« 2011年11月 | メイン | 2012年01月 »

2011年12月31日

レコード大賞を見ながら

 昨夜、晩飯を食べながら、見るとはなしにテレビで日本レコード大賞を見ていた。

 知らない曲がほとんどだった。

 私が歌謡曲に疎(うと)くなったこともあるが、誰もが口ずさむほどのヒット曲がなくなってきたということもあるのだろう。

 週刊誌記者時代、レコ大の賞獲合戦とか疑惑とか、ずぶん取材したものだが、今は昔ということか。

 私も変わったが、時代も確実に変わっていく。
 そんな感慨を昨夜のレコ大でいだいたものだ。

 今年も今日が最後。

 この一年、ブログを読んでくださった方々に心からお礼申し上げる。

 明日から新たな年の始まりである。

投稿者 mukaidani : 05:31

2011年12月29日

畑は明日にしよう

 今日は畑に行く予定にしていたが、年末ギリギリの〆切があって明日にした。

 むろん、スンナリと延期できたわけではなく、
「だったら、行くなんて初めから言わなきゃいいのよ」
 と愚妻はブツブツで、私はスマン、スマン。

 だが、つい3ヶ月前までは、「行きたくない」だの「一人で行ってよ」だの「私は収穫だけ」とゴネていたのは誰だ。
 あやまりつつ、釈然としないのである。

 今夜は年末の挨拶がてら、馴染みのレストランへメシを食いに行く。
 費用はどっちが持つか。
 食事しながら、丁々発止の戦いが始まるのだ。

投稿者 mukaidani : 15:43

2011年12月28日

「来年こそは」という思い

「来年」といっても、要するに「来月」のことなのだ。

「年末」は「月末」であり、これまでも毎月「月末」を迎え、「新しい月」を迎えてきている。

 それなのに、「年末」を大きな節目とする。

 歴史的・習俗的に見れば、正月は年神様を迎えるとか、数え年で1歳年をとるということがあり、新年は「特別な月」であったということだ。

 だが、そんな思いで新年を迎える人は少ないだろう。

 それでも正月が特別な月になるのは、「人生のリセット」という期待があるからではないか。
「来年こそは」
 という思いである。


「来年こそは」
 という人生は息苦しい。

「来年も」
 でありたいものだ。

 難しいことではない。
 心の持ちようで、いかようにもなる。
 実に簡単なことなのだ。

投稿者 mukaidani : 22:09

2011年12月27日

愚妻の「不謹慎」

 昨日、都内で所用があり、午後、愚妻とクルマで出かけた。
 高速道路が渋滞している。
「正月前だからなしょうがないな」
 私が言うと、愚妻が嘆息して、
「正月なんか、なくったていいのにねぇ」

 不謹慎なことを言う。
 年中正月なのはわが家だけで、多くの人は正月休みを心待ちにしているのだ。

「おい」
「何よ」
「いまの言葉、よそへ行って言はならんぞよ」

 私は厳しく戒めたのである。

投稿者 mukaidani : 16:12

2011年12月26日

電飾、ピッカピカ

 今年も自宅を〝電飾〟している家がある。
 計画停電で大騒ぎしたのは、わずか4ヶ月だというのに節電はすでに関心の外で、ピッカピカ。
 この神経の図太さは、皮肉でなく、たいしたものだと思う。

 消費税を上げようが、マニュフェストをことごとく反古(ほご)にしようが、政治家が平気でいるわけがわかるような気がする。

 ノドもとすぎれば、熱さを忘れるのが私たちなのだ。
 内憂外患ではあるが、そういう意味では日本の未来は明るいのかもしれない。

投稿者 mukaidani : 04:39

2011年12月25日

「鍋」と「すき焼き」

 忙しいときに限って、いろんな用事ができる。
 ヒマなときは、電話一本かかってこない。
 多忙は多忙を呼び、ヒマはヒマを呼ぶということか。

 そう言えば、原稿が佳境に入ったときに限って、不思議と愚妻が原話を寄こす。
 昨夜もそうだ。
 道場にある仕事場で原稿を書いていると、愚妻から電話をかけてきて、
「夜は何を食べたい?」
 とノンキな声。

「バカ者!」
 と怒鳴ったのではケンカになり、執筆のモチベーションが落ちるので、ここはぐっと我慢して、
「そうだな、鍋がよかろう」

 そして夜、帰宅してみると、
「鍋にしようと思ったけど、すき焼きにしたわ」

 愚妻の電話はなんだったのだろうか。
 

投稿者 mukaidani : 03:00

2011年12月23日

弔辞を想像して自分を知れ

 立川談志さんの「お別れの会」をメディアが報じていた。
 それぞれ弔辞がユーモアに富んでいて、とてもにぎやかだったようだ。

 談志さんが謹厳実直な堅物であれば「お別れ会」に笑いはなかったろうが、弔辞にユーモアという〝不謹慎〟なことも、談志さんの人柄と生き方がそうさせるのだろう。

 もし自分が死んで弔辞を読まれるとしたら、どんなものになるだろうか。
 それがすなわち、いまの自分の「生き方」であり、周囲から見られている「自分像」ということになる。

 談志さんが参議員に初当選したとき、週刊誌記者だった私が議員会館に取材に行くと、談志さんはソファに横になっていて、
「ヨオッ」
 と笑った顔をいまも覚えている。

投稿者 mukaidani : 05:22

2011年12月21日

ケツに火がつく

「今年もあと2週間ですねぇ」
「今年もあと10日ですねぇ」
「日にちが経つのは早いですねぇ」

 人に会えば、こんな挨拶をされる。

「本当ですね」
 と私もうなずきながら、内心は、
(ヤバイ)
 と、あせる。

 年内の〆切があり、ケツに火がついていて、「日にちが経つのは早いですねぇ」とノンキなことを言ってはいられないのだ。

 そういうときに限って、愚妻が、
「畑はどうするの?」
 と訊いてくる。

「アホなこと言うな!」
 一喝すると、
「どうしてアホなことなのよ!」
「アホをアホと言ってなぜ悪い」
「じゃ、あなたは何なのよ」

 今朝もこうしてムダな時間を費やしたのだ。

投稿者 mukaidani : 12:44

2011年12月19日

ウソを正当化する「論議の仕掛け」

 政府は、八ツ場ダム建設中止の撤回をするそうだ。

「中止の撤回」といえば聞こえがいいが、「中止する」と公約しておいてそれを「撤回」するのだから、これはウソをついたということになる。

 わが身に置き換えてみればわかる。

 たとえば、
「クリスマスプレゼントをすると約束したが、撤回しよう」
 と愚妻に告げたらどうなるか。

「この大ウソつき!」
 柳眉を逆立てて怒るだろう。

 ところが、政府民主党に対して、国民はそこまで怒らない。

 なぜか。

 賛成と反対とで話をモメさせるからだ。
 モメればモメるほど、話はスタートラインにもどっていく。
 そうしておいて、
「やっぱり建設すべきだ」
 と結論すれば、論議がガス抜きとなって、国民は柳眉を逆立てないというわけである。

 だからクリスマスプレゼントについては、
「ウソつき!」
 と非難されたら、
「買うつもりでいることに変わりはない。ただ、果たして財政がそれを許す状況にあるだろうか」
 と言って論議をふっかけ、モメさせ、話をスタートラインに引きもどし、
「しかるに今回は中止とし、時期を待とう」
 と結論すれば、愚妻も不承不承に納得することになる。

 必要があって、ウソについて考えをめぐらせているが、ウソほど人間臭く、おもしろいものはないのだ。

投稿者 mukaidani : 12:29

2011年12月18日

ツイッターを始めたのだ

 ツイッターを始めた。
 特に理由はない。

 先夜、編集者と打ち合わせをしていて、
「ツイッターをやったらどうですか」
 と言われ、
「あっ、そ」
 と、例によって〝軽はずみ〟で始めた次第。


 実を言うと、最近、意識して「独り言」を口にしている。
 これも特に理由はない。

「さっ、仕事だ」
「風呂だ」
「ウーン、今日は寒いのう」

 声に出すのが楽しいのだ。

 ところが愚妻には、このことが理解できない。
「ちょっと、ブツブツうるさいわね。頭がおかしくなったんじゃないの」
 とバチ当たりなことを言う。

 だが、私のブツブツは、これからはツイッターの「つぶやき」になるのだ。

「おい、ツイッターを始めたぞ」
 愚妻に言うと、ジロリとニラんで、
「まさか、私の悪口を書くわけじゃないでしょうね」

 大丈夫だ。
 愚妻の悪口は書かない。
 残念ながら、140字ではとても書き切れないのだ。

投稿者 mukaidani : 07:13

2011年12月17日

冥土の旅の一里塚

 昨夜の稽古で、小学生の女子たちと話していたときのことだ。
「館長、何歳?」
 と訊かれたので、
「61歳」
 と答えると、
「すごい!」
 みんなに感嘆された。

「若い!」
 とホメられるものと喜んだが、違った。

 女の子たちは、こう言ったのだ。
「お爺さんなのに、よく身体が動くね」

 子供の観念からすれば、61歳は「日本昔ばなし」に出てくるお爺さんなのである。

 ものごとに動じない私も、これにはいささかショックで、
「ウーム」
 と唸っていると、女の子の一人がやさしく言ってくれた。

「館長、無理しないほうがいいんじゃない?」 

 私は「ありがとう」と礼を言いながら、
《門松は 冥途の旅の一里塚》
 という一休さんの言葉が唐突に浮かんできた。

 一里塚まで、あと二週間である。

投稿者 mukaidani : 07:57

2011年12月15日

畑に行きたいと思えども

 そろそろ畑の様子を見に行かねばなるまい。
 不思議と、土をいじりたくなる。
 そういえば先日、野菜の一つひとつに名前をつけてみたらどうか、と愚妻に提案した。
「白菜太郎」とか「白菜花子」とか、「ジョン・ブロッコリー」「メアリー・ブロツコリー」なんて、どうだ。

「バカね。食べるのが可愛そうになるじゃないの」
 一蹴されて、撤回したことがある。


 そんなこんなで無性に畑に行きたくなるのだが、年末、1月中旬、2月末と〆切が続くので、それどころではないのだ。

「行きたい」
 愚妻につぶやくと、、
「畑の時間くらい、どうにでもなるんじゃないの」
 とノンキなことを言う。

 ヒマ人には理解できまいが、1日という日は、10分、30分、1時間の積み重ねを言う。
「畑の時間くらい」とタカをくくっていると、1日はたちまちにして過ぎてしまうのだ。

 そういえば、おふくろが生前、浪費家の私を戒めて、
「1円を粗末にする者は1円に泣く」
 とよく言っていたが、これはまさに至言で、
「1時間を粗末にする者は、1時間に泣く」
 ということになる。

「おい、わかったか」
 愚妻に厳しく説くと、ジロリと私を見て、
「じゃ、風呂で本を読むのをやめたらどうなの。朝晩2回入るのはやめたらどうなの。1時間に泣くことになるわよ」

 くだらぬ言い合いをして、私は、またしてもムダな時間を費やすのだ。

投稿者 mukaidani : 23:04

2011年12月14日

カラスの勝手

 今日の昼間のことだ。

 クルマを運転していると、前方の道路脇の水溜まりにカラスがさっと舞い降り、水を飲み始めた。

「見ろ、あの機敏な動きを。同じ動物でも、うちの老犬マックとはエライ違いではないか」
 助手席の愚妻に言うと、
「あら、マックだって水を飲んでいるわよ」

 なんとマヌケたことを言う。

「バカ者、あの俊敏さは野生ならではのものだと言っておるのだ」
「じゃ、マックを野生にしろって言うの」
「怒るな。そういうことを言っているのではない。野生と、飼われている動物とでは、水一杯飲むのも違ってくるということを言っておるのだ」
「そんなの、カラスの勝手でしょ」
「昔、そんな言葉が流行ったな」
「あれはいつだったかしら」
「ええっと、確か・・・」

 会話は思わぬほうに転がり、私たち夫婦は和気藹々のうちに帰宅したのである。


投稿者 mukaidani : 22:44

2011年12月12日

議論の「千日手」

 昨夜、メシを食べに行こうとして、愚妻のステッキが玄関に置きっぱなしになっていることに気がついた。
 使っていないのだ。
 わざわざ京都で買ったのに、これはどういうことだ。

「おい、なぜステッキをつかんのだ」
 と問うと、
「痛くないから」
 と答える。

「治ったのか」
「治らない」
「ならば、なぜステッキをつかんのだ」
「痛くないから」
「治ったのか」
「治らない」

 堂々めぐりの会話である。

 要するに、地元ではカッコつけているのだが、それは頑として認めず、「痛くない」を強調するのだ。

「転ばぬ先の杖(つえ)というではないか」
「私、転ばないから」
「そういう意味ではない」
「じゃ、どういう意味よ」
「転ばないように杖をつくということだ」
「だから私、転ばないから」

 これも堂々めぐりとなる。


 将棋に「千日手」というのがある。
 同じ局面の繰り返しになって勝負がつかなくなることで、ルールでは、千日手になった場合はその勝負はなかったことにする。

 愚妻は将棋には無知はだが、本能的に「議論の千日手」を知っているのだろう。
 たいしたものだと感心もするのだ。

投稿者 mukaidani : 06:08

2011年12月10日

今夜は皆既月食だ

 今夜は皆既月食である。
「月が地球の影で、赤黒く見えるぞ」
 と道場で子供たちに告げると、
「それって、カイキじゃん!」
 小学生の男子が声を張り上げた。

「そうだ、皆既だ」
「月にカイキなんて、ヘンじゃん」
 と納得しない。

 話が噛み合わないので、よくよく話を聞いてみると、その子は、
「怪奇」
 と言っていたのである。

 月が赤黒く見えるのは「怪奇現象だ」というわけである。

 いま9時36分だから、あと10分ほどで皆既月食が始まる。
 稽古が終わって道場にいるので、帰り道で見れるだろう。

 今朝、愚妻に皆既月食のことを告げたのだが、
「あっ、そう」
 と無関心であった。

 花火は大好きなくせに、こうした自然現象はハデさがないため、愚妻は関心がないようだ。

 そういえば何年前だったか、愚妻は友人たちとアラスカへオーロラを見に行ったことがある。

 運よく見られたと喜んでいたが、オーローラの美しさよりも、「運よく見られた」ということを喜んでいるように私は思えた。

 誰でも見られる皆既月食に関心を示さないのは当然ということか。 

投稿者 mukaidani : 21:38

2011年12月09日

またまた痛風の発作である

 昨日は前々から畑に行く予定にしていた。
 霜が降りる前に、白菜をヒモでぐるぐる縛っておかなければならないからだ。

 ところ、ノドの痛みに加えて咳(せき)である。
 夜、都内で打ち合わせがある。
 畑に行くと、とんでもないことになるだろう。
「わしは畑はパス」
 愚妻に告げると、
「もう、どうしょうもないわね」
 プリプリしながら、一人で出かけていった。

 愚妻は、私の風邪より白菜が大事なのだ。

 で、昨日はずっとベッドで横になり、咳もおさまったので何とか出かけることができた次第。

 ところが、帰途である。
 左の足首が痛み出したのだ。
 帰宅して見ると、何と赤く腫(は)れているではないか。

 痛風だ。

 毎日、痛風の薬を飲んでいるのに、これはどうしたことだ。

 そういえば、「薬を飲んでいても、半年くらいは、また発作がでることもあります」と医者が言ったのを思い出した。

「痛テテテ」
 私が訴えると、
「風呂に入って温めたら」
 愚妻がテレビを見ながら言う。

「バカ者。痛風は温めてはだめなのだ」
「あら、そう」
 関心のない顔で言うのだった。

 今朝、足首の痛みに難儀しながら、自室から階段を下りた。

 今年もあと三週間だと言うのに、何ともやっかいなことではないか。

投稿者 mukaidani : 10:05

2011年12月07日

リスマスツリーを飾る

 ついに今日、クリスマスツリーを道場に飾った。
「どうして飾らないの?」
 と、4歳の孫娘が連日、愚妻を責め立てたからだ。

 最初のころは、
「館長はクリスマスツリーが嫌いなんだって」
 と愚妻も鷹揚(おうよう)に構えていたが、これが連日のごとくになると、愚妻もうんざりして、
「ちょっと、ツリーくらい飾ったらどうなの!」
 私を一喝。

 断腸の思いでツリー飾りを許可。
 坊主にあるまじき行為に、私は〝踏み絵〟に足を乗せたような心境であった。

 心労のせいか、今日の夜半から咳が出始め、ノドが痛くなってきた。
 きっと、ツリー飾りの許可を出したせいに違いない。
 年末に〆切があって、これからが追込みだというのに困ったことになったではないか。

「孫が悪い」
 愚妻に文句を言うと、
「あの子に直接そう言えばいいじゃない。嫌われるわよ」

 駄犬の〝マック爺さん〟にさえ、このごろシカトされる私なのだ。
 61歳になって孫娘に嫌われたらどうするのだ。
 私の脳裏を「泣き寝入り」という言葉がよぎるのである。

投稿者 mukaidani : 21:56

2011年12月06日

背伸びして、「痛テテテテ」

 昨日、九十九里の仕事部屋へ来た。
 手帳を見ると、実に1ヶ月と4日ぶりである。

 11月は雅楽だ、沖縄だ、京都だと忙しく、九十九里に出かける時間がなかった。
 九十九里までクルマで1時間。本来であれば、稽古のない日は仕事部屋へ籠もるつもりでいたのだが、これでは仕事部屋の意味がないではないか。

 しかも、九十九里には温泉健康ランドのほか、近くの旅館に温泉もあるので、愚妻もついてくる。

「わしは一人で出かける」
 と、かつて言ったことがあるのだが、
「あっ、そ!」
 ブンむくれて、始末に困ったことがあるのだ。


 で、昨日は温泉健康ランドへ出かけ、私は早々に休憩室で原稿書き。
 ひと息ついて背伸びをすると、背筋が引きつって「痛テテテ」。

 そこへ愚妻が風呂からあがってきて、
「どうしたの?」
 と気づかってくれるので、
「背伸びしたら痛くなったのだ」
 と答えるや、
「どうして背伸びなんかするのよ!」

 私は、背伸びしても愚妻に文句を言われるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:32

2011年12月05日

「お洋服」と「おパンツ」

 なぜ、車に「お」をつけて「お車」と呼ぶのか。
 先程、朝風呂につかっていて、そんな疑問が唐突によぎった。

 京都のデパートで愚妻にステッキを買ったとき、デパート嬢が駐車券のことを気づかって、
「お車ですか?」
 と訊いたことが、ずっと引っかかっていたのだろう。

「車なら歩かないですむからステッキは不要でしょう」
 と、このときは余計なことを言って愚妻にニラまれたが、「お車」とは言っても、「お自転車」とは言わないのはなぜだろうという思いがよぎった。

 そのことを湯船で唐突に思い出したのである。


「お車」に限らず、「お箸」とは言っても「おフォーク」とは言わない。

「お醤油」「お砂糖」「お塩」とは言っても、「おマヨネーズ」とは言わない。

「おネギ」とは言っても「おゴーヤ」とは言わない。

「お洋服」とは言っても「おパンツ」とは言わない。

 なぜなのだ。
 モノによって「お」をつけたりつけなかったりでは、差別であり、整合性がないではないか。

 風呂に愚妻を呼びつけ、私の疑問を述べ、
「どう思うか」
 と意見を求めると、
「バカなこと言ってないで、さっさとあがりなさいよ」

 問題意識が希薄な愚妻をうらやましく思い、私はどうしてくだらないことばかり考えるのだろうかと、反省しつつ、今日が始まったのである。

投稿者 mukaidani : 06:26

2011年12月03日

今日は私の誕生日

 うっかりしていたが、今日は私の誕生日ではないか。
 娘がバースデーケーキを道場へ持ってきてくれて、ハタと気がついたのである。

 61歳。
 還暦以降は「余生」と決めていたが、その余生も、はや一年が過ぎたことになる。
 来年も光陰は矢のごとく過ぎていって、やがて人生を終えるのだろう。

 だが、人生の終わり方は3パターンしかない。

 心臓マヒのようにコロリと逝(い)くか、事故で逝くか、病気で長患いのすえに逝くか。

 コロリは本人は楽だろうが、すべてをやりっ放しにして逝くのだから、残った者は残務整理に大変である。
 事故で逝くのは加害者がいるわけで、これはこれで相手に気の毒である。
 長患いは家族に迷惑をかけるので、これもマズイ。

 となれば、ハッピーな逝き方はないということになる。

 生きるのも楽ではないが、どうやら死ぬのも楽ではなさそうである。

 そんなことを考えながら道場から帰宅して、
「おい、娘がくれたケーキを食べようか」
 愚妻に告げると、
「あら、道場の冷蔵庫に置いてきちゃったわ」
 こともなげに言った。

 これが私の61回目の誕生日なのである。
 

投稿者 mukaidani : 22:12

2011年12月01日

ないものねだり

 東京モーターショーの開幕である。
 ニュースを見ていると、自動運転とかスマホ対応とか、先進技術満載で、
「クルマはここまできたか」
 と驚くばかりである。

 と同時に、
「そんなクルマをつくってどうするんだ?」
 という思いもある。

 経済・産業の発展は、本当に正しいことなのだろうか。
 もっと言えば、「豊かさ」とは何なのだろうか。
 青臭く、そんなことを考えるのである。

 スポーツカーを運転するよりも、パソコンをいじるよりも、スマホよりも、畑を耕し、野菜と会話することのほうがはるかに面白い。

 だが、この面白さは「時代の写し鏡」として存在する。
 畑と一緒に暮らしてきた田舎の人は、都会にあこがれた。
 そして、都会生活に疲れた人は、いま田舎暮らしにあこがれる。
 人間はいつも、ないものねだりをするのだ。

投稿者 mukaidani : 22:35