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2014年05月30日

ハンチングを買う

 暑くなった。
 スキンヘッドは、日差しが大敵だ。
 だから、帽子やバンダナはたくさん持っているが、それでも新しいのが次々に欲しくなる。

「帽子は、一度に一つしかかぶれないのよ」
 と、愚妻はあきれるが、欲しいものは欲しいのだ。

 で、黒いシープスキンのハンチングを買った。

 先ほど、配達されたハンチングをかぶり、鏡に写して見ていると、愚妻が汗びっしょりになって帰ってきて、言った。

「ちょっと、私がこうして畑に行っているのに、あなたときたら、涼しい部屋でノンキに帽子をかぶって・・・」
「スマン、スマン」

 すぐに、あやまった。
 火は消火するもので、油を注ぐのは愚の骨頂なのだ。

「さっ、早く風呂へ入れよ」
 と気づかったまではよかったが、
「わしは、もう入ったから」
 の一語は余計だった。

 愚妻は、キッと目に力を入れて、
「いいわねよ、朝風呂に入って、帽子かぶって。私なんか、朝から畑でフーフー言っているのに」

 余計な一語で、火に油をそそいでしまい、消火活動は難航するのである。

 火事の元は、マッチ一本とは限らないのだ。

投稿者 mukaidani : 10:40

2014年05月26日

メディアの態度

 断食が開けて、ひと息ついている。
 うまいものが食いたくて、いま電話で愚妻に命じ、刺身を買いに走らせたところである。

 愚妻も断食しているので、
「はい!」
 実に明るい声であった。

 明るい声と言えば、先ほどテレビ局から電話があり、若い女性が、
「出演を含め、いろいろ話を聞きたいので会えないか」
 という打診があった。

 ナントカというバラエティ番組だったが、私が思わず微笑んだのは、
「向谷先生の本を読んだことはないんですが、ぜひお話をおうかがいしたくて」
 何とも正直なことを言うのである。

 いまそれどころではないし、バラエティ番組にマヌケ顔を見せるわけにもいかず、丁重にお断りした。

 これまでも、いろんな局から声をかけていただいたが、テレビ局(といっても、製作会社のスタッフだろうが)、みなさん、概して早口で、いっきに要件を告げる。

 これはたぶん、キメ打ちではなく、〝仕込み〟のため片っ端から電話するからだろう。
 ま、電話営業のようなものですな。

 なかには、
「出演を承諾していただいても、構成によってキャンセルになることもあります」
 と、正直な方もいたが、キャンセルになるかもしれないと言われて、時間を裂くほどヒマではないのだ。

 その点、活字メディアは丁重だ。
 昨日は『東京スポーツ』から取材依頼があった。
 拙著を読んだと前置きし、取材内容を説明した上で、さらに質問項目をメールで送ったうえで、取材に来てくれるという

 こういう対応をされると、いい記事になるよう協力しなければと思う。
 人間関係とは、そうしたものだろう。

 さて、原稿の区切りがいいところで、気分転換に、愚にもつかないブログを書きつつ、愚妻がどんな刺身を買ってくるのか、いささか気になっているところである。
  

投稿者 mukaidani : 15:37

2014年05月25日

「断食」と「自分を飼い馴らす法」

 今日は「一日断食」である。
 前回もつらかったが、今回も、いささかつらい。

 なぜだろう。

 つらつら考えるに、理由の一つは、
「今日は食べられない」
 という強迫観念ではないだろうか。

 忙しくて食事ができない日はよくあることなので、
「食べない」
 という事実が苦しいわけではない。

 この場合、
「結果として、たまたま食べなかった」
 ということに過ぎないので平気なのだが、プチ断食の場合は、
「今日一日は絶対に食べられない」
 という〝未来に対する思い〟となる。

 だから、苦しくなるのではないか。

 さらに、もう一つ。

「強制による空腹感」というものもあるだろう。

 たとえば、私の学生時代がそうだったが、カネがなくて満足に食事ができないときは、
「腹が減った」
 という思いが強くなる。

 これは「カネがない」ということからくる「強制による空腹感」であり、だから空腹がつらくなる。

 一方、散財するだけのカネを持っていながら、
「食べに行くのが面倒くさいな」
 といったときは、空腹がさほど気にならない。

 これは「強制」ではなく、
「食べようと思えば、いつでも食べられる」
 という余裕があるからだ。

 こう考えていくと、
「せねばならない」
 と自分を縛ることで奮い立たせようとするのは、感心した方法でないことがわかる。

「私は断食が大好き。断食って気分がいいな」
 と自己暗示をかけるのも一法だろう。

「自分を飼い馴らす」とは、こういうことを言うのだろうと、考えるのである。

投稿者 mukaidani : 12:28

2014年05月22日

ASKA容疑者に思う

 連日、ASKA容疑者(という呼び方も、何だかヘンだが)のことがメディアをにぎわせている。

 愚妻がワイドショーを見ながら、
「お金も、地位も、名誉もあるのに、なんでクスリなんかやるのかしらねぇ」
 と疑問を口にする。

 愚妻が言わんとするのは、
「薬物ごときと引き替えに、これまで築き上げたものを失うのは、何とバカなことか」
 という意味だ。

 単純に考え過ぎるというのか、人生を即物的に図式化してみせるのは愚妻の得意とするところだが、
「なんでASKAは?」
 という疑問は、つきつめていけば、深い意味をもっている。

 ASKAに限らず、たとえば先ごろ、女子中学生の体育着を盗みに学校に忍び込んで逮捕された、別の学校の職員がいる。
 あるいは定年を目前にして、電車で痴漢を働き、懲戒免職になる公務員もいる。

「なんとバカなことを」
 と私たちは思うが、ここが人間の摩訶不思議なところ。

 親鸞は、人間のこの摩訶不思議さを、
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
 と、すべては「縁」によると仏教的解釈をする。

 浅学の私は、もっとひらたく、
「感情は理性で抑えられない」
 と受け取る。

 感情は「煩悩」と置き換えてよい。
 煩悩を理性でコントロールできると考えるのは、人間の傲慢である。

 感情は、理性でコントロールするのではなく、理性で〝飼い馴らす〟のだ。
 そのことを説くのが、すなわち仏法ということになる。

 では、仏法は何を説いたか。
 感情は理性ではコントロールできないということである。

 言葉を変えれば、
「そうした人間の本質を知れ」
 ということになるだろうか。

 感情というコントロール不能の〝爆弾〟を抱えて生きているということに真に気づけば、日々の処し方は当然、変わってくる。

「なんでASKAはクスリをやったのか」
 という疑問を一歩進めれば、
「なんで人間が抱える〝爆弾〟に、これまで気づかないできたのか」
 ということになる。

「なんで?」
 という問いは、ASAKA容疑者でなく、自らに発するものなのである。 

投稿者 mukaidani : 14:35

2014年05月19日

悪寒と寝汗、頭がフラフラ

 土曜の夜から体調が悪くなった。
 頭がフラフラするのだ。
 クシャミも出る。
 悪寒もする。
(風邪かな?)
 と思ったが、頭のフラフラ感は、何となく気持ちが悪い。

 高血圧のクスリを飲んでいるが、このところ週刊誌が高血圧のクスリをヤリ玉にあげている。
 飲まなくていいのなら、結構な話ではないか。
(じゃ、や~めた)
 と即決するのが私流である。

 いま思えば、頭のフラフラはそのせいかもしれない。

 で、土曜は早々に寝たのだが、頭に血が上っているような感触があり、また寝汗もかいて、なかなか寝付けない。

 日曜日は朝9時に埼玉県で所用があり、友人と待ち合わせている。
 大事な用事で、キャンセルできない。
 このまま布団でゴロゴロしていたら、起きれなくなるかもしれない。

(じゃ、起きちゃえ!)
 というので3時過ぎに起き、風呂へ入る。

 どんなに具合が悪くても、私は風呂に入るのだ。

 そして予定より早く、4時30分にクルマで出発。
 高速道路のサービスエリアで2時間余り時間調整して、ジャスト9時に無事、到着した次第。

 予定を早々に切り上げ、帰宅するとすぐに寝たのだが、夕刻、起きていくと、
「明日、ウドンでいいのね?」
 と愚妻。

「何でだ」
「前準備よ。あさって、断食するって言ってたじゃないの」
「バカ者、わしは具合が悪くてフラフラしておるんだぞ」
「じゃ、やめる?」
「やる」

 こんな体調のときに断食したら、きっと身体に悪いだろうな。
「延期だ」
 と言えばいいものを、私は意地っ張りなのだ。
 いま、午前2時。
 そろそろ仕事を切り上げて寝るとするか。

 

投稿者 mukaidani : 02:06

2014年05月17日

外国人は苦手である。

 昔から、私は外国人によく話しかけられる。
 
 だから、地図を手にした外国人が歩いて来ると、
(ヤバ!)
 と逃げ腰になるが、そういうときに限って、
「ペラペラペラ」
 と何やら問いかけられるのである。

 先日も、京浜急行の品川駅のキップ売り場で、リュックを背負った青い目の若い外人男性に話しかけられた。

「JR」「新宿」
という単語が聞き取れた。
「JRに乗って新宿駅に行きたいのだが、キップ売り場はここでいいのか?」
 と問いかけているのだ(たぶん)。

 JRのキップ自動販売機は階段を上がったところにある。
 いきなり話しかけられたので、英語が浮かんでこない。
 私は階段を指さして、咄嗟に言った。

「ステップアップ!」
「サンキュー!」

 意味は立派に通じるのである。

 会話はジェスチャー混じりだから意は通じるが、英文でやりとりとなると、そうはいかない。

 私の本は、韓国や中国で何冊も訳されている。
 ありがたいことだが、今朝、読者から英文でメールがきた。
 返信をしなければならない。
「アップステップ!」
 というわけにはいかない。

 グローバル社会は、生きるに難儀するのである。

投稿者 mukaidani : 09:34

2014年05月12日

露天風呂で「傍観者」を考える

 九十九里の仕事場を引き払ったので、ときおり犬吠埼のホテルへ泊まって仕事をしている。

 犬吠埼は日本の最東端なので、天然温泉の露天風呂から太平洋が一望でき、気分がすこぶるよい。
 これで仕事がはかどれば万々歳だが、そうはならないところが人生の面白さか。

 で、いまホテル。
 昨夕、露天に浸かっていると、オッサンが入ってくるなり、
「おッ、混んでるな」
 と眉をしかめた。

 自分もまた、混んでいる原因の一人であるのに、そのことを棚に上げて、
「おッ、混んでるな」
 とは、バカなやつだ。

 バカはともかく、我が身を含め、人間は常に「傍観者」であるという事実を再認識させてもらい、オッサンに感謝である。

 そういえば週刊誌記者時代、この「傍観者」の手法をよく使ったものだ。
 たとえば人気俳優の結婚については、
「バカ騒ぎするワイドショーの低俗」
 といった記事に仕立てる。

 バカ騒ぎを笑い、「傍観者」を装いつつ、自分もまたバカ騒ぎに便乗しているという矛盾。
「おッ、混んでるな」
 と言い放ったオッサンと、いい勝負ではないか。

 これを浄土真宗的に解釈すれば、
「人間とはそうしたものだ」
 と認めることから出発するのだろう。

 ならば、愚妻は私のワガママをいつも批難するが、その原因は私にあるのではなく、
「人間とはそうしたものだ」
 と認める視点が彼女に欠けていることにある。

 だから、私はちっとも悪くない。
 これが露天風呂に浸かりつつ、私が得た結論なのだ。
 

投稿者 mukaidani : 02:45

2014年05月09日

「一笑忘却」

 昨日は、大学病院耳鼻科の診察予約をしていたが、コロリと忘れていた。
 今朝になって気がつき、あわてて電話を入れて再予約をした。

「病院に行く日を忘れるなんて、どうかしているんじゃない?」
 と愚妻はあきれているが、忙しいときは手帳を開くのが面倒で、つい記憶に頼ってしまう。
 これではいかんと、反省しきり。

 だが、なぜ診察予約を忘れたのか思い返すと、昨朝、愚妻が放った一言に原因があることがわかった。

 私が仏間でお茶を飲んでいると、愚妻が大笑いしながら私の携帯電話を手に持って入って来て、
「ブーブー鳴っているから、てっきりあなたが後ろでオナラをしたのかと思ったのよ。振り返ったら、携帯のマナーモードだったわ」
 目に涙を溜めて笑っている。

 バカな女だ。
「いくらなんでも、何発もブーブーやるか」
「そうなのよ。連続してブーブーだから、今日はすごいなって」

 愚妻のバカさ加減に、私もつい笑ってしまった。
 アッハッハと笑ったお陰で、記憶が飛んだに違いない。

「笑う門に福来たる」
 と、ことわざに言う。

 笑い飛ばせば、イヤなこともきれいさっぱり忘れてしまうという意味に私は解釈しているが、忘れるのはイヤなことだけではないということか。
「一笑忘却」
 という言葉が脳裏をよぎる。
 ご用心、ご用心。

投稿者 mukaidani : 11:08

2014年05月05日

本日は絶食

 今日は、週末断食の初日である。
 前日は消化のよいものを軽く摂(と)るのが基本だそうで、昨日は夕方にうどんを食べたきりで、本日は絶食だ。

 しかも、昨夜は執筆と仕事部屋の片付けで、今朝の五時まで道場でごそごそやっていた。
 当然ながら、腹は減る。
 だが、食べたいとは思わない。

 ガマンしているのではなく、
「食べたいと思わない」
 と決めているからだ。

 意志が強いというより、きっと自己暗示力が強いのだろう。
 もっといえば、「腹が減った自分」を楽しむのである。

 私は、たとえイヤなことや苦しいことがあっても、それを楽しむ。
 だから、「苦」は転じて「楽」となる。
 完全には「楽」になれなくとも、「苦」は少しは軽くなるのだ。

 たかが週末断食だが、やってみれば、いろんな気づきがある。
 小石だって、湖面に放れば細波(さざなみ)が立つ。
 相変わらずの日々に、たまには小石を放ってみるのも悪くはない。

投稿者 mukaidani : 12:49

2014年05月02日

週末断食

 週末断食をやることにした。
 意味はない。
 例によって、思いつきである。

 で、さっそくやり方を調べ、愚妻に提案した。
 なぜなら、断食前日の食事、断食後の食事など愚妻の協力が必要であるからだ。

「おい、週末断食をやるぞ」
「バカみたい」
「痩せるらしいぜ」
「やるわ」
 現金な女なのだ。

 だが5月、6月は外食の予定など諸々が入っている。
 手帳をニラみ、5月と6月は何とか2回の断食予定を確保する。

 初日は、明後日の日曜日。
 しかしながら、明日の土曜日は鰻屋へ行くことになっている。

「断食前日は軽い食事じゃないの?」
 愚妻が問う。
「いや」
 私は即座に断じる。
「断食初回は、しっかりと栄養を摂っておかねばならんのだ」
「そうなんだ」
「そうだ」

 でまかせだが、何事も完璧を目指してはならない。
「ま、いいか」
 の精神が大事なのだ。

投稿者 mukaidani : 10:56

2014年05月01日

人生は「逆張り勝負」

 この連休は、執筆に専念だ。
 人が遊ぶときに、私は仕事である。
 そのかわり、人が仕事するときに私は遊ぶ。

 愚妻は「ヘソ曲がり」と揶揄(やゆ)するか、そうではない。

『人の行く裏に道あり 花の山』
 という人生観の実践である。

 これは相場格言で、
「相場は人と同じ張り方をしていては儲けることはできない」
 という意味だ。

 みんなが「買い」のときには「売り」にまわり、「売り」のときには「買い」にまわれ、という心構えを説く。

 人生は「相場」のようなもので、「売り」と「買い」のタイミングを間違うと失敗する。

 言葉を変えれば、「勝負に出るか」「静観するか」の決断である。

 だが、私たちには欲がある。
 決断に理屈をつけて正当化しようとする。
 だから間違う。

 私は決断に迷ったら「逆張り」をする。
 いや、迷わなくても、常に「逆張りの人生」である。

 世間が休みのときは仕事をする。
 みんなが右へ行けば左に行く。
「乗り遅れるぞ」
 と言われれば、乗らない。
「乗るな」
 と言われれば、さっさと乗り込む。

 逆張りをして失敗したことはない。
 いや、どういう張り方をしたところで、人生、失敗はないのだ。
 なぜなら、人生に「失敗」はなく、あるのは「思惑」とのズレに過ぎないからである。

 だから、これからも「逆張り勝負」。
 ヘソ曲がりでいいのだ。
 

投稿者 mukaidani : 10:17