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2012年02月28日

袴(はかま)が届く

 昼前、袴が三枚、立て続けに届いた。
 一枚はオークションで落札した新品の〝米沢お召し〟。
 あと二枚は通販で買った化繊で、これは馴れるためのもの。空手に限らず、何事もたゆまぬ練習が大事なのだ。

 三枚とも、前紐(ひも)下は87センチ。
 さっそく一枚ずつ試着する。
 むろん、サイズはドンピシャリ。

「どうだ」
 愚妻に見せると、黙って見ている。

「おい、何とか言ったらどうだ」
 すると愚妻は、
「うっかり〝いい〟なんて言うと、調子の乗ってまた買うじゃないの」

 語るに落ちるとは、こういうことを言うのだ。

投稿者 mukaidani : 13:12

2012年02月27日

「なでしこ」と「サムライ」

 テレビのスポーツニュースで「なでしこジャパン」のことを報じている。
 観ていて、「なでしこ」というネーミングが気になった。

「なでしこ」は「撫子」と書く。
 秋の七草のひとつで、可憐できれいな花だ。

 このことから、日本女性の清楚な美しさをたたえて「大和なでしこ」という。

 戦う女子サッカーに「なでしこ」はミスマッチのはずだが、誰も違和感をいだかない。
 その理由は、推測するに、「日本女性の清楚な美しさ」が今や昔となり、「なでしこ」という本来の意味がわからなくなってしまっているからではないだろうか。

 同じく男子サッカーの「サムライジャパン」もそうだ。
 サムライは「侍」と書き、「武士」のことを言う。

 武士を武士たらしめるのは「惻隠の情」である。
 点を取って、はしゃぎまわることの対極にある精神だ。

 それでも「サムライジャパン」というネーミングに違和感をおぼえないのは、日本において「武士道精神」が今や昔になったからだろう。

投稿者 mukaidani : 23:53

2012年02月26日

何歳になっても勉強だ

 今日は、うちの道場の正指導員であるT氏が温熱治療をしてくれた。
 頭の先から足まで、みっちり。
 T氏は職業は別だが、温熱療法のプロでもあるのだ。

 先夜は稽古の後で、指圧と整体治療院を経営する若手のT君が施術してくれた。

 ありがたいことだ。

 と同時に「手に技術」ということを痛感させられた。

 私には何もない。

 巧拙は別として、言葉や文章で人様を勇気づけたりなぐさめたりすることはできるが、どこまで役に立っているのやら、心もとないことである。


 昨夜、無事、ヤフーオークションで袴(はかま)を落札した。
 入札〆切の間際に急追されて冷や汗ものだったが、こんなくだらないことに時間を費やしている場合ではないと、反省しきり。

 だが、くだらないことをやってみて、そのことに気づいた。
 ということは、私にとって「くだらないこと」ではなかったということになる。

 このことは、ぜひ愚妻に教えておかねばなるまい。
「私は、まさに、くだらないことをやったおかげで、くだらないことに気づいた。素晴らしい気づきではないか」
 すると愚妻は、私を一瞥(いちべつ)して、
「六十歳をすぎて、まだ気づいていなかったの」

 人生、いくつになっても勉強ということが、愚妻にはわかっていないのだ。

投稿者 mukaidani : 21:42

2012年02月24日

ネットオークション

 初めてヤフーのオークションに参加した。
 やり始めるとトコトン凝るのが私の悪いクセで、私にちょうどいい寸法の袴を偶然ネットで見つけ、応札したのである。

 値がつり上がっていく。
 私も頑張り、次第に頭に血がのぼっていくのだ。

 そういえば若いころ、スタッドポーカーに凝ったことがある。
 負けん気から、どんどんレイズしていってコロリと負ける。

 あのとき私はバクチに向かないと悟ったはずなのに、ついオークションに手を出してしまった。

 今回切りにしよう。
 そう思いながら、ついつい他のオークション商品を見てしまう。
 ヤバイのである。

投稿者 mukaidani : 23:21

2012年02月23日

袴の修繕

 私がニラんだとおり、愚妻は今日の午後、袴(はかま)を縫っていた。
 礼を言おうかと思ったが、やめた。
「ちょっと、どんな魂胆があるのよ」
 と、あらぬ誤解を受けるからだ。

 実を言うと、魂胆はある。
 もう一枚、袴が欲しいのだ。
 だが、いま買うと愚妻はブチ切れるだろう。

 ここは数日、冷却期間を置くのが君子の処し方だ。
 あれやこれやと気をつかい、着物生活も楽ではないのだ。

投稿者 mukaidani : 23:57

2012年02月22日

袴(はかま)とアクシデント

 習うより馴れろ。
 何事においてもそうだ。
 だから私は着物に袴(はかま)をつけて、道場の仕事部へ出かけるのだが、愚妻はこれが気に入らない。

「ちょっと、おかしな格好して近所を歩かないでよ」
「バカ者、どこがおかしな格好だ。和服に袴は、日本の伝統ではないか」
「屁理屈はいいから、袴は道場へ行ってからにしてよ」

 怒らすと、ろくなことがないのでここは妥協し、道場へ行ってから袴をつけるようにした。

 ところが、今日のことだ。
 袴は横が大きく開いているため、そこを椅子のソデに引っかけてしまったのである。
 ビリビリビリと軽快な音を立てて、袴の左側が見事に真っ二つ。

 マズイ。
 実にマズイ。
 愚妻に縫ってくるよう頼まなければならないではないか。
 きっと、罵詈雑言を頭から浴びせかけるに違いない。

 しかし、このままでは袴はつけられない。

 で、午後三時。
 早めの夕食を仕事部屋に運んできた愚妻に、
「実は」
 と話したところが、反応は予想どおり。
「だから言ってるでしよ! 袴なんかつけて仕事する人がどこにいるのよ!」

 さんざん嫌味を言われたが、それでも袴を袋に入れて持って帰って行った。
 愚妻のことだ。
 すぐに縫ってくれることだろう。

投稿者 mukaidani : 16:45

2012年02月20日

無益な殺生と「孫」

 小一の孫が来たので、遊び道具にと、海釣りの竿を出してやった。
 投げ釣り用の長い竿、ゴムボートから釣る短くて細い竿など何本もある。

 五年前に得度して、釣りはやめた。
 無益な殺生はやめようと思ったのだ。

 ところが、孫と竿を振りまわしているうちに、
「よし、春休みに釣りに連れて行ってやる」
 思わず口走ってしまったのである。

 孫は、
「やった!」
 と喜び、私は、
(しまった!)
 と後悔である。

 困った。
 実に困った。
 私は口にした約束だけは絶対に守ることを信条としている。

「おい、どうしたらいい」
 愚妻に助けを求めたが、
「いいとこ見せようと思って、自分で約束したんでしょ」
 と、ニベもないのである。

 書いてみたいテーマがあって、その参考にと、いま手もとに「金子みすゞ」の詩集がある。
 命について書いてある。
 困った。
 実に困っているのだ。

投稿者 mukaidani : 22:46

2012年02月19日

何事も「楽しみながら」である

 今日から、雅楽の稽古は新しい曲に入った。
 初心者の私にはよくわからない。
 だが、四十年ほど空手の稽古をしてきた経験から、闇夜に手探りであっても、歩き続けていれば前途に光明が射してくることがわかっている。

 だから、歩き続けるしかない。
 それも歯を食いしばるのではなく、鼻歌まじりで。
 稽古の帰途、運転しながら自分にそう言い聞かせた。


 今朝、畑を耕しに行った。
 畑指南役のS氏がいつもコーヒーを淹れてくださるのだが、決まってこうおっしゃる。

「休憩しながらやらなくちゃ。根を詰めてやると、畑仕事が嫌になっちゃうよ」

 畑仕事そのものが楽しいわけではない。

 畑仕事を楽しむことができるから、楽しいのだ。

 雅楽も同じことか。

 いや、人生だって。
 

投稿者 mukaidani : 23:05

2012年02月18日

自然には逆らえない

 道場からの帰り道(と言っても五分だが)、仰ぎ見ると満天星空。
 明日は晴天である。

 朝9時から畑を耕す予定で、大指南役のS氏と約束している。
 S氏の指導で、堆肥を入れ、耕耘機で掘り返す。

 手に力を入れるので、終わった後で手が震える。
 明日は午後から雅楽の稽古がある。

 手が震えのはまずい。
 しかし、畑は耕さなければならない。

 これもみな、雪が悪いのだ。
 雪さえ降らなければ、とっくに畑に行って耕している。

 だが、自然に向かって文句を言ったところで、天にツバするようなもの。
 長いものには巻かれる必要はないが、自然には巻かれて生きよう。
 畑はいいことを教えてくれるのだ。

投稿者 mukaidani : 22:59

2012年02月17日

今夜は通販で袴(はかま)である

 そう言えば、袴を持っていないことに気がついた。

 いや、二つほど持ってはいるが、一つは居合いを習っていたときに買ったもので、もう一つは腰板のない簡便なもの。

 これでは、いかにもまずかろう。

 で、今夜もさっそく通販のホームページを開き、鼻歌を歌いながら袴を探す。

 と、昨夜に引き続き、愚妻の目が次第に引き吊り始めているではないか。

 これはヤバイ。

「おい、おまえもこれから着物を趣味にしたらどうだ」

 つとめて笑顔で言ったのだが、これが悪かったか。

「いつ着るのよ!」

 あなたはタテのものをヨコにもしない、忙しいのは私ばっかり。
 延々と私への非難が始まったのだ。
 

投稿者 mukaidani : 23:11

2012年02月16日

通販で着物

 初めて、ヤフーのオークションを利用した。
 たまたま見ていて、博多献上帯の新品が即決価格千円で出品されていたからだ。

 博多帯はつい先日、ン万円を出して、ネット通販で買ったばかりである。

 ピンキリであろうとも、新品千円には唸るではないか。

 手元に届いてみなければ何とも言えないが、〝そこそこ〟の帯であったら、まともに買うのがバカらしくなる。
 そんなわけで、帯が届くのを心待ちにしているのだ。

 ついでに大島と結城をネットの古着店で買って、これは昨日届いた。
 古着の扱いだが、「未使用」ということで、しつけ糸がついている。
 サイズもドンピシャリ。
 立派なものだ。

 これならよし。
 面白くなって、今度は大島の羽織を注文した。
「ちょっと、いい加減にしてよ!」
 愚妻の目がつり上がっている。

投稿者 mukaidani : 23:59

2012年02月15日

「お金」を口にする子供たち

 最近、「お金」のことを口にする子供が増えてきたように思う。

「館長、道場ってもうかるの?」
 と問いかけてきた低学年の女子がいる。

「勝てないのに、試合に出るのはお金がもったいないじゃん」
 と言った高学年の男子もいる。

「月謝、もったいないわ」
 と言った女子もいる。

 月謝といっても月額三千円。
 稽古回数に制限はなく、週に三回通ってくる子も少なくない。

 無邪気といえばそうだろうが、私としてはガッカリである。
 たぶん、ちょっとしたときに母親がそんなことを口にするのだろう。

 私は、子供がお金のことを「もうかる、もうからない」「損か、得か」という視点で口にするのは、感心しない。

 お金という価値観よりも、人間にはもっと大事なものがあると思うからだ。

 だからか、これは私の実感なのだが、熱心に稽古する子は、お金のことや損得を口にすることはなく、ひたむきに稽古する。
 チンタラして稽古しない子は、
「道場って、もうかるの?」
 と、そんなことを聞いてくる。

 興味の視点や、価値観がまるっきり違っているのである。


 親の人生観がしつけに現れ、子供の人生観を形づくっていく。
 当然といえばそのとおりだが、この「当然のこと」に本気で気がついたとき、親はその責任の重さに慄然とすることだろう。
 そうはならないのは、「当然のこと」に気づいていないからである。

投稿者 mukaidani : 16:00

2012年02月13日

大人化する子供たち

 昨日、九十九里の仕事部屋に来て、温泉健康ランドへ出かけた。

 日曜日とあって、小学校一、二年くらいの女児が何人か父親と男湯に入っていたが、女児たちは風呂から上がるとドライヤーでしっかり髪を乾かしている。
 その仕草が、まるで年ごろの娘さんのようで、思わず唸(うな)った。

 何を唸ったかと言えば、若者はどんどん幼児化しているというのに、幼児はその逆で、
「どんどん大人化しているのではないか?」
 という思いに唸ったのだ。

 夜、魚料理屋で、愚妻にそのことを話すと、
「カッコばっかり大人化しているんじゃないの」
 熱燗をグビリとやって、気のない返事をした。

 確かにそうかもしれない。
 子供たちは確かにおしゃれになった。
 カッコばかりじゃなく、頭のなかもおしゃれになって欲しいと、わが身を棚にあげて思ったのである。

投稿者 mukaidani : 09:55

2012年02月11日

わが家の「身勝手論争」

「トマト六個でダイエット効果」というニュースをテレビでやっていたので、すぐに愚妻を呼んだ。

「おい、見ろ。トマトだ」
「知ってるわよ」
 得意顔で、昨日からトマトジュースにして飲んでいると言う。

 こういうことに対しては、素早いのだ。
 私の着物の襟止めを探すよう命じてから、すでに二週間が経つが、いまだに着手しようとしない。

「身勝手ではないか」
 私が非難すると、
「なに言ってるのよ。身勝手はあなたでしょ」
 不毛の〝身勝手論争〟が続くのである。


 今日は「建国記念日」。
 初代天皇・神武天皇即位の日として、かつて「紀元節」と呼ばれていたものが曲折を経て昭和41年、
「建国をしのび、国を愛する心を養う」
 という趣旨で国民の祝日に加えられた。

 だが、建国記念日の今日、国民のどれだけが建国をしのんでいるだろうか。
 どれだけが、国を愛する心を養おうとしているだろうか。

 少なくともわが家は、トマトダイエットと襟止めが最大意の関心事で、夫婦の〝身勝手論争〟なのである。

投稿者 mukaidani : 10:39

2012年02月09日

着物の寸法

 着物を通販で買ってみようと思い立ったが、寸法がよくわからない。
(困ったな)
 と考えているうちに、いま持っている着物の各サイズを測ればいいこと気がついた。
 実に単純なことではないか。

 さっそく今夜、着物の名称と図形をネットで探し、これを参考して測り始めたのはいいが、生来の不器用ゆえ、測るたびに何センチか違ってくる。

 これではマズかろう。
 しょうがない。
 愚妻に頭を下げて頼んだ。

 ここまではいい。

 ところが、不器用なくせに私は凝り性なので、何枚かある着物をそれぞれ測って、最大値と最小値を出したほうがいいのではないか、と思いついたのである。

「おい、着物を全部出して測れ」
 と言ったとたん、
「冗談じゃないわよ!」
 愚妻の目がつり上がり、
「遊び人みたいに、着物どころじゃないでしょ!」

 畑にも行かない、家の用事もしない、何にもしない、と延々と小言を並べ立てられ、私はただ小さくなるばかりであった。

投稿者 mukaidani : 22:38

2012年02月08日

夜空の満月

 今夜は満月。
 知人からのメールで知った。
 このところ、夜空を仰ぐことがなかったような気がする。

 先ほど、外へ出て、月を見上げる。
 まん丸い月。

 あの月を見て、人間は「行ってみたい」と思ったのだろう。
 
 だが私は月を見ても、そんな夢はまったくいだかない。

 夢のない男だと、月を見ながら思った。

投稿者 mukaidani : 23:48

2012年02月06日

畑へ行こうと思ったら、雨

 今朝10時、畑に行こうと着がえ、外へ出たところでポツリと雨が落ち始めた。

 雨になることは承知していたが、昨日、天気予報を確かめると、降り始めは午後からということだった。

 迷惑な話で、今日の予定は畑をメインに据えていたのだ。
 午前中を畑とし、したがってマッサージは夕方の4時に予約して、それまで原稿書き。夜はスーパー銭湯である。
 畑に行かないのなら、スーパー銭湯をすいている午前中にして、そのあとマッサージ、執筆としたのだ。

 だが、不思議と腹立たしさはない。
 どうにもできないからだ。
 畑に行くことはできず、あきらめるしかないのだ。

 どうやら、迷いとか悩み、腹立たしさというやつは、あきらめきれないところに生じるもののようである。

 となれば、真に「絶望」すれば、迷いも悩みも腹立ちも断ち切れるということになり、これはきっといいことなのだ。

 絶望、ウェルカム。

 畑は、雨で行けなくともいろんなことを教えてくれるのだ。

投稿者 mukaidani : 13:28

2012年02月04日

頭のネジがゆるんだか

「明日こそ」
 と決意しながら、畑へ行くのが延び延びになっている。

 夏と違って、草ぼうぼうの恐怖はないのだが、春野菜のシーズン到来を前に、準備しておかなくては。

 だけど、2月、3月は総会シーズン。

 今日も午前中は空手関係の総会だった。

 9時30分から理事会だったが、私は時間を勘違いして1時間遅れ。
 それも、わざわざ案内ハガキを確かめたのに、である。
 頭のネジがゆるんできたのか。
 困ったものである。

投稿者 mukaidani : 20:55

2012年02月03日

節分に思う

 昨夜、遊びに来た4歳の孫娘が、
「明日は豆まきだよ。鬼さんをやっつけるんだよ」
 と、得意そうに言う。

「バカ者。豆で鬼がやっつけられるか。鬼は木刀でブン殴るんだ」
 私がたしなめると、
「ちょっと!」
 愚妻が鬼の顔で私をニラみつけた。


 そう言えば昨年、「節分」についてブログを書いた記憶がある。
 で、見てみると、ごちゃごちゃ書いたなかに、

《「鬼は外、福は内」とは、何と人間は欲張りなことであろうか。
「わが家から鬼を追い出せばいい」
 「わが家に福がくればいい」
 というのは、まさに身勝手。》

 そんなくだりがある。

 今は、「鬼は外、福は内」という言葉の意味について、とらえ方が変わってきた。

《外》とは「世間(人生)」のことで、「鬼は外」とは、
「人生は鬼が棲むごとくつらいことが多い」
 という意味。

「福は内」とは、
「幸福は、自分自身のなかにある」
 つまり、心の持ちようで、幸福にもなれば不幸にもなる、という意味にとらえる。

 私が僧籍を置く浄土真宗では、迷信のたぐいを厳に戒めるため、節分行事はもちろん行わない。

 だが、それはそれとして、4歳の孫娘でさえ節分の豆まきを口にすることを思えば、これはもはや「文化」である。

 教義はさて措(お)くとして、「鬼は外、福は内」という言葉には、いろいろ考えさせられるのである。

投稿者 mukaidani : 15:22

2012年02月02日

「時代の節目」という予感

 今日、友人からメールをもらった。
 私より、うんと若い友人である。

 昨日のこのブログ(「20年ぶりの再会」)を読んで、
「私も、向谷さんと知り合ってちょうど20年になります」
 と書いてあった。

 彼は神奈川在住なので、めったに会う機会はないのだが、それでも知り合って20年とは・・・。

 過ぎゆく歳月の速さに、ただ唸(うな)るばかりである。

 そう言えば今日、ある大先輩からハガキを頂戴したのだが、そこには「いたずらに馬齢を重ね」と書いてあった。

 今年は、来し方を振り返るような新年の幕開けである。
 ひょっとして、時代の大きな節目を迎えているのかもしれない。
 時代の節目は「世のなか」か、それとも「私自身」か。
 いま、そんな思いにとらわれている。

投稿者 mukaidani : 21:20

2012年02月01日

20年ぶりの再会

 若いころ、お世話になった方に20年ぶりで会った。

 年賀状に、たまには顔を見たいという添え書きを頂戴したからである。

 こうしてお目に掛かれば昔と少しも変わらないと思うが、雑踏ですれ違えば、きっと見過ごしてしまうだろう。
 歳月の重みを感じる。

 その方は、私が学生だったころ、
「一流の人間になりたければ、一流の人に会いなさい」
 とアドバイスしてくださった。

 その言葉を、40年たったいまも鮮明に覚えている。

 週刊誌記者をやっていたので、政治家から芸能人まで、一流の人にはずいぶん会ってきたが、私はついぞ一流にはなれないでいる。

「一流の人間になりたければ、一流の人に会いなさい」
 という言葉には、
「だからといって、誰もが一流になれるとは限らない」
 という続きがあったのではないか。

 そんなことを帰途の電車のなかでつらつらと考えていると、笑いがこみ上げてくるのだ。

投稿者 mukaidani : 20:35