内で所用、その翌日は「話し相手ボランティア」で施設に行かなければならない。
 さらにその翌日、まだ未定だが都内で打ち合わせが入るかもしれない。
 土曜日は某所の総会で講演を頼まれているので、断食するわけにはいかない。
 日曜日は愚妻と出かける。、

 断食日を決めるのも、手帳とニラめっこなのである。

「そうまでして、何で断食するの」
 と愚妻は恨めしそうに言うが、物書きにとって体験は発想の宝庫なのだ。

 といっても、体験すればいいというのではない。
 その体験を通じて、その先にある何かに気づくこと。
 これが大事だと、空腹をかかながら、我が身に言い聞かせるのである。
 

投稿者 mukaidani : 23:46