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2012年05月29日

経験でしか語れない

 早朝、畑。
 先日植えたカボチャが元気がなかったので、追加である。
 ついでに、オクラも。

 ところが元気がなかったカボチャが元気なのである。
 キュウリも元気にツルを伸ばしている。

「追肥をしたほうがいいよ」
 と、大指南役のS氏。

「ハーイ」
 と追肥を始めたら、
「あッ、それじゃダメダメ」

 こうやるんだ、と見本をみせてくれた。

 次いで、
「キュウリのツルを伸ばすネットを張らなくちゃ」
 とS氏。

「わかりました、じゃ、次回」
「そんなこと言わないで、いま張っていきなさいよ。キュウリだって伸び盛りなんだから」

 で、ネットを張り始めると、
「あッ、それじゃダメダメ」

 こうやるんだ、と見本をみせてくれた。

 こうして一つずつ、畑仕事をおぼえていくのだ。
 経験でしか語れない世界があることを、あらためて思い知らされる。

投稿者 mukaidani : 22:29

2012年05月27日

意を通す「逆説的態度」

 今朝5時半に孫を迎えに行き、松戸市・天真寺の「おあさじ」(朝のお参り)に連れて行った。
 私が雅楽を習っているお寺さんだ。

 孫を連れて行ったことに深い意味はない。
 昨夜、ふと思い立って娘に電話し、
「明朝、寺に連れて行くぞ!」
 と一方的に告げた。

 娘も、言い出したらきかない私の性格は先刻承知。
「ハイハイ」
 と、まさに〝二つ返事〟。

 小二の孫もまた、私に逆らうことの不利益を承知しているはずで、もちろん異論はないはず。

 そんな経緯で出かけた次第。


 面白いもので、孫に振り仮名を振った経本を持たせると、文字を追って読経している。
 意味はわからずとも、読経のリズムに興味をそそられるのだろうか。

 そんな孫を横目で見ながら、宗教や道徳は、理屈抜きで小さいうちから教育すべきだと、つくづく思った。

「教える」のだはなく「親しませる」のだ。

 何事もそうだが、教えようとするから逃げる。
 そうではなく、
「教えてなんかやらないよ」
 という態度で臨めば、今度は子供のほうから興味を持って寄ってくるのだ。

 道場でもそうだ。
 新しく入門してくる幼児や小学校低学年のなかには、稽古の輪に入ることを拒否する子がいる。

 付き添って来た母親は、
「ほら、やりなさい」
 と、なだめたり、叱ったりするが、そうすればするほど子供は拒否する。

 こんなとき、私は子供に言うのだ。
「稽古しなくていいから、そこに座っていなさい。いいか、絶対に稽古しゃダメだぞ」

 こんなことを二、三回繰り返すうち、稽古の輪に入っていこうとし始めるので、もうひと押し。
「こらッ、見るだけ! 稽古しちゃダメだ!」

 すると子供は、一緒に稽古したくなってムズムズしてくる。
 そこを見計らって、
「じゃ、稽古していい。だけど、ちょっとだけだぞ」

 こうして、これまで何人もの子供を稽古の輪に取り込んできた。

 自分の意を通そうとするなら「通そうとしないこと」。
 意を通す逆説である。
 

投稿者 mukaidani : 10:04

2012年05月25日

心の余裕

 今週は所用で連日の外出。
 また、考えなければならないことも多い。
 そんなこんなで原稿が遅々として進まず、困っている。

 自慢ではないが、私は書くのは早い。
 〆切に遅れたことは一度もない。
 それが遅れ気味になっているのは、どうしたことか。

(年齢のせいか?)
 と思ったわけではない。

(ハハーン。これはきっと、文章に深みを求め始めたからに違いない)
 と例によって、都合よく考えるのである。

 ここまでブログを書いたところで、
「アッ!」
 と洗濯場で愚妻の叫び声。

 そそくさと見に行くと、洗剤を入れたポリバケツの底が抜けて、洗剤が一面に飛び散っている。

「バカ者!」
 と、いつもの私なら厳しくたしなめるところだが、今回は変えてみた。

「大丈夫か? わしが早くに気がつけばよかったな」
 やさしく言ってみたのである。

 すると、どうだ。
 人間、面白いもので、
「いいのよ。私が悪いんだから」
 愚妻が殊勝なことを言う。

 このとき判然と悟ったのである。
 人間関係は「急くな」「責めるな」「せめぎ合うな」。

 一歩引く心の余裕が人間関係を円滑に、そして人生を豊にするのだ。

投稿者 mukaidani : 23:12

2012年05月21日

金環食を見忘れる

 金環食を見ることはできなかった。

 と言うより、前夜、あれほど気合いを入れていたのに、金環食のことをコロリと忘れていたのだ。

 で、朝7時、のんびりと風呂に浸かってから出てみると、
「雲っていて、見えなかったわよ」
 と愚妻。

「何が見えないのだ」
「金環食」
「あッ!」
 と思い出したが、雲って見えないとなれば、結果オーライか。

 しかし、ここでふと疑念。

 愚妻はなぜ、
「風呂はあとにして金環食を見たら?」
 と私に注意を喚起しなかったのだろうか。

 思うに〝金環食グラス〟が一つ。
 自分だけが見ようとしたのではないか。

「おい」
「なによ」
「何でもない」

 問いただそうとして、やめた。
 夫婦は所詮、キツネとタヌキなのだ。
 

投稿者 mukaidani : 12:53

2012年05月20日

金環食と〝黒メガネ〟

 金環食を見るための簡便な〝黒メガネ〟をちょうだいした。
 目は大丈夫だそうだ。
「じゃ、ひとつ見てやるか」
 という気になった。 

 実を言うと、ヘソ曲がりのは私は、
「金環食なんか見てやるか」
 そう思っていた。

 一定の時間に日本中の人が空を見上げているのかと思うと、
「冗談じゃねぇ」
 というわけだ。

 ところが、〝黒メガネ〟をもらってコロリと前言を飜(ひるがえ)し、
「おい、量販店へ行って、おまえのメガネを買ってこい」
 と、愚妻に命じた。

〝黒メガネ〟は一つ。
 いくらワガママな私でも、自分だけ金環食を見るのは気が引けるのだ。
 しかしながら、〝メガネ〟は完売だったとか。

 となれば、明朝は、一つの〝黒メガネ〟を半分に切り離し、愚妻と一つずつで見ることになるではないか。

「なぜ、もっと早くに買いに行かんのだ」
 叱責すると、
「ちょっと、金環食なんか見ないって言ってたじゃないの」
 愚妻が怒った。

 愚かな女にはわかるまいが、君子はいつだって豹変するのだ。

投稿者 mukaidani : 23:28

2012年05月17日

刑務所へ


 今日は保護司の仕事で、西日本の某刑務所へ受刑者の面接に行った。
 自宅を朝の4時30分に出て、いま午後7時過ぎ。
 帰途の新幹線の中である。

 必要に応じて、全国の刑務所へ出かけるが、行く前夜はいつも受刑者の資料を再読しながら、彼らの人生に思いを馳せる。

 犯罪者になろうと思って生まれてくる人間はいない。
 人生の歯車は、ほんのちょっとのことで噛み合わなくなってしまうことが、保護司をやっていると、よくわかる。

 私は61歳まで、なんとか〝無事〟に生きてきたが、まだ先はわからない。
 人生とは、何とあやういものであることか。

投稿者 mukaidani : 19:08

2012年05月16日

加点法と減点法

 今朝、畑に行って驚いた。
 小カブとチンゲンサイが、同じ畝(うね)に葉っぱを広げているのだ。

「いい加減にタネを蒔(ま)くからよ」
 と愚妻はあきれているが、それにしても、じつによく混ざって生えているのだ。

 あれこれ検証した結果、小カブのタネを蒔いたことを忘れ、チンゲンサイのタネを蒔いたものと結論した。

「どうだ、わしの推理は」
 自慢したが、
「バカみたい」


 やはり、私は草むしりが似合うようだ。
 それで、せっせと草をむしりはじめたが、むしっても、むしっても、剃り残しの髭のように畑を覆っている。

 溜め息をつきながら、ふと草を放り込んだ篭を見ると、草が一杯になっているではないか。

 このとき私は、加点法と減点法ということにハタと気づいた。

 畑の草をむしってきれいにするというは減点法。
「これだけ草を取ったぞ」
 と気分よくするのが加点法。

 人生も同じで、加点法で生きてこそハッピーになれるのではないか。

 そんなことを考えながら、ひたすら草をむしったのである。

投稿者 mukaidani : 21:52

2012年05月15日

愚妻の帰宅

 やれやれ、やっと愚妻のご帰還である。
 私にとっては長く辛い日々であった。
 駄犬のトイレマット(と言うのかどうか知らないが)、小便するたびにそれを取り替えたり、エサをやったり。

 一方、感動の体験もあった。

 天気がいい日は、思い立って雨戸を開けながら、
(おッ!)
 と思った。

 この家に住んで30年。
 雨戸を自分で開けたのは初めてであることに気がついたのである。

 娘が心配して食べ物を持ってきてくれたので、
「30年にして初めてだぞ」
 と報告すると、
「バカみたい」

 そう言い置いて、さっさと帰って行った。

 途中駅の乗り換えで、愚妻から電話。
 駅に迎えに来いとのこと。
「自分で帰ってこい」
 と言おうものならエライことになる。

 ここは大人の知恵で、
「ハイハイ」
 と機嫌よく返事して迎えに行った。

 おかげで、愚妻はすこぶる機嫌がいいのだ。

投稿者 mukaidani : 21:26

2012年05月12日

愚妻の外出

 愚妻が本日から二泊三日で、郷里の墓参。
 私の着替から風呂でポリポリ囓る煎餅まで、用意万端ととのえるのは当然として、
「マックのエサを忘れないでよ」
 と、駄犬の〝マック爺さん〟のことを念押した。

 だが、私はウチの駄犬が何を食べているのか知らないのだ。
 そのことを正直に告げると、
「もう役に立たないんだから」
 とブツクサ言いながら、すぐさまドッグフードを何食分かビニール袋に小分けして、
「ふやかしてから、あげてよ」
 と、また念押しである。

「面倒だから三日分をいっぺんに与えておいて、朝晩食べるように駄犬に命じておこう」
 私が言うと、
「犬にそんなこと言ってわかるわけないでしょ!」

 私を一喝して出かけて行った。
 元気な女である。

投稿者 mukaidani : 15:56

2012年05月11日

畑の草むしりで考える

 何やかやと忙しく、気がついたら3日間、ブログの更新をしていなかった。
 時間が経つのは早いものだ。
 早いところトマトを植えなければならない。
「明日、明日」
 と先延ばしにしていたのでは、時期を逸してしまうではないか。

 それで今朝、取り急ぎトマトを植えに行った次第。 

 昨日の雨で、草が元気だ。
 愚妻がトマトを植え、私は草むしり。

 それにしても、雑草の何と元気なことか。

「雑草のごとくたくましく生きる」
 という言葉があるが、まさに腑に落ちてこのことをさとった。

 言い換えれば、畑をつくったことのない人間には、この言葉のもつ意味は観念的で、いかに雑草がたくましいものであるか、実感としてはわからないだろう。

 「腑に落ちてわかる」とは「体験」なのだ。
 体験なくして「わかる」は所詮、観念の世界ということなのである。

 だが、生きる時間は限られている。
 長くも短い人生で「体験」できることは、そう多くない。
 ということは、わかったつもりになって、実際はわからないままで一生を終えていくということになる。

『心得たと思うは心得ぬなり 心得ぬと思うは心得たるなり』

 という蓮如の言葉は、実はこのことを言っているのではないかと、畑で草をむしりつつ考えたのである。

投稿者 mukaidani : 12:41

2012年05月07日

「畑」と「人間の性格」

 畑仕事は、性格があらわれる。

 今朝、野菜の苗を植えに出かけたときのことだ。

 私は草の茂り具合が気になり、畑に着くや、すぐに草のチェックに走ったところが、
「あっ、スナップエンドウがなっている!」
 愚妻の喜色の声である。

 彼女は、草の状態よりも、ジャガイモの生育具合よりも、収穫が何より気になるのである。

「豆はあと! まず、草と土寄せだ!」
 叱責するが、馬耳東風。
 そそくさと収穫を始めたのである。

 愚妻は、そういう女なのだ。

 私は額に汗をしたたらせながら、草を引き、ジャガイモやネギの土寄せをし、諸々の野菜を植えた。

 そこへ、畑大指南役のS氏が登場して、
「ちょっと、ここ、土寄せができていないよ!」
 とジャガイモのそばで私に言う。

「エッ? いま土寄せしたばかりですよ」
「したばかりたって、ここ、やっていないじゃないの」
 見ると、確かにしていない。
「ホントだ」
「ダメだよ、いい加減なことやっちゃ」

 なるほど、「おおむねいいだろう」という私の性格が、こういうところにあらわれている。

 畑は性格が出るのだ。

投稿者 mukaidani : 22:29

2012年05月06日

私は「デジタル人間」か

 野菜の苗を買いに行った。
 カボチャ、トマト、ピーマン、キューリ、ナスなど。

 私が無造作に手前の苗を取ると、
「ちょっと、元気なのを選んでよ!」
 愚妻に怒られた。

 観葉植物を買うときも、私は無造作に選ぶので、
「ちょっと!」
 愚妻に怒られる。

 元気だろうが、見てくれがどうだろうが、私には関心がない。
 なぜだかわからないが、私はそういう人間である。

 数日前、庭の脇の玉砂利が白いことに気がついた。
「何だ、わが家の玉砂利は白かったんだな」
 愚妻に言うと、
「私が買ってきて入れたのよ」

 今夕、庭に赤い花が咲いていることに気がついたので、
「おい、見てみろ、赤い花が咲いてるぞ!」
 愚妻を呼ぶと、
「何日も前から咲いているわよ」
 うんざりした口調で言っていた。

 私は、何事も始めたらトコトン凝るが、関心がなければ目にも耳にも入らない。
 0か1か。
 ひょっとして私は「デジタル人間」ではないか、と秘かに思っているのだ。

投稿者 mukaidani : 22:29

2012年05月05日

不安の原因は「二元論」

 2012年版「子ども・若者白書」(15歳~29歳)の原案が発表された。

 これによると、8割以上が、
「仕事で十分な収入が得られるかどうか」
「老後に年金を受け取れるかどうか」
 に不安を感じているという。

 実年・熟年、そして若者・子どもと、まさに「一億総不安の時代」になったということか。

 だが、不安のない時代はない。

 不安も、希望も、喜びも、そして現実を甘受するのもすべて「自分」である。

 ところが私たちは原因を「外(社会や環境)」に求め、「外」と「内(自分)」というよう相対化し、二元論で考える。

 ここに、不安の原因がある。
「外」は絶えず変化していくため、二元論で生きている限り、「内」もまた絶えず揺らぎ続け、定まることがないからである。

 不安から解放されるには、「外」と「内」と二元論で考えるのではなく、「外」を「内」に取り込み、「すべては自分の心の問題」とすることだ。

 つまり、「自分の心」と、どう折り合いをつけつつ生きていくか。
 すべては、ここで決まるのである。

 以前もふれたが、私は「あきらめる」という言葉に、生き方のヒントがあるように考えている。

「あきらめる」の反対は「執着」である。
 執着から自分を開放する方法は「断念」だけでなく、「甘受」という生き方もあるのだ。


 いま、九十九里の仕事部屋。
 青空と、そよ風。

「気持ちいい」
 と感じるか、
「それところじゃない」
 と眉間にシワを寄せるか。

 幸せは、案外、こんなことで決まるように思うのである。

投稿者 mukaidani : 10:35

2012年05月03日

羽鳥アナの離婚

 テレビ朝日系『モーニングバード!』の羽鳥慎一アナが離婚だそうである。
 よく知らない人だが、顔は見たことがある。
 結婚して16年、長女がいるとか。

 結婚は弾みですることはあっても、離婚に弾みはない。
 しかるべき理由があるはずで、物書きの端くれとしては「理由」に興味がある。

 Webのニュース記事によると、羽鳥夫婦は「放送業界でおしどり夫婦」だったそうだが、

《(羽鳥アナが)昨年4月のフリー転身後、アロマセラピストでもある妻とすれ違いの生活が続いた。互いの仕事に集中するため、離婚を決意した。》

 そうか、すれ違いか。
 で、このことにカミさんが不満を持ったというなら納得だが、そうではないと記事は伝える。

《生活スタイルの変化に元妻は不満を漏らすことはなかったという。約5年前から始めたアロマセラピストの仕事が順調で、最近も著書を出版。日本アロマ環境協会の役員を務め、多忙な毎日を過ごしていた。》

 そして結論は、

《「一緒に過ごす時間も少なく、距離を置いた方が、互いがやりたい仕事を思う存分やれるのでは」と、昨年から話し合いを続け、年明けには結論が出たという。》

 ウーン。
 わからない。

 わが夫婦のように、私が自由業であるため一緒に過ごす時間が長く、
「これでは仕事が存分にやれない」
 というのなら理解できる。

 しかし、羽鳥夫妻は、もともと一緒に過ごす時間が少ないというのだから、わざわざ離婚して距離を置く必要はないではないか。

「論理矛盾である」
 と、原稿そっちのけで、くだらないことを考える。
 このことを愚妻に問えば、
「ヒマね」
 と悪口を言うだろうが、その愚妻は娘夫婦と孫たちを連れ、九十九里の仕事部屋へ出かけている。

 仕事部屋まで、距離にして60キロくらいか。
 離婚にくらべれば距離が近すぎるが、「距離を置く」というのもいいものだと、羽鳥アナの「距離を置く」発言に感心するのである。

投稿者 mukaidani : 17:35

2012年05月01日

スーパークールビズ

今日から官公庁はクールビズ。
 環境省では、6月からは職員にTシャツやサンダルの着用も認めるそうで、これを「スーパークールビズ」と呼ぶとか。

 この言葉はいい。

 愚妻が食事に連れて行けと言うので、さっそく使ってみた。
「残念だが、わしのフトコロはスーパークールビズ」
「何よ、それ」
「冷え切っておる」
「バカみたい」
 愚妻は憎まれ口を叩いたが、怒ってはいない。

「いい言葉だ」
 と悦に入っていたら、
「ちょっと。バカなことばっかり言っていると、私はあなたにスーパークールビズになるわよ」
 愚妻が、ない知恵を絞って逆襲してきたが、どこかユーモラスになってしまう。

「スーパークールビズ」は角が立たなくていい。
 この夏は、この言葉でいくことにしよ

投稿者 mukaidani : 15:48