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2011年05月31日

鏡を見ながら「人類」を考える

 私は、鏡を見ることがほとんどない。
 いや、見てはいるのだが、そこに映る自分をじっくり見ることがないという意味だ。

 朝風呂に入り、湯船のなかで頭を剃って歯を磨くので、鏡を見ることがないし、出かけるときは一応、姿鏡に映しはするが、それは服装を見るのであって、「自分」を見ているわけではない。

 そんな私が、たまたま鏡で自分を見て、
(ほう、わしは、こんな顔をしておるのか)
 と感じ入りながら、ふと、
(人類が最初に鏡で自分の顔を見たとき、どんな思いだったろうか)
 と、そんな考えがよぎったのである。


 調べてみると、鏡の起源は人類と同じほど古く、最古のそれは水鏡(水面)であったという。
 古代人が、魚を捕ろうと水面をのぞきこみ、そこに「見たこともない人間」の顔が映っていたときの衝撃は、どんなだったろうか。

「誰だ、この男は!」
「おまえじゃないか」
 と、連れの男はあきれて言ったろうが、当人は「?」だったことだろう。
 鏡がなければ、人間は生涯を通じて、「自分」を見ることはないのだ。


 鏡に映った自分を「自分」と認識できる能力を「鏡映認知」と呼び、これが自己認識の第一歩だという。
 つまり、鏡がなかったなら、人間は「自己認識」ができなかったかもしれない。

 人類が動物と決別したのは、二本足歩行と火の発見だと言われるが、これに鏡を加えるべきではないか、とそんなことを思いながら、鏡の中の自分と対話したのである。

投稿者 mukaidani : 06:44

2011年05月30日

節電とテレビ局

 明後日から6月。
 節電に向けて助走である。

 テレビ番組も、節電法を連日のように放送している。
 愚妻がそれを見ながら、
「テレビ局の節電はどうなっているのかしら」
 と言った。

 年に何度か、いいことを言うのだ。

 なるほど、そのとおりで、
「深夜放送はやめます」
「アホな番組をやめます」
「通販番組も減らします」
 とは、なぜか言わない。

 自分のことを棚にあげて「社会正義」を振りまわすことを、
「正義ヅラをする」
 という。
 私がワイドショーがあまり好きではないのは、「正義ヅラ」をするからである。

投稿者 mukaidani : 11:03

2011年05月29日

「東電」と「葉隠」と「五輪書」

 事に臨んで「即断」するためには、シミュレーションが必要だ。
 いや、逆だ。
 絶えずシミュレーションをしているから、事に臨んで決断が早いのだ。

 このことを、
「大事の思案は軽くすべし」
 と説くのが、『葉隠』である。

「軽く考えよ」
 というのではなく、
「決断に臨んで慌てないよう普段からよく考えておいて、大事が起こったときは、あれこれ考えないでいいようにしておけ」
 と訓戒しているのである。

 宮本武蔵も『五輪書』において、
「我が太刀少しも上げずして、いかにも強く打つなり」
 と記す。

「石火の当たり(至近距離)においては、太刀を構え直さず、その場から瞬時に打ち込むべし」
 という意味で、間合いに入ったときは瞬時に攻め込んでこそ、勝機を得るというわけだ。
 言い換えれば、普段から稽古を積み、瞬時に攻め込めるだけの技量を養っておけということである。


 福島原発事故は、対応が後手にまわったことで「人災」となった。
 東電も政府も、これまでシミュレーションが足りなかったということであり、普段の〝稽古〟を怠ったということになる。

 すなわち、危機に臨んでそれを克服できるか否かは、「普段」という日々を、どう処するかで決まるということなのだ。
 人生もしかり、か。
 

投稿者 mukaidani : 05:22

2011年05月28日

日本人の勤勉さと「四季」

 日本人は勤勉だといわれる。
 高度経済成長期、欧米先進国は脅威と嫉妬を込めて「エコノミックアニマル」と揶揄した。

 実際、日本人はよく働く。
 勤勉さによって、日本は戦後の廃墟から立ち直り、現在の繁栄を築いた。

 では、なぜ日本人はそこまで勤勉なのか。
 理由はいろいろあるが、その一つに「四季」があると思う。

 冬支度、夏支度、梅雨や台風への備えなど四季に応じて衣食住のすべてにわたって日本人は知恵をしぼってきた。

 常夏の人種に暖房の知恵は不要であり、極寒の民族が冷房に知恵をしぼることはあり得ない。
 梅雨のない国にカビや食中毒への配慮は入らないし、台風の来ない地域であれば、災害の備えなど考えもつかないだろう。

 日本には、そのすべてがある。
 雨、風、雪、氷、太陽、寒さ、暑さ、台風、地震・・・。暮らしだけでなく、農耕民族は干ばつや冷害にも対処しなければならない。
 四季に恵まれるということは、生活の知恵が要求されるということであり、この知恵こそが日本人の勤勉さを培ったのではないだろうか。


 気象庁は27日、関東甲信と東海地方の梅雨入りを発表した。
 平年より12日早く、1951年以降で2番目の早さだという。
 被災地の二次災害が懸念される。

 日本人に勤勉さをもたらした「四季」は、決して私たちの「友人」ではない。
「四季」に対しては、どこまでも私たちが、ヒザを屈して合わせていくものであることを、改めて思うのである。

投稿者 mukaidani : 09:19

2011年05月27日

「一流の人間」とは何か

「一流の人間になりたかったら、一流の人に会うこと」
 私が大学四年生のとき、畏敬する出版界の先輩に言われた言葉だ。

 以来、三十有余年。
 週刊誌記者時代から現在まで、政財界はじめ芸能界、スポーツ界など一流の人には数え切れないほど会ってきたが、私は未(いま)だ一流の人間になれないでいる。

 話が違うではないか。
 先輩に抗議しようにも、すでに故人になられた。

 で、昨夜。
 仕事のあと、自宅の風呂につかっていたときのこと。
 一流の「意味」について、ハタと思い当たったのである。

「人皆己々得たる所一つあるものなり」
 とは、江戸初期の臨済宗の高僧・沢庵禅師の言葉で、
「人は皆それぞれの長所がある」
 という意味だ。

 私はこれまで、一流とは、功成り名を遂げた人だと思ってきたが、そうではないのだ。

 人間はすべて、それぞれ「一流のモノ」を持っており、その「一流のモノ」を見抜いて接することが、「一流の人に会う」ということではないのか。
 すなわち、人それぞれが持つ「一流のモノ」を見抜く眼力を養え、と先輩は言ったのかもしれないと、思い当たったのである。

 そうと知らなかった私が、一流になれないのは、なるほど当然だと合点したのであった。

投稿者 mukaidani : 09:17

2011年05月26日

返答に「保険」をかける

「今日は風呂へ行くの?」
 愚妻がきく。
 木曜日は稽古がないので、スーパー銭湯へ行くのか、と問うているのだ。

「仕事が忙しい」
 私が答える。
「じゃ、行かないのね?」
「いや、可能性は0パーセントではない」
「どっちなのよ、行くのか、行かないのか」
「だから、可能性は0パーセントでは・・・」
「いい加減にしてよ!」

 斑目(まだらめ)原子力安全委員長のマネをしたら、愚妻を怒らしてしました。

 それにしても、「可能性は0パーセントではない」という返答は便利ですな。

「このままでは人類は滅亡するのでは?」
「ウム。可能性は0パーセントではない」

 こういう言い方を、
「返事に保険をかける」
 と言うのだ。

投稿者 mukaidani : 09:26

2011年05月25日

幸不幸のタネを「逆説的」に考える

「終わりよければすべてよし」
 これが《人生の要諦》である。

 どんなに苦しい人生を歩んでこようと、晩年を迎えて、
(生きててよかったな)
 と笑顔が浮かべば、それは幸せな人である。
 過去の労苦は、この笑顔によってすべて帳消しとなり、楽しい思い出に変わってしまうからだ。

 ということは、労苦が大きければ大きいほど、
「生きいてよかった」
 という感動は比例して大きくなり、手にする幸福感もまた、それにつれて大きくなる。
 逆説的に言えば、「労苦こそ幸福の種」ということになる。

 反対に、栄耀栄華をきわめ、バラ色の人生を送ってきた人が晩年を迎えて躓(つまづ)き、
(私の人生は何だったのだろうか)
 と悔悟の日々を送るとすれば、それは不幸だ。

 躓いたことが不幸なのではなく、悔悟しながら生きていくという、そのことが不幸なのである。
 これも逆説的に言えば「バラ色の人生は不幸の種」ということになる。


 さて、「労苦こそ幸福の種」と、「バラ色の人生は不幸の種」と、どっちの生き方がいいだろうか。

「おい、おまえはどう思うか」
 愚妻に問うと、お茶を飲む手をとめて、
「何よ、いまさら。あなたは晩年じゃないの」
 ごもっともである。

投稿者 mukaidani : 09:18

2011年05月24日

愚妻の「成長」

 昨夜は、愚妻と一緒にスーパー銭湯へ出かけた。
 途中、雨が降り出したので、ワイパーを動かすと、油膜がギラギラである。
 ガソリンスタンドで、給油のときに窓を拭(ふ)いてもらうと、いつもこうなのだそうで、
「だから、拭いてもらわないんだけど、あまりに汚れていたから」
 と愚妻が言う。

 クルマにガソリンを入れるのは愚妻の仕事なので、くわしいことは知らないが、クルマのボディーを拭く布で窓も拭くのだそうだ。
 なるほど、それでは油膜がつくはずである。

「どうして、ボディーと窓と同じ布で拭くのかしらねぇ」
 と、愚妻は怒っていたが、ふと、
「別の布で拭いてくれて油膜がつかないスタンドがあれば、きっとはやるんじゃないかしら」
 と言った。

 これに私は感心した。
 もちろんアイデアにではない。
 怒りという「自分の立場」から「客観視」へ転換したことに感心したのである。

 どうやら愚妻も、「我執」から少しずつ離れつつあるということか。
 成長である。
「馬に念仏、愚妻に説法」
 と、あきめていたが、これからも根気よく仏法を説き続けよう。
 気を取り直した一夜であった。
 

投稿者 mukaidani : 09:31

2011年05月23日

何事も深く考えず、ひょいと

 フェイスブックを始めた。
 いや、「始めた」というのは正確ではない。
 知人に招待され、深く考えず、ひょいと参加したのである。

 だが参加すれば、当然ながらネット上に友人ができる。
 知らん顔はできない。
 で、あたふたとフェイスブックの入門書を購入した次第である。


「深く考えず、ひょいと」
 というのは、私の悪いクセだ。
 保護司になったのも、坊さんになったのも「深く考えず、ひょいと」であるなら、すでに得度しているのに、中央仏教学院の通信教育に入学したのも「ひょいと」。

 龍笛を始めたのも「ひょいと」なら、いろんな仕事や雑用を引き受け、時間のやりくりに悲鳴をあげているのも、すべて「ひょいと」に原因があるのだ。


「少しは考えなさいよ」
 と愚妻に言われるまでもなく、自分でも反省しているのだが、しかし、この「ひょいと」によって、人生はラグビーボールのように思いがけない方向に飛んでいくから面白い。

 そして、その面白さが何かと言えば、人との出会いである。

「ひょいと」がなければ、生涯を通じて出合うことのないであろう人と知り合っていく。
 ここに人生の面白さがあるのだ。

 そういう意味で、「深く考えず、ひょいと」というのは、人生を楽しむ秘訣のように、私は思っているのである。

投稿者 mukaidani : 08:08

2011年05月22日

「ウソ」について考える

『今日ほめて 明日悪くいう 人の口泣くも笑うも ウソの世の中』
 一休宗純の言葉である。

 この言葉の意味について、
「私たちはウソの世のなかを生きているにもかかわらず、そうと知らず、一喜一憂するとは何と愚かなことよ」
 と、一休さんが嗤(わら)っているものと思っていた。

 だが、最近は違う。
「大いにウソをつきなさい」
 と解釈するのである。


「ウソは泥棒の始まり」
 と言うがごとく、私たちは「ウソ=悪」とする。
 だが、ウソは本当に悪いことなのだろうか。

 たとえば、
「私のこと、嫌いですか?」
 と、息子のお嫁さんに問われて、
「ええ、大嫌いです」
 と答えるお姑さんはいまい。

 義父に向かって、
「ずいぶんハゲてきましたね」
 と、事実を正直に指摘するお嫁さんもいないだろう。

「社長、私は仕事が大嫌いなんです」
 とホンネを口にすれば、真っ先にリストラである。

 こうしてみると、ウソは社会生活を送るうえで不可欠のものであることがわかる。言い換えれば、ウソをつかないで生きていける人間は一人としてこの世に存在しないということでもある。

 ところが一方で、ウソは道徳的に悪とされる。
 矛盾である。
 さて、どう折り合いをつけるか。


 そこで、ウソに二種類あると考える。
 ひとつは、自己の利益のために「人を騙すウソ」
 これは、許されざるウソ。

 もう一つは「人間関係の潤滑油としてのウソ」だ。
 もっと言えば、このウソによって双方の理解が深まり、幸せにつながっていくというウソである。

 嫁と姑の例で言えば、
「私のこと、嫌いですか?」
「何を言ってるの。自慢のお嫁さんですよ」
 と笑顔で応えればどうだろう。
 二人はうんと親密になることだろう。

 ウソは人間にとって不可欠の、そして用い方によっては素晴らしいものであるとは、私は独断と偏見で考えるのである。

「ウソつきになれ」
 と言うのではなく、
「人間はウソをつかざるを得ない」
 という本質を肯定的にとらえ、うまく用いるのが大人の知恵というものではないだろうか。

 ところが人間は、加齢につれてウソをつくのがヘタになる。
 甲羅を経て、人生の酸いも甘いも噛み分けてきたはずなのに、上手にウソをつくどころか、言わずもがなのホンネを口にして、人間関係をギクシャクさせていく。
 一定の年齢に達すれば、「ホンネ」は「憎まれ口」のことなのだ。

 円満な人格とは、上手にウソをつける人のことを言うのだと私は思うのだが、これが意外と難しいのだ。
「ウソ」がつい「ホンネ」になってしまい、無用の摩擦を起こしてしまうのである。

『今日ほめて 明日悪くいう 人の口泣くも笑うも ウソの世の中』
 という言葉の意味をあれこれ考えながら、
「私も心を鬼にして、たまには愚妻にお世辞を言わねば」
 と、反省しきりの今日このごろなのである。

投稿者 mukaidani : 09:50

2011年05月21日

節約という「道楽」

 東京電力の電力販売(4月)が13パーセント減だそうだが、これを、
「最大の落ち込み」
 とメディアが書いていた。

「落ち込み」という言葉にはネガティブなイメージがあるので、
「東電にとってよくなかった」
 と読める。

 だが、電力消費の落ち込みは、計画停電と節電によるものであるし、夏に向けて、さらなる節電を国も東電も呼びかけている。

「電気を使わないでください」
 という呼びかけに対する結果が13パーセント減なのだ。

 ならば、「最大の落ち込み」などと書かず、
「最大の節約効果」
 とポジティブに書くべきだろう。

 メディアはいったい何を考えているのか。

「そうは思わんか」
 と愚妻に同意を求めると、
「あら、うちなんか、電気代が20パーセントも安くなっているわよ」
 と、得意そうに鼻をうごめかした。

 なるほど、言われてみれば、わが家の節電は徹底している。
 玄関も、廊下も、階段も一切電気をつけないのだ。
 そのかわり、センサーで関知して光る電池式のライトが、いたるところにセットしてある。

 玄関に入ると、ピカッ。
 靴を脱いで廊下に上がると、ピカッ。
 二階に行こうと、階段に足をかけるとピカッ。
 そして階段を上がっていくにつれて、ピカッ、ピカッ、ピカッとライトが〝先導〟するのである。

「おい」
「なによ」
「節電で電気代が2割減もいいが、そのためにピカッ、ピカッをこんなに買ったのでは、費用がかさんで、かえって高くつくのではないか」
 私は、ごく常識的なことを口にしただけであるが、
「何よ、いつもケチばかりつけて」
 と、むくれてしまった。

 だが、考えてみれば、歩くたびにピカッ、ピカッ、ピカッも楽しいではないか。

 費用対効果はともかくとして、
(この夏は、節電をゲーム感覚で楽しむことにしよう)
 と思った次第。

 歳を取っての道楽は身の破滅と言うが、還暦にして初めて知った「節約の楽しさ」に、私はハマりつつあるのだ。

投稿者 mukaidani : 08:11

2011年05月20日

バラの棘(とげ)

 いま、バラの花が真っ盛りだと、テレビでやっていた。
 自宅から小一時間ほど先にバラ園がある。
 愚妻が、
「見に行こう」
 と言うので、叱りつけた。

 なるほどバラはきれいだ。
 それは認める。
 だが私は、バラが好きではないのだ。

「どうしてよ」
 と愚妻が挑戦的な目で言うので、私は答えた。

「バラには棘(とげ)がある」
「あったっていいじゃないの。取るわけじゃないんだから」
「いかん、絶対にいかん。棘で身を守ろうとする、その根性がよくない。野菊を見よ、コスモスを見よ。無防備で、己をさらけ出しているではないか。そこに真の美があるのだ」
「バカみたい」
 愚妻は、あきれたが、私はそう思っている。

 禅語に、
『花、無心にして蝶を招く』
 というのがある。
 棘で〝武装〟してまで咲くことはないのだ。

投稿者 mukaidani : 09:23

2011年05月19日

私の「哲学の坂道」

 今朝、自宅から歩いて道場の仕事部屋へ向かいながら、
「あれも、これも」
 という言葉が、唐突に浮かんできた。

「あれ」は遠い位置にあるもので、「これ」は近い位置にあるものだ。
 これを《時間》に置き換えて考えれば、「あれ」は「未来」、「これ」は「現在」ということになる。

 つまり「あれも、これも」と求めることは、
「未来にある願望の成就を求め、そして目前にある願望の成就をも求める」
 ということになる。
「未来」が先で、「現在」があとなのだ。

(ハハーン、ここに人生のつまずきがあるんだな)
 と考えたのである。

「あれも、これも」は、「これも、あれも」でなければならない。
 すなわち、
「目前のことをしっかり考え、しかるのち、未来に思いを馳せる」
 ということが大切なのではないか、という結論に達したのである。


 京都市左京区、南禅寺付近から銀閣寺までの小径を「哲学の道」という。
 哲学者・西田幾多郎が、この道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついた。

 私の自宅から道場まで、だらだらと坂を下ってわずか数分だが、これからは、この道を「哲学の坂道」と名づけようと、ひそかに思ったのである。

投稿者 mukaidani : 10:51

2011年05月18日

東電と「人の噂も75日」

『人の噂も75日』という諺(ことわざ)がある。
「世間があれこれ噂をするのも一時的なもので、しばらくすると自然に消えてしまう」
 という意味だ。

 誰しも自分のことを悪くいわれれば反論したくなるが、ムキになって反論したり否定したりすると〝火に油〟になって逆効果。
「だから噂なんか聞き流しなさい」
 と、この諺はさとすのである。


 ちなみに「聞き流す」という知恵は、ずいぶん古くからある。
 いまから七百年前、十四世紀前半に書かれた『源平盛衰記』に、
《人の上は百日こそ申すなれ》
 という記述が見られる。

 同書は源氏、平家の盛衰興亡を記したもので、
「人の身に起こった出来事など、百日もあれば忘れられてしまうものだ」
 と、諸行無常について説いているのだが、ようするに、
「世間の評判は移ろいやすいものだから、そんなものに一喜一憂するのはおろかなことだ」
 ということである。


 昨日、東京電力は、福島第1原発事故の収束に向けた工程表の改訂版を公表した。
 聞いていて、内容がよく理解できない。
 まさか『人の噂も75日』で、〝逃げ切り〟を図ろうとしてるわけでもあるまいが、
「なんとなく誠意がないな」
 という印象を東電に抱く。

 大震災から、今日で68日が過ぎ、あと一週間で「75日」を迎える。

投稿者 mukaidani : 11:08

2011年05月17日

世代別の「評価尺」を考える

 風呂に浸かっていて、ふと、
「人間は、何をもって評価されるか」
 という考えが浮かんできて、次のような〝世代別の評価基準〟を考えた。


 10代は、
「何をやりたいか」
 という「志(こころざし)」で評価される。

 20代は、
「何を始めたか」
 という「行動」で評価される。

 30代は、
「何がやれるか」
 という「未来」で評価される。

 40代は、
「何をやっているか」
 という「現状」で評価される。

 50代は、
「何をやったか」
 という「結果」で評価される。

そして、60代になったら、
「何をやらないか」
 という「幕引き」で評価される。

 70代移行については評価はしない。
 なぜなら「評価される立場」を卒業しているからである。

 こうした〝評価基準〟で人生を俯瞰(ふかん)してみれば、
「いま自分は何をなすべきか」
 ということが、おのずと見えてくるように思うのである。

 

投稿者 mukaidani : 09:23

2011年05月16日

我が家の「谺(こだま)」

 龍笛を練習しようとすると、
「うるさい」
 と言う。

 お経を練習しようとすると、
「道場でやってよ」
 と言う。

「こめんな」
 と言うと、
「ホントよ」
 と言う。

 谺(こだま)でしょうか。
 いいえ、我が家の愚妻です。


 ACが流す「金子みすず」の『こだまでしょうか』をもじれば、こんなふうになる。

 6月、8月刊行予定の2冊を書き終え、ひと息ついていたが、これから6月末と7月末の〆切にかからなければならない。
 道場も週4日ある。
 あれやこれやで、フーフー言っている。
 気分転換に龍笛を吹きたくもなるし、お経も称えたくなるのだが、我が家の〝谺〟がうるさいのだ。


投稿者 mukaidani : 10:33

2011年05月15日

「節電を喜ぶ」を考える

 電気代が2割安くなっている。
 これまでいくらかかっていたのか知らないが、愚妻がそう言って、とても喜んでいる。
 なるほど節電も、こうして〝成果〟が具体的に数字で見えるのは、励みになって結構なことだ。

「もっと節電しなくちゃ」
 と愚妻が張り切り、私も節電に目覚めた。

 で、子供たちにも節電意識を持たせようと、小学生の稽古時間に道場の電気を半分消してみると、
「ワー、節電だ、節電だ」
 と喜んでいる。

 ゲーム感覚である。

「節約」ということを教えようとしたのが、電気に対して「ありがたいこと」という認識のない子供たちにしてみれば、面白がるのは当然だろう。

 愚妻は経済的視点から節電を喜び、子供はゲーム感覚として節電を喜ぶ。
「節約」とは「無駄にしないという感謝の心」であると考える私は、いささかの違和感をおぼえるのだ。

投稿者 mukaidani : 10:10

2011年05月14日

「オシドリ夫婦」の由来

 仲のいい夫婦のことを「オシドリ夫婦」と言うが、オシドリがどんな鳥であるかは意外に知られていないようである。

 オシドリは《がんかも科》の水鳥で、漢字で「鴛鴦」と書く。
 鴛(えん)はオス、鴦(おう)はメスのことで、雄雌が番(つがい)になって離れないことから、夫婦仲の睦まじいことことのたとえとして使われるが、中国の故事に『鴛鴦(えんおう)の契(ちぎ)り』というのがある。

 真のオシドリ夫婦がどんなものであるか、この故事がよく表しているので紹介しておう。

 その昔、中国の戦国時代のこと。
 宋の康王(こうおう)が、家来である韓憑(かんひょう)の美しい妻を権力で奪い取った。
 韓憑は痛憤のあまり自殺するのだが、妻もまた、
「夫と一緒に葬って欲しい」
 という遺書を残して、後追い自殺した。

 民衆は2人に深く同情したが、これに怒った康王は、2人の墓をわざと向かい合わせにつくり、
「もし墓を1つに合わせられるなら、やってみるがよかろう」
 と言い放ったのである。
「そんなことができるわけがない」と見こしたうえでの嫌味であった。

 ところがどうだ。
 一晩で、たちまち梓(あずさ)の木がそれぞれの墓から生え出てきたではないか。
 さらに10日ほどすると、2つの木は枝がつながり、根は1つにからまり合った。梓の木によって、ふたりの墓は2つに合わさったのである。

 そして、この木の枝の上には、ひと番(つがい)オシドリが棲みつき、1日じゅう悲しげに鳴いたそうだ。
 これが「オシドリ夫婦」なのである。


 いい話ですな。
「それに引き換えわが家は」
 なんてボヤきはともかく、愚妻といえでも他人同士が縁あって夫婦となったのだ。オシドリとまではいかなくても、夫婦して笑って生きていきたいものではないか。

投稿者 mukaidani : 07:35

2011年05月13日

「ユッケ社長」の土下座

 4人の死者を出した焼き肉チェーン店「焼肉酒家えびす」をめぐる集団食中毒事件で、勘坂社長が土下座した姿が、私の脳裏にずっと引っかかっている。

「パフォーマンス」だと言うのではない。
 そういうことではなく、何となく違和感をおぼえるのだ。

 それが何だかわからないまま、もやもや気持ちで数日が過ぎていたが、愚妻が観ていたテレビ時代劇で土下座シーンがあり、それをぼんやり眺めていて、
(そうか!)
 と、もやもやの原因に思い当たったのである。


 すなわち、直立不動で頭を下げるのは「謝(あやま)る」で、土下座は、
「赦(ゆる)しを乞(こ)う」
 ということなのだ。

 町人が代官に土下座するときのセリフは、
「お赦しくださいませ、お代官様」
 であり、
「申しわけありませんでした」
 という謝罪ではない。


 このことから、勘坂社長の土下座は、
「お赦しください」
 と乞うているのだ。

 赦しを乞うのは、謝罪し、責任を取り、その後のことではないか。
 しかも、被害者にではなく、メディアに向かって赦しを乞うているのだ。
 妙なことではないか。

 私の違和感は、責任を取る前に「赦しを乞う」という社長の土下座に、「わが身可愛さ」を感じたからであることに気づいたのである。

投稿者 mukaidani : 08:04

2011年05月12日

牛乳と牛肉と「牛さん」

 孫が遊びに来ると、いつも牛乳を飲む。
 愚妻が与えるのだが、それはもちろんよい。

 私が気に入らないのは、
「ハイ、牛さんのお乳よ」
 と言って渡す愚妻のセリフである。
 下の女児は、
「ワー、牛さんのお乳!」
 と言って無邪に喜ぶ。

 それを見ていて、私が愚妻に噛みつくのだ。

「牛乳のときは〝牛さん〟と言っておきながら、牛肉を食べさせるときは、なぜ〝牛さんの背中を切り取ったお肉ですよ〟と言わんのだ」
「そんなこと言ったら、牛がかわいそうになって、子供たちが食べられないじゃない」
「そこなのだ。仏教で言う殺生とは・・・」
「よそへ行って言ってよ」
「バカ者!」
「バカはないでしょ!」

 私としては「食べ物に感謝しよう」ということを言いたいだけなのだが、話はそこへ行く前に頓挫してしまうのである。

「人を見て法を説け」
 とおっしゃった釈尊の言葉を噛みしめる今日このごろなのである。

投稿者 mukaidani : 07:59

2011年05月11日

「責務」の正体

 茨城県土浦市役所が3職員を処分した。
 報道によれば、福島第1原発事故の直後に有給休暇を取って県外へ〝避難〟し、「これでは市民の理解得られない」ということが理由だという。

 これには、いろいろ考えされる。

「責務放棄」がけしからんというのであれば、自衛隊はどうする。
 国民の生命財産を守るのが「責務」である以上、放射能の危険をおかしてでも福島第1原発の建屋内に飛び込むべきだという理屈になる。

 そうはならないのは、前提として「自衛隊員の誰も行っていない」ということがあるからではないか。

 つまり、防衛省は、
「誰も行かない危険な現場に、隊員を行かすわけにはいかない」
 というわけで、これは非難されず、
「そうだよなァ」
 と、メディアも世間も納得する。


 土浦市役所は逆だ。
「職員のみんなが残っている」
 という前提がある。

 したがって、
「みんなが残っているのに、数人だけ〝避難〟するのは何事か」
 というわけで、
「それはないぜ」
 と、メディアも世間も白い目で見るというわけである。


 こう考えていくと、「職務」は、
「みんながどうであるか」
 ということが大きく影響することがわかってくる。

 戦場で、全員退却であれば非難されず、一人だけ退却すれば、それは「敵前逃亡」となる。
「責務」に「絶対値」はなのではないか、とそんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 10:04

2011年05月10日

マッサージ台で「ゴルフ問題」を考える

 マッサージに行って、いま帰ってきた。
 根を詰めて書くと、首から肩まで凝るからで、週に一度は行くようにしている。

 マッサージ中は、露天風呂やサウナと同じく、いろんな企画やアイデアが浮かんでくるので楽しみにしているのだが、時として、どうでもいいような考えにとらわれたりする。

 今日もそうだった。
 民主党の石井一選対委員長のゴルフ問題のことが頭をよぎったのである。

 石井氏はこの連休中、フィリピン友好議員連盟としてフィリピンを訪問し、上院議長らと会談したほか、地元の経済人らとゴルフをしたそうだが、大震災対策本部副本部長がこの非常時に、
「ゴルフとは何事か」
 というわけで、副本部長を辞任した。


 私の脳裏に浮かんだのは、
「これがゴルフでなく、空手や剣道だったらどうか」
 という思いだった。

 おそらく、批難はされなかったろう。
 武道には修行的ニュアンスがあり、ゴルフはスポーツでありながら「楽しむ」「興じる」という娯楽的ニュアンスがあるからだ。

 では、サッカーや野球だったらどうか。
 どちらも、克己心を要求される厳しいスポーツだが、アマチュアの場合は、やはり「楽しむ」というニュアンスがあり、
「石井議員、サッカーに興じる」
 と書かれるだろう。
 このあたりに武道と西洋スポーツの違いがあるように思う。


 先の日本柔道選手権で、 鈴木桂治選手が4年ぶり4度目の優勝をし、感極まったかのようにガッツポーズをした。

 この4年間、雌伏の時代であったことを思えば、彼の嬉しさは理解できる。
 嬉しさは素直にあらわすべきだという意見もある。
 だが、私はガッツポーズが好きではない。
 なぜなら、敗者を思いやるという「惻隠の情」をもって武道とするからだ。

 そういう意味で、
(柔道は武道ではなく、国際スポーツなんだな)
 と改めて思った。

 と同時に、うちの道場生たちは、
(試合で勝ってガッツポーズを取るような子供たちにしたくない)
 ということを考えつつ、マッサージの一時間が過ぎるのだ。

投稿者 mukaidani : 11:23

2011年05月09日

ユッケがなくても生きていけるのだ

 日本人が牛を食すようになったのは、明治の文明開化以後のことだ。
 それまでは、不殺生という仏教思想によって獣肉を忌み嫌い、食べなかった。

 ところが、ご時世とは怖いもので、食生活がコロリと一転。牛肉が庶民にとって文明開化の象徴になった。

 明治四年に刊行された『牛肉安愚楽鍋』という本の中に、
《士農工商老弱男女賢愚貧福、おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴》
 という下りが出てくる。
「何人といえども、古い因習にとらわれ、牛肉を食べないのは文明開化を邪魔する不届き者である」
 と非難しているのだ。

 冗談みたいなホントの話だが、あまりの加熱ぶりに、文明開化の旗振り役であった福沢諭吉でさえ、著書『文明論之概略』の中で、
《西洋流の衣食住を以て文明開化の徴候と為すべきや》
 と、「西洋の洋服を着て牛肉を食らうことだけが文明開化ではない」と反省をうながしている。
 明治は「熱に浮かされた牛肉ブーム」だったのである。


 いま、焼き肉チェーン店「焼肉酒家えびす」の集団食中毒が社会問題になっている。

 大震災で、私たちは煌々(こうこう)たる明かりがなくても幸せに生きていけることに気がついた。
 ユッケがなくても、生きていけるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 01:22

2011年05月08日

啄木の「じっと手を見る」を考える

『はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る』
 とは、石川啄木のよく知られた詩である。

 この詩に接したのは中学時代だったか。
(へぇ、人間は絶望したときに、じっと自分の手を見つめるんだ)
 と、何やら物知りになった気がした。

 駆け出しのライター時代、この詩を目にしたときは、
(ホンマやでぇ)
 と、「働けど楽にならざる」に共感した。

 取材で手相鑑定家と会ったときは、
「手相には人生の地図が描いてあるんです」
 という鑑定家の言葉に、
(なるほど、そうなのか)
 と感心して、じっと手を見たが、地図にしてはずいぶんアバアトな気がしたものだ。

 そして、
『水を掬(きく)すれば 月 手に在(あ)り』
 という禅語に接して、
(そうか!)
 と合点したのである。


 この言葉の意味は、
「月夜に水を手で掬(すく)って見れば、月の光は手のなかに宿る」
 というもので、「慈悲の光りはすべての人にそそがれており、水を手で掬うという働きかけや修行があって初めてそれに気づく」とさとすわけだが、私は《月の光り》を《幸せ》に置き換えて読み解く。

 すなわち、
「人間は絶望したとき、自分の手のひらのなかにあるはずの〝掌中の月〟を無意識に探し出そうとして、じっと見つめるのではないだろうか」
 と、そんなことを考えるのである。

 ためしにそんな思いで、自分の手のひらを見ていただきたい。
 また違った感慨がわいてくるはずである。

投稿者 mukaidani : 09:33

2011年05月07日

浜岡原発停止は「英断」か

 菅首相が、中部電力浜岡原子力発電所の全面停止要請という異例の措置に踏み切った。

「政権の信頼回復を狙った」
 との声があるものの、「よくやった」の声は強い。

 もっとも、福島原発の危機状態がつづくなかで、首相の原発停止の要請に対して、
「停止なんかしちゃいかん!」
 という〝勇気ある論陣〟を張れるメディアはあるまい。
 いま原発は〝悪役〟なのだ。

 となれば、当然ながら、
「原発停止は、なぜ浜岡だけなんだ!」
 という声が原発をかかえる自治体からわき起こってくるだろう。

 だから菅首相は、停止の理由に東海地震をあげた。
 静岡県を中心とするM8クラスの大地震発生率が、今後30年間で87パーセントだから「特別ですよ」というわけだ。

 だが、
「東海地震が来るから浜岡原発を停める」
 ということであるなら、
「他の原発地域には地震は来ない」
 という理屈になる。

「いやいや、発生確率が東海地震より低いというだけです」
 というなら、
「じゃ、やっぱりウチの県の原発を停めてくれよ」
 と知事は談判するだろう。
 そう言わなければ、県民が納得しないからである。


 今後、原発はどうあるべきか、国としての方針を示さないまま、菅首相は唐突に浜岡原発停止を決めた。

 もし、この決定が菅首相の「思いつき」であったなら、日本はこれから大混乱に陥(おちい)るだろう。

 そうならないことを祈りつつ、災害の本質は「人災」であると、改めて思うのである。

投稿者 mukaidani : 10:12

2011年05月06日

「車の運転」という「生き方」

『在家仏教』6月号に、形山睡峰師(無相庵菩提禅堂庵主)のこんな言葉がある。
 聞き手である金光寿郎氏(元NHKチーフディレクター)との対談で、形山師は車の運転を例に引きながら、こう語ってらっしゃる。

《「おっ、あそこに何か良いものがある」と気づいても横を向くわけにはゆかない、だから上手に運転している人は、全部を正しくキャッチしながら、全部を即座に離している、これを「正受不受」というのですが、何も心に思っていないけど全部の状況がちゃんと残らず入っている、そしてどんな変化にも的確にパッパッと応じて滞ることがない、これがいちばん安全に運転する方法で、いちばん自由なあり方ではないか、このように働いている心を、私は「やわらかな心」と言っているのです。》

 私は読みながら、車の運転を「生き方」、周囲の状況を「苦」に置き換えてみた。

 嫌なこと、苦しいことは数え切れないほどあるが、車を運転するときに周囲の状況をしっかり認識しているように、その一つひとつから逃げることなく、しっかりと受けとめ、しかし心に留(とど)めることなく瞬時に忘れ去ってしまう。

 これこそが、心平穏に生きる秘訣ではないかと思ったのである。


 私のことを愚妻は、
「あなたの耳は、何でもかんでも右から左へ抜けて行く」
 と言う。

 何事も気にしないという意味だが、もちろんホメ言葉ではなく、
「懲りない人間である」
 と揶揄(やゆ)しているのだ。

 しかし、形山師の言葉を読んで、私はハタと膝を打った。
「なんと私の生き方は〝車の運転〟と同じではないか」

 さっそく愚妻にこのことを自慢して告げると、ジロリと私の顔を見て、
「あなたは〝安全運転〟じゃないでしょ」

 言われてみると、たしかにそうかもしれない。
 私の人生は、暴走とは言わないまでも、多少のスピード運転と蛇行運転ではある。
 だが、〝周囲の景色〟から目を背けることなく、一つのこらず目に留めてきた。
 それは自慢してもいいと思うのだが、愚妻は聞く耳を持つまい。
 

投稿者 mukaidani : 09:19

2011年05月05日

「鯉のぼり」を意地悪く眺める

 今日は「端午(たんご)の節句」である。
 子供のころ「団子の節句」と聞き間違え、団子は秋の「お月見」と2回あるものと思っていた。
 ウソのような本当の話である。

 そう言えば、やはり子供のころ、「バスタオル」の「バス」の意味がわからず、幼い頭で考えた結論は、
「バス(BUS)のように大きいタオル」
 というもので、後年、「風呂(BATH)」の意味だと知って愕然としたものだ。


 バスタオルはともかく、「端午の節句」である。
 青空に薫風を孕(はら)んで、鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいるが、なぜ端午の節句に「鯉のぼり」を上げるか、理由を知っているだろうか。

 これは《鯉の滝登り》という立身出世の故事に因(ちな)んでのことで、「鯉のぼり」が登場するのは江戸時代に入ってからで、これは町人のアイデア。

 というのも、7歳以下の子供のいる武家では、端午(旧暦5月5日)に幟(のぼり)を立て、吹き流しを上げた。
 吹き流しは青・赤・黄・白・黒の五色になっているが、これは中国の五行説に由来し、邪気を払う霊力があるとされている。

 だが、吹き流しを上げるのは武家だけの特権で、我が子のすこやかな成長と立身出世を願う親の気持ちは武士も町人も同じでありながら、町人にはそれが許されなかった。

 そこで、
「じゃ、〝鯉の滝登り〟はどうだ」
 というわけで「鯉のぼり」を上げたのが始まり。
 そして明治時代に入り、身分制度の廃止によって武士・町人の区別なく、鯉のぼりはどの家庭でも上げられるようになっていくのである。


 住宅事情もあってか、「鯉のぼり」でなく、兜(かぶと)を飾る家庭もある。
 これは本来の趣旨と風習からすれば間違いということになるが、わが子のすこやかな成長と立身出世を願う親心には変わりはないだろう。

 だが、ものの十年もすれば、すこやかに成長しすぎて、
「誰が生んでくれって頼んだ!」
 と悪態をつくようになるのだ。

 そんなことを意地悪く思いながら、青空に泳ぐ鯉のぼりを眺めているのである。


投稿者 mukaidani : 09:21

2011年05月04日

われは悪(わろ)しと思う人なし

 鳩山前首相が、菅総理を「無責任」と批判したそうな。
 政治家には「想定外」という発言は許されず、この言葉を使う菅総理は無責任というわけである。

 私も、そう思う。
 この発言は正しい。
 だけど、発言したのが鳩山サンとなれば、「なんだかなァ」の気分である。

 何度もこのブログで書くのは気が引けるのだが、鳩山サンは首相当時、沖縄普天間基地移設問題で、
「最低でも県外」
「私に腹案がある」
 と大見得を切りつづけ、最後の最後になって、
「実は腹案はありませんでした」

 ゴメンナサイとあやまった「歴史に残る無責任男」で、ノーテンキぶりに世論は轟々たる非難を浴びた御仁ではないか。

 その鳩山サンが、菅サンを「無責任」といって非難するのだから、これほど悪い冗談はあるまい。

 だが、その一方で私は、
「鳩山サンは、自分が無責任男とは本当に思っていないのだろうか」
「菅サンは、自分が無能とは本当に考えていないのだろうか」
 という素朴な疑問をいだく。

 そして、あれこれ推測しているうちに、蓮如上人の次の言葉を思い出した。

「われは悪(わろ)しと思う人なし」

 なるほど、そうなのだ。
 私が、愚妻からどんなに非難されようと、
「わしは正しい」
 と言い張るように、鳩山サンも菅サンも、
「わしは悪くない、わしは正しい」
 と思っているに違いない。
 そうでなければ、恥ずかしくて表を歩けないではないか。

投稿者 mukaidani : 03:15

2011年05月03日

愚妻のヒザ痛と「お釈迦さま」

 愚妻が、ヒザ痛を訴える。
 訴えるといっても、私の胃痛のときのように、
「痛テテテテ」
 と素直に口にするわけではなく、私の前で足を引きずり、無言のアピールをするのだ。

 で、やむなく、
「どうした、ヒザが痛むのか」
 と私が声をかけ、
「そうなのよ」
 という会話になっていく。

「医者に行ってこいよ」
「でも、ヒザが痛いから」
「わかった、わしが連れて行こう」
 かくのごとく、私はいつも愚妻の計略に引っかかるのである。

 だが、今回はちがう。

「ヒザが痛むのか」
「そうなのよ」
「独生独死独去独来」
「なによ、それ」
「仏説無量寿経にいわく。人、愛欲の中にありて独り生まれ独り死し、独り去り独り来る。身(しん)みずからこれを当(う)くるに、代わるものあることなし。つまり」
 と、私が解説する。
「おまえさんのヒザ痛は誰に代わってもらうこともできず、おまえさん自身が抱えて生きていかねばならないと、お釈迦さまは説いておる。気の毒だが、あきらめなさい」

 すると、愚妻は柳眉を逆立て、
「じゃ、あなた、胃が痛いなんて言わないでよ。痛風が痛いなんて言わないでよ。首が凝(こ)るとか、脊柱管がどうとか、腹が減ったとか一切言わないでよ」
「おいおい、腹が減るは関係ないだろう」
「だって、あなたのお腹でしょ。私には関係ないわ」
 お釈迦さんの深遠なる教えも、愚妻の前には木っ端微塵なのである。

投稿者 mukaidani : 02:45

2011年05月02日

今日は「八十八夜」

 今日は「八十八夜」である。
「88夜」と書くと、どうもしっくりこない。
 日本文化の伝統行事は、やはり和数字でなくちゃ気分が出ないものである。

「八十八夜」は立春から数えて八十八日目のことだが、昔から「夏も近づく八十八夜」とか「八十八夜の別れ霜」などと言われるように、八十八夜は霜のなくなる安定した気候の訪れる時期で、春から夏へ移る境目の日として重要視されてきた。

「八」と「十」と「八」を組み合わせれば「米」という字になることから、八十八夜は農家にとって重要な日とされ、この時期が田植えの真っ盛りとなる。

 また、八十八夜からは新茶の摘み取りが行われるが、この日に摘んだ新茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きすると言われている。

 ちなみに八十八夜は「雑節」のひとつだ。
 雑節とは、二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた特別な暦日のことで、「入梅」「土用」「二百十日」「二百二十日」などがそれにあたる。

 私たちの人生と関わりなく、季節は静かに移ろっていく。

投稿者 mukaidani : 04:28

2011年05月01日

ボランティアと「堀江某」

 東北道は「ボランティア渋滞」だとニュースが報じている。
 大震災発生以来、ボランティアは延べ13万人を超え、この連休中には1日あたり約8000人が被災地で活動する見込みだという。

 ボランティアは本当に素晴らしいことで、
「日本はいい国だな」
 と感激する一方、
「何がそこまでボランティアに駆り立てるのか」
 という意見も散見する。

「ボランティア活動を通じて〝生きている実感〟を見いだそうしている」
 というクールな見方もある。

 だが、ボランティアに参加する理由はどうあれ、
「人のために役に立たちたい」
 という思いは素晴らしいことではないか。


 元ライブドア社長の堀江某が、上告を棄却した最高裁決定を不服として異議を申し立てている。
 異議が退けられた場合は懲役2年6月の実刑とした1、2審判決が確定し、収監される。

「法律に触れなければ何をしてもいい」
 という彼の生き方を〝時代の寵児〟として囃し立てたのは、ついこのあいだのような気がする。

 堀江某が〝寵児〟になる時代と、ボランティアで道路が渋滞する時代と、どっちが素晴らしいだろうか。

投稿者 mukaidani : 08:02