« 2013年09月 | メイン | 2013年11月 »

2013年10月29日

露天風呂を堪能

 いま、伊豆高原。
 明日、帰宅する。

 部屋に露天風呂がついているので、3日間、朝も昼も夜も温泉を堪能した。
 ついでに仕事も堪能し、頭がクラクラする。


 一昨日、修善寺の「虹の郷」という自然公園に出かけた。
 園内に夏目漱石記念館がある。
 漱石が滞在して執筆した旅館の一室を移築したものだ。

 座敷にあがってお汁粉を注文し、漱石になった気分で和テーブルの前に胡座(あぐら)をかいていると、中年の品のいい女性が運んできて、
「失礼ですが、僧侶の方ですか?」
 剃髪に作務衣の私を見て言った。

 こうなると、胡座はちとまずかろう。
 さり気なく正座になり、言葉づかいも丁重にして、しばらく話をした。

 そういえば、栃木県の喜連川温泉の露天風呂でも、
「失礼ですが、僧侶の方ですか?」
 と、お年寄りに話しかけられ、言葉づかいも丁重にして、しばらく話をしたことがある。

 人間は、
「どう見られているか」
 ということで、自分を律するということか。

 となれば、「外見」は、中身を規定するという意味において大事ということになるのだろう。

 そんなことを露天風呂で考えつつ、雨上がりの伊豆の夜空を見上げる。

投稿者 mukaidani : 19:04

2013年10月25日

背水の陣

 明後日は伊豆に出かける。
 日帰り温泉も、毎度だとくたびれるので、たまには泊まりがけである。

 といっても、仕事持参。
 友人が書く本のお手伝いもあり、いまも尻に火がついていて、カレンダーと睨めっこである。

 だが、目の前の仕事に追われてばかりいたのでは「尺取り虫」の生き方になってしまう。

 どうしても小説にしておきたいテーマがあり、昨日はアドバイスを受けに、都内の国文学者宅を訪ねた。

 私が若いころから何くれとなく助言をちょうだいしている学者だが、何しろ鋭い質問をされるので、図書館へ行ったり下調べも必死である。

 先生はノドの手術をされ、筆談である。
 ご高齢で、達筆。
 となれば当然、読みにくく、「解読」に神経をすり減らす。
 そして帰宅すると、筆談メモをパソコンで改めて書き起こし、アドバイスを再確認。
 そんなわけで、昨日はぐったりである。

 先生の入院中を含め、こうした作業を何度か繰り返している。
 いまさらあとには引けぬ。
 いつモノになるかはともかく、「背水の陣」である。
 スボラな私にとって幸いなことである。

 ここまで、このブログを書いて、「人間の意志」の強弱について、ふと思いがよぎる。

「意志が強い人間」とは、意志そのものが強いのではなく、いかにして「背水の陣」を敷くか、その方法を知っている者のことではないか。

 あるいは「背水の陣」を敷かざるを得ないように自分を追い込むことができる者のことではないか。

「だが」
 と一方で考える。
「背水の陣を敷いたからといって、必ず勝てるとは限らない」

 そんなことを朝っぱら考えていると、〆切原稿がちっとも進まないのである。

 パンでも食って、道場の仕事部屋へ出かけようと思ってるのだが、愚妻は二階の自室から下りてこない。
 まだ夢の中か。
「背水の陣」と無縁の人生がここにある。

投稿者 mukaidani : 07:35

2013年10月20日

打率勝負

 カレンダーに目をやって、今年が平成25年であることにいまさらながら驚いた。

「平成」の時代になって、いつのまにか25年も経っているではないか。

 この調子だと、残りの人生はいくらもない。

「少年老いやすく、学成り難し」
 という言葉が脳裏をよぎる。

 さしたる志があるわけではないが、「残り時間」ということをしっかり肝に銘じ生きていかねばなるまい。

 愚妻に決意を告げると、
「そうね。遊んでばかりいないで、頑張って仕事してちょうだい」
 ドラ焼きを頬張りながら言う。
 愚妻は、どこまでもリアリストなのだ。


 出版界は依然として不況である。
「活字離れ」と言われて久しいが、携帯電話やゲームに小遣いを費やせば、本にまで手が回らないのは当然だろう。

 本が売れないとなれば、出版社は冒険をしなくなる。
「ホームランか三振」
 といった企画は通らない。

「シングルヒットは確実、うまく行けば2塁打か3塁打」
 といった企画ばかり狙う。
 打率勝負なのだ。

 私は読者諸兄のお陰で何とか打率を保っているが、これは努力の結果なのだ。
「わかるか。俺は遊んでいるように見えるかもしれんが、必死でヒットを狙っておるのだぞ」
 愚妻に念を押すと、
「デットボールって言うの? あれも一塁に行けるんでしょ?」

 野球オンチはノー天気なことを言うのだ。

投稿者 mukaidani : 17:05

2013年10月12日

「完璧」と「不完璧」

「完璧主義」の原因は、「他人の期待に応えられないかもしれない」という恐怖心だそうだ。

 先程、ネットのニュースを見ていたら、そんな記述があった。

 言われてみれば、そんな気がしないでもないが、しかしこれは「そういう人もいる」ということではないのか。

 なぜなら私は完璧主義者ではあるが、「他人の期待に応える」といったことなど眼中にないからである。

 私が完璧を目指すのは「美学」である。

 靴ひとつ脱ぐにも、ただ脱げばいいのではなく、「脱ぎ方」そして「揃え方」があるではないか。

 メシだって、ただ食えばいいのではなく、「食べ方」があるではないか。

 風呂だって、ただ入ればいいというものではないのだ。

 だから愚妻に対しても口うるさい。
「凡夫のおまえに完璧は無理だが、完璧であろうと努力することはできる」
 ことあるごとに説教するが、もとより聞く耳は持たない。

 持たないどころか、
「あなたの、どこが完璧なのよ」
 と悪口まで言うのだ。

 30センチの物差しではスカイツリーの高さを測ることができないのと同様、愚かな妻は、私の完璧さを理解することができないのである。

 そのことを、噛んで含めるように諭すと、
「バカなこと言ってるヒマがあったら、仕事をしたらどうなの」
 と毒づく。

 そのたびに、完璧主義者の私が、なぜこのような「不完璧」な女と一緒になったのだろうと考え込んでしまう。

 結婚して、まもなく40年になる(たぶん)が、愚妻はいまだ「不完璧」のまま、大手を振って堂々と生きているのだ。

 完璧なる私が心を悩ませ、不完璧なる愚妻が人生を謳歌する。
 そんなことでいいのか。

「木の葉が沈んで、石が浮く」
 という言葉が脳裏をよぎる。

 人生の不条理を、私は愚妻の生き方から教えられているのだ。

投稿者 mukaidani : 21:47

2013年10月07日

「定年」ということに思う

 60歳で、とりあえず定年。
 定年延長雇用が3年間ほどあって63歳で完全リタイア、というのが世間一般の人生スケジュールのようである。

 となれば、
「長いあいだご苦労さま」
 と、家族が労をねぎらうのは63歳ということになる。

 私は12月で63歳になる。
 あと2ヶ月で「長いあいだご苦労さま」である。

 愚妻がそのことを失念しているようなので、今日の昼、スターバックスでお茶を飲んだときに告げると、
「バカみたい。あなたに定年なんかあるわけないじゃないの」

 あきれたように言ってから、
「遊びたいだけ遊び、好き勝手に生きてきて、何が定年よ。定年になりたいのは私のほうだわよ」

 思わず出たホンネなのだろう。
 オクターブの高い声に、周囲の人が顔をあげて私たちを見る。
「バカもの!」
 と叱責したいところだが、「定年」をテーマに論戦になったのではカッコ悪い。
 私はただ、押し黙るばかりであった。


 それにしても、最近つらつら考えるに、定年とは、
「一定の年齢になったため、いま勤めていた会社を辞める」
 ということに過ぎないのではないか。

「会社を辞める」は「仕事を辞める」ということではない。
 当たり前のことだか、ここを勘違いするから、「定年」を「社会からのリタイヤ」というふうに受け取ってしまう。

「仕事」とは「社会と関わる」ことだ。
 収入の多寡ではなく、仕事を通して社会に関わり続ける生き方を、
「社会的に生きている」
 というのではないだろうか。

 したがって「定年」は決して「一丁あがり」ではない。

 そう考えると、愚妻の言い分を認めるのは癪(しゃく)ではあるが、
「あなたに定年なんかあるわけないじゃないの」
 という生き方には意味がある。

 それじゃ、このまま「現役」であり続けるか。
「ご苦労さま」なんてねぎらいはクソくらえ。
 私だって、たまには前向きに人生を考えることもあるのだ。

投稿者 mukaidani : 23:44

2013年10月02日

電車にひかれて亡くなった女性

 横浜市緑区のJR横浜線の踏切で、線路上に倒れていた年配男性を助けようとして、40歳の女性が電車にひかれて亡くなった。

「困った人を見ると、見て見ぬふりができない優しい子だった」
 と、娘を亡くした父親は語った。

「もし、私が彼女の立場だったらどうしただろうか」

 自問は、理屈ばかりを振りかざして行動の伴わない自分への鋭い批判に転じていく。

『悪性(あくしょう)さらにやめがたし、こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり』
 と、親鸞は私たちの本質を抉(えぐ)り出す。

 悪性とは、自分だけが可愛いと思う身びいきの心。蛇蝎とはヘビとサソリのことで、私たちは生まれながらにして悪性という「蛇蝎の毒針」を心に宿し、宿したまま一生を送っていくという。

 そのとおりだと思う。

 だが、その一方で、人を助けようとして亡くなっていった女性がいる。

 いろいろ考えさせられるのだ。

 

投稿者 mukaidani : 09:40