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2011年04月30日

昨夜、一人で帰宅

 昨日の昼、娘が孫二人を連れて、九十九里の仕事部屋へやってきた。
 私は仕事が溜まっているので留守番をし、愚妻たち四人が温泉健康ランドへ。
 そのあと夕食に魚を食べに行き、私は仕事があるので、そのまま一人で帰宅した。

 仕事のため、仕事場から帰るというのもヘンな話だが、なぜか毎年、ゴールデンウィークとお盆、年末年始は仕事と格闘である。


 昨夜、帰宅したら、チューナーが届いていた。
 音程をチェックする機器で、龍笛の音程を確認するのだ。
 月一度の練習会に今月から参加した。
 仕事が忙しいときに限って、こうした〝用事〟をつくってしまうのだ。
 
 

投稿者 mukaidani : 09:22

2011年04月29日

「道歌」を人生に置いて読み解く

 今日は、いい天気である。
 気温はさほどでもないが、九十九里の空は青く、白い雲がゆっくりと流れている。

 仕事部屋から雲を見上げていて、ふと居合の道歌が脳裏をよぎる。

『吹けば行く 吹かねば行かぬ 浮雲の 風に任する身こそやすけれ』

 意味は、いろいろに受け取れる。
 相手と対峙したときの間合いの極意とも読めるし、立ち会いに臨んで迷いを断ち切った心境とも読めるだろう。


 私は道歌というやつが好きで、人生に置き換えて読み解く。

 たとえば先の、
『吹けば行く 吹かねば行かぬ 浮雲の 風に任する身こそやすけれ』
 とは、
「人生という風に身をまかせ、苦も楽も甘受せよ」
 と読み解ける。
 もっと言えば、
「風に任せるしかないのだ」
 と、敢然と、積極的に受け止めてもよい。

 あるいは、
『年ごとに 咲くや吉野の桜花 木を斬りてみよ 花のあるかは』
 という道歌は、
「幸せとは心のありようであって、実体はないにもかかわらず、幸せを求めようとする愚かさ」
 と受け止められる。

『武士の酒を過ごすぞ不覚なる 無下に呑まぬも又おろかなり』
 というのは、
「清濁併せ呑む」
 と読み解きたい。

『武士の心のうちに 死の一つ忘れざりせば 不覚あらじな』
 この覚悟があれば、まさに「想定外」などあり得ないということになる。


 道歌は、先人が生死の狭間に身を置いて、
「かくあるべし」
 と詠んだものだ。
 だから、人生という修羅場に即して読み解けば、
「なるほど」
 と腑に落ちてわかるのだ。

投稿者 mukaidani : 10:47

2011年04月28日

いつのまにか桜は散った

 今年は花見をしなかった。
 気がついたら、桜はとっくに散っているではないか。

「おい、なぜ桜のことを言わんのだ」
 愚妻にクレームをつけると、
「余震で、桜どころじゃなかったでしょ」
 言われてみればもっともで、なるほど〝サクラ気分〟でなかった。

 が、しかし、それでは人生に潤(うるお)いがなくなってしまうではないか。花鳥風月を愛(め)でてこそ、日本人だ。

 そんなわけで、初夏の海を眺めようと、今日はこれから九十九里の仕事場へ出かける。
 大震災で多くの人名を奪った海は、今日もまた、何事もなかったように単調な波を寄せては返していることだろう。
 だが、同じに見えて、波もまた「無常」なのである。

投稿者 mukaidani : 08:26

2011年04月27日

私は「畑の耕し男」

 87歳の映芳爺さんが連日、畑へ出かけている。
「あれも植えた、これも植えた」
 と、手柄のように語る。

 だが、畑を耕したのは私なのだ。
 堆肥を入れ、スコップで土をひっくり返し、鍬で耕し・・・。畑に出かける前に、イッチ、ニー、サン、シーと、入念に準備運動までしているのだ。
 当然ながら汗びっしょりで、
「帽子は換えが必要だな」
 と愚妻に命じたほどだ。

 しかるに、
「さあ、植えるぞ!」
 と楽しみにしていた矢先、
「あれも植えた、これも植えた」
 というわけである。

『縁の下の力持ち』
 という言葉があるが、私の場合は、
『畑の耕し男』
 といったところか。
 ま、それでも87歳が喜ぶなら、それでよしとしよう。

投稿者 mukaidani : 12:28

2011年04月26日

「我は天年」

『鶴は千年、亀は万年、我は天年』
 とは禅僧・仙崖(せんがい)の言葉である。

「千年生きるか、万年生きるか、あるいは明日逝(い)くか。寿命は人智のおよばざるところゆえ、わしはただ、天から授かった寿命をまっとうするだけ」
 という意味だ。


 大震災で多くの人が亡くなった。
「キャンディーズ」の元メンバーで、女優の田中好子さんが亡くなり、死を前にして彼女が語った肉声のテープが、繰り返しメディアを通じて流された。

 私たちは、いまほど「死」というものを身近に感じるときはないのではないか。
『我は天年』という仙崖の言葉が、ずっしりと重い。

投稿者 mukaidani : 09:31

2011年04月25日

サイババさんの死去

 インドの霊能者・サイババさんが心臓や呼吸器の病気で入院、死去したと聞いてビックリした。

 なんたって、サイババさんは病気治しの「奇跡」で知られ、信者は世界中にいるのだ。
 その〝奇跡の人〟が病気で亡くなるなんて、
「なんだかなァ」
 の気分なのである。

 その一方で、サイババさんには申しわけないが、どんな〝霊能者〟も「死」には勝てないということで、何となく安心もする。

 人間は、いずれ確実に死ぬ。
 それはわかっている。
 問題は、どういう過程を経て死ぬかだ。
 病気か、事故か、自然死か。
「死」への恐怖は、あるいは「死に方」への恐怖ではないかと、ふと思ったりもするのである。

投稿者 mukaidani : 08:36

2011年04月24日

「オムレツ」と「卵」

『卵を割らずにオムレツは作れない』
 という相場格言がある。

「オムレツを作って食べたいが、卵を割りたくないというのであれば、結局オムレツは食べられない」
 という意味で、
「オムレツを食べたければ、卵を割りなさい」
 とういうこと。
 相場で儲けたれば「何かを失う腹をくくれ」と相場格言は教える。


 これに似た中国の故事に『虎穴に入らずんば虎児を得ず』というのがある。
 周知のように、
「虎の住む穴に入るような危険を冒(おか)さなければ、虎の子のような貴重なものを得ることはできない」
 ということだが、これは「何事もリスクをともなう」ということで、親虎に噛み殺されるかもしれないが、うまくいけばケガすることなく虎児を得ることができる。

 ここが「卵を割ってオムレツをつくる」こととは似て非なるところだ。


 私たちはこれまで、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という生き方をしてきたのではないか。
(あわよくば)
(うまくいけば)
 と、うまく立ちまわることで、何かを得ようとする生き方である。

 だが、今度の大震災は、そういう生き方を木っ端微塵にしたのではあるまいか。
 オムレツを食べたければ、卵を割らなければならない。
 復興には、卵を割るという〝痛み〟が確実に伴うのだ。

 人生もしかり。
『虎穴に入らずんば虎児を得ず』から『卵を割らずにオムレツは作れない』へ。
 私の人生観も変わりつつある。

投稿者 mukaidani : 10:12

2011年04月23日

「あなたも大変ですね」という一言

 東京電力の清水正孝社長が、福島県内の避難所を謝罪に訪れ、怒号を浴びせられた。
 泣きながら詰め寄る女性もいた。

 怒りはもっともだ。
 避難者の方々は、はらわたが煮えくりかえる思いだろう。

 その一方で、
「あなたも大変ですね」
 と、清水社長にやさしい声をかける年配の女性もいた。

 怒号はもっともであると思う一方、「あなたも大変ですね」という言葉をかけた女性に、私の気持ちが揺さぶられた。

 軽々な〝傍観者の感情論〟を戒めつつも、
(なぜだろうか)
 と、考えさせられるのである。

投稿者 mukaidani : 07:21

2011年04月22日

備えあれば憂いなし

 愚妻が、物置からキャンプ用品を引っ張り出してきた。
 その昔、使っていたもので、寝袋はもちろん、ガス式のランプ、さらに携帯トイレまである。

 忘れていたが、この携帯トイレは本格的なやつで、確か代々木公園で開かれたキャンプフェアを見に行って、衝動的に買ったことを思い出した。

「ほら、見て」
 と、愚妻が得意そうにホコリまみれのリッュクを差し出す。
 中に非常食。
 10数年前だったか、大地震が来ると盛んにいわれていた時期に用意したものだという。
 愚妻は元々こういうことが好きなのだ。

 備えあれば憂いなしとは言うが、さて、事に臨んでどれほど役に立つのだろうか。
 昨夜、何度か余震があったが、愚妻も私も、
「あっ、地震!」
 と揺れる電灯を仰ぎ見ているばかりだった。

投稿者 mukaidani : 09:05

2011年04月21日

人間、努力するようではダメだ

 今朝、畑へ行った。
 春野菜を植えるシーズンとあって、87歳の映芳爺さんが異様に張り切っている。
 いや、映芳爺さんだけでなく、愚妻も異様に張り切っているのだ。
 なぜなら、自分専用の〝花コーナー〟をつくるからで、何だかんだ花を買い込んできて準備万端なのである。

 で、いざ畑へ到着すると、
「花は私がやるから、よけいなことしないでよ」
 鋭く命じて、愚妻が熱心に鍬(くわ)を振るい始めた。

 途中、私が気をきかせて水を撒こうとすると、
「ちょっと、余計なことしないでって言ったでしょ!」
 子を守る母猿のように、攻撃的な言葉を吐く。
 いやはや熱心なのである。


 故人になられたが、気学の会長さんが一杯やりながら、
「人間はね、努力するようじゃだめなんだ」
 と私に話してくださったことがある。

 趣味や遊びなど、好きなことやるときに「努力」する人はいないわけで、何事においても努力するようでは、
「生き方として間違っている」
 というわけである。

 愚妻は熱心に鍬を振るい、映芳爺さんは喜々としてホウレソウの種を撒いている。
 二人の姿を眺めつつ、
(なるほどなァ)
 と、気学の会長さんの言葉を思い出したのである。

投稿者 mukaidani : 13:18

2011年04月20日

人生は危うく、不確かなもの

 栃木県鹿沼市で、 集団で登校する小学生の列にクレーン車が突っ込み、6人の幼い命が奪われた。
 道場で多くの子供たちと接する私としては、親御さんたちの気持ちが痛いほどわかる。

 事故は、学校まであとわずかのところで起こり、亡くなったお子さんの祖母は、
「あと30秒、1分ずれていれば誰も死ななくてすんだのに」
 と悔やむ。

 わずか30秒、わずか1分の差で惨事に遭(あ)ったことを思えば、親御さんたちの無念さは察して余りある。


 だが、私たちの人生もまた、ほんの〝一瞬の差〟によって曲折をたどる。
 死と生、幸と不幸の狭間(はざま)を、私たちはヨタヨタしながら歩いているにもかかわらず、そのことに気づかず日々を生きている。

 人生ほど危(あや)うく、不確かなものはないのではないか。
 亡くなったお子さんたちを悼(いた)みながら、そんなことを思うのである。

投稿者 mukaidani : 11:24

2011年04月19日

菅総理の「軽さ」

 故田中角栄氏が首相当時、年賀状は八千枚が来たという。
 年賀状の枚数が権勢のバロメーターの一つとするなら、さすが〝今太閤〟と呼ばれただけのことはある。

 だが、私が感心したのは、年賀状の枚数ではない。
 分刻みのスケジュールをこなす超多忙の角栄が、八千枚のすべてに目を通し、返信を代筆する秘書に添え文を逐一指示したという、そのマメさに驚いたのである。

 田中軍団と呼ばれる最強部隊を率い、向かうところ敵なしだった角サンが、そこまで気配りをしていることに感心もし、凄味も感じたものだ。


 過日、産経新聞記者が記者会見で、菅総理に対して、
「一体何のために、その地位にしがみついているのか」
 と強烈な質問した。

 菅総理にどれだけの年賀状が来るのか知らないが、年賀状に逐一添え文を指示することはおそらくないだろう。
 菅総理の〝軽さ〟は、そんな「人生の処し方」にあるような気がするのだ。

投稿者 mukaidani : 04:04

2011年04月18日

「好々爺(こうこうや)」という言葉

『耳順』という言葉がある。
「じじゅん」と読む。
 60歳の別称である。

「60にして耳に順(したが)う」
 という孔子の言葉からとったもので、
「何事を聞いても耳にさからうことなく、素直に聞きとることができるようになった」
 という意味だ。

 だが、「素直に聞きとる」とは具体的には何をさすのか、ということになるとハッキリしない。

「何を聞いても、みなスラスラとわかるようになった」
 という解説書もあれば、
「人の言葉を素直に聞けるようになった」
 というのもある。

 どっちの説にせよ、『耳順』は字のごとく、「人の話」がスーッと耳に入っていくということにおいて、両者は共通している。


 このことから私は、『耳順』の意味を「自我に固執するな」と読み解く。
 要するに、
「年をとったら、頑固者でいたらあきまへんで」
 ということだ。

 では、なぜ年をとると頑固になるのか。
 それは、加齢につれて知識や価値観など新しいものが吸収できなくなるため、古い知識や経験、価値観にしがみつくからである。

 だから孔子は、
「そのことに気づき、相手の話を自分の価値観で判断してはいけない」
 と諭したのだろう。


 以上のことから、
「本日をもって好々爺(こうこうや)になる」
 と私は愚妻に宣言した。

 いまのご時世、60歳は好々爺には早いが、その心境に達するには5年はかかるだろう。
 だから、いまから好々爺をめざしてちょうどいいのだ。

 だが、私のこの心境は、愚妻にはとうてい理解のおよばざるところで、
「じゃ、これから、お爺さんと呼べばいいのね」
 ノーテンキなことを言って、
「ちょっと、お爺さん」
 と呼ぶのである。

 やっぱり「お爺さん」は、あまり気分のいいものではない。
 好々爺宣言は時期尚早と判断し、たちまち撤回したのである。

投稿者 mukaidani : 01:00

2011年04月17日

セコイ記事だぜ

『この夏を乗り切る15の節電術 電力25%削減に備えろ』
 という記事の見出しが目に止まった。

 日経ビジネスオンラインである。

 さすが、なかなかいい記事を掲載するものだと読み進めると、

《ここから先は「日経ビジネスオンライン」の会員の方(登録は無料)、「日経ビジネス購読者限定サービス」の会員の方のみ、ご利用いただけます》

 つまり、「会員意外には節電術は教えてやらないよ」というわけだ。

 国をあげて今夏の節電が論議されているときに、日経は何とセコイことか。
 節電術があるというなら、「会員方のみ」ではなく、
「会員じゃない方々もぜひ読んでください」
 と言ってこそ、メディアはその責務を果たせるのではないか。

 これでは、
「国難でさえ商売にしようとする」
 と言われても仕方あるまい。

 胃が痛いせいか、ついヤツ当たりするのだが、それにしても、
「やっぱりセコイよな」
 である。

  

投稿者 mukaidani : 07:44

2011年04月16日

胃の「痛テテテ」で医者に行く

 昨日の午後、近所の医者へ行った。
 私の「痛テテテ」がうるさいと、愚妻に強く言われてのことだ。

 医者は馴染みなので、腹部の触診などをしてから、
「じゃ、クスリを出しておきましょう」
 と軽く言い、私は大学病院で書いてもらったアレルギー手帳を差し出し、処方箋を書いてもらった。


 で、帰宅すると、愚妻が待ち構えていて、
「胃痛の原因は何だったの?」

 このとき、胃痛の原因を聞き忘れたことにハタと気がついた。
「聞き忘れた」
 と返事すれば、「何しに行ったのよ」とうるさいに決まっているので、
「ストレスだ」
 と答え、ついでに
「少しのんびりするように言われた」
 と、つけ加えた。
「本当なの?」
 疑わしそうに私の顔をのぞきこむ。
「医者がウソをつくか」
「医者じゃなく、あなたよ」
「わしがウソをつくか」
「つくじゃない」


 そんなこんなのやりとりがあり、愚妻に処方箋を持たせて、馴染みの薬局に行かせたところが、手ぶらで帰ってきて、
「一種類のクスリがなくて、月曜日に入るんですって」
 ノンキなこと言う。

「バカ者、この胃痛をどうしてくれる!」
「少しのんびりしてればいいんじゃないの?」
 仕事雑用山積というのに、愚妻のああ言えばこう言うで、私の胃はますます痛むのである。

投稿者 mukaidani : 07:55

2011年04月15日

「『自粛』の自粛を!」と言っても、人は踊らず

「震災自粛」によって、消費が落ち込んでいるという。
 観光地の旅館やホテルはキャンセルが続出し、飲食店は閑古鳥だそうで、事業者の方々はお気の毒だ。

 だが、これは「自粛」のせいなのだろうか。

 自粛とは「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」という意味で、要するに「我慢」を言う。
「観光旅行もしたいし、飲食もしたいけど、でも我慢」
 というのが「自粛」である。

 私も浮かれた気分にはならないが、だからといって旅行や飲食店に行くのを「我慢」しているわけではない。

 我慢でなく、
「何となくそんな気分になれない」
 というだけのことなのだ。

 それがどうしてだか考えていたら、愚妻がこんなことを言った。
「大きな余震が来て、家に帰れなくなったらどうするのよ。誰だって、家から出る気分になれないわよ」

 言われてみればそのとおり。
 関西はともかく、関東に住む人の潜在意識にはそれがあるのだろう。
「余震はありません」
 という〝宣言〟が出るか、余震のことを忘れるころにならなければ、「『自粛』の自粛」は無理だと思うのである。


 それに、大震災前から日本は不景気だったのだ。
 だから事業仕分けが人気を呼んだのではなかったか。
 もっと言えば、自粛するほどに私たちは物心ともリッチではなく、今度の大震災は、萎縮していたその消費マインドをさらに落とし込んだに過ぎなまい。

 おそらく『「自粛」の自粛』を声高に叫べば叫ぶほど、消費マインドは萎(な)えていくだろう。
「『自粛』の自粛」とは、各人がそれぞれお金をつかうことなのだ。国家の財政危機を叫ぶ一方で、「みんなで、お金をつかおう!」と囃(はや)し立てて誰が踊るだろうか。


 以前、このブログにも書いたが、政府は復興のビジョンを示し、大震災をバネとして飛躍する日本の未来図を描いて見せれば、経済も、国民生活も活性化するはずだ。
 人間は「感情の生き物」であることを忘れてはならない。
 

投稿者 mukaidani : 08:05

2011年04月14日

厚顔無恥ということ

 オザワ某とハトヤマ某が都内で会談し、菅政権を批判する共同声明文をまとめる調整に入ったというニュースに、
「なるほど、厚顔無恥とは、こういう方々のことを言うのか」
 と思わず唸(うな)った。

 ハトヤマ某は普天間基地移設問題で、オバマ大統領に、
「トラスト ミー!」
 と言って喜ばせ、沖縄県民には、
「腹案がある」
 と期待させ、いざフタを開けたら、
「エー、腹案は何にもありませんでした」


 オザワ某も、ゼニ疑惑で起訴され、政治家として国民への説明責任を頬かむりしておきながら、人サマのことは批判のし放題。

 カエルのツラに何とやら、という諺(ことわざ)があるが、オザ某とハト某がカエルに見えてくるではないか。
 彼らの言葉は何を言っても、
「ゲロゲロゲロ」
 としか、国民の耳には聞こえまい。


 野党が政権批判をするのは当然だが、政権与党の元代表2人が国難の非常時に「政権批判の共同声明」とは、アホもここに極(きわ)まれり。被災者の方々は、これを何と思うだろうか。

 バカな政治家を選んだ国民が悪いのか、それとも国民を騙して当選した政治家が悪いのか。
 原発の安全対策基準が見直されるというが、政治家というものについて、いま一度、厳しい〝安全基準〟で見直すことが必要だろう。

投稿者 mukaidani : 09:33

2011年04月13日

「胃が痛テテテ」である

 数日前から、胃が痛くて参っている。
 続く余震のせいか、仕事と雑用が山積しているせいか。

「痛テテテ」
 と胃を押さえて顔をしかめると、
「気をつけなさいよ」
 と愚妻が言う。

 何をどう気をつければいいのか、サッパリわからない。
 これでは、自主避難だの計画非難だの、わけのわからぬことを口走る菅内閣と同じではないか。

「おぬしは菅総理か」
 とクレームをつけると、
「いしょにしないでよ」
 愚妻に見放されるようでは、菅総理もそろそろ終わりということか。

 確かNHKの『素人ノド自慢』では、合格すると、鐘が「カンカンカンカン」と威勢よく連打され、不合格だと「カーン」の一つではなかったか。

 菅サンは、その名のとおり「カーン」と言うことか。


 このブログを書きながらも、胃が痛テテテであるが、鎮痛剤アレルギーの私としては、医者か薬剤師に相談してからでなければ、鎮痛剤を飲むことができない。

 88歳の映芳爺さんは、そんな私におかまいなく、
「今日は天気がええけん、畑に行こうか」
 と、張り切っている。
 痛む胃をかかえがら、これから鍬(クワ)を振るうのだ。
 

投稿者 mukaidani : 08:58

2011年04月12日

「臥薪嘗胆」と「釈迦語録」

 よく知られた中国の故事成語に『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』というのがある。

『臥薪』は、「薪(たきぎ)の上に寝る」という意味で、『嘗胆』は「胆(きも)を嘗める」という意味。

 中国の春秋時代、越王勾践(こうせん)に父を討たれた呉王夫差(ふさ)は、復讐のため常に薪(たきぎ)の上に寝て、その痛さに復讐の志を奮い立たせ、ついに仇を報いた。

 一方、敗れた勾践は、室内に胆(きも)を掛けてこれを嘗(な)め、その苦(にが)さで敗戦の恥辱を思い出してついに夫差を滅ぼした。

 このことから『臥薪嘗胆』は、
「復讐のためにあらゆる苦労や悲しみに耐え忍ぶこと」
 という意味になる。


 一方、「釈迦語録」である『ダンマパダ』(法句経)は
『怨(うら)みに怨みをもって報いるならば、この世においては怨みのしずまることがない。しかし、怨まないことによって怨みはしずまる。これは、いにしえより続く真理である』
 と教える。


 私は若いころは『臥薪嘗胆』という言葉が好きだったが、このころは『怨まないことによって怨みはしずまる』という釈迦の言葉のほうがしっくりくる。

 これはきっと、人間が円熟してきたのだろうと思っていたが、よくよく考えてみれば、そうでもないのだ。

《復讐の心》は「忘れやすい」がゆえに、薪の上に寝、苦い胆を嘗めて、自分を奮い立たせよと教える。
《怨みの心》は「忘れにくい」がゆえに、怨まないことによって怨みはしずまると教える。

 つまり『臥薪嘗胆』を好むのは、「復讐心に乏しい人」ということになり、物事にこだわらないということになる。

 私のように『怨まないことによって』を好む人間は、
「怨みを忘れにくい」
 ということになる。

 円熟どころか、加齢とともに意固地になってきていることの証明ではないだろうか。


 昨日の夕刻、そんなことをつらつら考えながら仮眠を取っていると、グラグラと余震に飛び起きた。
 ノンキに、故事やお釈迦さんのことを考えている場合ではないのだ。


投稿者 mukaidani : 01:18

2011年04月11日

石原都知事の「節電」に思う

 4選を果たした石原慎太郎都知事が節電にからみ、自動販売機とパチンコ店をヤリ玉にあげて、
「軒並みに自動販売機が並んでいるこんなバカな国はないよ。パチンコだってそうじゃないの。社会全体で反省したらいい」
 と、批判した。

 さすが、物書きの言葉である。

 評論家諸氏のように、
「ライフスタイルの見直し」
 などと抽象的な表現はしない。

「自動販売機」「パチンコ」という〝身近な具体例〟で、私たちの心情にインパクトをもって訴えるのだ。


 だが、その一方で、福島原発事故に世界の耳目が集まっている今こそ、核兵器廃絶に言及して欲しかった。
 平和利用でさえ、災害において、これほどのダメージを与えるのだ。
 いわんや核兵器ともなれば、人類の滅亡さえ懸念される。

「核兵器を抑止力にするなんて、こんな愚かなことはない」
 と痛烈な批判メッセージを発信すれば、世界の人々に向けて大きなインパクトを持っただろう。

 あるいは、大震災への各国の支援に対して、
「国境と人種を超えた人間の絆(きずな)」
 というメッセージを発することも大切ではないか。

 そうすることが、政治家の、私たちの、震災で犠牲者になられた多くの方に対する責務であると考えるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 12:44

2011年04月10日

河童の川流れ

 いつも行くウナギ屋のご主人に、額装した河童(カッパ)の版画をいただいた。
 小川芋銭(うせん)の河童の絵を模写したもので、大震災で家が揺れたとき、棚の奥から落ちてきたのだそうだ。
「こんなのがあったの、知らなかったなァ」
 ということで、
「道場に飾っとけば子供たちが珍しがるんじゃない?」
 それで頂戴したのである。

 かつて、拙著の〝故事ことわざ本〟で『河童の川流れ』について書いたことがある。

 河童という呼び名は「川(かわ)」と「わはら(童)」がくっついて「かわはらは」となり、それが訛って「かっぱ」になったともされる。

 身長が1メートル前後。口先が嘴状にとがっていて、頭上の皿とよばれるくぼみに少量の水を蓄え、背中は亀のような甲羅で覆われ、手足には水掻きがある。

 ご承知のように、頭上の皿が弱点で、乾いたり割れたりすると死んでしまうとされる。

 想像上の生き物とされる一方、民族的伝説も多い。たとえば「左甚五郎」にまつわる伝説だ。

 左甚五郎は江戸初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人で、日光東照宮の〝眠り猫〟で知られるが、その彼が築城の際、人手が足りないため、わら人形に生命を吹き込んで手伝わせた。

 ところが、城が完成してしまうと、わら人形が不要になり、処置に困った左甚五郎が川へ捨てようとしたところ、
「私はこれから何を食べていけばいいのか」
 と、わら人形が尋ねた。

 これに対して左甚五郎が、
「人の尻を食らえ」
 と答えたことから、河童は川に棲み、水辺を通りかかったり、泳いだりしている人を水中に引き込み、尻から腸を抜くという伝説が生まれたとされる。

 おそらくこれは、左甚五郎が、彫刻に〝命を吹き込む〟ほどの技量の持ち主ということから生まれた伝説なのだろう。

 なぜ左甚五郎が「人の尻を食らえ」と言ったか定かではないが、いずれにせよ河童は泳ぎが得意で、一説には潜水時間は12時間に及ぶとされる。

 その河童ですら油断すれば川に流されるという戒(いまし)めから『河童の川流れ』ということわざが生まれたのである。


 だが、よくよく考えてみると、これは贅沢な戒めではないか。
 河童ほどの秀でた特技があってこその〝川流れ〟であって、特技がなければ〝川流れ〟することもないのだ。

 ウナギ屋のご主人にちょうだいした河童の版画を眺めながら、私がこの版画家から学ぶとしたら、〝川流れ〟ではなく、
「屁(へ)のカッパ」
 ではないか。

「おい、どうだ」
 と、版画を指さして愚妻に言った。

「この版画の河童を見よ。人生、何が起ころうとも〝屁のカッッパ〟でいけ、ということを教えているのだ」
「あら、この河童、あなたに似ていない?」
 大震災が起ころうとも、愚妻は元気なのだ。

投稿者 mukaidani : 08:47

2011年04月09日

『「自粛」の自粛』って何だ?

「『自粛』の自粛を」
 という意見が、政府や評論家から盛んに言われはじめた。
「自粛は経済活動にマイナスだ」
 というわけだ。

  菅直人首相も、「震災による過度な自粛ムードをやめよう」との国民向けのメッセージを近く出す方向だそうだ。
 過剰な自粛は景気に悪影響を及ぼし、結果として復興の妨げになるというのが理由だ。

 だが私は、「自粛」を「景気」に絡めて論じることが、心情的にスッキリしない。

 私たちの自粛は、
「被災地の方々がお気の毒で、自分だけ温々(ぬくぬく)と生活していては申しわけない」
 という気持ちのあらわれだ。

「それじゃ、景気に悪いから」という理由で、飲めや歌えのドンチン騒ぎしながら、一方で、
「被災地の方々はお気の毒だ」
 と、彼の地に思いを馳せるという芸当は、私にはできない。

 被災地の復興が始まり、少しずつ前途に光明が見えてきたら、自然と『「自粛」の自粛』はおさまっていく。

 菅首相のやるべきことは、「自粛ムードをやめよう」と口先で国民向けのメッセージを発することではなく、この難局に対し、前途に希望というビジョンを示すことだ。
 リーダーの責務は、まさにそこにあるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:28

2011年04月08日

昨夜の余震

 昨夜の余震は強かった。
 愚妻と居間でテレビを観ていたのだが、グラグラとくるや、愚妻も私も素早く服を着ていた。

 3月11日に起こった大震災のときは、初めての経験だったので、ただ揺れるにまかせていたが、余震が連日つづいているため、対応が素早くなったわけだ。

 だが、これは地震に馴れたことを意味するのではない。
 何度も経験するうちに怖さを知ってきたのだ。


 酒の楽しさを知れば「もっと、もっと」と求め、地震の怖さを知れば、ちょっとした揺れでも身構えてしまう。

 人間は楽しみの満足を知らず、恐怖に馴れることはないということを、昨夜は改めて知らされた。

 

投稿者 mukaidani : 08:24

2011年04月07日

「節約」と「評論家諸氏」

 計画停電に終了宣言が出ると、今日のニュースにある。
 終了の理由は、暖かくなって暖房需要が減ったことと、火力発電所が再稼働したこと、そして節電効果の3つをあげている。

 だが夏場に向け、国を挙げて節電が論議されているときに、この終了宣言はどうだろう。
「そりゃ、よかった」
 と、私など気持ちが弛(ゆる)んでくる。

 計画停電は産業界に影響が多いのでやめるにしても、「夏場に向けた電力の危機意識」は何らかの方法で、継続させたほうがいいのではないだろうか。


 節電と言えば、「ライフスタイルの見直し」ということを、評論家諸氏がテレビで盛んに言い始めた。

 要するに「消費のタレ流しを反省しよう」ということだ。
 私も大賛成だが、その一方で、
「あなた方に言われてもなァ」
 という気持ちがある。

 つい先日まで、
「消費マインドを刺激すれば不景気は回復する」
「いまの不景気は、国民が将来の見えない不安から、お金をつかわなくなったせいだ」
 と、評論家諸氏は「もっとお金をつかえ」「消費しろ」と煽(あお)っていたではないか。

 それが一転、「ライフスタイルの見直し」を言い始めた。
 こういうのを「時代に迎合する」と言うのではないか。
 評論家諸氏は「時代を牽引」するかのように見えて、常に〝時代の後追いを〟し、したり顔で迎合するのである。

投稿者 mukaidani : 09:31

2011年04月06日

「対応」が先で、「批難」はあと

 昨夜、稽古を終えて帰宅しようとしたら、クルマーのキィーが見あたらない。
 私の仕草を見て、所用で道場に残っていた愚妻が、眉間にシワをよせる。

「ちょっと、無くしたんじゃないでしょうね」
「無くしたのではない。所在がわからないのだ」
「そういうのを無くしたって言うのよ」
「違う。キィーはどこかに存在しているが、その存在場所に私が気づかないだけだ」
「なに言ってるのよ!」

 あとは、私に対して囂々(ごうごう)たる批難。
「何でもチャランポランなんだから」
「いつも上の空でいるからよ」
「私のすることにケチつけるけど、自分も同じゃないの」
 あげくの果てには、
「だいたい、道場へ着物なんか着て行くのが悪いのよ」
 意味不明の批難まで口にするのである。


 不毛の批難は、何の解決にもならない。
 だから私は言った。
「私のことを批難するより、この局面をどう脱するかが大事ではないか」
「どうするのよ」
「歩いて帰ろう」


 で、翌朝。
 娘から電話があり、キィーが孫のバッグにまぎれていたとのこと。
 昨日は孫二人が稽古に来たのだが、道着を入れたバッグに入っていたというのである。


 東京電力が批判の矢面に立たされている。
 批判は当然としても、いま政府もメディアもなすべきことは、放射性物質や風評被害をどう封じ込めるかである。
 事故の検証と、東電への批難は、そのあとのことではないか。
 キィーを紛失して愚妻の批難を浴びながら、私はそんなことを考えたのである。

投稿者 mukaidani : 11:28

2011年04月05日

「石原都知事」と「蓮舫議員」

 駅前でのことだ。
 タクシー乗り場は、客待ちのタクシーが長い列をつくっていて、運転手さん同士がタクシーから外に出て、談笑している。

 と、運転手さんのひとりが、車道から噴水脇の広いスペースまで歩いて行くと、ゴルフの素振りを始めた。

 もちろん、手には何も持っていないのだが、アドレスのポーズから初めて、フォローまで、何度も何度も〝素振り〟を繰り返している。
 天気はポカポカ陽気。
 コースを思い描いているのだろう。
 運転手さんの顔は生き生きとして見えた。

 この運転手さんの頭のなかには、おそらく大震災のことはないだろう。
 少なくとも、素振りの最中はないと思う。

(そうあるべきだ)
 という思いがよぎる。

 災害復興は長丁場だ。
「タイガーマスク現象」について、先日、このブログで書いたが、私たちは一時のブームに突き動かされた「伊達直人」であってはならない。

 被災地の人たちが普通の生活にもどれるまで、国民をあげて応援しつづけていくには、タクシーの運転手さんのように、ときには〝素振り〟を楽しむ精神的余裕が必要なのではないだろうか。


 石原都知事は花見・宴会の規制についてふれ、
「少なくとも夜間、明かりをつけての花見などというのは自粛すべき」
 と発言した。

 これに蓮舫議員が、
「権力による自由な行動や社会活動を制限するのは最低限にとどめるべき」
 と噛みついた。
 メディアは「(蓮舫議員は)経済活動に与える影響などを懸念している模様だ」と書いている。

 石原都知事は、花見・宴会を「心情」の視点からとらえ、蓮舫議員は「経済活動」の視点からとらえている。

 事業仕分けで名を売った蓮舫議員だが、私はかねて彼女に違和感をいだいていたが、その違和感がなんであたっか、花見・宴会の是非をめぐる彼女の発言でようやくわかったのである。

 二言目には「生産性」と「合理性」を口にする著名な女性評論家がいるが、私は生産性が落ちようとも、不合理であろうとも、人間にとってもっとも大事なものは「情(じょう)」であるという考えに、いささかの揺らぎもないのである。


 ドンチャン騒ぎせずとも、桜は楽しめる。
 コースに出なくても、客待ちのあいだにゴルフの素振りを楽しむことだってできる。
 権力による規制だの、経済活動だの、そんな次元と違う世界で、私は静かに桜を愛(め)でたいと思うのである。

投稿者 mukaidani : 01:46

2011年04月04日

ワンちゃんの救出と「幸せ」

 ご存じのとおり、宮城県気仙沼の沖合2キロの海上で、漂流する屋根の上にいた犬が救助された。
 震災の大津波で海に流されたとすると、過酷な環境を3週間、生き延びたことになる。
 その生命力に驚嘆すると同時に、さぞや心細かったろうと思う。

 わが家の駄犬「マック爺さん」は一日中、寝ている。
 丸々と太ってもいるので、
「ダイエットに散歩させろ」
 と愚妻に命じたところが、
「ダメよ。太りすぎで、散歩させたら足を悪くするって獣医から注意されているんだから」

 87歳の映芳爺さんが、マック爺さんの機嫌を取ろうとして、エサを与えすぎていることに原因があるのだが、マック爺さんの年齢を考えれば、いまさらダイエットでもあるまいか。


 それにしても、栄養過多とはマック爺さんは幸せものだが、本人はそのことに気づいてはいまい。

 いや、マック爺さんだけでなく、私もそうだ。

 だが、「幸せとは何か」と問われれば返事に窮するが、ただひとつ思うのは、
「自分は幸せなのか」
 と自問できること自体、幸せの証(あかし)なのではあるまいか。

 なぜなら大震災に見舞われた人、人生の危機に直面した人、後生の一大事に直面した人には、そんなことを自問する余裕はないからである。


 となれば、あれこれ悩みがある人は、乱暴に言ってしまえば「ヒマ」なのだ。
 悩みから逃れたければ、仕事に趣味にボランティアに、ヒマがなくなるよう自分を追い込むめばいいことになる。

 ところが悩み多き人ほど、立ち上がることをせず、座したまま、あれこれ頭のなかで考える。
「動きなさい」
 とアドバイスすると、
「でも」
 と尻込みをし、ヒマがヒマを呼んで、ますます溜め息をつくことになるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:17

2011年04月03日

「大連立」に政治家を考える

 菅直人総理大臣が、自民党との大連立を模索している。

「復旧・復興に関しては、与野党を超えて協力する態勢を作りたい。自民党を始めとする各野党とともに計画を立てていく形が生まれることを切望している」
 と、菅総理は語っている。

 一方、ラブコールを送られる自民党は「総理退陣」を大連立の前提条件としているが、菅総理は辞任する気はさらさらない。

 さて、これをどう考えるか。

「復旧・復興のため大連立が必要」と菅総理が本気で考えているなら、さっさと辞任すればよろしい。
「私の辞任で大連立が組めるなら、これほど嬉しいことはない」
 と喜ぶべきなのだ。

 ところが、辞めない。
 総理の座にしがみついているがゆえに、大連立は進まない。
 これは矛盾である。

 だから、
「大震災からの復旧・復興を大義名分にした政権延命策」
 と、冷ややかに見られているのだ。


 それにしても、政治家は、失政や失言、スキャンダルで火ダルマになりながらも、なぜその座にしがみつくのか。
 それは、人のウワサも75日で、やがて有権者の関心が薄れていくことをよく知っているからだ。
 いまはボロカスに言われる菅総理にしても、復興が始まれば支持率が回復することを承知している。
 だから、何と批判されても、総理の座にしがみつくのである。

 日本再生のために「私」を捨て、一命を賭す覚悟の政治家はいないのだろうか。
 まもなく統一地方選である。
 

投稿者 mukaidani : 06:57

2011年04月02日

ACが広める「詩人・金子みすゞ」

 社団法人ACジャパンが、同じCMのタレ流しで顰蹙(ひんしゅく)を買っている。
 だが、このCMに流れる金子みすゞの詩はいい。
 私も好きで、かねて彼女の詩集を机の端において折に触れてページをめくっているが、ACのお陰で(?)で、より多くの人に知ってもらえるのは喜ばしいことだ。

 彼女のよく知られた詩に、こんなのがある。


   朝焼け小焼だ
   大漁だ
   大羽鰮(いわし)の
   大漁だ。

   浜は祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   鰮のとむらい
   するだろう


 大漁に喜ぶ漁師たちの一方で、海のなかで悲しみにくれる鰯たちの姿を、金子みすゞはじっと見据える。

 日本画家の中島潔氏は、この詩をモチーフにして襖絵に鰯(いわし)の群れを描き、成就院(清水寺の塔頭)に奉納している。

 私たちは、この詩に何を思うだろうか。
 重い詩である。

投稿者 mukaidani : 02:09

2011年04月01日

武士は名を惜しむ

 周知のように、東京電力・清水正孝社長が入院している。
 高血圧と極度の目まいということだ。
「経営トップの最大の責務は、危機における陣頭指揮にある」
 ということからすれば、清水社長は世論の批判を浴びて当然だろう。

 気の毒なこととしながも、私が首をひねるのは、
「なぜ入院したのか」
 ということだ。

 責任をまっとうするなら、名を惜しむなら、倒れるまで陣頭指揮を執ればいいではないか。

 論語に『死而後已(ししてのちやむ)』という言葉がある。
「命がある限り努力しつづける」
 という意味で、
「有徳の士は、折れない強固な意志を持たなければならない。その任務は重く、目的までの道は遠い」
 とする。


 清水社長は頑張って陣頭指揮を執りつづけるべきだった。
 そして体調を崩して倒れたならば、病院に担ぎ込まれる。
 いまと同じ入院状態になるのだ。
 すなわち、倒れる前に入院すれば批判を浴び、倒れてから入院すれば「責任感の強さ」を世間は認めるということなのである。

 この〝腹のくくり〟ができない清水社長に、優良企業のなかで温々(ぬくぬく)と人生を送ってきたひ弱さを、私は見る。


 被災地の方々の忍耐強さに、世界は目を見張り、「武士道の国」と賞賛した。

 その一方で、原発事故という国難を引き起こした経営トップが、病院のベッドで寝ていることを、世界はどう見るだろうか。
 武士は名を惜しむ。
 清水社長はいま、世界から注視されている。

投稿者 mukaidani : 08:18