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2011年06月30日

「月末」を勘違い

 どこで勘違いしたか、月末は31日だと思い込んでいた。
 6月は30日までしかなく、今日が月末であることに気がついて愕然。
 というのも、月末渡しの原稿があり、この1日の勘違いは大きいのだ。
 毎日、カレンダーを見ているのに、こういうポカもあることに、我ながら驚いている。
 早く原稿を書かねば。


投稿者 mukaidani : 08:41

2011年06月29日

レディ・ガガ

 昨夜、テレビでレディ・ガガのインタビューを見た。
 家で食事をしていて、たまたま目にしたのである。
 彼女のことはもちろん知っていたが、まじまじと見るのは初めてだ。

「何よ、あれ」
 と愚妻があきれるかと思ったが、呆気(あっけ)にとられている。
 ガガのインパクトは、かなりのものである。

 と同時に、
「有名になれば何でもあり」
 ということがよくわかる。

 いや、むしろ顰蹙(ひんしゅく)を買うようなカッコや言動をすればするほど、
「さっすが!」
 と賞賛されることになる。

 ところがノー天気な娘サンはこのことに気づかず、ガガと同じ化粧とカッコで街を歩くから、
「アホ!」
 といわれるのだ。

 つまりファッションは、「人格」を離れて成り立たないということなのである。
 そういう意味で、
「カッコよくなりだければ、自分を磨け」
 というのは正しいということになる。

 そこで、
「おい」
 と愚妻に告げた。
「カッコつける前に、まず人格を磨くんだ」
「鶏肉、硬かったの?」
「バカ者、そういうことを言っているのではない。人格を磨けば、レディ・ガガは無理としても、〝レディ・ババ〟くらいにはなれるかもしれんと言っておるのだ」
「バカなこと言ってないで、早く食べてよ」
 言うなり、テレビのスイッチを切り、レディ・ガガは画面から消えたのである。
 

投稿者 mukaidani : 10:35

2011年06月28日

「ウソ」について考える

 昨夜、親しい編集者と都内で一杯やった。
 博識の編集者で、海外旅行から仕事、趣味まで話題はつきず、楽しい一夜になったが、そのなかで「ウソ」について、あれこれ話し合った。

 つまり「ウソは本当に悪いことか」ということである。

 社会生活を送る上で「ウソ」は人間関係の潤滑油とするなら、
「ウソこそ、本当の意味で、人間のやさしさかもしれない」
 という結論になった。

 このことは、ぜひ愚妻に教えておく必要があると思い、帰宅するなり、
「おい、聞け。ウソこそ本当の意味で、人間のやさしさなのだ」
 と告げると、
「ちょっと、何を企(たくら)んでるのよ」
 どうにも御しにくいのである。


 で、今朝。
 ウソについて、このブログで何か書いていないかと思い、古いブログをチェックしてみると、何と、ちょうど3ヶ月前の3月28日に、『野菜はウソをつかない』と題して書いてあるではないか。

「野菜は肥料をやれば育つ。正直なもので、野菜はウソつかない。ウソをつくのは人間だけ」
 という、畑の大指南役であるSさんの言葉を紹介してある。

 このときは、
「なるほどなァ」
 と感心したが、昨夜の話で、ちょっと考え方が変わった。

 ウソを否定的にとらえるのではなく、
「ウソをついてこそ人間である」
 と、肯定的にとらえてみたらどうか。
 ウソの奥は深いのだ。

投稿者 mukaidani : 10:21

2011年06月27日

質問は「意図を隠す」に妙味あり

 演舞会が終わり、一段落。
 といっても、これから試合や合宿など、10月まで毎月空手行事が入っている。
「いい人生じゃなの」
 と、演舞会を手伝ってくれた娘がイヤミなことを言う。
 娘は母親に似ると言うが、娘は三十半ばになって「ミニ愚妻」になってきたということか。
 娘の夫君も、気の毒なものだ。


 それはともかく、演舞会や稽古を通じて、ひとつ気づいたことがある。
 小学校の低学年の子供たちに、
「今日、頑張った人」
 と問いかけると、全員が「ハーイ!」と手を挙げる。

「上手になったと思う人」
 と問いかけると、これも全員が「ハーイ!」である。

 ところが、高学年に同じ質問をすると、
「ハーイ!」
 とはならない。

 もぞもぞしながら、顔を見合っている。

 なぜか。

 理由はいろいろあるだろう。
 この歳になれば、自分を客観的見る目があるため、単純に「ハーイ!」とはならないということも、もちろんあるだろう。

 だが、私が感じるところでは、彼らは素早く「質問の意図」に思いをめぐらせ、それに対して、どう答えるのが「自分にとって得か」を考えているように見える。

「上手になったと思う人」
「ハーイ!」
「じゃ、演舞してみろ」
 と言われたのでは、たまらない。

「頑張らなかった人」
「ハーイ!」
「バカ者! どうして頑張らないんだ!」
 と叱られても困る。

(館長は、なんでそんな質問をしてるのか?)
 私の意図をさぐり、もぞもぞと顔を見合わせ、アイコンタクトしているというわけだ。


「質問は意図を隠すところに妙味あり」
 彼らの戸惑う顔を見ていると、そんな思いが浮かんでくるのである。

投稿者 mukaidani : 09:33

2011年06月26日

本日は「演舞会」

 本日は、私の道場の「演舞会」である。
 稽古のクラスが違うと、顔を合わすことがないので、年に一度、近くの小学校の体育館を借り、稽古発表会という形で「演舞会」を開いている。

 保護者の方々に弁当を持参していただくので、ま、運動会のようなものだ。

 各支部の参加もあり、また大人諸氏にも演舞してもらい、私にとって楽しみの日でもある。

投稿者 mukaidani : 07:51

2011年06月25日

小沢元代表に「おとがめなし」

 いま執筆に疲れたので、インターネットのニュースを見ていたら、
《小沢元代表に、おとがめなし》
 という記事が目にとまった。

 内閣不信任決議案の採決に欠席した衆院議員15人の処分で、民主党は、小沢一郎元代表ら8人を党員資格停止3カ月としたが、小沢氏は強制起訴された際、すでに裁判終了まで党員資格を停止されている。

 よって事実上、「おとがめなし」と記事は伝えている。

 いまさら民主党にあきれてもしょうがないが、
「小沢は、おとがめなし」
 には、やっぱりあきれるではないか。

 これがいかに「あきれること」であるかは、たとえば学生に置き換えてみればわかる。

 ワルさして停学3ヶ月になった学生が、停学中にさらにワルさして、
「おまえはすでに停学処分になっているから、処分なし」
 というのと同じなのだ。

 つまり、何度ワルさしても、いま以上の処分はしないということで、
「ワルさのし放題」
 ということになる。

 停学中にワルさしたら、次は退学処分になるのが世間の常識ではないか。

 総理に退陣を迫る民主党の連中も、総理の座にしがみつく菅総理も、
「触らぬ小沢にタタリなし」
 ということか。

 民主党には信念も、誠意も、能力も、そして勇気もない。
 震災復興が、本当にできるのだろうか。
 腹が立つにつれて、目も覚めてくるのだ。  

投稿者 mukaidani : 04:07

2011年06月24日

「定年退職」を考える

 昨夜は、知人が出版社を定年退職したので、これまでお世話になったお礼をこめて一席設けた。

 いろんな話をしたが、彼がしきりに口にしたのは、これまでの「会社人生の総括」と「セカンドライフ」である。
 会社人生に悔いがないとし、セカンドライフは希望に満ちていた。
 パッピーリタイヤというやつで、心から彼を祝福した。


 一方、話を聞きながら、「人生の区切り」ということを、私はしきりに考えていた。

 定年退職を人生のリセットとするなら、自由業の私には定年退職がなく、したがって人生にリセットはないということになる。

 こう考えると、何だか息苦しくなってくる。

 リセット、すなわち「やり直せる」という思いは、きっと「心のセーフティーネット」なのだろう。
 だから元旦をリセットの日とし、「ことし一年の幸せ」を祈願する。

 定年退職がない以上、私は自分で人生をリセットしなければならない。

 帰宅して、愚妻に定年退職した知人の話をして、
「わしは、いつ定年退職にしようか?」
 相談すると、
「そんなの、あるわけないでしょ」
 こともなげに言った。

 私には「心のセーフティーネット」がないのだ。

 

投稿者 mukaidani : 09:22

2011年06月23日

人間は「外見」が大事

 いまから30年ほど前、週刊誌記者時代のこと。
 人間の「外見」と「中身」と、どっちが大事かということについて、友人と飲みながら議論したことがある。

 私は「外見だ」と主張し、友人は「中身だ」と譲らなかった。

 私が言わんとしたのは、
「中身はもちろん大切。しかし人間は外見で判断される。したがって、外見もまた大事なのだ」
 ということだが、それでも友人は、
「中身がしっかりしていれば、それはおのずと外見に現れる」
 と言い張ったものだ。


 のち、私は作家に転じて、
「お金は、あるように見えれば、それはあるのと同じ」
 といった〝実戦心理術〟を書くのだが、仏法を学ぶうちに、
(人間、やはり中身ではないか)
 と、最近になって気持ちが揺らいできた。

「お金は、あるように見えようと、見えまいと、どっちでもええがな」
 という心境である。

 ところが、
『信は荘厳から起こる』
 という言葉を見つけて、思わず唸(うな)った。

 荘厳(しょうごん)とは、仏語で仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ることを言うが、『信は荘厳から起こる』とは、
「寺堂の立派な装飾を見て信心が啓発される」
 という意味で、
「内容は形式によって導かれる」
 というたとえである。

 どの宗派も一定レベルの寺院になると、
(おっ、すげぇな)
 と、その威容と煌(きら)びやかさに感嘆するが、
『信は荘厳から起こる』
 という言葉を念頭におけば、納得である。

 仏教ですら、「荘厳」という外見で「信」を起こさせるのだ。
 人間にとって「外見が大事」という私の主張は正しかったと、いま再認識しているところである。

投稿者 mukaidani : 10:09

2011年06月22日

ジャガイモ掘りの時機到来

 先ほど、愚妻が私の自室に入ってきて、
「ジャガイモの葉が枯れてきた」
 という映芳爺さんのメッセージを伝えた。

(ヤバ!)
 である。

 ジャガイモの葉が枯れたということは、
「掘り出すときが来た」
 ということなのだ。

 つまり、映芳爺さんのメッセージを読み解けば、
「わしは体力的にジャガイモを掘ることができけん、おまえが掘れ」
 と私に告げているのである。

 今月末の〆切があり、いま時間との競争なのだ。
 畑に行っている時間などないのだが、
「ジャガイモの葉が枯れてきた」
 という一言は、かの〝ご老公様〟の一言ほどの重みがある。

 望みは、雨だ。
 雨なら畑はパスできる。

「今週の天気はどうだ?」
 愚妻に問うと、
「さあ、私、気象庁じゃないから」

 夫婦は〝戦友〟と言うが、あれはウソっぱちであることが、この一言でよくわかった。

 しょうがない。
 晴れたらジャガイモを掘るか。
(そのためには原稿を急がなくては)
 いま、自分に言い聞かせたところである。

  

投稿者 mukaidani : 09:44

2011年06月21日

スパコンと「蓮舫発言」

 日本の次世代スーパーコンピューター「京」が、計算速度世界ランキング1位となった。

 たいへん喜ばしいことだが、メディアはこの快挙よりも、蓮舫議員への〝皮肉報道〟である。

 それも当然で、かの事業仕分けで、
「世界1を目指す理由は何か。2位ではダメなのか」
 と追及し、波紋を呼んだのは記憶に新しい。

 このことを記者団に蒸し返された蓮舫議員は、
「関係者の努力に心から敬意を表したい」
 と語りつつも、「2位ではダメなのか」という発言に対して、
「メディアが勝手に(発言の)短い部分を流した。間違った発言ではないことは、前後の言葉を考えていただければわかります」
 と開き直った。


 ちょうど夕食の時間で、この蓮舫発言を愚妻とテレビニュースで見ていた私は、我が意を得たりと愚妻に告げた。
「彼女の言うことはよく理解できるのう」
「どうしてよ」
「わしが間違った発言をしてはおらんことは、前後の言葉を考えればわかることなのに、おまえは何かというと発言の短い部分だけを取り上げて、わしを非難する」
「ダメよ」
「何が」
「そんな屁理屈、私には通じないわよ。あなたは、ごまかすことしか考えていないんだから」
 私は同じ言葉を蓮舫議員にぶつけてやりたくなった。

投稿者 mukaidani : 06:20

2011年06月20日

俳句の面白さは「一語」にあり

 芭蕉の有名な俳句。

『古池や蛙(かわず)飛込む水の音』

 門外漢の私は、この句のどこがいいのかとこれまで思ってきたが、たまたま雑誌でこの句の解説を読んで、
(なるほど)
 と、感心した。

 この句が表現しているのは、
「古池に蛙が飛び込んで水の音がした、という句ではない。蛙が水に飛び込む音を聞いて、芭蕉の心に古池の面影が浮かんだという句なのである」
 ということだった。


 さっそく、芭蕉の立場になって、この句を詠んだときの心境になってみた。
 目をつむり、蛙が飛び込む水の音を想像する。

 いや、想像しようとしたが雑念がよぎる。

(「蛙」の代わりに「年寄り」だったらどうか?)


『古池や年寄り飛込む水の音』

 これはちょっと悲惨である。

 と、唐突に「愚妻」という言葉が脳裏をよぎる。

『古池や愚妻飛込む水の音』

 ウーム、これをどう解釈するか。

「古池に愚妻が飛び込んで水の音がした、という句ではない。愚妻が水に飛び込む音を聞いて、私が思わず、池にサイフでも落としたか?」
 と腰を浮かしかけたときの心境を詠んだものになるだろう。

 俳句というのは、「一語」を入れ替えるだけで、まったく別ものの、異質の世界が表現できるのだ。
 面白いではないか。

投稿者 mukaidani : 10:02

2011年06月19日

雨に打たれるカタツムリ

『蝸牛角上 何事をか争う』
 という諺が、私は大好きである。

「蝸牛(かぎゅう)」はカタツムリのことで、「蝸牛角」は頭部からニョロリと突き出した角のことだ。

『壮子』の「則陽」篇に、
「かたつむりの左の角の上にある触氏の国と、右の角の上にある蛮氏の国とが領地をめぐって戦争し、数万の戦死者が出た」
 という寓話があり、愚かな争いをたとえて、
『蝸牛角上 何事をか争う』
 という。

 そして、この詩は、
「人生は短いのだから、不平不満をいったり、つまらないことで争ったりせず、酒を飲んで楽しく暮らしていこうじゃないか」
 と、人生無常の感慨と飲酒の楽しみを詠じる。

 酒を「たとえ」とすれば、
「楽天人生のすすめ」
 とも読み取れるのだ。


 昨朝、玄関前の植木の葉っぱの上で、カタツムリが雨に打たれながら、ノロノロと進んでいる。
 頭部に「蝸牛角」がニョロリ。
 それを見ながら、
『蝸牛角上 何事をか争う』
 という言葉をつぶやいてみた。

投稿者 mukaidani : 05:58

2011年06月18日

聖徳太子と「一万円」

 聖徳太子のこんな言葉を知っているだろうか。

「我れ必ず聖(さかしき)にあらず、彼れ必ず愚(おろか)にあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならんのみ」

 聖徳太子が制定した『十七条憲法』の第十条に出てくる一節で、
「私は、みんなと同じようにただの人間にすぎない」
 という意味だ。

 聖徳太子については説明の必要もあるまいが、いまから千四百年前の飛鳥時代、推古天皇の摂政として政治をおこない、日本史上もっとも尊敬されている人物の一人で、かつて一万円札の顔でもあった。

 その聖徳太子が「私はただの人間にすぎない」として、こう続けるのだ。
「相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし」

 鐶(みみがね)とは、いまで言えばイヤリングのことで、
「賢いとか愚かといったところで、それは鐶(みみがね)のように輪になって一体になっているものだ。それぞれが、自分は〝ただの人間〟であるということを自覚することによって、他人と共存できる」
 と〝和の精神〟を説いたのである。

 聖徳太子は政治家であるとともに、大陸から伝わった仏教を本格的に広めた人物であるだけに、賢愚を鐶(みみがね)にたとえて説く〝和の精神〟に、太子の仏教的人間観があらわれているといえよう。


 だが、聖徳太子の人物像や偉業について知る人は少ない。
 それはきっと、「一万円札」の顔になったからではないだろうか。

「聖徳太子」
 といえば、
「一万円」
 と答えた時代が、あまり長かった。

 すなわち聖徳太子の悲劇は、一万円札になったことではないかと、私は考えているのだ。

投稿者 mukaidani : 06:33

2011年06月17日

愚妻を黙らせる

 私は、よく道を間違える。
 旧知の道だから、カーナビは使わない。
 だから間違え、助手席の愚妻が、
「ちょっと! どこ見て運転してるのよ!」
 私を責めることになる。

 かつては、
「しょうがねぇだろ」
 とか何とか言い訳していたが、これでは愚妻に付け入るスキを与えてしまう。

 だから最近は、こう言うのだ。
「この、わしでさえ間違えることがあると知って、おまえも安心しただろう」
 さしもの愚妻も二の句が継げず、閉口する。

 そして、もし〝人生街道〟を間違えたならば、このセリフを用いようと、私はひそかに思っているのだ。

投稿者 mukaidani : 08:19

2011年06月16日

映芳爺さんの〝交渉術〟

 畑指南役の〝映芳爺さん〟は、雨の日以外は毎日、畑である。
 雨が降った翌朝でさえ、
「畑に水をやってくるけん」
 と言って出かけ、愚妻をあきれさせている。

 私はこのところ忙しく、とても畑に行く時間がない。
 映芳爺さんには何度もそれを言ってあるのだが、
「草取りが大変じゃ」
「畑を耕そうと思うたが、息が切れる」
 そう言って、老獪なプレッシャーをかけてくるのである。

 昨朝も、
「ほれ、今年のジャガイモは最高じゃ」
 と言って、私に見せにきた。

「わかった。一段落した畑に行くけん、もうちょっと待ってくれ」
 私は謝るハメになる。

 交渉術について、私はずいぶん本を書いているが、映芳爺さんには負けるのだ。
 これを「年の功」というのか。

投稿者 mukaidani : 08:34

2011年06月15日

「絶対」というレトリック

「原発は絶対に安全です」
 と言って、国も電力会社も原発建設を推進してきた。
「絶対」
 と言わなければ、国民の理解が得られないからだ。

 だが、今度の原発事故によって、
「物事に絶対はありえない」
 という論調をよく目にするようになった。

 人間の智慧は不完全なもので、「絶対」などあり得ないと私も思うが、そうすると、「絶対」という言葉は何を意味するのだろうか。


 たとえば、
「人間は死ぬ」
 と言えば、これは真理であり事実だ。

 ところが、
「人間は絶対に死ぬ」
 と言ったらどうなるか。

「絶対」はあり得ないのだから、「人間は絶対死ぬ」という言い方は、
「人間は死ぬとは限らない」
 という意味になる。


 この論理でいけば、
「原発は絶対に安全です」
 と「絶対」がくっつけば、
「原発は安全とは限らない」
 という意味になる。
「絶対」という言葉のレトリックである。

投稿者 mukaidani : 08:11

2011年06月14日

「睡眠」について考える

 昨夜、眠くなって8時ころにベッドに入った。
 早寝、早起きである。

 ところが、2時間ほどで目が覚めた。
 まだ10時だ。
 起きて仕事をしようかと思ったが、時間が不規則になるので、そのまま目をつむった。

 眠れないのである。
 頭がスッキリ冴えて、眠れないのだ。
 これが私には不思議だった。

 毎日、6時間なり7時間を寝ていながら、朝起きるのは楽ではない。
 ところが、わずか2時間しか寝ていないのに、目はパッチリなのだ。
 これはどういうことだ。

 あれこれ考えてみるに、「余裕」という言葉にぶつかった。
 夜の10時であれば、翌日までたっぷり時間がある。
「あせって寝なくてもいいではないか」
 という余裕である。

 ところが、いつものように朝5時起きだと、
「起きなければならない」
 という義務感が心をムチ打ち、時間に余裕がない。

 だから気持ちがグズクズするのではないか。

(なるほど、何事も余裕が大事ということか)
 と、そんなことを考えているうちに、ますます頭が冴え渡り、眠れなくなった昨夜なのである。

投稿者 mukaidani : 09:21

2011年06月13日

九十九里の凧(たこ)

 1ヶ月ぶりに九十九里の仕事部屋に来ている。
 昨日、例によって温泉健康ランドへ行き、露天風呂につかっていると、上空をエンジン付きのパラグライダーが3つ4つ、九十九里浜の上を気持ちよさそうに飛んでいる。

 と、凧(たこ)も2つ3つ舞っているではないか。

 はるか上空なので形はよくわからないが、長い〝足ひれ〟を風にたなびかせている。

 梅雨の晴れ間に凧を上げられたのでは、「正月」も気の毒なものではないか。
「お正月には凧上げて、独楽(こま)を回して遊びましょ」
 と唱歌にもあるように、凧は正月のものなのである。


 日本から季節感がなくなった。
 野菜も果物も、季節に関係なく、一年中、食卓にのぼる。
 空調によって、真冬でも室内ではTシャツだ。

 これを便利と言うのだろうが、「無常」という日本人の美意識は、季節の移ろいによって培われたものではないだろうか。

 正月になったら凧を上げ、冬休みが過ぎるころには凧をしまう。
 夏にスイカを楽しみ、夏が過ぎ去ればスイカは食卓から消える。
 季節の移ろいとは「何かを迎え、何かを失っていく」という無常の世界なのだ。

 無常観のない生き方には、迎える喜びもなければ、失う寂しさもない。
 それが私たちの感性に、どんな影響を与えているのだろうか。
 九十九里浜に舞う凧を見ながら、そんなことを思ったのである。

投稿者 mukaidani : 06:14

2011年06月12日

「悪」という冠

 政治家、弁護士、不動産屋。
「悪徳」
 という冠(かんむり)よがよく似合う職業のベスト3である。

「悪徳政治家、悪徳弁護士、悪徳不動産屋」

 声に出して言ってみて、これほどしっくりくる言葉も珍しいだろう。

 そう言えば、
「悪妻」
 という言葉はあるが、
「悪夫」
 というのはない。

『悪妻は百年の不作』
 という諺(ことわざ)はあるが、
『悪夫は百年の不作』
 というのはない。

 女性には「悪」という字が似合うのだ。

「おい、よく聞け」
 と、女と悪について愚妻に話してきかせると、
「あら、男には〝甲斐性なし〟という言葉があるんじゃないの?」
 ジロリと私をニラんで、
「甲斐性なしは千年の不作かしらねぇ」

《悪妻+甲斐性なし》で、我が夫婦は計算上、「千百年の不作」ということになるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:31

2011年06月11日

「非日常」の演出

 以前、風水でお馴染みのドクター・コパさんと仕事をしたときのことだ、

 コパさんが、こんなことをおっしゃった。
「仕事をしていてアイデアに詰まったりすると、私はわざとピーマンと酢の物を食べます」

 なぜなら、コパさんはピーマンと酢の物が大嫌いだからだそうだ。

 つまり、「ピーマンと酢の物を食べない」という「日常」に対して、それらを食べることで「非日常」を演出し、体内環境を変えるためだというわけである。

「体内環境の変化は思考経路を刺激しますから、新たなアイデアが面白いように閃いてくるのです」
 と、コパさんはニコニコしながらおっしゃったものだ。


 私は僧籍を得てから、偏食をしないよう心がけてきた。
 食べ物に対して、好き嫌いを言うべきではない、と思ったからだ。

 おかげで、偏食をしなくなった。
 だが、アイデアに詰まったときに、コパさんのように嫌いな食べ物で「非日常」を演出することができなくなってしまった。
 したがってアイデアは、ただ枯渇するばかりなのである。

投稿者 mukaidani : 09:39

2011年06月10日

「自分に打ち勝つ」と言うこと

 病気になっても、自分では治せない。
 不安に襲われたとき、それを払拭するのは至難のワザだ。
 自分の身体でありながら、自分の心でありながら、「自分」は「自分」に対して、まったく無力なのである。

 お釈迦さんの言葉に、
《何ものも「自分のもの」ではない、と知るのが知恵であり、苦しみから離れ、清らかになる道である》
 というのがある。

「執着するな」
 という意味だが、
「何ものも」
 ということは、自分の身体も心も自分のものではないということで、
「このことを知れ」
 とお釈迦さんはおっしゃるのだ。

 身体も心も自分のものでない以上、病気も、喜怒哀楽もコントロールできないのは当然ということになる。

 したがって、
「どうにもできないものを、どうにかできる」
 と錯覚するところに悩みが生じるのだろうと、私は考える。

 以上のことから、
「自分に打ち勝つ」
 とは、
「《自分》は自分のものではない」
 ということを真に知ることではないだろうか。

 そのことに気づかずして、空手の修行に励んでも、あるいは精神修養をいくら積んでも、自分に打ち勝つことなどできないと反省するのである。

投稿者 mukaidani : 09:00

2011年06月09日

不毛の論議

 私と愚妻は、「言った」「聞いていない」という論争が日常茶飯事である。

 先日、午後から雨が降ったときもそうだ。

 私は所用で外出していて雨に濡れたので、帰宅して愚妻を厳しく叱責した。

「なぜ、雨が降ると言わんのだ。テレビで天気予報をチェックするのは、妻たる者の重要な責務ではないか」
「だから言ったでしょ。傘を持っていけばって」
「聞いておらん」
「言ったわよ」
「バカ者!」

 一喝して、
「いいか、《言う》は《相手に伝える》ということだ。わしが聞いておらんということは、おまえの言葉がわしに伝わっていないということになる。したがって、《言った》は成立せんのだ」

 これで私の完勝だと思ったら、違った。

 愚妻が反論するのだ。
「《聞く》というのは、《相手の言葉を受けとめる》ということでしょう。私がしゃべっているのに、あなたが受けとめていないんだから、《聞いていない》は成立しないんじゃないの」

 なるほど。
 これは、矛盾である。
 矛盾である以上、結論は出ない。
「言った」「聞いていない」論争が不毛であることが、ようやく腑に落ちてわかった。

 そういえば、菅サンと鳩山サンの〝総理引退話〟も、とどのつまりは「言った」「聞いていない」ではないか。
 不毛であるはずだ。
 

投稿者 mukaidani : 10:01

2011年06月08日

「どっちゃでもええがな」の人生観

『両忘』(りょうぼう)という禅語がある。
「対立する価値観のどちらにも与(くみ)せず自由な心でいよ」
 という教えだ。

 つまり、
「ことの善悪はすぐに正しい判断が下せるものではないので、曖昧なこともそのまま受け入れ、ただ精一杯に生きてみよ」
 ということになるが、ちょっと気取って言えば、
「苦楽、美醜、真偽・・・等々、相対的な対立を忘れ去り、二元的な考え方から脱却せよ」
 ということである。

 人生は糾える縄のごとく、正解と不正解が絡まり合っていて、ときに是となり、ときに非となり、矛盾のうちに流れていく。
 この状態を「人生の不条理」と呼ぶなら、どういう理屈と論理をもってしても、人生を割り切ることはできまい。

 だから、
「割り切ろうとするのは愚かなことだ」
 と『両忘』は教えるわけです。

 要するに、
「どっちゃでもええがな」
 という人生観である。


 昨日、ススカイツリーの料金が発表された。
 第2展望台まで大人3千円である。
 両親に小学生2人の家族4人なら8千8百円になる。中学生がいれば1万円を超えてしまう。

「高いわねぇ」
 愚妻が怒って、
「そう思わない?」
 と問うので、私は答える。
「どっちゃでもええがな」

 高いとか安いとか、私は対立する価値観のどちらにも与(くみ)せず自由な心でいるのだ。

投稿者 mukaidani : 08:40

2011年06月07日

貝にもストレスがあるのだ

 福島県の沿岸で、二枚貝のアサリの模様に異変が起きているそうだ。
 これは、東日本大震災の津波によるストレスだと、学者が語っている。
 しかも、その比率たるや実に9割。
 貝殻に溝ができ、色や模様が変わっているという。

 海底の砂に埋もれて、じっとしているだけの貝ですら、環境変化によってストレスを受けるのだ。

「となれば、感情を有する人間がストレスを受けるのは当然ではないか」
 と納得した。


 現代は、精神を病(や)む時代だと言われる。
 だが、それは「現代」に限らないのではないか。
 時代の移り変わりという「環境変化」「価値観の変化」は常に、私たちにストレスを強いる。

 むしろ精神を病むのが当然で、ノーテンキに笑っていられる人間は、「アサリ以下」かもしれないと、そんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 08:26

2011年06月06日

「空」と「大地」

 宇宙飛行士の古川聡さんら3人を乗せ、8日に打ち上げられるロシアのソユーズロケットが、バイコヌール宇宙基地内の発射場に設置された。

 打ち上げ後、国際宇宙ステーションにドッキングして、約5か月半にわたって滞在するという。
 古川さんの成功と無事を心から願う。

 だが、その一方、わくわくする感動は、あまりない。
 どうやら大震災以後、空を見上げるより、足もとを見るようになったせいかもしれない。


 人間は大空を仰ぎ見て、
「鳥のように空を飛びたい」
 という思いが飛行機をつくった。

 夜空を仰ぎ見て、
「あの星へ行ってみたい」
 という思いが、宇宙ロケットをつくった。

「空」が夢と希望の象徴であるとするなら、「大地」は何になるのだろうか。
 空を飛ぶことよりも、畑を耕す人生について考えるのである。

投稿者 mukaidani : 05:28

2011年06月05日

イヤなことはしない

 昨日、知人に久しぶりに会ったら、
「疲れた顔していますね」
 と言われた。

「仕事が忙しいからかもしれません」
 と答えると、
「忙しいときは、仕事がイヤになったりするんですか?」
 と問われて、私は返答に詰まった。

 忙しくはあるが、イヤではないからだ。
 というより、
「イヤなことはやらない」
 というのが、私の主義なのだ。

 そう返答すると、
「うらやましいですね」
 と言うので、
「なに、簡単ですよ。何事も〝イヤなこと〟だと思わなければ、必然的に〝イヤなことはやらない〟ということになる」

 知人は一瞬、キョトンとしていたが、
「なるほど、そういうことですか」
 と笑った。

 イヤなことはやらないのと同様、私はイヤな人に会ったこともない。
 どんな人に会っても「イヤ」とは思わないから、これも必然的に「イヤな人には会わない」というわけである。
 要するに、気持ちの持ちよう一つで、人生は少しは楽になるということか。

投稿者 mukaidani : 08:41

2011年06月04日

「ウソ」という前提

「あいつにダマされた」
 と怒るのは、
「人間はウソをついてはならない」
 という前提があるからだ。

 反対に、
「人間はウソをつく」
 という前提に立てば、
「ダマされた自分がバカだった」
 ということになる。


 このことから考えれば、
「菅総理はペテン師だ」
 と怒る鳩山サンは、
「政治家はウソをつかない」
 という前提に立っていることになる。

 これに対して、他の政治家たちは、
「政治家はダマされたほうが悪い」
 と冷ややかである。

 つまり、永田町の面々は、
「政治家はウソをつく」
 という前提に立っているということになる。

 一般社会の価値観で、政界という特殊社会を渡世する鳩山さんが、菅総理に手玉に取られるのは当然だろう。

「政界は一寸先は闇」
 と言われるが、これは「ウソつき同士が寄り集まった疑心暗鬼の世界」という意味なのである。

 だが、ウソをついて保身をはかる日々は楽ではあるまい。
 そうまでして政治家であり続けることに、どれだけの意味があるのかと、私など思うのである。

投稿者 mukaidani : 09:37

2011年06月03日

鳩山サンの「コロリ豹変」

 菅内閣の不信任案が「否決」されて続投となった。
 周知のとおり、「賛成」を明言していた鳩山前首相が、コロリと態度を飜(ひるがえ)したからだ。

(やっぱりなァ)
 という思いである。
 沖縄・普天間基地問題で、コロリと「約束」を反故(ほご)にしたノーテンキな人だ。
 最後の最後で、
「またコロリをするんじゃないか」
 と、冗談で愚妻と話していたら、ホントにそうなった。
 人間の性格は、変わらないものですな。

 ともあれ、これで賛成派が劣勢となり、雪崩を打つように「反対」にまわった。

『君子は豹変す』
 という諺(ことわざ)があるが、「君子」が「豹変」するのであって、
「豹変したから君子」
 という意味でないことを、私たち有権者はキモに銘じておかなければなるまい。

投稿者 mukaidani : 07:53

2011年06月02日

時間は「追う」もの

 その場で足踏みをしていて、一つ気がついた。
 無意識のうちに、どちらかの足を〝基準〟しているのだ。
 たいてい利き足のほうで、私の場合は右足がリズムの基準になっていて、
「右、左、右、左・・・」
 となる。

 そこで、わざと逆をやってみる。
 すなわち、
「左、右、左、右・・・」

 すると、どうだろう。
 感触がずいぶん違ってくるのだ。

「逆発想」という言葉があるが、観念でなく、自分の身体でやってみると、実によく理解できるのである。


 このところ時間に追われっ放しだ。
 だが、「もう」を「まだ」と、真に逆発想することができるならば、時間に追われることはあるまい。
 時間は「追う」のだ。
 そんなことを考えながら、今日もヨーイ、ドンの一日が始まる。

投稿者 mukaidani : 08:06

2011年06月01日

誰もが「自分は正しい」

「太陽光パネル発言」で、菅総理が陳謝だそうだ。
 パネル発言とは、パリで開かれた経済協力開発機構(OECD)設立50周年式典での演説でブチ上げた「約1000万戸の屋根に太陽光パネルを設置」というやつだ。

 演説草稿には盛り込まれておらず、首相が急きょ付け加えたものだったそうで、これに閣内で不満がくすぶっているというが、次の二人の発言をどうとらえるか。

 中野寛成国家公安委員長は、
「重大な発言をされる時は事前に閣僚と情報や意識を共有すべきだ」
 と菅総理をたしなめた。

 一方、首相の〝女房役〟の枝野官房長官は、
「積み重ね型の議論でなく、首相の強いリーダーシップで方向性を打ち出すやり方も、重要な課題で方向性を変えるには重要だ」
 と擁護した。

 ボトムアップか、トップダウンか。
 正反対の意見だが、どちらも「一理」ある。

 つまり、何事においても「理屈」は、あとからくっつけられるということだ。

 いよいよ内閣不信任決議案が出されるようだ。
 谷垣にも、菅にも、小沢にも、鳩山にも、ついでながら東電にも、みんな「一理」ある。
 天下国家だけでなく、市井に暮らす私たちの行動においても、それは同じこと。
「盗人にも一分の理」とは、何とも含蓄に富んだ諺(ことわざ)ではないか。

投稿者 mukaidani : 10:31