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2012年04月30日

釣りは中止

 今日、小1男児の孫と釣りに再チャレンジするつもりで、一週間ほど前から天気や風、波の高さをチェックしていた。

 すると30日は、どうもあやしい。
 予報では「晴れ時々曇り」となっているが、天気は西から崩れていくという。
 ヘタすりゃ、「曇り」「曇り一時雨」ということも考えられる。

 さらに、友人から「少し波が高そうだ」とのメール。
 前回、孫に船酔いさせているから、二度目の船酔いはマズイ。
 それで慎重になったというわけだ。

 ついでに言えば、昨日は空手の千葉県選手権があり、顔を出したので私は疲れてもいる。
 そんなこんなで昨夜、釣りの中止を孫に電話で言い渡したのである。

 だが、天気が気になる。
 ポカポカ陽気で無風ということになると、くやしいではないか。

 今朝、空を見上げると曇り。
 肌寒くもある。
 これでは海のコンデションはよくないはずだ。

「どうだ、わしの判断は」
 愚妻に自慢すると、
「疲れてるから中止にしただけでしょ」
 と、憎まれ口を叩く。

 まあ、それでもいいさ。
 中止にして正解なのだ。
 安堵しつつも、ふと自分の身勝手さを思う。

 畑に行くときは「晴れろ」と願い、釣りを中止したときは「雨でも降れ」と願う。
 恥ずかしい限りである。

投稿者 mukaidani : 13:15

2012年04月29日

ポジティブな考え方

「腰を落とせ!」
 と稽古のときに口を酸っぱくして注意するがダメ。

「何度、同じことを言わせるんだ!」
 と怒鳴っていて、ふと思った。

(なぜ、注意しても腰を落とせないのか?)

 問題の本質は「腰を落とさないこと」ではなく、「腰を落とせないこと」にあるのだ。

 ここを解決しなければ、どんなに怒鳴っても、腰は落ちないことになる。


 同様に、
「くよくよするな」
 と励ましても、悲観的な人はくよくよするもの。

「なぜポジティブシンキングができないのか」
 ということを念頭に置いて励まさなければ、本当の意味で励ましにはならないということなのである。

 相手によって違うが、ネガティブに物事を考える人は、「毎日、晴れた青空」を期待する人ではないか。

 ポジティブに考える人はそうではなく、人生を「晴れて、曇って、雨降って」と、とらえる。

「思いどおりにいかないのが人生」
 というところからのスタートなのである。

投稿者 mukaidani : 17:09

2012年04月25日

畑で「因縁因果」を悟る

 今日は晴れ。
 午前十時、勇躍、畑へ出かける。

 S大指南役がいらしたので、無沙汰を詫び、
「畑に行く予定にしている日に限って雨が降るんですよねェ」
 と言い訳をすると、

「あんたね、あんたの予定に自然が合わせるんじゃなく、自然にあんたが合わせるんだよ」

 言われてみて目からウロコ。
 自然は私の予定など知ったこっちゃないのだ。

 ジャガイモも順調に芽吹いている。
 コマツナも順調に芽を出しているが、畝(うね)ではなく、畑の〝通路〟にズラリと芽を出しているのだ。

「あんた、いい加減に播(ま)いたんじゃないの」
 大指南役が苦笑いしている。

「バレたか」
 とは、もちろん言わなかったが、適当にやったので植える場所を間違えたようだ。

 タネは小さいため、播(ま)いたときは、適当にやったことがバレないでいるが、目を出せば一目瞭然。
 バレバレなのである。

 このとき私の脳裏に「因果応報」という言葉がよぎる。

 善因善果、悪因悪果
 適当に播けば、きっちり結果となってあらわれるのだ。

 だが、タネを播いたときは(因)、芽吹き(果)まで思いが至らない。
 だから人間は悪因悪果に苦しむのではないか、と考えつつ、畑はまさに「日日是耕日」であると納得した次第。

投稿者 mukaidani : 21:44

2012年04月22日

夫婦とは、何とミステリアスなものか

 愚妻が所用で外出。
 昼前からポツリと雨。

 道場の仕事部屋で雑用をすませ、雅楽の稽古に出かけようとしたところへ、愚妻から電話。

「そっち、雨が降ってる?」
「降っておる」
「洗濯物を干してあるんだけど、取り込めるかしら?」

 自慢ではないが、私は結婚して38年間、洗濯はもちろん、干したものを取り込んだ経験がないのだ。

「乾いておるのか?」
「今朝、洗濯したのに乾いているわけないでしょ」
「では、濡らせておけ」
「ちょっと、そんなこと言わないで、家に寄って取り込でくれればいいじゃないの」

 以下、険悪なやりとりは割愛。
 私は白旗を上げ、自宅に寄って洗濯物を取り込んだ。
 結婚38年にして経験する初めてのこと。
 記念すべき日になったのである。

 午後9時前、雅楽の稽古から帰宅したが、愚妻が感謝の言葉を口にしない。
 督促するのは下品なので、気がすすまなかったが、
「わしは今日、洗濯物を取り込んだぞ」
 と注意を喚起すると、
「それはそれは、ありがとうございました」

 本気か、口先か。
 いまだに愚妻の心が読めないでいる。
 夫婦とは、何とミステリアなものであることか。

投稿者 mukaidani : 21:51

2012年04月19日

「運気」ということ

 こんな故事がある。

『明くる空には行くべし、暮るる空には行くべからず』

 意味は、
「夜が明けようとしているときなら、暗くてもやがて明るくなるから安心して出発してよい。反対に、これから日が暮れるというときに出発するのは危険だからやめたほうがよい」
 ということ。

 この意味から転じて、
「いまは良くなくても、運気が上昇しつつあるときは多少の無理をしても断行せよ。反対に、落ち目のときは無理をするな」
 と解釈される。

 ただし問題は、
「自分の運気が上昇しているのか、落ち目になっているのか、どうやって知るか」
 ということである。

 知人である〝人生の先達〟は、私にこう言ったことがある。
「自分のまわりにいる人間を見よ」

 類は類を呼ぶと言うことから、ツキに恵まれた人間が寄ってきていれば、それは自分の運気が上昇していること。反対に、不遇の人間が寄ってきているときは、運気が遠のいているときと言うわけだ。

「自分のことはなかなかわからないが、他人のことならよくわかる。だから周囲の人間を見て自分の運気を推(お)し量(はか)るんだ」

 20年前に聞いた言葉を、なぜか今夜、唐突に思い出した。

 親鸞は「占い」の類(たぐい)を厳しく戒めるが、占いにすがろうとする人間の心の弱さまでを否定しているわけではない。
 親鸞の救いということか。

投稿者 mukaidani : 22:30

2012年04月17日

政治家という輩

「末は博士か大臣か」
 というのが、立身出世の双璧だった。

 いつの時代のことか知らないが、かつてそう言われた。

 ところが、いまはどうか。

 博士は、震災の原発事故と津波において無能をさらけ出した。

 政治家は、言うにおよぶまい。

 国交相の前田某と、防衛大臣の田中某が問責にかけられる。

 政治家が地に落ちたのではない。

 もともと地に落ちていた人間が、政治家になったのだ。

 政治家がドジョウに見えてくる。

投稿者 mukaidani : 23:57

2012年04月15日

孫とボート釣りに行く

 小1男児の孫をつれて、釣りに出かけた。

「殺生」と「孫の喜び」を秤(はかり)にかけ、グズクズと迷っていたが、ついに断を下したわけだ。

 釣りの殺生はもちろん感心しないが、考えてみれば、それとはくらべものにならないくらいの大罪を犯している私である。

(エエーィ! 善人ぶるな!)
 というわけで今朝3時30分、拙宅に泊まった孫を叩き起こし、内房の富浦へクルマを飛ばした次第。

 ボート屋の親方が、漁船もどきで、私と孫が乗る手漕ぎボートを沖まで引っ張って行ってくれる。

 初めての経験に、孫が目を輝かして喜んでいる。
 やっぱり来てよかった。

 親方が私たちのボートを放し、私はアンカーを投げ込んで、竿を出す。

「遠くに投げて、誘ったほうがいいよ」
 と親方が言っていたので、
「エイ!」
 と竿を振ると、糸がプッツン。
 オモリだけがヒューと飛んでいく。

 結び方がマズかったか。
 孫の手前、みっともないではないか。

 急いで仕掛けをやりかえ、
「エイ!」
 と竿を振ると、糸がプッツン。
 オモリだけが飛んでいく。

 このとき、釣具屋のアンちゃんの言葉が脳裏をよぎる。
「お客さんは初心者ということですし、ボート釣りでしたら、遠くへ投げることはないでしょう」

 どうやら、オモリが重すぎたようだ。

 しょうがないから、投げないで、近くにポトン。

 それから20分。
 釣れない。
 孫を喜ばせないではないか。

 あせっていると、風が出てきて、海面がうねり始める。

 と、孫が顔をしかめて、
「ボク、気持ち悪くなった」

 船酔いである。
 ヤバイ。
 すぐさま携帯で親方に連絡を取り、岸までボートを引っ張ってもらい、かくして私と孫の釣り行きは終わったのである。

 帰途、クルマのなかでつらつら考えるに、孫の喜ぶ顔も見たし、一匹も釣れなかったということは、殺生をしないですんだということでもある。

 メデタシ、メデタシ、ではないか。

 ところが、夜。
「また行きたいって行ってるわよ」
 と、孫の母親である娘から電話。

 孫が本当にそう言ったのか、娘のリップサービスか。

 また連れて行けとせがまれたらどうしよう。
 私は再び、悩み始めるのだ。

投稿者 mukaidani : 21:21

2012年04月14日

ホームページの題字

 ホームページの題字を「日日是耕日」に変えた。
 たいした意味はない。
 例によって気まぐれである。

 題字を書いてくれたのは、これまで同様、友人で沖縄在住の書家、玉城芳岳氏だ。ちなみに玉城氏は、沖縄武術(御殿手)の道場主でもある。


 題字を「日日是『耕日』」としたのは、「好日」に引っかけてのことだ。

 畑を耕しているとき、ひょいと「煩悩を耕す」という言葉が浮かんだのである。

 これまで折に触れてブログに書いてきたが、畑を耕していると、人生のいろんな気づきがある。
 人生は煩悩と二人三脚であることから、気づきは「煩悩を耕す」ということでもある。
 以上の思いつきから、「日日是耕日」とした次第。

 題字を変えたからといって、毎日がどう変わるわけでもないだろう。
 だが、それでも気分は、いくぶんか変わってくるように思うのだ。
 

投稿者 mukaidani : 11:08

2012年04月11日

「感謝」と「言葉」

 感謝の言葉というのは、実に難しい。

 今日の昼のこと。

 愚妻が道場の仕事部屋に、弁当を持ってきた。
 胃薬も「昼用」と書いたナイロンの小袋に詰めて、持参している。

 これには私も頭が下がる。

 そこで、感謝の気持ちを込めて、
「おまえに先立たれたら、わしはどうやって生活をすればいいんじゃ」

 そう言ったところが、

「ちょっと、どうして私を先に殺すのよ」

 愚妻が柳眉を逆立て、
「私は死にませんからね。ええ、絶対に死ぬもんですか」

「いやいや、そういう思いが自分を苦しめることになるのだ。人間は必ず死ぬ。そのことを、しかと心にとめて・・・」
「ダメダメダメ、私は死にませんからね!」

 感謝の言葉が、妙なことになってしまった。
 言葉とは、かくのごと難しいものなのである。

投稿者 mukaidani : 15:19

2012年04月10日

一関でコケシを買って帰る

 一関市で、自分用に土産を買って帰った。
 もともと私は土産や、記念写真など興味はないのだが、これは一目見て欲しくなった。

「雪やけこけし」である。

 平仮名で表記するとわかりにくいが、「雪焼けコケシ」のことで、雪焼けした人間をコケシで現している。

 由来は、こうだ。

《古来此の地に住む里人達は永い冬暮しの間炭焼きなどをし、春から秋にかけては瑞山部落の宿場より剛力(ごうりき)として「須川温泉」の湯治客や荷物を背負い険しい山道を往復して歩き春夏の残雪を踏みしめ汗にまみれての毎日が続き赤黒く雪やけせし顔を想起し、その素朴な姿と健康な色調を郷土色豊かに山麓の原木を用いて表現したのが、この雪やけこけしです。

 今は見る事の出来ない剛力の姿をこの雪やけこけしによって偲んでいただければ幸いです。

 寂しい時、哀しいとき腹の立つ時またうれしいときこのこけしをじっと御覧下さい。無限の表情はあなたの心に和らぎと楽しみをかよわせるでありましょう。》(高長木芸)

 このこけしには、顔が描かれていない。
 それが想像の翼を無限に広げさせ、リアルに迫ってくるのだ。

 私に欠けているのは、「荷物を背負い、険しい山道を往復して歩き、春夏の残雪を踏みしめ、汗にまみれる日々」ではないだろうか。

 ハタと気づき、自戒を込めて、この雪やけこけしを買って帰ろうと思ったのである。

 一尺ほどの大きさで七千円。
 安くはない。

「おい、わしにプレゼントする気はないか」
 愚妻にもちかけと、
「いいわよ」
 即座にOKして、
「あたなたに必要かもね」

 複雑な心境になったが、喜んでプレゼントされた次第。

 今日も一日、稽古が始まるまで雪やけこけしを眺めていた。

投稿者 mukaidani : 22:28

2012年04月08日

雪が降る

 今朝、小高い丘の旅館から見下ろす一帯は、うっすらと雪化粧。
 午前中は、ずっと雪が舞う。

 まさか4月に入って雪に降られるとは思いもしなかった。

 寒冷地の山間部は恐るべし。

 だが、雪の舞う春先の露天風呂に手足を伸ばせば、世事のわずらわしさを忘れることができる。

『仄(ほの)かに樵歌(しょうか)を聴いて 世縁(せいえん)を忘る』

 という、藤原惺窩『山居』の一節を湯船で吟じる。

 所用を終え、明朝、自宅に向かう。
 世縁の真っ直中である。

投稿者 mukaidani : 21:09

2012年04月07日

変わっていく自分

 朝4時に自宅を出発し、東北自動車道をのんびりと走る。
 後続のクルマがビュンビュン追い抜いていく。

 かつての私はビュンビュン派で、チンタラ走っているクルマを見ると、
(ヒマ人はしょうがねえな)
 と悪態をついたものだ。

 その私がいまやチンタラ組。
 ビュンビュン派に追い越されることが、むしろ楽しいのだ。
 何が楽しいのかというと、追い越されても頭に来ない自分である。
 チンタラ走ることに愉悦をおぼえる自分である。
 そんな自分、すなわち「年齢とともに変わってきた自分」を意識することが、とても楽しいのだ。


 若いころは、「変わらない自分」でありたいと思った。
 変わるのは「変節漢」として軽蔑した。
 やせ我慢であっても「変わらない自分」を貫き、変わらないことを楽しみとして生きてきた。

 だが、いまは違う。
「人間は、どうしようもなく変わっていく」ということに気づき、変わっていくことが楽しいのだ。

 むろん、いいほうに変わっていくとは限らない。
 それでも、変わっていく自分に心ときめくのである。

投稿者 mukaidani : 15:40

2012年04月06日

今日も着物である

 鬼のように着物を着ている。
 安価だが、私専用に桐の箪笥を買った。
 着物を包む「うこんの風呂敷」も、アマゾンで10枚買った。
 ついでに、姿見も買った。

 愚妻は、もう何も言わない。
 私が寄り切ったのだ。


 あとは、とにかく着物に馴れること。
 今日の昼間も、丹前を紬(つむぎ)に着換え、ガソリンを入れに行く愚妻のクルマに同乗した。
 クルマの乗り降りが着崩れにどう影響するか、いろいろ試しているのだ。

 明日、所用があって愚妻と岩手県の一関市へクルマで出かける。
「となれば、やっぱり袴(はかま)だな」
 クルマのなかでつぶやくと、
「ダメよ!」
 愚妻が眉を吊り上げた。

「なぜじゃ」
「宿の人が、ヘンな人が来たと思うじゃないの」
「わしのどこがヘンなのだ」
「見りゃ、わかるでしょ」

 こんなやりとりがあり、私が寄り切られてしまったのである。

 したがって明日はジーンズに赤シャツ、ハンチング。
 節操なく、和服からコロリ一転というわけだ。


 ところで、畑の大指南役に続いて、着物の大指南役と知り合った。
 愛媛県在住で、「バカガエルさん」と名乗っておられる。
 ネットで〝発見〟した人だ。
 したがって面識はないが、メールで着物について疑問を問い合わせると、親切に答えてくださる。

 ちなみに下記が「バカガエルさん」のサイトなので、着物に興味のある人はのぞいてみていただきたい。

 実に面白く、
「じゃ、いっちょう着物でも着てみるか」
 という気にさせられるだろう。

 一見の価値ありだ。

http://bakagaeru.obihimo.com/index.html

投稿者 mukaidani : 19:46

2012年04月05日

救い難きは人間である

「長寿」は、諸悪の根源ではないか。

 若い者がこう言えば角が立つが、61歳の私であれば「人生観」として受け流してもらえるだろう。

 実際、長生きして、ろくなことはない。
 身体はヨロヨロで、あっちが痛いこっちが痛い、高血圧だ何だとビョーキと二人三脚。
 昔なら、とっくに娑婆とオサラバしている人でも、医学の進歩とやらで無理やり生かされている。

 20歳や30歳で死ねば気の毒だと思うが、70歳で死ぬ人間が80歳まで生きたからといって、それがハッピーなのだろうか。

「太く短く生きたい」
 と本気で願ったのは、たしか私が二十歳前後のころだった。

 非才ゆえ、人生は結局、「太く」はならなかったが、
「太くならずとも、人生、細く短くでいいのだ」
 と思うようになった。


 仏教では、
「命に軽重はなく、人間は生きているだけで尊い」
 と教える。

 そのとおりだと思う。
 だが、それは一般論であり、「他人の命」に対して言うことであって、いざ「自分の命」となると、
「生きてはいても、ただ息をする存在というはイヤだなァ」
 と思うのである。

「死」対する考えでさえ、本音と建て前がある。
 人間は救いがたいものであると、つくづく考えさせられるのだ。

投稿者 mukaidani : 23:59

2012年04月04日

保護観察

 いま、保護観察の少年が来訪して帰って行った。
 朝6時半に家を出て、この時間まで現場仕事だ。
 よく頑張っている。

 好きで、犯罪に手を染める人間はいない。
 ちょっとした弾みである。

 人生は、塀の上をヨタヨタしながら歩いているようなもの。
 どっちに落ちるか、人生の危うさをつくづく感じる。

 だけど、どっちに落ちても、這い上がればいい。
 落ちて這い上がり、這い上がって落ちる。
 この繰り返しを人生と呼ぶのだろう。

 保護司とはいえ、微力の私には何もできないが、少年が逞(たくま)しく這い上がってくれればいいと心から願うのである。

投稿者 mukaidani : 23:22

2012年04月03日

暮らしにくさの実感

 先月刊行した拙著『ヤクザ式ビジネスの土壇場で心理戦に負けない技術』(光文社「知恵の森文庫」)が重版になったとの連絡が今日あった。

 本書は以前、情報センター出版局で刊行した同題の本を加筆訂正し、光文社で文庫化したものなので、私のホームページ「新刊紹介」の欄には掲載していない。
 親本が7刷り、文庫化が2刷りと順調なスタートだ。

 同じく以前、情報センターで刊行した『ヤクザ式 ビジネスの「かけひき」で絶対に負けない技術』も加筆訂正し、昨年、光文社「知恵の森文庫」で文庫化したが、これもホームページの「新刊紹介」には掲載していない。
 こちらも親本15刷り、文庫化5刷りと好調である。

 最新刊『一瞬で勝ちをとる かけひきの技術』 (中経文庫)も、動きがいいと編集者が言っているので、期待しているところだ。

 それにしても、昨年4月からちょうど一年間で10冊出したが、単行本サイズが4冊、あと6冊は新書と文庫である。

 新書と文庫は、書店に出版社の棚が確保されているので、長く店頭に置けるということもあるのだろうが、この不景気。千円を超える価格の単行本は売りにくいのかもしれない。

 何だか暮らしにくい世のなかになってきたと、私のような〝極楽トンボ〟でさえ実感する。
 きっと、本当に暮らしにくくなったのだろう。
 困ったものだ。

投稿者 mukaidani : 17:11

2012年04月01日

春は〝命の芽吹き〟

 新年度は、道場生たちも進学、就職と、それぞれ新たな世界へ飛び立って行く。
 あるいはその逆に、大学を卒業して都内から佐倉市へ帰ってくる道場生もいる。
 小学生から大学生まで、それぞれ進級して希望に胸をふくらませたり、受験勉強が始まったり。

 ついでながら、畑の野菜も葉を青々と広げ始めた。

 春はまさに命の芽吹く時だが、さて六十一歳の私に〝命の芽吹き〟はあるのか。

 いやいや、命など芽吹かなくてもよい。
 まもなく桜の開花。
 散ったあとの葉桜に、無常を愛(め)でるのも楽しいではないか。

 

投稿者 mukaidani : 20:37