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2011年10月31日

幸せを招く「忘却力」

 私は、一度言葉に出せば、そのことをすぐに忘れてしまう。
 同様に、一度文章にしてしまえば、何を書いたかすぐに忘れてしまう。
「だからノンキに生きていけるのよ」
 と、罰当たりな愚妻は毒づくが、そうではない。

『流水は腐らず』
 と諺にいうが如く、健全な精神状態でいるためには、片っ端から忘れていくことが大事なのだ。

 そして、忘れても、大事なことや必要なことは、何かの拍子にヒョイと思い出すものなのである。


 昭和25年、ラジオドラマで『君の名は』が放送された。
 私が生まれた年なので、むろん放送は聞いたことはないが、
「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」
 と言われるほどの人気だったという。

 その『君の名は』の番組冒頭のナレーションは、つぎのようなものだった。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」

 ストーリーは割愛するが、要するに「忘れられないがゆえに苦悩する」という悲恋物語で、このことを突き詰めてけば、苦悩の根源の一つに「忘れられない」があるということになる。

 となれば、すぐに忘れてしまう私は、実に果報な男ということになるではないか。

 人生、大いに忘れるべし。
 これを「忘却力」と私は呼ぶのだ。

投稿者 mukaidani : 09:06

2011年10月30日

今日は市民空手道大会

 今日は、佐倉市民空手道大会である。
 近隣および県下の市町村から約400名ほどの参加がある。

 毎年、盛況で大変ありがたいことだが、「人団捨離」を実践している私としては、大会に顔を出すのが次第に億劫になってきている。
 だが、市連の副会長という立場上、欠席するわけにもいかない。
(そろそろ一切の役職を降ろさせてもらわなければ)
 と、これからの人生を見据え、朝風呂の中で考えるのである。

投稿者 mukaidani : 06:50

2011年10月29日

子供の指導は難しいものだ

「稽古をしろ!」
 と怒鳴っても、当然ながら子供たちは言うことをきかない。

 ならば、趣向を変えて、説教をしてみようと思い立った。

 で、昨夜の稽古。

 小学生の茶帯連中に、
「キミたちは、十年一日(いちじつ)の如く、技量が上達しない」
 と説教をしたところ、小学4年生の男児が、
「十年一日って何ですか?」
 と質問してきた。

 これぞ私の思うつぼで、わざと理解不能の慣用句を口にし、興味を喚起し、さらなる説教につなげようというわけである。

「十年一日とは、《長い年月の間、何の変化もなく同じ状態であること》という意味で、キミらのことだ」
 と言ったところが、
「ボク、まだ十歳になっていないから、十年たっていないよ」

 この一言がキッカケで、
「俺、十一歳」
「ボク、まだ九歳」
「私は十二歳よ」

 何だか妙な話になり、
「十年はたとえだ!」
 と大声を出したが、誰も耳を貸さず、ワイワイとにぎわいが続いて、私の説教は不発に終わってしまった。

 そう言えば、先日は、
「人間は、眼力(めじから)が大事だ」
 と話したところ、一人のひょうきん者が、眼をキッと見開いて見せ、道場は爆笑してしまった。

 叱ってもだめ、怒鳴ってもだめ、説教もだめ。
 人間はやはり、ホメて育てるしかないようである。

投稿者 mukaidani : 12:17

2011年10月28日

話題の〝急転換〟

 我が家の駄犬「マック爺さん」は、日がな一日、寝息を立てて眠っている。
 これを見て「うらやましい」と羨望(せんぼう)するか、「畜生よのう」と憐(あわ)れむか。

「おい、おまえはどっちだ」
 と愚妻に問うと、
「犬と人間は違うでしょう」
 と、答えにならないことを言う。

「私は、そういうことを問うておるのではない。〝マック爺さん〟を見て、羨ましいか、それとも・・・」
「そんなことより、畑どうするの?」
「昼から行く」
「じゃ、支度しておくわよ」

 コロリと話題を変えられ、それに思わず乗ってしまった。
 クルマの急ハンドルは危険だが、会話のテーマは〝急転換〟が実に有効であることを、身をもって知らされたのである。

投稿者 mukaidani : 11:08

2011年10月27日

枕元のペットボトル

 痛風が出て以後、「水を飲め」と愚妻が口うるさい。
 私のベッドの枕元には、ペットボトルが5本も置いてある。
 朝起きて、グビリとひと口飲みはするが、5本という本数に圧倒されて気持ちが萎(な)えてしまう。

 これを愚妻の愛情と受け取るか、
(あの女、面倒だからまとめて5本置いたな)
 と意地悪く受け取るか。

 まさに私の人間性が試されているのだ。

投稿者 mukaidani : 08:39

2011年10月26日

私はアンチ「自転車ブーム」

 自転車ブームである。
 私はこれが気に入らない。
 自転車が嫌いなのではなく、ブームに乗っかり、スパイダーマンのようなコスチュームを着て、得意顔で乗っている人間が好きではないのだ。

 しかもメディアは、いまでこそ自転車のマナーの悪さを批判しているが、エコだの、地球にやさしいだのと無節操にヨイショ。
 自転車乗りは、これを〝錦の御旗〝に、さもいいことをしているかのような顔をしてきた。

 しかし、自転車のマナーの悪さ、歩行者への迷惑とケガ、さらに得意顔に至っては、オートバイの暴走族と精神構造において同質のものを感じるのである。

 繰り返すが、自転車に恨みはないし、自転車愛好家にケチをつけるつもりはない。
 自転車に限らず、ブームに乗って得意顔をすることが、私は嫌いなのである。

投稿者 mukaidani : 16:46

2011年10月25日

痛風も、ようやくひと息

 やっとこさ、痛風の痛みがおさまってきた。
 思えば苦吟、2週間である。
 医者に、
「痛風のクスリとは一生つき合っていくものだ」
 と言われたときは暗澹(あんたん)たる気分になったものだが、考えてみれば高血圧のクスリも、そろそろ6年になるのではなかったか。

 過ぎてみれば早いものだ。
 この調子なら、これから先の人生も、あっという間に過ぎるのだろう。
 いいんだか、悪いんだか。
 何とも複雑な気分になるではないか。

投稿者 mukaidani : 09:31

2011年10月24日

龍笛の稽古で、頭がボーッ

 朝、起きると頭がボーッとしている。
 これは昨日、龍笛(りゅうてき)の稽古に行ったからに違いない。

 なにしろ4時間、みっちり稽古だ。
 指導してくださるH先生は40代の熱血漢で、それに引きずられて、神経がずっと張り詰めている。
 だから疲れる。

 これが空手や古武道の稽古、あるいは原稿執筆であれば、何時間つづけても、疲れはしても神経がくたくたになることはない。
 要領がわかっているので、神経を弛緩させるコツを知っているからだ。

 ところが龍笛はそうはいかず、神経は緊りつめたままということになる。


 となれば、人生も同じのはずだ。
 歳を取るにつれて生きる要領をおぼえ、神経をすり減らすことは少なくなるはずなのに、毎日、神経がくたくたになるのはどうしてだろうか。

 きっと、毎日毎日、〝新たな欲〟が芽生え、それを必死で追いかけてるからだろう。
 神経が休まるヒマがないはずである。

投稿者 mukaidani : 11:15

2011年10月23日

龍笛と愚妻

 今日は龍笛(りゅうてき)の稽古日で、松戸市の天真寺に出かける。
 ホラを吹くの違って、龍笛となると、これは甚(はなは)だ難しいのだ。

 自宅にいるときに、改まって稽古となると気が重くなるので、龍笛を机の脇に置いておき、気が向いたらパッと手に取ってピィ~と鳴らすのだが、
「ちょっと、うるさいわね!」
 愚妻が強硬にクレームをつけてくるのだ。

「おまえの声のほうがうるさいではないか」
「あなたが吹くから、私が文句を言うんでしょ」
「それを世間では屁理屈と言う。そもそも屁理屈とは、屁をこくのにも理屈をつけて・・・」
「うるさい!」

 私の龍笛が遅々として上達しないのは、ひとえに愚妻のせいなのである。

投稿者 mukaidani : 13:52

2011年10月22日

一席設けるときの「告げ方」

 以前、ある出版社の編集長が一席設けてくれたときのことだ。

 私の食べ物の好みを聞いてくれたあとで、
《Aという店を、6時から予約してあります》
 というメールを頂戴した。

 もちろん地図が添付してあるのだが、私が感心したのは、
《6時から予約してあります》
 という言い方である。

 たいていこういう場合、メールでも電話でも
《では、午後6時ということでよろしくお願い申しあげます》
 という言い方になる。

 これだと、知らせを受け取った人間は、
(6時に遅れないようにしなければ)
 と思う。

 ところが、
《6時から予約してあります》
 となれば、
「6時から予約してありますので、どうぞ遅れても構いませんから」
 という〝気づかいのニュアンス〟がある。

 だから私は感心したというわけである。

 もちろん、時間どおりに行きはするのだが、ここまで気づかいしてくれる神経の細やかさに、私は信頼を寄せるのだ。

投稿者 mukaidani : 14:37

2011年10月21日

私たちは「逆説の人生」を生きている

《田あれば田に憂へ、宅(いえ)あれば宅に憂ふ。田なければ、また憂へて田あらんことを欲(おも)ふ。宅なけばまた憂へて宅あらんことを欲ふ》

 経典『無量寿経』の一節である。

 意味はおわかりのとおり、
「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む」
 ということから、
「有れば有ることで苦しみ、無ければ無いことを苦しむ。有れば有ることで憂(うれ)え、無ければ無いことを憂う。ゆえに憂いは、有る者も無い者も同じなのだ」
 と説く。

 とろが、凡夫たる私たちは、
「同じ苦しみなら、持てない苦しみより、持てる苦しみがのほうがいいじゃないか」
 と思う。

 家がないより、あったほうがいい。田畑がないより、あったほうがいい。
 飢えの苦しみより、飽食の苦しみを選ぶのが人情だろう。

 だが、本当にそれでいいのか。

 戦後六十余年、私たちは「獲得する人生」をひた走ってきた。
 お金、家、土地、車、電化製品、海外旅行、そして出世をめざした。
 それらを獲得することで、幸せになれると信じていたからである。

 結果はどうだったろうか。
 日本が貧しかった時代とくらべて、私たちの心はどれだけ幸福感で満たされているだろうか。
 答えは言うまでもないだろう。

 私たちは「苦しむために努力する」という〝逆説の人生〟を生きているのだ。

投稿者 mukaidani : 12:19

2011年10月20日

畑で学ぶ「人格の力」

 痛風の痛みがおさまったので、今朝は畑へ出かけた。
 〆切明けでもあり、道場も今日は稽古がないので、私としてはゆっくりしたいのだが、愚妻が口やかましく言うので出かけた次第。

 愚妻は、これまで畑には乗り気でなかったのだが、ハマったようだ。
「耕し方が足りない」
 とか、
「白菜の虫を取れ」
 とかうるさく命じたあげく、
「あなたって、ホントにダメねぇ」

 冗談じゃない。
 おかげで、足首の痛みがぶり返し、痛テテテになってしまったのである。


 だが、勉強になったこともあった。
 堆肥を運び、耕耘機で耕す私に、畑の大指南役であるS氏がこうおっしゃった。
「畑はね、土の力が大事なんだよ」

 そのときは聞き流したが、畑からの帰途、
(そうか、土の力を〝地力〟と言うのか!)
 判然とさとったのである。

 帰宅してさっそく辞書を調べてみると、「地力(ちりょく)」と読めば、
『 その土地が作物を生育させることのできる能力』
 という意味になり、「地力(じりき)」と読めば、
『その人が持っている本来の力』
 という意味になる。

 いずれにせよ、「実力」という意味だ。
 畑は、ベースたる「土の力」が勝負なら、人間もまた、ベースたる「人格の力」が勝負ということか。
 足首は痛くなったが、引き換えにいいことを学んだのである。

投稿者 mukaidani : 16:34

2011年10月19日

睫毛(まつげ)と「極意」

 北辰一刀流開祖・千葉周作に次の言葉がある。

「極意とは 己が睫毛(まつげ)のごとくにて 近くあれども見えざりにけり」

(なるほど)
 とヒザを叩いたものの、その意味を考えると、これは実に難しいのである。

 この言葉を『真理は足下にあり』という意味と同じにとらえれば、
「なんだ、難しく考えすぎたけど、極意はそういうことだったのか」
 ということになる。

 だが、睫毛は永遠に見ることができないということから考えれば、
「極意は永遠に悟れないもの」
 という意味になる。

 さて、どっちだろうか。

「おい」
 と、愚妻に問う。
「千葉周作に言う『極意とは 己が睫毛のごとくにて 近くあれども見えざりにけり』をおまえはどう考える」
「何よ、それって嫌味を言っているの?」
 キッと私をニラむ。

 愚妻はこれから、わが家の隣の美容室に〝睫毛パーマ〟をかけにいくのだ。
 睫毛をカールすれば、ますます〝極意〟は見えなくなるではないか。
 愚妻は永遠に〝人生の極意〟に気づくことはあるまい。
 だから元気なのだ。

投稿者 mukaidani : 12:39

2011年10月18日

ネバー・ギブ・アップ

 雑用と仕事で、目がまわりそうだ。
 できれば1日に5分でも龍笛の稽古をしたいのだが、ピィ~と音を出すと、
「あら、ヒマそうね」
 と愚妻の嫌味がわかっているので、ガマンして吹かないでいる。

 幸い痛風はおさまった。
 先ほど原稿も送った。

 これで単行本の年内脱稿は、あと2冊。
 11月末と12月25日の〆切だが、11月は沖縄と京都の予定を入れている。
 すでにチケットも取っているし、アポイントも入っている。
 キャンセルはできない。

「こうなりゃ、矢でも鉄砲でも持ってこい!」

 ネズミでさえ、追い詰められれば猫をガブリとやるのだ。
 まして人間の私ではないか。
 ネバー・ギブ・アップなのだ。

投稿者 mukaidani : 15:55

2011年10月15日

今日は広島

 所用で本日は広島。
 月曜朝の〆切があるので、早々に引き上げ、いまホテルへ帰ってきて、パソコンに向かったところだ。

 昨日は痛風治療のお灸を治療院ですえてもらったので、ずいぶん楽になった。

 それにしても、お灸の力はすごいものではないか。

 東洋医学は、人間を「モノ」でなく、「人間」として診ているような気がする。
 お灸の心地よい熱さが、やみつきになりそうである。

投稿者 mukaidani : 22:17

2011年10月14日

蓮舫さんの登場ですか

 蓮舫さんが、またまた登場だそうだ。
 野田首相の意向を受け、4回目の事業仕分けを実施するとか。

 政権交代後、政府はこれまでに事業仕分けを3回実施したが、歳出削減による財源捻出効果は大きくなかった。

 メディアは、
《原子力行政の立て直しや、「税と社会障の一体改革」と並行した社会保障制度の洗い直しへの活用で、仕分けそのものの活路を見いだす考えとみられる》
 と報じ、成果は不透明としている。

 ま、どうでもいいのだが、私が興味を引かれるのは蓮舫さんの「態度」だ。
「使命感に燃えて」
 と言えば聞こえがいいが、ものごとを「断定」し、その断定に一点の迷いもないということに、私は驚く。

 私のように、右を向いては「なるほど一理ある」、左を向いては「なるほど一理ある」とやっているような人間には、とうてい理解しがたい女性なのである。

 仕分けの是非は別として、彼女の自信に満ちた態度で相手をやり込める姿を見ていると、
(住みにくい日本になったな)
 と、そんな思いを抱くのである。

投稿者 mukaidani : 09:21

2011年10月13日

痛風がぶり返す

 痛風が峠を越えたものと思っていたら、甘かった。
 昨夜、足首がズッキンズッキンと痛み始め、赤く腫れ、ほとんど眠れなかった。

 忙しいときに困ったものだ。

「うまくいかないのが人生」を信条とする私も、さすがに参った。

 だが、何とかせねばなるまい。
 我が身に言い聞かせる今朝である。

投稿者 mukaidani : 08:58

2011年10月12日

痛風を押して家庭訪問

 今朝は、保護司の仕事で往訪(家庭訪問)。
 痛風で足首が痛く、愚妻に頼んで、訪問先の近くまでクルマで送ってもらうことにした。

「今日は忙しいんだから」
 とプリプリしながらも送ってくれることになった。

 むろん車中では愚妻のご機嫌を取り、ようやく機嫌が直ったと思ったら、
「あッ!」
 愚妻の眉間にシワが寄った。

 道路工事中だ。
 警備員が「迂回せよ」と手を振っている。
 何とタイミングの悪いことか。

「もう、忙しいとき!」
 せっかく直った愚妻の機嫌がまた悪くなり、怒りの矛先は当然、私に向く。

「尿路に石ができたり、痛風になったり、どうしょうもないんだから」
「おまえだって、膝に水が溜まるではないか」
 と言いたかったが、言えばケンカになる。
 ケンカになれば、これも当然、帰りの迎えはない。

「すまん、すまん」
 と、私はひたすら愚妻のご機嫌を取るばかりであった。

 痛風は人間関係にまで影響してくるのだ。
 何とも厄介なものではないか。

投稿者 mukaidani : 13:02

2011年10月11日

ウソと真実

 愚妻が一人で畑に出かけた。
 私が痛風で唸っているからである。
 畑の大指南役であるS氏の手前もある。
「現状を報告し、畑を耕すのは来週になるとお伝えせよ」
 と命じて送り出したのである。

 その愚妻が先ほど帰ってきた。
「ついでに草も取ってきたわよ」
 と言う。

「ヒマだな、この忙しいときに」
 と言ったわけではない。

「そうか! よくやった!」
 とホメめちぎり、愚妻は満面の笑みとなる。

 ペルシャの諺(ことわざ)に言う。
『良い結果をもたらす嘘は、不幸をもたらす真実よりいい』

 もって肝に銘ずるべきではないか。

投稿者 mukaidani : 09:36

2011年10月10日

痛風が出た

 ヤバイ、痛風の発作だ。
 数日前から何となく予感があり、講演の日に発作が出ると大変なので、薬を服用していた。

 幸い講演は無事に終わったのだが、その帰途である。
 左足のくるぶしに、かすかな痛みが走った。
 イヤな予感がしたが、見事に的中。
 昨日から痛テテテテになったという次第。

 で、今朝。
 自室から階下に降りていくのもままならず、携帯電話で愚妻を呼びつけると、
「コトと次第によっては、病院の救急外来へ行くから、そのつもりでいよ」
 と命じた。

 日曜、祭日は、かかりつけの医院は休み。
 しかも、私は鎮痛剤アレルギーなので、市販の鎮痛剤はヤバくて服用できないのだ。

 原稿の〆切まであと一週間。
 水曜日は、保護司の仕事で家庭訪問がある。
 木曜日は約束があって都内へ出かける。
 土、日は所用があって広島へ行かねばならない。
 さらに、夜は稽古指導がある。

 痛テテテをやっている場合ではない。
 果たして、気力で痛風を克服できるものか。
 ひとつチャレンジしてやろうではないか。

 

投稿者 mukaidani : 12:25

2011年10月09日

昨日は講演会

 昨日、講演した。
 日本不妊カウンセリング学会の主催で、場所は虎ノ門のニッショーホールである。

 去る8月の初めのこと。
 同学会から「不妊カウンセラー・体外受精コーディネーター養成講座」で講演して欲しいとのメールを頂戴した。

 演題は、拙著のタイトルと同じ『会話は「最初の一言」が9割』。
 同養成講座は年2回の開催で、毎回400人ほどが受講。医学を中心としたプログラムで、その中で1時間の講演をして欲しいということだった。

 私は面食らった。
 送っていただいた講座の資料を拝見すると、私には理解しがたい医学の話ばかり。そんな養成講座で、『会話は「最初の一言」が9割』なんてテーマは場違いではないか。

 懸念を伝えると、「いえ、そのお話を聞きたいのです」とのこと。
 カウンセラーにとっても「会話術」は必要なテーマということなのだろう。
 ならば、とお引き受けした次第。

 講演は、会話と違って言葉のキャッチボールがなく、一方的にしゃべるものなので、このあたりにやりにくさがあるのだが、受講生の方々によく笑っていただいたので、とてもやりやすかった。


 講演が終わったあとで、懇親会に誘われた。
 私は「人断捨離」を実行中で、パーティとか懇親会といったものはお断りしているのだが、主催者の方々が、とても気持ちのいい人ばかりなので、お邪魔させていただいた。

 全国各地から病院関係者の方々がお見えだったが、話題は良寛あり、釈迦あり、人生論ありで、とても楽しい時間だった。

 そんななかで、女性カウンセラーの方からカウンセリングということについて相談された。

 私はカウンセリングについては素人だが、思うところを話した。
 不妊医学の最前線で、こうして真摯に取り組んでいらっしゃる方々が大勢いるのだ。
 私が初め接する分野であり、大いに刺激を受けた夜だった。
 

投稿者 mukaidani : 10:45

2011年10月08日

「これ、それ、あれ」と愚妻

「おい、それを取ってくれ」
 私がテッシュ箱を指さして言えば、
「ちょっと、それを取ってくれない」
 と愚妻がボールペンを指さして言う。

 私たち夫婦は「それ」「あれ」「これ」で会話している。

 いかん。
 ボケ始める前兆だ。

「おい、〝それ、これ、あれ〟はやめようではないか」
 愚妻に提案すると、
「わかったわ」
 と素直にうなずいて、無言でボールペンを指さした。

「何をやっておるのだ」
「何をじゃないでしょう。いま、〝それ〟と言っちゃいけないって自分が言ったじゃないの」
 素直と言えば、これほど素直な女もいまい。
 私は幸せ者である。

投稿者 mukaidani : 11:30

2011年10月07日

この季節になると「良寛」だ

 今日は一転、ポカポカ陽気だが、あと2カ月足らずで師走である。
 冬を意識するこの季節になると、なぜか良寛が気になってくる。

 良寛が晩年を暮らした「五合庵」という庵が、越後の雪深い山中にあるからだろうか。

『良寛 清貧に生きる言葉』を執筆するために、この地を訪れたのは、はるか以前のような気がしているが、出版年月を見ると2009年4月になっている。

 とすると、「五合庵」を訪ねたのは、つい2年半ほど前ということになる。
 月日が経つのは早いと言いながら、意外と「遅い」ものだと、妙な感慨にひたるのである。


 私がお気に入りの良寛の詩は、次のものだ。

 少年より 父を捨てて 他国に走り
 辛苦 虎を画いて 猫にもならず
 人あって もし 箇中の意を問わば
 これは これ 従来の栄蔵生

 栄蔵というのは良寛の俗名で、詩の意味は、

「若い時に父のもとを離れ、他国におもむいて仏道の修行に励んだが、苦労のかいもなく、虎を画いたつもりが猫にも似ないように、先師の片端さえ学び取ることができなかった。もし人が、その意味を尋ねたならば、ただ昔のままの栄蔵といった若いころと同じだと、答えよう」

 親不孝を悔いる良寛の思い、と解釈されてもいるが、私は別の意味を読み取る。

 すなわちそれは、
「虎になろうとして猫にさえなれなかったが、それでもいいではないか」
 という達観の境地である。
「親不孝も、これまでの苦しい修行もすべて、〝変わらぬ自分〟に気づくためのものであった」
 と良寛は言っているのではないだろうか。

「自己肯定」である。

 私たちも来し方を振り返れば、「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔ばかりだが、
「それはそれでよかったじゃないか」
 と言って熟年を迎えたいものだ。

 やはり、良寛はいい。

投稿者 mukaidani : 11:11

2011年10月06日

ホイールキャップが転がってきた

 昨夜、稽古中のことだ。
「ガチャーン!」
 と音がしたので、仕事部屋から道場へ出てみると、
「クルマのホイールキャップが転がってきました」
 と、M師範代があきれている。

 見ると、走行中のクルマから外れホイールキャップが歩道を越え、道場の傘立てにぶつかっていた。

 昨夜は雨だったので、プラスチック製の傘立てを道場の入口に置いたのだが、これがなければガラス戸がひどいことになっていた。

(ウーム)
 私は思わず唸った。

 実を言うと稽古前、一度置いた傘立ての位置が何となく気に入らず、動かしたのだ。
 それがうまい具合に、ホイールキャップをプロテクトしたというわけである。

 このことを人生に置き換えるつもりはないが、世のなか、何が幸いするかわからないものだと、つくづく感じたのである。
 

投稿者 mukaidani : 16:40

2011年10月05日

雨とは知らなかった

 午前中、保護司関係の打ち合わせがあった。
 特に意味もなく、新しく買った靴を履いて外へ出たら、何と外は雨ではないか。

「おい、雨だ」
 愚妻に言うと、
「あら、知らなかったの」
 小癪にも、平然としている。

 これにカチンときて、
「なぜ、新しい靴を履くと言ったときに、〝雨よ〟と言わんのだ」
 文句を言うと、
「雨なのにヘンな人と思ったけど、あなた、人と変わったことをするのが好きなんでしょう?」

 ああ言えばこう言うなのだ。
 ノートパソコンの調子も悪いし、今日は何となく釈然としない一日を過ごしている。

投稿者 mukaidani : 15:40

2011年10月04日

「清い水」と「濁った水」

『水清ければ魚棲まず』
 と、ことわざに言う。

 意味は周知のとおり、
「清廉潔白も、あまりに過ぎると、煙たがられて人が寄ってこない」
 というものだ。

 清廉潔白は、生き方としては立派なように思われがちだが、そうではない。
 利害が複雑に絡み、人それぞれ人生観も違う社会にあって、清廉潔白は、自分の生き方を貫くということにおいて「エゴ」と同義語なのである。

 だから私は、清廉潔白な生き方をしない。
 わざとしないのだ。

 ところが、愚妻にはそのことが理解できない。
「濁った水にも魚は棲まないんじゃない?」
 とバチ当たりなことを言うのである。

 もっとも、言われてみれば、一理なしとしないか。

 となれば、「人間は清くなり過ぎず、さりとて濁り過ぎず」をもって上々とするということになる。
 そんな器用なことは、私にはできそうもない。
 世渡りとは、何とも難しいものなのである。

投稿者 mukaidani : 15:34

2011年10月03日

畑大指南役のS氏が来ない

 原稿が追い込み状態だが、畑に行かねばならない。
 野菜に追肥、そしてダイコンの間引き・・・。
 時期を逸するとまずい。

 だが、それはいいとしても、畑大指南役のS氏に、
「次ぎに来たら、耕耘機で耕しましょう」
 と、恐ろしいことを告げられており、畑行は躊躇しているのだが、こういうときに限って愚妻が張り切るのだ。

 昨日も夜になって、
「あっ、苦土石灰を買うのを忘れていたわ」
 と量販店へいそいそと出かけていった。

 苦土石灰は土に混ぜ、その上で畑を耕す。
 要するに、
「明日は畑へ行って耕すんですよ」
 と、言外のプレッシャーを私にかけているのである。

 しょうがない。
 今朝、深夜3時に寝て5時起きで、畑へ出かけた。

 ところが、7時近くなっても、今朝に限ってS畑大指南役が来ないのではないか。

「おい」
 と、ダイコンを間引く愚妻に告げた。
「急用を思いだしたゆえ、帰り支度をせよ」

 すると、愚妻は私をジロリと見上げ、
「ちょっと、Sさんが来る前にトンズラする気でしょう」
 バチ当たりな邪推をするのだ。

「バカ者!」
 私は一喝して、
「Sさんが来る前に帰るのではなく、私が帰ったあとにSさんが来ることになるのだ」
 きちんと事実を指摘してやったのである。
 

投稿者 mukaidani : 12:44

2011年10月02日

〝駄犬〟の退院と「夫婦の溝」

〝駄犬マック〟が、今日、退院だそうだ。
 膵炎で、2泊3日の入院である。

「駄犬にしては贅沢ではないか」
 と言うと、愚妻が怒った。
「何よ、駄犬、駄犬って!」

 思慮が浅い女だ。
「いいか、聞け」
 と私は、さとした。

「駄犬がいるから賢犬がおるのだ。駄犬がいなければ、賢犬の存在は成り立たない。ゆえに、駄犬は立派なのだ」

 頭が混乱したか、愚妻はしばし考えていたが、
「じゃ、あなたのような人間がいるから、世のなかには立派な人がいるというわけね」

 今度は、私の頭が混乱したが、すぐに気を取り直して、
「悪妻は百年の不作というけれど、あれは間違いだ。悪妻の存在によって良妻が成り立つ以上、〝悪妻は百年の豊作〟と言うべきだ。ゆえに、我が家は百年も豊作が続くことになる」
「ちょっと!」

 愚妻の怒るまいことか。
〝駄犬マック〟の退院で、夫婦の溝はさらに広がっていくのだ。

投稿者 mukaidani : 09:58