« 2012年12月 | メイン | 2013年02月 »

2013年01月30日

「玄米にせよ」

 友人から、「尿管結石には玄米がいい」という話を聞いた。
 玄米に換えてから、一度も結石にならないという。

 私は鎮痛剤アレルギーなので、結石への恐怖が常にある。
 これまで7回ほど、結石で七転八倒している。
 玄米にするだけで結石予防になるなら、これはやらない手はあるまい。

「明日から玄米にせよ」
 と、さっそく愚妻に命じると、
「ホントに食べるのね」

 ジロリとニラまれて、十数年前の記憶がフラッシュバックした。

 十数年前、ふと思い立って、
「明日から、わが家は玄米にする」
 と宣言したことがあるのだ。

 娘も息子も浮かない顔をしたが、ウムを言わせないのが私流である。

 で、その夜の夕食は玄米。
 ひと口食べて、これは私の口に合わないことがわかった。

「私だけ、これまでどおり白米にする。おまえたちは、健康にいいから玄米にせよ」
 と申し渡したところが、家族から囂々(ごうごう)の批難。

 かくして玄米食は一夜にして中止になった次第。

 愚妻の〝古い頭〟は、そのことをしっかりと覚えているのだ。

 今回、一夜にして玄米を撤回したのでは、私の沽券(こけん)にかかわる。

 そこで、
「おい。コシヒカリよりうまい玄米を買ってこい」
 と命じたところが、愚妻は目を剥いて・・・。

 そのあとのことは語るまい。

投稿者 mukaidani : 12:34

2013年01月28日

「同級生に会う」ということ

 昨日は、中央仏教学院の通信教育で3年間、一緒に勉強した仲間たちと会った。

 年齢は違えども〝同級生〟。
 同級生と会うのは楽しいものだ。

 昨年は都内で高校の同期会があった。
 これも楽しかったが、こっちは「過ぎ去った時間」に対する感慨であり、郷愁である。

 それに対して〝直近の同級生〟は、「人間関係」という〝いま現在〟の楽しさである。

 そんなことをつらつら考えてみると、私は「過ぎ去った時間」にはあまり興味をいだかない性分のようだ。

 つまり「過去を引きずらない」のである。

 もっとも、そういう性分は、愚妻に言わせれば「ノーテンキ」ということになるのだろう。

 そういえば、畑のこともコロリと忘れていた。
 今週は見に行ってみよう。


 今日の午後、房総の御宿にある古民家料理屋『愚為庵』で、先輩僧侶のF氏夫妻と待ち合わせしているが、朝から雪。

 私はスタッドレスタイヤだが、さてFさんは大丈夫だろうか。

 

投稿者 mukaidani : 11:39

2013年01月26日

大人と子供は同等?

 道場は暖房を効かせているので、椅子に座って稽古を見ているうちにウトウトとしてくる。

「あッ! 館長が寝ている!」
 と幼児ならアッケラカンと大きな声を出すが、小学生ともなれば〝気づかい〟をしてくれるのだろう。
 小声でヒソヒソと、
「館長が寝ているよ」

 しかし、自分を批難する声は、どんなに小さくても聞こえてくるものである。

 中学校の柔剣道場を借りて、大人の古武道と子供の空手を稽古をしているのだが、ここは寒い。

 だから、子供たちが準備運動をしているときは、私はベンチウォーマーを着て、毛糸の帽子に手袋で椅子に座って見ている。

 すると小学生の女子たちが、
「館長、ズルイ!」
 と批難する。

 だから、私は言うのだ。
「キミたちが風邪を引いても稽古に差し障りがないが、館長が風邪を引いたら困るだろう。館長はキミたちのために、わざわざ厚着をしておるのだ」

 子供たちは反論しようと何か言いかけるが、言葉にならない。
 当然だろう。
 私の詭弁に叶うはずがないのだ。

 それにしても、「大人」に対して「ズルイ」と、何のためらいもなく言える時代なのだ。

 子供と大人は同等。
 彼らはこのことを信じて疑わない。
 本当に、それでいいのだろうか。
 気になるのだ。

投稿者 mukaidani : 17:49

2013年01月23日

「勝利至上主義」という批判

 体罰をめぐる問題が、次第に「勝利至上主義」へと批判の矛先が向かいつつある。

「勝利至上主義」が体罰の温床になっているというわけだ。

 それは、私もあると思う。

 だが、「体罰」と「勝つこと」は別問題であることを忘れてはならない。

 スポーツがルールに則って勝敗を競うものである以上、試合は「勝利」が絶対目標である。

「高校生の場合は勝ち負けだけじゃない」
 というのは詭弁である。

 高校スポーツの延長線上にオリンピックがあるのだ。

 オリンピックで活躍した選手に国民栄誉賞を与えておいて、
「勝利至上主義はいかん」
 とは笑止千万ではないか。

「勝利至上主義」がいけないというなら、
「東京オリンピックは金、銀、銅という勝ち負けを廃止し、楽しい競技大会にします」
 とでも言って招致運動をすればよい。

 世界中が腹をかかえて笑ってくれることだろう。

 スポーツも武道も、競技に出場する以上は、勝つべく最善の努力をすべきだ。

 だが、みんなが勝てるわけではない。

 だから試合や練習に勝ち負け以外の意味を見いだすことは、もちろん大事だ。

 ただし、「勝ち負け以外に意味を見いだすこと」は、「勝つことを目的として努力すること」を否定するものではない。

 ここを混同してはなるまい。

 軽々に「勝利至上主義」と言って、したり顔での批判は謹むべきだと私は思うのである。

投稿者 mukaidani : 20:45

2013年01月21日

露天風呂で考える

 今朝、露天風呂につかっていたら、お爺さんが、
「失礼ですが、お坊さんですか?」
 と話しかけてきた。

 いつもは、作務衣か和服に金ブチ眼鏡、もしくは色つき眼鏡なので〝怪しい人〟に見られるのだが、風呂では裸。
 服装という〝予断〟がなく、スキンヘッドを手かがりに、お爺さんはそうおっしゃったのだろう。

 すると不思議なもので、しゃべり方など坊さんのように振る舞ってしまうのだ。

 これが〝怪しい人〟に見られるときは、言葉づかいや態度など、何となくぞんざいになってしまう。

 どうやら人間というやつは、良くも悪くも「どう見られているか」という〝期待〟に応えようとするもののようだ。

「悪い人間」と見られていると思えば悪く振る舞い、「良い人間」と見られていると思えば、良く振る舞う。

 こう考えると、たとえば道場の子供たちに対して、
「お前は稽古をマジメにしないからダメだ」
 と叱責すれば、〝期待〟に応えて不マジメな稽古になるのではないか。

 ホメて指導しよう。

「北風と太陽」である。

 このことに気づいただけでも、今朝の風呂は意味があったと、これは私の勝手な思いである。

投稿者 mukaidani : 19:41

2013年01月20日

明後日は雪の予報

 喜連川は、もちろん雪は降っていない。
 スタッドレスタイヤを買った私としてはガッカリ。
 それは口に出さず、
「備えあれば憂いなしだ」
 と、つとめて明るく言うが、愚妻の返事はもちろんない。

 ところが、先程のニュースでは明後日、東京でも雪が降ると伝えているではないか。

 私たちが帰るのは、まさに明後日。

「おい」
 愚妻に言う。
「帰りは雪かもしれんが、スタッドレスで安心だぞ」
「ホントだわ」
 と、愚妻の声が心なしか弾んで聞こえる。

 雪が降れば、買ったタイヤの元が取れると考えているのだろう。
 愚妻も、そしてこの私も罰当たりなのだ。

投稿者 mukaidani : 20:53

2013年01月19日

宗教離れということ

 昨日は僧侶の大先輩と、これからの浄土真宗の在り方など、喫茶店で2時間以上もお話をさせていただいた。
 触発され、また多くの気づきがあり、もっともっと真剣に取り組まなくては思いを新たにした。

 最近、「宗教離れ」ということが言われるが、孤独死や無縁社会が取り沙汰されるなど、現実において「死」はますます身近な問題になっている。

 それだけ「死」に対して関心が強くなっているはずなのに、「宗教離れ」とはどういうことだろうか。

 仏教や既存の宗教が「死」について応えていない、あるいは心の安心が得られないというのであれば、人々は何を拠り所にして「死」というものを克服しているのだろうか。

 つらつら考えるに、宗教離れ、仏教離れではなく、実相は〝寺院離れ〟であり〝教会離れ〟に過ぎないのではないか。

 そう考えていくと、寺を持たざるがゆえに、私も何かができるような気がするのだ。

 時代は急速に変わりつつある。

投稿者 mukaidani : 12:37

2013年01月17日

スタッドレスタイヤを購入

 スタッドレスタイヤを買った。
 この日曜日、愚妻と所用で、栃木県の喜連川へ出かけるからだ。

 当初、雪が降るかと思い、汽車の切符を購入していたのだが、面倒になり、電話で現地に問い合わせると、天気は東京と同じだと言う。

 つまり、雪が降ることはめったにないというわけだ。

「じゃ、クルマだ」
 と方針転換したところが、先日の大雪である。

「クルマで大丈夫かしら?」
 と愚妻が余計なことを言うので、
「じゃ、スタッドレスを買っておけ」
 と命じた次第。

 値段を聞いて、唸った。

 雪は降らないと思われる所に行くのに、大枚の出費。
 しかも、スタッドレスを履くのは、この一回きり。
 ものぐさな私には、スキーなんて趣味はないのだ。

「ホントに買うの?」
「当たり前だ」

 見栄っ張りの私は、泰然として告げたのである。

 だが、一度しか使用しないのでは、もったいない。
 思案しているうちに、ひょいと思いついた。
 雪道を何度か走れば、スタッドレスを買った意味も出てくるではないか。

 そこで、2月初旬は山梨の温泉、下旬は草津温泉へ出かけることにしたのである。

 ところが。

「仕事、大丈夫なの?」
 愚妻の言葉で、ハッと我に返る。

 〆切が続くことをコロリと忘れていた。

 だが、いまの季節にスタッドレスを使わなければ、使うときはなくなる。

 行くしかあるまい。

 それにしても、先日の大雪さえなければ、スタッドレスはもちろん買わなかったろう。
 雪が悪いのか、それとも、
「クルマで大丈夫かしら?」
 と余計なことを口走った愚妻が悪いのか。

 まったくもって迷惑な雪なのだ。

投稿者 mukaidani : 13:10

2013年01月16日

「ニワトリ」と「タマゴ」

 最新刊『人はカネで9割動く』の文庫本が、発売一週間で重版。
 なかなか快調である。

 本書は以前、ダイヤモンド社で刊行した単行本を、光文社で文庫化したもの。ダイヤで出したときもよく売れたが、文庫でも売れてくれて結構なことだ。

 ついでながら、同じく光文社で文庫化した『ヤクザ式 ビジネスの「かけひき」で絶対に負けない技術』が8刷りになったとの知らせ。
 これも、大いに結構。
 読者とは、ありがたいものである。

 どの作品も同じように労力をかけ、同じように「これは売れる」と思って書いているが、結果はいろいろ。

 ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たるとは言うけれど、当たらなければ数を撃たしてもらえないし、撃たせてもらえなければ当たることもない。

 反対に、当たればどんどん撃たせてもらえるし、どんどん撃てば当たる確率も高くなる。

 ニワトリが先か、タマゴが先か。

 人生は悩ましいものである。

投稿者 mukaidani : 13:43

2013年01月14日

「まだ2週間」という思い

 昨日は、佐倉市空手道連盟主催の「合同稽古と鏡開き」。
 夕方から新宿の中華レストランで、昇空館支部長新年会。

 正月からこっち、締め切りがあったり、仕事の打ち合わせがあったり、保護観察対象者の来訪や往訪があったり、何となくめまぐるしい日々が続き、年が明けて、まだ2週間しか経っていないことに驚く。
 
「1年が経つのが早い」という思いと、「まだ2週間しか経っていない」とう思いは相反するもの。
 これはどういうことだと、しばし考え、
「人間は身勝手なもの」
 と結論する。

 要するに、その時々で、整合性のない不満を口にするということである。

 今日は午後から九十九里の温泉健康ランドへ出かける。
 のんびり湯船につかるのは愚妻だけで、私はノートパソコン持参。休憩室で、せっせと原稿書きだ。

 天気予報は雨。
 雪になるかもしれないという。
   

投稿者 mukaidani : 10:57

2013年01月11日

野菜の高騰

 畑にご無沙汰。
 毎日があわただしく、畑に行く気分になれない。
 家庭菜園は〝余計なこと〟だけに、時間と気持ちに余裕がなければできないことが、よくわかる。

 それに、寒いし。
 私は寒いのが大嫌いなのだ。

 とは言うものの、畑を放っておくわけにはいかない。
 大指南役のS氏の手前もある。
 だが、愚妻に「行け」と命じても、「はいそうですか」と返事するわけがない。

 どうしたものかと思案していると、野菜高騰のニュースである。
 これだ。

「おい、野菜が高いぞ!」

 この一言で、愚妻の目がキラリと光った(多分)。

「うちの畑のネギはどうなっている? ホウレンソウはどうだ?」
「行ってみようかしら」
「すぐ行け」
 と言ったのでは、芸が甘い。

「寒いぞ」
 と、軽くブレーキをかけるのがポイント。

「大丈夫よ」
「スーパーで買ってもいいんだぞ」
「そんな、もったいない!」
「そうか」
「そうよ」

 かくして愚妻は勇躍、畑に出かけて行ったのである。

投稿者 mukaidani : 09:38

2013年01月09日

「説教」の空振り

 今日は稽古始め。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」
 という言葉を例にあげて、小学生たちに説教した。

「男の子は三日も会わないでいると驚くほど成長しているものだ」
 という意味だが、道場には女子もいるので、

「人間、三日会わざれば刮目して見よ」
 と言い換えて話した。

「冬休みのあいだに、少しは成長したかと思ったが、変わらんな」
 という文脈でこの言葉を用い、
「成長しなければダメだぞ」
 という励ましの逆説だが、小学生には、ちと難しかったようだ。

「なんで三日なの?」
「じっと見ていたら、変わったどうかわかるの?」

 そんな質問と疑問を口々にした末に、
「館長は、いつも分けがわからないことばっかり言うんだから」
 小5の女子の一言で、みんなが口をそろえて、
「そうだ、そうだ」
 の大合唱。

 なにやら旗色が悪くなったので、早々に説教を打ち切る。

 せっかく励まそうと思ったのに、いまの子供たちは難しい。
「考えること」を教えたくて、そんな言い方をしているのだが、もってまわった言い方や、逆説は通じないのである。

投稿者 mukaidani : 20:07

2013年01月06日

「舞台裏」は隠すもの

 夕方に脱稿後、健康ランドへ出かける。

 ひと風呂浴びてロビーに出ると、若者が熱心にスマホをいじっている。
 彼の顔をひょいと見て、
(あっ、お面をかぶっている!)

 と思ったのは錯覚で、何と顔パックをしていたのである。

 しょうもないヤツだ。

 顔パックが悪いというのではない。
 公衆の面前でする、その神経がよくわからないのだ。

 電車で化粧をする娘さんも同じ。

「舞台裏」は隠すもので、人様に見せるものではない。

《ただ見れば 何の苦もなき水鳥の 足に暇なき わがが思いかな》
 という古歌があるが、一所懸命に足で水をかき、その姿を見せないから優雅でカッコいいのだ。

投稿者 mukaidani : 23:26

2013年01月01日

正月から、揚げ足の取り合い

 旧年1月1日のブログを見ると、

《昨夜は子、孫が遊びに来ていて、遅くまで飲んでいたようだが、私は8時にはベッドにもぐり込み、仏教本を読んでいた。
『紅白歌合戦』も楽しいだろうが、仏教世界にひとり心を遊ばせるのも愉快なものである。》

 そう書いてある。

 昨夜も子、孫が遊びに来て、遅くまで飲んでいたようだが、私は早々7時にはベッドに入った。

 単純に眠かったらである。
 本も読まない。
 ぐっすり。

 起きたら朝の4時。

 5日が単行本の原稿渡し。
 そそくさと風呂に入って、道場の仕事部屋へ。

 何の変哲もない正月。
 いや、変哲のないことを歓ぶべきか。
 いやいや、変哲はあるのだろうが、きっとそれに気がつかないだけなのだろう。

 気がつかないことは、いいことか。
 それとも不幸なことか。

 くだらないことを考えていたら、昼に愚妻から電話。

「お雑煮、食べないの?」
「食べないのではない、食べる時間がないのだ」
「だからどうするのよ」
「食べに帰る」
「あら、時間がないんじゃないの?」

 今年も正月から、揚げ足の取り合いなのである。

投稿者 mukaidani : 15:16