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2011年09月30日

〝駄犬〟が入院である

 我が家の〝駄犬マック〟が、膵炎で、ペット病院へ入院したのだそうだ。
 先ほど、愚妻が仕事場へ電話してきた。

「なぜ、犬が膵炎になるんだ」
 私が叱責すると、
「そんなこと、私に言われても知らないわよ」
 と、体をかわす。

「飼い主が責任を放棄するのか」
「ちょっと、ごちゃごちゃ言ってないで、〝かわいそうに〟くらいは言えないの」
「バカ者、かわいそうなのは、この私ではないか。病気になるヒマすらないのだ。それに引き替え、駄犬の分際で入院とは・・・」
「うるさいわね」
 プツ、と携帯電話が切れた。


 そういえば、ここ2、3日、駄犬に元気がなかった。
「痛い」
 とも言えず、じっと横になっていた。

 それに引き替え、〝飼い主〟は、あっちが痛い、こっちが痛いと言って、そそくさと整形医院へ出かけていく。
 それを思うと、駄犬がかわいそうになってくる。
 たいしたことなければいいが。
 点滴をしているとのことだった。

  
 

投稿者 mukaidani : 12:19

2011年09月29日

ブログ1000回である

 このブログを書こうとして、今回が投稿1000回に当たることに、いま気がついた。

「だからどうした」
 と言われると返す言葉はないが、
「よくぞ書き続けたものだ」
 と感心したり、
「アホなこと続けてきたな」
 と自嘲してみたり、それなりの感慨はある。

「継続は力なり」
 とは言うものの、私のブログは、継続することに何の意味があるのだろうかと、正直、首をかしげているところである。

 ついでながら、畑も週2日ほどコンスタントに行くようになった。
 というのも、我が家の畑指南役である映芳爺さんが体調を崩し、入院しているからである。
 指南役が不在だからといって、畑を放っておくわけにもいかず、一念発起して愚妻と一緒に出かけているというわけだ。

 それにしても、女の馬力はすごい。
 収穫だけを楽しみにしていた愚妻が、いざ自分で野菜を作るとなると、驚くほどに熱心なのである。

「帰るぞ」
 私が声をかけると、
「あら、もう帰るの?」
 愚妻が険しい顔をする。

「畑仕事は無理してはいかんのだ」
「来たばっかりじゃないの」
「ばっかりかどうかは、主観の問題だ」
「じゃ、ホウレンソウだけ植えさせて」
「しょうがない。特別に許可しようではないか」
 そう言い置いて、私はクルマのなかで休んだ。

 今朝、畑でのことである。

投稿者 mukaidani : 08:48

2011年09月28日

いま気づく「私は不幸な人間」

 不平不満は、幸せの証(あかし)である。

 幸せな人間は、たとえていえば、満天星の下にいながらもそのことに気づかず、白昼の空に星を探して、あれが欲しい、これが足りないと不平不満をもらすのと同じであるからだ。

 夜空を背景にすることで星の輝きに気づくように、幸せもまた、苦労や不幸を体験してこそわかる。

 このことを、ことわざで『楽人(らくじん)楽(らく)を知らず』という。

「何の苦労もなく気楽に生きている人には、かえって安楽のありがたさがわからない。苦労してはじめて安楽のありがたさがわかる」
 という意味で、これを逆説的に言えば、
「不平不満は、幸せの証である」
 ということになる。


 となれば、これといって不平不満のない私は、どういうことになるのか。
「幸せ」なのか「不幸」なのか。

 愚妻は、
「好き勝手に生きて、あなたのような幸せな人間はいない」
 と、いまいましそうに言うが、「不平不満は、幸せの証」である以上、不平不満のない私は「不幸」というこになる。

 なるほど、いまにしてようやくわかった。
 愚妻が何と言おうと、私は不幸な人間だったのである。

投稿者 mukaidani : 22:55

2011年09月27日

湯船に浸かれば「妙想飛来」

 昨夜、九十九里の仕事部屋に来た。
 鍼(はり)のおかけで腰痛が楽になり、温泉健康ランドに入ればもっとよくなるだろうと思ってのことだ。

 ところが、何だかんだ雑用に追われて原稿が予定まで進まず、仕事部屋に来たものの、健康ランドへ行く時間が取れない。

「おまえ、一人で行け」
 愚妻に命じると、
「ハイハイ」
 弾む声で返事して、いそいそと出かけていった。

「私だけ風呂に浸かって悪いわね」
 という気づかいは、むろんない。

「仕事、頑張ってね」
 と励ますわけでもない。

 返事は明るく軽やかに、
「ハイハイ」

 ヘタに気づかわれても迷惑だが、こうもあっさりとした返事をされると、これはこれで嬉しくないものである。

 今日は、近所の旅館にある温泉に入りに行こう。
 健康ランドの賑やかさはないが、お湯はいいし、展望浴場なので九十九里の海が一望である。
 きっと、仕事の知恵も浮かぶことだろう。

「期待なきところに失望なし」
 とは言うけれど、私の場合は、湯船に浸かれば「妙想飛来」。
 だから、どうしても風呂にこだわるのだ。
 
 

投稿者 mukaidani : 09:07

2011年09月26日

龍笛の稽古で気づいた「無心」

 昨日、千葉県松戸市の天真寺さんに、龍笛(りゅうてき)の稽古にうかがった。

 ご指導くださるH先生は、芸大邦楽科で龍笛を専攻された方で、本願寺派布教使でもあり、京都からおいでになる。

 40代の熱血指導者で、午後3時から3時間以上、みっちりと稽古。
 終わってみて、書きかけの原稿のことも、来週の予定のことも、何もかも忘れて稽古に没頭していた自分に気がついた。

 帰途、クルマを運転しながら「無心」ということについて考えた。
「無心」とは、「明鏡止水」のごとく、一切の執着を離れた「無の心」ではなく、「一つのことに没頭し、他の一切が心から消し去られた状態」のことを言うのではないか。

 武道やスポーツにおいて、
「勝敗にこだわるな、無心であれ」
 と教える。

 だが、これは間違いではないかと思う。
 勝敗にこだわり、こだわりきることを「無心」というのではないか。
 もっと言えば、勝敗にこだわり、こだわり切り、それを突き抜けた先に「無心」があるということなのだ。

 龍笛の稽古を通じて学んだ一つである。

投稿者 mukaidani : 09:56

2011年09月25日

「必要条件」「十分条件」

「雲あらざるところ雨なく、雨降らざるところ虹なし」
 私がつくった言葉だが、気に入っている。

 つまり、「不幸」は「幸福」のタネということだ。

 たとえば、苦労して畑を耕すから、収穫の喜びがある。
 言い換えれば、
「収穫の喜びは、畑を耕す苦労なくしてはない」
 ということになる。

 となれば、ハッピーな人生を送りたければ、積極的に苦労を背負(しょ)えばいいということになる。

 だが、「幸福になるためには不幸であれ」というのは、何だかヘンではないか。

 そういえば、高校時代だったか、数学で「必要条件」「十分条件」というやつを習った。
 確か、「AはBであるための十分条件」「BはAであるための必要条件」といったようなものだった。

 そこで、Aを「苦労」、Bを「幸福」として両者の関係を考え始めたが、すぐにやめた。
 そんなノンキなことをやっているヒマはないことに気づいたからである。

 それに、私は数学が大の苦手だったではないか。
 解けるわけがないのだ。

投稿者 mukaidani : 08:24

2011年09月24日

孫達をつれて畑へ

 昨日、審査会を終え、今朝は畑である。
 孫2人を連れて行ったのはいいが、ニンジンは片っ端から引き抜くは、タネをまいたところは長靴で踏みつぶすは、狼藉の限りをつくす。

「こらッ!」
 と怒鳴りたいところだが、趣味でやる畑である。
 怒ったのでは、趣味ではなくなる。

(孫たちが楽しんでこその趣味ではないか)
 そう我が身に言い聞かせ、私は笑顔でいる。

 だが、腹の中は、
(しょうがねぇガキどもだ)
 
 イライラしながらも、顔はニコニコ笑顔。
 忍耐とはこういうことを言うのだろう。
 畑はまさに、人生勉強の場なのである。


投稿者 mukaidani : 09:56

2011年09月23日

今日は審査会

 今日は、当道場で審査会だ。
 朝9時から午後3時まで、各クラスに分けて50名ほどが受審する。
 審査会は春秋2回行っており、子供たちにとっては緊張する〝貴重な機会〟でもある。

 それだけに全力を出すようで、普段、稽古については見慣れているはずなのに、
(あれ? こんなに上手だったかな?)
 と驚くことも少なくない。
 そういう意味で、楽しみな日でもある。

 審査会のあと、横浜支部のK君が、棒とヌンチャクの稽古にくる。
 11月、沖縄で古武道初段の審査を受けるため、その特訓である。
 今日も、忙しい1日が始まる。

投稿者 mukaidani : 07:03

2011年09月22日

「青空」と「心」

 台風一過。
 各地に甚大な被害をもたらしておきながら、何事もなかったように今朝は青空が広がっている。
 自然とは、なんと残酷なものであることか。

 いや、人間だって同じだ。
 笑ったと思ったら、怒る。
 怒ったと思ったら、笑う。
 親切にしたと思ったら、エゴを丸出しにする。

 何事もなかったように、心はコロコロと変わっていく。
 なんと、残酷なものであることか。

投稿者 mukaidani : 08:16

2011年09月21日

「貧」と「仏道」

「仏道は貧なるべし」
 とは、道元の言葉だ。

「欲を捨てよ」
 という意味だ。

『貧』という字は『分』+『貝』。
『貝』はお金をあらわすので、
「お金をみんなに分け与えた結果、財産ができずに貧しい」
 というのが本来の意味となる。

 まさに「自利利他」の仏教精神である。

 腰痛で、痛テテテと唸っているうちに、
「仏道は貧なるべし」
 という言葉が、唐突に脳裏をよぎったのである。

 理由はわからない。
 わからないが、素敵な言葉ではないか。

 そんなことを思っていると、これまた唐突に、
「貧は仏道なるべし」
 と、言葉を入れ替えたらどうなるか、という思いが脳裏をよぎる。

 いま、そのことを考え始めたのだが、締め切りが刻々と近づいていて、「貧」とか「仏道」について考えているヒマはない。

 これについては、諸賢で答えを出していただきたい。


投稿者 mukaidani : 11:58

2011年09月20日

腰が「痛テテテ」

 しゃがもうとして、腰にビシッと痛みが走った。
 腰のやや上部だ。

「痛テテテ」
 唸る私に、
「どうしたのよ」
 愚妻がテレビを見ながらノンキな声で言う。

「ギックリ腰のなりかけだ」
「気をつけてよ」
「どうやって」
「自分で考えなさいよ」

 畑で無理をしたからだろうか。
 思えば、耕耘機がまずかったか。
 脊柱管狭窄症の〝持病〟を持っているだけに、これはヤバイ。
 そう言えば、脊柱管狭窄症が発症したのも、古武道の稽古を熱心にやり過ぎたときだ。
 畑も、ほどほどにせねば。

「おい、明朝一番で、鍼(はり)を予約せよ」
 愚妻に命じて、
「ギックリ腰になりそうでヤバイと伝えておけ」
「自分で言ったら」
「バカ者! 男が弱音を吐けるか」

 一喝したが、愚妻は無視してテレビを見ていた。 
 いま朝の4時40分。
 昼までに送る原稿があり、いまそれを書いているのだが、身体をちょっとでも動かすと、腰が痛テテテなのである。

投稿者 mukaidani : 04:41

2011年09月19日

わが心を〝水晶玉〟にする

 明治時代、浄土真宗本願寺派に七里恒順という名僧がいた。
 七里和上は、清い心を透明な水晶玉にたとえた。
 丸くて透明な水晶玉を赤い紙に転がせば赤く見え、緑の木の葉の上に置けば緑になるという。
 つまり、心を清くしておけば、人の心やものごとがよく見えるということなのである。

 これをヒントに得て、私は融通無碍ということを考える。
 自分の人生観と価値観に縛られ、
「こうしよう、ああしよう」
 と考えるのではなく、
「水晶玉のごとく、在るがまま、成るがまま」
 という、融通無碍の生き方である。

 つまり、相手の心をわが身に投影して生きるということだ。


 で、昨夜、さっそく実践してみた。

「ちょっと、風呂から上がるときはちゃんと拭いてよ」
 愚妻が怒ったので、私は厳かに答えた。
「怒るでない。わしは水晶玉である」
「なによ、それ」
「七里恒順にいわく。わしがちゃんと拭かないということは、それはお前という人物の投影に過ぎない。なぜなら、わしは水晶玉であるがゆえに・・・」
「バカなこと言ってないで、滴(しすく)が垂れてるじゃないの!」
 愚妻にかかれば〝水晶玉〟も木っ端微塵なのである。

投稿者 mukaidani : 09:53

2011年09月18日

船舶免許の更新

 今日は小型船舶免許の更新講習へ出かける。
 免許は20年前に取った。
 知人2人と私の3人で、趣味の船宿をやろうという計画だった。

 中古の漁船を買い、小名浜の先にあるいわき市四ツ倉港に家を借りた。
 もちろん漁業組合にも加盟した。

「さあ、これから」
 というときにバブルが弾け、知人2人も弾け、船宿も弾けた。

 買った漁船に乗ったのは、わずかに試運転のときの1回だけ。
 高い高い買い物であった。
 船舶免許の更新は5年に1度だが、更新がくるたびに、愚妻にチクチクと嫌みを言われるのだ。

投稿者 mukaidani : 07:15

2011年09月17日

筋肉痛と「脳」

 畑仕事のせいで、身体のあちこちが痛い。
 今朝、そう言うと、
「痛いのは、私よ」
 と愚妻が対抗意識を燃やす。

「いや、わしのほうだ。一輪車と耕耘機だぞ」
「私だって苗を植えたわよ」
「わしだ」
「私です」
「不毛の争いはやめよ。おまえが折れればすむことだ」
「あなたが折れればいいじゃないの」

 論戦が始まると、我ら夫婦は俄然、元気になるのだ。

 それにしても、ふだん使用しない筋肉を使うと、ギシギシと痛む。
 空手の稽古で全身の筋肉を使っているのだが、負荷が違うのだろう。

(頭はどうか?)
 という思いが脳裏をかすめる。

 頭だって、ふだん考えないことを考えると疲労するのではないか。
 きっと、これが、考えすぎて「頭がいたくなる」というやつなのだろう。
 筋肉同様、頭もふだんから使う必要があると、畑仕事の筋肉痛でさとったのである。

投稿者 mukaidani : 07:28

2011年09月16日

畑仕事で頭がクラクラ

 先程、畑から帰って来た。
 ヘロヘロである。

 一輪車に堆肥を積んで、細い畑道を登っていく。
「取りあえず、今日のところだけだから、6杯でいいかな」
 畑大指南役のS氏がこともなげに言う。

(ゲッ、6往復!)

 そのあと、耕耘機の指南である。
 耕耘機は楽々だと思っていたら、これが大間違い。
 深く耕し、しかも真っ直ぐ進むには、力とコツがいるのである。

 一昨夜の徹夜が尾を引いてか、汗びっしょりで、頭がクラクラ。
「ほらほら、真っ直ぐだよ!」
 S大指南役の檄が飛ぶ。
「耕耘機だって、固いところより、柔らかいところを進みたがるんだ」
 なるほど、うまいことをおっしやる。

 私が耕しているあいだに、愚妻は大指南役のご指導で、白菜とブロッコリーを植え、虫除けネットを被せ、本日の作業は終了。

 ハァハァ肩で息する私に、大指南役が、
「何だって下準備がいちばん大事なんだよ。大変だけど」

 まったくそのとおり。
 畑作業は教えられることが多いのだ。
  

投稿者 mukaidani : 10:28

2011年09月15日

徹夜をしてしまった

 やっと一冊書き終えた。
 午後、入稿するということなので、徹夜である。
 10月から暮れにかけて、5冊刊行予定だ。

 今日から次の原稿に取りかからなければならないが、今夜はゆっくりしよう。
 忘れていたが、明日は畑を耕しにいくことになっている。
 畑大指南役のS氏にその旨伝えてある。
 耕耘機を用意して待っていてくれるはずなので、休むわけにはいかない。

 我が家の畑指南役は依然、体調不良。
 畑は、私の双肩に重くのしかかっているのだ。
 

投稿者 mukaidani : 13:56

2011年09月14日

愚妻が風邪を引いた

 愚妻が風邪を引いて頭が痛いというので、すぐに医者へ行かせた。
 寝込まれて困るのは、この私であるからだ。

 それでも、
「具合が悪い」
 と言って、昨日は寝込んでしまった。

 そこで私は、
「何だ、風邪ごときで!」
 厳しく叱責し、
「風邪は、〝治る〟と思えば治るのだ」
 と教えた。

「そんなことを言っても無理よ」
 こういうときの愚妻は、病に伏せるドラマのヒロインのように、ハァハァとつらそうな声を出してみせる。

「無理ではない。華厳経に『初めて発心する時、便(すなわ)ち正覚を成ず』とある」
「なによ、それ」
「直訳すれば『真剣に悟りを得たいと発心したときには、すでに悟りを本質をつかんでいる』ということだ。この言葉を拡大解釈すれば、『風邪よ治れ』と発心したとき、すでに回復の本質をつかんでいるということになる。ゆえに、『治る』と思えば・・・」
「うるさい!」
 ヒロインの〝ハァハァ声〟が一転、元気な怒声に変わったのである。


投稿者 mukaidani : 06:56

2011年09月13日

お釈迦さんの説法

 お釈迦さんの説法は「納得術」である。

 たとえば、よく知られた「赤ん坊を亡くした女」の話。

 半狂乱になった女は、お釈迦さんを訪ね、
「どうかこの子を生き返らせてください」
 と懇願する。

 すると、お釈迦さんは大きくうなずき、
「私の言う条件を満たすなら、その子を生き返らせてあげよう」
 と言って、一つの条件を課す。

 それは、
「この町の家々を訪ねて香辛料をもらってきなさい。ただし、香辛料をもらうのは、身近な者が誰ひとりとして死んだことのない家だけにかぎる」
 というものだった。

 香辛料はインドではどの家庭にもある。
 これはたやすいことと、女は町へ飛び出していったが、ついぞ香辛料をもらうことはできなかった。
 身近な者と死別を経験しなかった人間はひとりもいなかったからだ。

 お釈迦さんはこの事実をもって
「死は、すべての生けるものに起こる。悲しむべきではない」
 と「愛別離苦」を説き、女はこれをさとって、お釈迦さんに帰依する。


 これがもし、「香辛料をもらってきなさい」という〝実践〟を抜きにして、
「死は、すべての生けるものに起こる」
 と、お釈迦さんが説いたなら、女は決して耳を傾けることはなかったろう。

 どの家からも香辛料をもらえなかったという体験があって初めて、女はお釈迦さんの説法に納得する。
「理解」ではなく「納得」である。
 だから、お釈迦さんの説法は深く心にしみてくるのだ。


 たまに法話を聞くが、ほとんどの講師が「理解」の視点で説く。
 だから腑に落ちてこない。
 人間の誰もが共有する「体験」をベースに説いてくれれば、
「そうだ、そうなんだ」
 と「納得」するだろうにと、岡目八目で思うのである。


投稿者 mukaidani : 07:29

2011年09月12日

集中力について考える

 原稿を書くときに、「詰まる」ということはない。
 ノリがいいとか、悪いということもない。

 電車の中でも書けるし、稽古中、5分の小休止でも何行か書ける。

 瞬時にモードが切り替えられることから、私の頭はデジタル的だと思っていたが、どうもそれは違うのではないか、と最近考えるようになった。

 そうと意識しないだけで、パソコンのスリープモードのように、24時間、頭の隅で原稿を書いているのだ。

 原稿は複数のテーマが同時進行しているので、複数の原稿を頭の中で書いているが、満腹でもデザートがお腹に入るように、テーマが違えば、脳は満杯にはならないようだ。
 だから、パソコンに向かって、すぐに書き始められるのだろう。


 そういう意味で、集中力には自信があるのだが、欠点は長続きしないことだ。
 すぐに興味を失ってしまう。

 愚妻は、
「ホントに厭(あ)きっぽいんだから」
 と揶揄(やゆ)するし、自分でもそうだと思っていたが、厭きっぽい原因がわかってきた。

 私は一つことを始めると、24時間、頭の片隅でそのことを考え続けているため、いざそれを実践すると、
「もういいかな」
 という気になってしまうのである。


 とすれば、集中力と持続力は相反するということになる。

『人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず』
 とは徳川家康の遺訓で、
「人生は持続力が大事」
 と説く。

 なるほど、と感心しつつ、
「しかし還暦を過ぎれば、〝遠き道〟もゴールが近づいてきているしなァ」
 とも考える。

 結局、「我は我なり」と居直って生きていくしかあるまい。

投稿者 mukaidani : 07:18

2011年09月11日

山あいの旅館

 昨夜の合宿懇親会は、9時の〝中締め〟で自室に引き上げ、仕事。
 11時就寝で、いつものように4時半起床。
 先程まで仕事をして、いまひと風呂浴びたところだ。

 ここの旅館は秩父の山あいにある。
 海がある九十九里の仕事部屋も悪くないが、年齢のせいか、ギラつく太陽がしんどくなってきた。

 山あいに住んでみたいと思うが、空手道場など、しがらみがたくさんあって、そうもいかない。
 還暦になってなお、しがらみに溜め息をつくような人生でいいのだろうかと、考えさせられるのである。

 朝陽を受けて、窓の向こうで蝉が鳴き始めた。
 弱々しい鳴き声に、初秋の気配である。

投稿者 mukaidani : 07:08

2011年09月10日

合宿へ出発

 さて、これから秩父合宿へ出発である。
 社会人の合宿だから1泊2日が限度だが、合宿は年に一度の私の楽しみでもある。
 支部の諸君と汗を流したあとの夜の懇親会は、ホントに楽しいものだし、翌日の稽古の後に入る温泉は格別の気分だ。
 子供合宿は疲れるが、大人の合宿は、なければ空手の稽古も味気ないものになるだろう。

 仕事の追込みでパソコン持参だが、大いに楽しんできたいと思っている。

投稿者 mukaidani : 05:32

2011年09月09日

今朝も畑だ

 今朝、予定どおり畑へ。
 畑の大指南役S氏が、ダイコンを植える場所を耕耘機で耕してくださっていた。
 大助かりである。

 愚妻がS大指南役のご指導でダイコンの種まき。
 私は草刈り機で、草を刈る。
 日本昔話では、お爺さんは山に柴刈りに行き、お婆さんは川で洗濯となっているが、私たち夫婦は草刈りと種まきである。

 長閑(のどか)な初秋の朝、と言いたいところだが、2時間も作業すれば汗びっしょりで、頭がクラクラしてくる。

「あわてないで、ゆっくりだよ」
 とS大指南役。

 そうだ。
 人生街道を歩くのといっしょで、あわてず、ゆっくり。
 疲れたら、また今度だ。

「さあ、今日はこのくらいにして帰ろうか」
 私が言うと、
「えッ? もう帰るの?」
 S大指南役が目を剥いた。

 

投稿者 mukaidani : 11:35

2011年09月08日

口中の斧

 今日は朝から都内に出ていて、夕方、帰宅。
 愚妻が、
「ダイコンの種を買ってきたわよ」
 と報告。
「ついでに、サンチュの種も買ってきたわ」
 サンチュは、きっと愚妻の好物なのだろう。

 さらに、草刈り機の燃料も買ってきたという。
 畑の周囲が草ぼうぼうなので、草刈り機を使えばいっぺんにきれいになるのではないか、というわけだ。

「誰がやる」
「あなたしかいないでしょ」
「いつ行くのだ」
「明日の朝よ。畑に行くと言ったじゃないの」
「記憶にない」

 このあと、愚妻の罵詈雑言に、私は静かにさとした。

「『口中(こうちゅう)の斧(おの)』という言葉をがある」
「何よ、それ」
「人は生まれながらに口の中に斧を持っており、愚(おろ)か者は悪口を語って、その斧で自分自身を損なうのだ」
「私が愚ろか者だって言うわけ?」
「間違った。そなたは愚妻であった」
「ちょっと!」

 このあと、さらなる愚妻の罵詈雑言に、私は明朝、畑行きを約束させられたのである。

 お釈迦さんは、『口中の斧』という言葉を以(もっ)て、
「悪口は、まわりまわって自分を苦しめるぞ」
 と戒めるのだが、わが家は、愚妻の〝口中の斧〟によって、この私が傷つくのだ。

投稿者 mukaidani : 18:15

2011年09月07日

やっと畑の草取りへ

 今朝6時半。
 畑へ出かけた。
 懸案の草取りである。

 映芳爺さんは体調不良につき、私と愚妻と二人で出かけた。

 生い茂る草を思い浮かべながら、重い気持ちで畑へ行くと、すっきりしているではないか。
 刈り取った草が、畑の数カ所に盛ってある。

 畑大指南役のSさんが草を刈ってくれていたのだ。

 ありがたいことだ。

 ついでに、ダイコンを植えるリミットを、S大指南役にお聞きすると、
「今月の13日くらいまでかな」
「16日じゃだめですか?」
「だめ」
「15日でも?」
 原稿の〆切の都合があり、セコく食い下がるが、
「だめだめ。ほら、みなさん、もう植えてるよ。白菜も植えなくちゃ」

 ウーン、まいった。
 どこで時間をひねり出すか。
 今週の土、日は秩父で空手合宿もある。

 と、私の心中を察してか、
「ダイコンを植えるところは、俺が耕耘機で耕しとくよ」

 ありがたいことではないか。

 私はその場で愚妻に指示を飛ばす。
「ダイコンの種を買っておけ。白菜の種も買っておけ」
 それを聞いてらした大指南役が、
「白菜はフツー苗で買うんだよ」

 こうして、私の畑の知識は少しずつ広がっていくのだ。

投稿者 mukaidani : 10:30

2011年09月06日

「中道」という生き方

 昨夜、風呂へ入ろうと思ったら、水が抜いてあって空になっていた。
 風呂掃除の途中で出かけたのだろう。
 愚妻は、近所の娘の家に孫を送って行った。

 ならば、たまには私が掃除して、湯を張ろうではないか。
 浴槽をゴシゴシ洗い、お湯の栓をひねって、二階の自室で仕事を始めた。

 しばらくして、愚妻が帰宅し、階下で、
「あッ!」
 と叫んだときに、ハタと気がついた。

 お湯を出しっぱなしにしていたのだ。

 愚妻が私を責める。
 お湯を出しっぱなしにしていたからではない。
 私の気まぐれな性格を怒るのだ。

「掃除なんかやったこともないくせに、どうしてやるのよ!」
 そして、
「ホントに気まぐれなんだから」


 そこで、私は厳かに口を開いた。
「聞け。私は気まぐれなのではない。中道の生き方をしておるのだ」

「チュウドウ? 何よ、それ」
「釈迦が説いた教えで、二つの対立するものを離れることだ。たとえば勤勉にかたよらず、怠惰にかたよらず、という生き方だな」
「何が言いたいのよ」
「中道の実践者は、一見、気まぐれに見えるということだ」
「怒るわよ!」
「もう怒っているではないか」

 中道の生き方とは、何とも誤解されやすいものなのである。


投稿者 mukaidani : 08:55

2011年09月05日

用事もないの走るのは人間だけ

 陸上の世界選手権最終日。
 男子400メートルリレー決勝で、ジャマイカが37秒04の世界新記録で優勝した。

 リレーのメンバーで、100メートル決勝でフライングで失格となったボルト選手が、
「とにかく速く走ろうと必死だった。素晴らしい気分だ」
 と喜びのコメントをした。

 このコメントに接しながら、劇画作家の故梶原一騎先生の言葉を思い出した。
「向谷君、用事もないのに走るのは人間だけだぞ」
 そう喝破(かっぱ)したのである。


 目からウロコとはこのことだろう。
 なるほど、動物は獲物をとるとき以外、走ることはない。

 地上最速のチータが、
「ちょっと走ってみるか」
 ということはないし、
「とにかく速く走ろうと必死だった。素晴らしい気分だ」
 と息を弾ませることもない。

 用事もないのに「ヨーイ、ドン!」をやって一喜一憂する人間は、それゆえ素晴らしいのか、それとも愚かなのか。

 梶原先生が亡くなって24年になるが、
「用事もないのに走るのは人間だけだ」
 とおっしゃった真意は何だったのだろう。
 世界陸上を見ながら、そんなことを考えたのである。

投稿者 mukaidani : 05:17

2011年09月04日

今朝、いきなりの雨

 季節は移ろい、夜明けが5時をまわるようになってきた。

「出発は6時だ」
 と昨夜、畑の草取りに出かける時間を愚妻に告げると、
「雨みたいよ」
 と、足を引っ張るようなことを言う。

「おまえは人の心がわからんのか。こういうときは、ウソでもいいから、〝ハイ〟と弾むような声で返事するものだ」
「バカみたい」

 で、今朝、6時。
 原稿の手を止めて、窓を少し開けて遠くの空を見ると、青く晴れている。
(バカな女が、何が雨だ)
 毒づきながら、愚妻を起こそうとしたら、グラリと小さな地震。

 と同時に、ザーとひと雨きたではないか。

 愚妻が起きてきて、
「雨ね」
 と、嬉しそうに言う。

「おまえは人の心がわからんのか。こういうときは、ウソでもいいから、〝残念ね〟とガッカリした声で返事するものだ」
「バカみたい」
 言い捨てて、ベッドへもどっていった。

 いま6時20分。
 雨はやみ、空は明るい。
 だが、雨のあとでは草が濡れ、畑がぬかるんでいる。
 草刈りはできない。

 残念なような、それでいて、何となくホッとするのはどうしてだろう。
 愚妻の正直さが、少しは理解できるような気がした。

 

投稿者 mukaidani : 06:22

2011年09月03日

「論議」と「現実」

 今夏は暑かった。
 地球温暖化コールもあって、
「ホントに地球はヤバイんじゃないか?」
 という思いが脳裏をかすめたものだ。

 気象庁によると、今夏の日本の平均気温は、1898年以降の114年間で4番目に高かったとある。

 愚妻に教えると、
「やっぱりね」
 したり顔で、
「この暑さは異常だと思ったわ」
 と納得しているので、
「待て」
 とたしなめた。

「4番目に高かったということは、今夏より暑かった年が3回あったということになる、つまり」
 と愚妻に解説した。

 4番目という順位をどうとらえるかによって、評価は真反対になる。
「それほどに暑かった」
 と、とらえるか、
「4番目だからたいしたことない」
 と、とらえるかである。

 しかし愚妻は、深遠なる私の問題提起に対して、
「どっちだっていいでしょ。暑かったことに変わりはないんだから」
 きわめて現実的な対応をした。

 どんな高尚な論議も、「現実」を持ち出されたとたん、木っ端みじんになってしまうのだ。
 なるほど、学者が政治家になれないはずである。

投稿者 mukaidani : 06:39

2011年09月02日

「草取りをせねば」と気持ちはあせる

 不安定な天気が続く。

 畑の草取りに行かなくては気持ちはあせるが、
「よし、明日は行こう!」
 と決意した日に限って、朝から雨である。

「せっかく行こうと思っていたのに」
 と恨(うら)めしく思いつつ、これと似たような気持ちを過去にいだいたような気がして、記憶をまさぐると、思い当たった。

 馬券である。

 レースが終わったあとで、
「あの馬券、買おうと思ったんだよな」
 と、恨めしく思う、あの気持ちに似ているのである。

 きっと人間は、何事においても「あと知恵」でくやしがったり、恨めしく思ったりするのだろう。

 できれば人生においては、そうあって欲しくないものである。

 

投稿者 mukaidani : 07:05

2011年09月01日

「嫌い」と「恐い」を考える

「蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われる」
 という言い方がある。

 蛇蝎とは、ヘビとサソリとのことで、気の毒にも両者は嫌われる代表ということである。

 だが、同じヘビでも、キングコブラになるとどうか。

「嫌い」ではなく「恐い」である。

 人間も同じで、「嫌われ者」であっても、キングコブラのレベルにまでなれば、「恐い人」になり、「恐い人」はやがて「畏敬」に昇華していく。
 たとえばヤクザでも、チンピラは蛇蝎のごとく嫌われるが、そのチンピラも出世して大親分になれば「畏敬」されるである。


 小沢一郎は、これまでキングコブラであった。
 しかし、先の菅元総理の不信任決議をめぐるドタバタ劇、そしてこのたび民主党代表選で海江田万里を担いで敗北。
 時代は確実に変わりつつあり、小沢コブラの力は確実に落ちている。

 つまり小沢は、「恐い」から「嫌い」に格下げになってきたのだ。
 怖がられなくなったコブラはみじめだ。
 青大将と同じように、悪ガキから棒で打たれ、いじめられることだろう。
 毒を持たなくなったキングコブラは、もはやコブラではないのだ。

 

投稿者 mukaidani : 07:03