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2014年01月31日

ノロウィルスに苦しむ

 今週はノロウィルスに苦しんだ。
 激しい下痢と嘔吐、微熱に頭痛である。

「絶対に下に降りてきちゃダメよ。用があったらケータイで言って。トイレも二階だけよ」
 自室に閉じこもっていろ、とマスクにゴム手袋という完全防備で、愚妻が厳命する。

 丸二日、発症前夜から数えて丸三日、水だけで延々とベッドに横たわっていた。
 たまに愚妻が現れたと思ったら、
「あら、顔が小さくなったんじゃない?」
 笑顔でノーテンキなことを言う。
 笑顔は時として〝残酷な刃〟になるのだ。

 あとづけみたいだが、今年はノロウィルスに感染するのではないかと漠然とした思いがあった。
 あれこれ予定が詰まっているので、それとぶつからなければいいが、と気になっていた。
(こういう勘はバカにできないな)
 とベッドで苦しみながら思った次第。

 それにしても回復期に入った二日間、ずいぶん本を読んだし、あれこれ考えをめぐらせる時間があった。
 こうした時間がいかに貴重であるか、再発見できたのはノロウィルスのお陰である。

 人間、経験にムダなしという。
 ノロウィルスに感謝である。

投稿者 mukaidani : 12:34

2014年01月25日

日光江戸村である

 一昨日は、早朝より日光へ出かけた。
 目的は2つ。
 1つは、またぞろ時代小説を書いてみたくなったので、日光江戸村を見学することでモチベーションを高めること。
 2つ目は、雪道をクルマで走りたくなったこと。

 それで日光にしたのだ。
 雪道を歩くのだから、それ用の靴を履き、完全装備で行ったところが、
「ちょっと、雪なんかないじゃないの!」
 愚妻が批難の声をあげる。

 空は抜けるような青空で、雪はまったくなし。
 考えてみたら、日光というイメージから雪が降り積もっているものと、私が勝手に思い込んでいたに過ぎないのである。

 坂になった東照宮の参道は小石が多く、私の〝冬シューズ〟はカカトが外れてしまった。
 雪が積もっていれば、そんなことにはならなったろうに、腹立たしい限りであった。

 一方、江戸村は楽しかった。
「おっ、これが旅籠か。おっ、板敷きだな」
 私が感嘆すると、
「あら、知らなかったの」
 時代劇ファンの愚妻がエラそうに言う。

「ほう、火消しの親分衆は、こんな狭い部屋にいたのか」
「あら、知らなかったの」
 いちいち水を差すのである。

 まっ、それはそれとして、冬場に来る観光客はいないそうで、アトラクションも並ぶことなく堪能できた。

 ただ、アトラクション(芝居)が終わると、おヒネリを投げる。
 もちろん強制ではないが、観客が少ないので、投げないと目立つ。
 金額が少なすぎても申しわけない。
 芝居を観ながら、
(いくら包もうか)
 と余計なことを考えているのだ。
 まったくもって損な性分だと、つくづく思った日光であった。

投稿者 mukaidani : 23:12

2014年01月22日

着物と本田選手と日の丸と

 このところ、袴(はかま)をつけて道場の仕事部屋へ行く。
 青、茶、黒、ゴケ茶、さらに野袴(水戸黄門が穿いているやつ)を二つ加え、日替わりである。

「また、バカなご主人が袴をつけて歩いているって、近所の人が思ってるわよ」
 決まって、愚妻が悪態をつく。

「そんな批判は、一度たりとも耳にしたことがない」
「本人に面と向かって言う人なんか、いるわけないでしょ」
 これが、私が袴で出かけるときの〝お約束〟の会話である。


 安部総理が〝地球外交〟に熱心である。
 だが、着物ではなく、スーツだ。
 これが私には気に入らない。

 アラブの人たちは、サウジだろうがイラクだろうが、きちんと民俗衣装を着て公式の場に臨んでいる。
 日本人なら着物ではないか。

 ついでながら、サッカーの本田選手も、茶髪にして西洋人に同化するのではなく、「日本男児」をアピールしてもらいたい。

 私が着物に袴で歩けば、愚妻が言うがごとく近所から白い眼で見られるだろうが、本田選手が着物に袴でイタリアを闊歩したら、世界のビッグニュースだろう。

「そんなこと、知ったことか」
 と彼が言うなら、私は応援しない。
 本田選手の活躍を「日本人としての快挙」として大きくメディアが取り上げるのは、言葉を変えれば「日の丸」を背負っているからなのだ。

投稿者 mukaidani : 00:42

2014年01月20日

首と肩と背中が痛い

 昨日から首、そして肩と背中の上部が痛い。
 首の前側のスジも痛い。
 寝違いでも起こしたのだろうか。

「顔が少し赤いんじゃない?」
 愚妻に言われ、寝違いではなく、血圧のせいかもしれない。

 そう告げると、
「私も血圧が高かったころ、首が痛くて廻らなくなったものよ」
 ひとしきり思い出を口にしてから、
「気をつけてね」
 取ってつけたように言う。

 昨夜、九十九里の仕事部屋へ出かけるときのことである。

「気をつけろ、とは具体的に何を意味するのだ」
 私が厳しく追及すると、
「気をつけるというのは、気をつけることでしょう。ほかに意味があるの?」
「たとえば、スピードを出さないように気をつけて運転しなさい、とか言い方があるだろう」
「わかっているんなら、そうすればいいじゃないの」

 議論するだけ時間のムダなのだ。

 で、今日の昼間、例によって近くの旅館に出かけ、屋上の露天風呂に浸かる。
 青空を仰ぐ。
 首も肩も背中も痛い。
(あッ、長湯していて倒れたら旅館に迷惑がかかる!)

 不意に高血圧のことを思い出し、そそくさと風呂を出た次第。

 あっちが痛い、こっちが痛いで、恥ずかしい限り、

 そう言えば先日、両肩の痛みでリハビリに通っていたが、面倒くさくなり、担当の若い理学療法士に告げた。
「痛くたって、もういいよ。私の両肩は痛いもの、と思えばへっちゃらだから」

 この話を帰宅して愚妻に話すと、
「ちょっと、そんな言い方したら、療法士の人が傷つくでしょ!」

 他人には気づかいのできる愚妻が、私には、その片鱗すら見せないのである。

投稿者 mukaidani : 22:56

2014年01月16日

運気を推しはかる

「明くる空には行くべし、暮るる空には行くべからず」
 という故事がある。

 意味は、
「夜が明けようとしているときなら、暗くてもやがて明るくなるから安心して出発できる。反対に、明るくても、これから日が暮れるというときに出発するのは、危険だからやめたほうがよい」

 このことから転じて、
「先の見通しが明るいことがハッキリしていれば、無理しても断行せよ。逆に見通しが悪いときや、判断に迷うようなときは無理せず慎重に」
 ということになる。

 問題は、夜が明けようとしているのか、それとも暮れようとしているのか、その見極めである。
 これが難しい。

 私は「人間関係」をバロメーターにしている。
 新しく知り合った人、旧知で関わりが多くなってきた人を見て、
「この人たちには運気があるな」
 と思えるときは、夜が明けようとしているときである。

 反対に、
「運気がないな」
 と思う人の場合は、陽が暮れようとしているときである。

 つまり「類は類を呼ぶ」というやつで、どんな人間と関わるかによって、今の自分の運気がわかるというわけだ。

 真宗的ではないが、これは私の経験則である。

投稿者 mukaidani : 21:53

2014年01月13日

新年会に思う

 昨日は午前中、佐倉市空手道連盟の合同稽古と鏡開き。
 百人ほどの子供が先を競うようにして、餅をパクついていた。
 餅を嫌う子供がいないことに、あらためて感心する。
 餅は「主食」と同じだからだろう。

 夕刻から都内のホテルで、我が昇空館の新年会である。
 昨年までは支部長を対象とした新年会だが、今年から一般会員も含め、立食形式のパーティになった。
 にぎやかなのは結構なことだ。

 昇空館の新年会が終われば、気分的に「正月」は終わる。
 1月1日から仕事をしているが、これから1年の本格スタートである。

 とは言うものの、あと60余日もすれば桜の季節、桜が散って90日ほどで暑い夏、夏が過ぎればすぐに紅葉・・・。
 今年も瞬(またた)く間に過ぎていくのだろう。

 新年会を楽しみつつも、我が人生を眺める目は、加齢とともに醒めていくのである。

投稿者 mukaidani : 11:45

2014年01月09日

胃潰瘍の薬

 胃の痛みが治まらないので、昨日、かかりつけの医者へ行った。

「薬、飲んでも痛いですか?」
 医者が首を傾げながら言う。

「ええ、痛いです」
「ウーム。じゃ、薬を変えましょう。こっちはよく効きますよ」
「じゃ、最初からよく効く薬を出せばいいじゃないか」
 とは、もちろん言わない。

 で、愚妻に処方箋を渡して、薬をもらってこさせ、これまでどおり、ナイロン袋に仕分けさせる。
 高血圧の薬、痛風予防の薬、それにアレルギー性鼻炎の薬と盛りだくさんなので、きちんと仕分けしておかなければ頭がこんがらがってくるのだ。

 ところが、仕分けを終えた愚妻が、アッケラカンと言う。
「あら、こんなところに胃潰瘍のクスリがあるわ」

 何と、愚妻は仕分け袋に入れ忘れていたのである。
 つまり、私は暮れから胃潰瘍のクスリを飲んでいなかったのである。
 痛いはずだ。
 医者が「薬を飲んでも痛いですか?」と首を傾げるはずだ。

「バカ者! 入れ忘れるとは何事だ!」
 叱責すると、
「自分で気がつかないの」
 居直る。

「何種類も飲んでおるのだ。気がつくわけがないだろう」
「だって、あなたの胃でしょ」
 例によって、論戦はドローに持ち込まれたのである。

 新たに処方された薬は、これまでのやつより強いやつだと、薬局のオッサンが言ったそうだ。

 これまでの弱い薬を飲むか、新たな強い薬を飲むか。
 愚妻の手抜きのお陰で、新年早々、私は悩む。
 胃が悪くなるのも道理ではないか。 

投稿者 mukaidani : 21:56

2014年01月05日

今年は「ひたすら打ち込む」だ

 明日、九十九里の仕事部屋から帰宅する。
 夕刻、編集者と都内で打ち合わせがあるからだ。

 それはさておき、畑はいつ行くか。
 忙しさにかまけ、ご無沙汰して早や2ヶ月になる。
 冬場の畑はすることがないとはいえ、これはよくない。

 何しろ、このブログの題名を「日々是耕日」としたのは、日々是「好日」をもじってのことで、大地を耕しつつ人生について考え、発信するのが目的だった。

 ところが、「耕日」が「休日」になり、いまや「日々是休日」とあっっては、シャレにもなるまい。

 今年は大地に鍬(くわ)を打ち込もう。
 意味を求めず、ひたすら打ち込むのだ。

 そうだ。
 今年は、意味を問わず、理屈を振りまわさず、「ひたすら打ち込む」で生きてみよう。

 で、さしあたっていつ畑に行くか。
 手帳を開き、いま思案しているところである。

投稿者 mukaidani : 19:48

2014年01月04日

憎まれ口は健在なのだ

 新年を迎えて以後、天気のいい日が続く。
 露天風呂から見上げる九十九里の青い冬空は、何とも気持ちがいい。

 仏教的に言えば、
「天気にいい日も悪い日もなく、日々是好日」
 ということになるが、やっぱり晴天は気持ちがいい。

 氷雨には顔をしかめ、晴天には笑みを浮かべる。
 これでいいじゃないか。
 人生、一喜一憂しながら、迷いの世界で苦しむがよい。

 露天風呂の帰途、愚妻にそのことを告げると、
「悟ったようなことを言うのね」
 と嫌味を言う。

「悟ったような、ではない。悟ったのだ」
「何を悟ったのよ」
「悟れないということを悟ったのだ」
「今年もバカなことを言い続けるのね」

 悟りと無縁の愚妻が一蹴する。
 三日ぶりに顔を合わせたというのに、憎まれ口は今年も健在なのだ。

投稿者 mukaidani : 16:29

2014年01月02日

空腹と胃痛

 昨夜、九十九里の仕事場に来て、今日から仕事開始。
 ところが、暮れから胃がシクシクと痛む。
 今も痛む。
 医者から処方された胃潰瘍の薬は服用しているのだが、空腹になると痛くなってくるのだ。

 自宅にいるときは、
「痛テテテテ」
 と私が訴えると、
「ほら、早くパンを食べて」
 愚妻が買い置きのロールパンを手渡す。
 2つ、3つたべると胃が楽になるのだ。

 だから、九十九里の仕事場に行くに際して、愚妻が6個入りのロールパンを3袋用意し、
「痛くなったら、これを食べてね」

 そんなこんなで、暮れから飽食状態。

 で、今日の昼間。
 近所の旅館の露店風呂に入りに行って驚いた。
 体重が3キロも増えているではないか。

 しかし、食事の量を落とせば胃が痛む。
 食べれば体重が増える。
 矛盾である。

 人生は矛盾に満ちたものであると元より承知はしているが、この不条理を前にして、どうしたものか愚妻に電話して問うてみると、
「胃が痛いのがイヤなら食べればいいし、太るのがイヤなら食べなきゃいいのよ」
 電話しなければよかった。

投稿者 mukaidani : 20:42

2014年01月01日

早々と寝た大晦日

 3年前が午後8時、2年前が7時、そして昨年が7時30分。
 私がベッドに潜り込んだ時間である。
 過去のブログを見ると、そう書いてある。

 昨年といっても昨日のことだが、例によって孫たちが泊まりに来て騒いでいたが、私は本を持って早々にベッドに入り、ゆっくりと読書。
 まさに至福の時間であった。

 紅白歌合戦を観るもよし、お笑い番組を観るもよし。
 だが、テレビを観ない大晦日も、それはそれで楽しいものだ。

 元旦だけは仕事をパス。
 今年は2日からスタートだ。

投稿者 mukaidani : 21:05