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2011年03月31日

「被災地」と「僧侶」

 一遍上人に興味があり、時間を見つけて本を読んでいる。

 周知のとおり、一遍上人は鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖である。
 寺に依(よ)らず、一所不住の諸国遊行で念仏を広めた。
 また入寂に際して、
「一代聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ」
 と著作の一切を燃やした。

 この高潔さに、私は惹かれる。

 僧侶は「職業」か「生き方」かといったことが論議されるが、一遍上人の半生をたどれば、こんな論議は戯言(たわごと)に思えてくる。
 僧侶は「生き方」が問われるのだ。

 僧侶が「職業」であるなら、「職業に貴賎はない」ということにおいて、風俗業と何ら変わらないことになる。

 風俗業が悪いというのではなく、僧侶が職業(経済活動)としてお経をあげるのであれば、ソープ嬢が客の身体を洗うことと同ではないかと思うのである。


 先日、僧侶が救援物資をトラックに積んで震災被害地に駆けつけ、現地でお経をあげる様子がテレビで放送されていた。

 まさに「生き方」の実践であろうと、感動しながらテレビを観ていると、
「おや?」
 と思うシーンがあった。

 この僧侶と同じ宗派で、被災地で住職をされている方との再会場面である。
 駆けつけた僧侶と住職が抱き合い、無事を喜びあっているのだ。
 これに、私は違和感をおぼえた。

 喜ぶ気持ちはわかる。
 しかし、多くの方々が亡くなり、行方がわからない現地において、僧侶同士が無事を喜んでいいのだろうか。


「生きていてよかった」
 という思いは、
「死ななくてよかった」
 という思いと表裏をなしている。

 ある被災者の方は、
「私だけが生き残って、亡くなった人に申しわけない」
 といった意味のことを語っていた。

 つらい言葉である。

 そうした一方で、僧侶が抱き合って喜ぶことに、私はどうしても違和感を覚えてしまうのだ。

 テレビの前に座る私に、ボランティアの僧侶を批判する資格はない。
 批判どころか、立派な活動だと思う。

 ただ、それとは別に、
「僧侶とはいったい何なのか」
 という重い課題を、自分に問いかけてみるのである。

投稿者 mukaidani : 07:57

2011年03月30日

太陽と月なくば、道に迷う

 人間が道に迷うと、
「同じところを、ぐるぐる回る」
 と昔から言い伝えられる。

 森で道に迷ったときなどかそうだ。
 出口がすぐそばにあるにもかかわらず、同じところをぐるぐる回って体力を消耗して亡くなる、といった類(たぐい)の話はよく耳にする。

 その理由について、ドイツの研究チームは実験の結果として、
「太陽や月、山などの手掛かりがないと、方向や身体バランスの感覚のずれを修正できず、ずれが次第に大きくなってしまうため」
 と結論づけている。

 つまり、自分がいる現在位置、そして向かうべき方向は、太陽や月といった手がかりが必要ということだ。

 これは「森の道」だけの問題だろうか。

 日本はいま、大震災という未曾有の国難から立ち上がろうとしている。
 私たちは、被災者の方々と手を携え、どこに向かって歩いて行けばいいのか。
 菅内閣は、その指針ともいうべき太陽と月を、私たちに示す義務がある。

 太陽も見えず、月も見えなければ、日本は同じ場所をぐるぐると回り続け、体力を消耗して倒れてしまうだろう。

 これからが政府の正念場である。

投稿者 mukaidani : 04:47

2011年03月29日

「伊達直人」は何処へ

 わが家も節電である。
 募金もさせていただいた。
 せめて自分ができることで災害復興に協力できれば、という思いからだ。

 そんなとき、ふと「タイガーマスク現象」のことが脳裏をよぎった。
 周知のように、「伊達直人」によるランドセルのプレゼントを発端とした「社会的善意」だ。

 あれから3カ月。
「伊達直人」はどこへ行ったのだろうか。

 災害復興は長い道のりになる。
 私たちは「伊達直人」であってはならない。

投稿者 mukaidani : 04:13

2011年03月28日

野菜はウソをつかない

 先日、ジャガイモを植えに行ったときのこと。
 他所の畑にくらべて、わが家の豆の成長が遅い。
「どうしてかなァ」
 とボヤくと、畑の大指南役であるSさんが、
「肥料をやらないからだよ。肥料をやれば育つ。野菜は正直なもんだ」
 カラカラと笑って、
「野菜はウソつかない。ウソをつくのは人間だけ」
 と、このときは真顔で言った。


 その野菜から放射線物質が相次いで検出されている。
 風評被害もあって、農家にとって死活問題だ。
 情報を隠すのも、過剰な情報をタレ流すのも、大騒ぎするのも、みんな「ウソ」である。

 これから、福島原発の「事故の責任」をめぐって激しい論議がなされるだろう。
「ウソをつくのは人間だけ」
 という言葉が脳裏をよぎる。
  

投稿者 mukaidani : 05:12

2011年03月27日

好意は、適度に甘えるべし

「甘えぬうちが花」
 という言葉がある。

 人の好意に対しては、その好意に感謝しつつ、謝辞するのが、人間関係を末永く良好に保つ秘訣という意味だ。

 だが、そうとばかり言えないのではないか、ということを最近、道場の子供たちによって考えさせられた。

 たとえば稽古中、他の子の演舞が延々と続くときは、
「足を崩していいよ」
 と、私は言うのだが、入門したての小学4年生の女の子は、
「大丈夫です」
 と言ってガマンしている。
 こういう姿は、いじらしい。

 同じ「大丈夫です」でも、5年生の男の子は、この言葉のあとに、
「僕、馴れているもん」
 とつけ加えた。
 これは、ちょっぴり自慢である。
 だから、可愛さも半分となる。

 ところが、
「足を崩していいよ」
 と言うなり、
「よかった!」
 と満面笑みで喜ぶ子供もいる。
 こういう子に対しては、微笑ましく思うのである。


 こんな経験から、好意は甘えぬうちが本当に花なのかどうか、疑問を持ちつつ、結論は、
「人の好意は、甘えすぎぬうちが花」
 ということで、「ほどよい甘え」は、人間関係において大切なことだと思うのである。

 

投稿者 mukaidani : 07:40

2011年03月26日

社会的支援と政治

 昨日は、保護司の研修会があった。
 テーマは「協力雇用主」について。

 協力雇用主とは、保護観察の対象者を雇用してくれる事業主のことだが、出所して仕事があるかないかは、犯罪の再犯率に密接に関係している。
 自立=更正であり、仕事は不可欠ということだ。
 だが、協力雇用主は少なく、社会的支援の必要性について話し合われた。


 このところ社会的支援という言葉をよく耳にする。
 高齢者や子供、社会的弱者に対する社会的支援だ。
 素晴らしいことだと思う。
 だが、その一方、支援するためには、社会そのものが健全でしっかりしていなくてはならない、という思いもある。

 そして「社会」は「政治という姿」になって現れる。
 社会的支援という言葉を聞くたびに、
「いまの日本の政治はこれでいいのか」
 と考えさせられるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:39

2011年03月25日

いま、為(な)すべきことをなせ

 何となく、揺れているような気がする。
 愚妻も同じことを言う。
 知人に聞いてみると、やはりそうだという。
 これが、連日の余震による〝地震酔い〟というやつなのだろう。
 昨夜も余震で飛び起き、時計を見ると午前3時過ぎであった。


 被災地の方々は、劣悪な環境のなかで復興に向け、少しずつ行動を始められたという。
 私もテレビの前から離れ、《平常心》にもどらなければならない。

《平常心》とは、
「当たり前のことを当たり前にやる」
 という意味だ。

 このことを日本の曹洞宗第四祖の瑩山(けいざん)は、
《茶(ちゃ)に逢(お)うては茶を喫(きっ)す、飯(はん)に逢うては飯を喫す》
 と表現した。

 食事するときは食事に専念し、お茶をいただくときはお茶のことに徹し、雑念をまじえてはならない。「いま為(な)すべきことをなせ」と教えるのである。

 ちなみに《平常心》とは、中国唐時代の名僧・馬祖道一の言葉で、《平常心是道(びょうじょうしん これどう)》
 というのが原典である。

 直訳すれば、
「普段の心こそ仏道である」
 という意味だが、「普段」とは、ご飯を食べる、風呂に入る、掃除をするといった「日常の小さな行い」のことで、そうした日常の小さな行いをもおろそかにしない心がけこそ「仏の道」にほかならない、と喝破したのである。

 すなわち、
「今、この瞬間を渾身の力で生き抜く」
 ということになろうか。

 テレビの前の〝傍観者〟をやめ、自分の為すべきことに専念せよ。
 自分にそう言い聞かせるのである。

投稿者 mukaidani : 10:09

2011年03月24日

避難する外国企業

 ニュースによれば、銀座の美容室が3月16日から、東日本大震災の影響による東北地方からの避難者を対象にカットの無料サービスなどを行っているそうだ。
 心あたたまる話だ。

 一方、銀座の美容室が無料サービスを始めた翌日の17日、同じ銀座の世界的カジュアル衣料ブランドは、関東地方の10店舗をすべて当面、営業休止。日本支社の法人機能も大阪市内のホテルに移転し、社員やパート社員など家族を含め、2000人規模で関西地域のホテルに避難させると発表した。

 どこへ避難しようと勝手だが、日本人のメンタリティーからすれば、ずいぶんドライな感じがする。
 こういうドライな人たちは、混乱がおさまれば、
「や、どうもどうも」
 と、逃げ出したことは頬っかむりして、厚かましく銀座に帰ってくるのだろう。


 昨日、相撲協会が外国出身力士に改めて待機命令を出した。
 外国人力士に対して、母国から帰国勧告が出ていることに関し、これまで通り待機を命じる方針を示したという。

 経緯はわからないが、不祥事続きの相撲協会としてはアッパレではないか。

 外国人といえども、「国技」を担う相撲取りが、よもや国難においてトンズラするとは思わないが、もし国外に避難したなら、恥ずかしくて二度と土俵には立てまい。

 困難に直面して、人間は本性をあらわす。
 自戒しつつ、そんなことを思うのである。

投稿者 mukaidani : 09:47

2011年03月23日

桜前線に思うこと

 昨日、福岡市で桜が開花したという。
 2月以降は陽気に恵まれ、例年より4日早い開花となったと、福岡管区気象台が発表している。
 満開は今月末の見込みだそうだから、あと一週間ということか。

 地震も津波も、そして計画停電も無縁の世界で、季節がめぐれば桜は咲き誇る。

 これを花の哀しい性(さが)と見るか、すべてを呑みこんで淡々と移ろう大自然の営みと見るか。

 そんな中にあって、人間とはいったい何なのだろう。
 ふと〝青臭い〟自問が脳裏をよぎる。

 若かったころは、その答えを探し求めたが、いまは違う。
「水は低きに流れ、寿命は天命に定まる」
 そんな思いにとらわれるのである。


 私たちは、ものごとに対して、意味づけせずにはいられないでいる。
 理屈をふりまわすことでしか納得できないでいる。
 そんな人生に、そろそろ厭(あ)きが来たのだろうか。

 仏教に、如実知見という言葉がある。
「事実を事実としてあるがままに見る」
 ということだ。

「例年より4日早い開花」というのは人間から見た桜。
 桜はそんなことは一切おかまいなく、ただ咲いている。

投稿者 mukaidani : 05:28

2011年03月22日

審査会で考えたこと

 昨日の審査会は無事、終わった。

「無事」というのは、
「なんとか昇級させることができて、ひと安心」
 という意味だ。

 試合ではないので、上手でなくもいい。
 型や約束組手を間違わないで〝フツー〟にやってくくれば合格させられるのだが、そうでない子がたまにいて、「追審査」「仮進級」という苦肉の策をとったりする。

 ところが今回は、そういう子がいなかったので「無事、終わった」というわけである。

 それにしても、
「あんなにヘタだったのに」
 と、上達に目を見張る子が何人かいた。

《最下鈍(さいげどん)の者も、十二年を経れば、必ず一験(いっけん)を得る》
 とは、天台宗開祖の最澄(さいちょう)の言葉で、
「どんなに愚かで才能のない人間であっても、ひとつのことを十二年続けていれば、必ず一つは秀でるものをつかむことができる」 という意味で、「継続こそ力である」と説く。

ちなみに《最下鈍》は最澄自身のことで、
「私のような最下鈍の者であっても、一つことを十二年も続ければ一験(いつけん)を得ることができた」
 とする。
 比叡山に籠もって修行したのが、十九歳から三十一歳まで。この修行年数が十二年というわけである。


 空手も同じだな、と思う。
 野球やサッカーのようなゲーム的な要素は少なく、反復練習の日々は、おもしくはあるまい。

 だが、それでも辛抱して稽古をしているうちに、いつのまにか、目を見張るほどの成長を遂げているものだ。

 運動神経がどんなに鈍くても、コツコツと継続していれば必ず上達する。

 空手の稽古を通じて、「継続は力なり」という〝人生の要諦〟を学んでくれればと、審査をしながら思ったのである。


投稿者 mukaidani : 09:13

2011年03月21日

政府はなぜ「安全」と言い切らないのか

 1都7県の空中で、放射性ヨウ素などが検出されたという。
 政府も、原子力の専門家たちも、
「冷静な対応を」
 と繰り返し、国民に呼びかけている。

 私もそう思う。
 冷静であるべきだ。

 だが、私も、おそらく関東在住の人たちもそうだと思うが、気になるのは、
「ただちに健康に影響を及ぼす数値ではない」
 という説明である。

「ただちに」
 というのは、どういう意味なのか。

 放射線の影響がないのであれば、
「健康には影響ありません、大丈夫です、安全です」
 と言い切ればいいのだ。

 それをなぜ、
「ただちに影響するわけではない」
 と、もってまわったを言い方をするのか。

 ごく自然にこの言葉を解釈すれば、
「ただちに健康に影響を及ぼす数値ではないが、将来のことはわかりません」
 という意味に受けとれる。

 だから政府と専門家に対して不信感を、少なくとも私はいだくのである。


 今日は、当道場の春期審査会を行う。
 午前9時から午後3時まで、時間を区切って50名ほどの子供が受審する。
 朝から雨だ。
 放射線が気になって空を仰ぐのは、
「ただちに」
 という政府、専門家の、奥歯にものが挟まった言い方にある。

投稿者 mukaidani : 07:17

2011年03月20日

セ・リーグというバカな機構

 山梨県で葬儀があり、今朝、友人とクルマで出かけた。
 途中、コーヒーを飲もうと、中央高速の「談合坂SA」に寄ると、給油に長蛇の車列。
 しかも、1台につき、わずか5リッターまで。
 ガソリン不足は深刻である。

 週刊誌を買おうとコンビニに寄ると、パンなど食品コーナーは依然として空っぽになっていた。

 計画停電も、まだまだ続く。

 国民生活の非常時に、プロ野球のセ・リーグは、開幕日時をめぐって、すったもんだのすえ、3月29日に延期した。
 延期といっても、たったの4日。

 それも文部科学省の「国民の理解が得られないのではないか」という要請があったからで、渋々の延期である。

 パ・リーグは電力事情を踏まえ、開幕を4月12日に延期している。
 ロッテは、
「ナイターはしばらくやらない」
 と発表した。
 賢明な決定である。

 それに引き替え、セ・リーグはバカとしか言いようがない。
 国をあげて節電を呼びかけているときに、煌々(こうこう)と灯りをつけ、
「アウト! セーフ!」
 をやろうとする神経が理解できない。

 先日、セ・リーグが予定どおりの日程で開幕を決めたとき、コミッショーはこう声明をした。

「プロ野球選手にとって、この困難な状況で真剣勝負をお見せすることが、期待される責務だと考えます」

 アホなことを、言いも言ったり。
 いったい誰に真剣勝負を見せるというのか。
 避難生活で苦しんでいる方々が、どうやってテレビを観るというのか。
「責務」をタテにとって、エゴを通そうとしていると思われても仕方あるまい。

「責務」を口にするなら、こう言ったらどうか。

「被災者の方々のために選手が一丸となって物資をリュックで背負い、被災地に運ぶのがファンに対する責務だと考えます」

 タレントの萩本欽一さんは、被災地に義援金を持ってファン宅を回る《欽ちゃん義援金行脚》を計画し、
「連絡を入れて訪れると気を使われるから。コンコンとノックして突然、行きます」
 と語っている。

 それにくらべ、被災地の悲痛な叫びをよそに、ナイターをやるとかやらないとか、バカなことに頭を悩ます人間もいることに、あらためて驚かされるのである。

投稿者 mukaidani : 18:26

2011年03月19日

毅然たる態度と「コメント」

 昨日は、彼岸の入り。
 映芳爺さんと愚妻と私の三人で、墓参りに出かけた。
 クルマで二十分ほどの距離だが、車中の話題はどうしても震災のことになる。

「あの官房長官、名を上げたわね」
 と愚妻が言えば、
「ほんまじゃのう」
 と映芳爺さんが感心する。

 枝野官房長官も知名度はイマイチなのか、愚妻は「あの」と呼び捨てにしながら、
「東電の人は何を言っているのかわからないけど、あの官房長官はハキハキとして説明がわかりやすいわね」
「ほんまじゃ、ほんまじゃ」

 たしかに枝野官房長官の記者会見での発言と応答は、理路整然としてよどみなく、聞いていて、
(なるほど)
 と納得してしまう。

 だが、よくよく聞いていると、コメントは周到に〝保険〟がかけられている。

「・・・と認識しております」
「・・・については、一定の理解はしております」
「この段階で、軽々に評価すべきではない」
「動向を注視するというコメントにとどめたい」
「現時点で、予断を持つことなく」
「現時点で、想定される範囲においては」

 認識、一定、注視、予断、現時点・・・等々、コメントにはずいぶん〝保険〟がかけてあるが、毅然たる多態、断定的な口調、キビキビとした話し方によって、〝保険〟は逆に、誠意と説得力を持ってくるのである。

 これがもし、しどろもどろの口調と態度であったら、
「だから何が言いたいんだ!」
 と、批判にさらされることだろう。

 自信がなくとも、毅然たる態度で臨めば人の信頼を得る。
 リーダーに不可欠な要素である。
 いわんや、一国の総理には。

投稿者 mukaidani : 09:10

2011年03月18日

「加齢」と「鈍感」

 余震がまだ続いていて、
「障子がガタガタ鳴って眠られん」
 と、映芳爺さんがボヤいている。

 計画停電の予定時間を教えると、
「今夜? わしは寝とるけん大丈夫」
 と、こともなげに言う。

 年を拾うと「自分のこと」しか見えなくなるというが、本当である。
 だが、これは〝ジコチュー〟とは違う。
 87歳ともなれば、そういう積極性はないのだ。

 視力が衰え、歯が衰え、脚力が衰えるように、気配りの範囲も次第に狭くなっていくに過ぎないのである。

 老犬のマック爺さんも同様だ。
 若いころは、ちょっとした地震の揺れでも恐怖に震えていたが、いまはノンキなものだ。
 すべてが鈍感になっているのだろう。

 年寄り、老犬が鈍感になるのは当然としても、若者はどうなのだろうか。
 いろんなことを考えさせられるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:40

2011年03月17日

日本人としての誇り

 メディアの力をあらためて見直した。
 リアルタイムの映像、それに加えて文字映像。さらに専門家の意見を紹介しつつ今後の見通し、地震の原因など、速報体制に驚嘆した。

 だが一方、被災者の方々は情報が遮断されていた。
 それが不安でつらかったと、救出された方々は異口同音に語っている。
 テレビ前に座る私たちはリアルタイムで情報を得つつ、当事者には情報がない。考えさせられることだった。

 メディアといえば、諸外国は日本人の沈着な対応と秩序に驚嘆している。
 私たちは「日本人としての誇り」を、いま一度、自覚すべきだ。
 世界は注視している。
 食料の買い占めなど、恥さらしな行為は、絶対にあってはならない。

投稿者 mukaidani : 14:52

2011年03月16日

予定が立たないという「心労」

 計画停電の「予定」で、みんなが右往左往している。

 エリア別に停電時間が異なるが、
「当該地域のすべてが停電になるとは限らない」
「変更の可能性がある」
 ということだからだ。

 停電に備えてはいるが、
「停電するのかしないのか」
 と気をもむため、疲れるのである。

 道場の稽古がなければ構わないのだが、稽古を実施するか、あるいは実施して途中で停電になったらどうするか、とあれこれ頭を悩ますというわけだ。

(じゃ、期間中は休みにするか)
 とも思ったが、計画停電は4月一杯は続くというのだから、そうもいくまい。

 できるだけ停電を避けるという東京電力の努力は評価しつつも、
「予定が立たない」
「先が見えない」
 ということが、どれほど神経をすり減らすことであるか、身にしみてわかった。

 計画停電すら、そうなのだ。
 被災地の方々の不安と心労は察してあまりある。

投稿者 mukaidani : 10:53

2011年03月15日

計画停電で頭を悩ます

 計画停電に備えていたが、昨日は中止になった。
 予想より電力消費が少なかったとのことなので、企業ならびに各家庭の節電が効果をあげているということだろう。
 わが家も不要の電気はすべて消している。

 ただ、計画停電がどうなるのかハッキリしないのが困る。
 週4日の道場は、稽古が夜だからだ。
 しかも、道場のある場所と、それぞれ住まいとは計画停電の順番が異なる。

 となれば、毎週、土曜日の日中を「振り替え稽古日」にしようと思い、先ほど案内文をプリントアウトしたところだ。
 振り替えは朝10時から3時まで、4クラス4コマでやる。体育館の広さがあれば、一度にまとめて稽古できるが、道場では30名を超えるとつらいのである。
 体力的に大変だが、日本は非常時なのだ。


投稿者 mukaidani : 01:01

2011年03月14日

乗り越える「危機」とは何か

 自治体あげて節電が始まった。
 週2回、中学校の剣道場を借りて空手と古武道の稽古をしているのだが、
「夜は使用できません」
 と市役所から連絡があった。

 今朝から計画停電の予定だったが、東京電力も混乱しているのか、ペンディングになっている。
 昨日は、市内のガソリンスタンドがどこも休業し、スーパーの食品売り場から魚もパンも消えていたそうだ。

 とりあえず買い置きの食糧があるため、わが家はとりあえず大丈夫だが、このたびの地震がどれほどのものであったか、ひしひしと感じ始めている。


 地震は防げないが、原子力発電は人災だ。
 管理の問題ではない。
 原子力発電の問題でもない。
 私たち人間が「便利な生活」「豊かな生活」を追い求めた結果が原子力発電なのだ。

「危機」「乗り越える」と菅総理はメッセージを発したが、私たち人間が乗り越えるべき「真の危機」とは何であろうか。

 行方不明の方々の捜索、被災された方々の救援に思いを馳せつつ、そんなことを考えるのである。

 

投稿者 mukaidani : 09:34

2011年03月13日

みなさんから「大丈夫か電話」

 いまも余震があり、なんとなく落ち着かない。
 被災に遇われた方々、いまも避難生活を余儀なくされて至る方々は本当にお気の毒だ。天災は怒りをぶつける相手がなく、それだけに気持ちが落ち込みがちになるが、どうか頑張っていただきたい。

 私もいろんな方々から「大丈夫か電話」を頂戴した。
 地震に影響されなかった関西以西の方々からで、大阪から沖縄までたくさんの電話やメールを頂戴し、恐縮しつつも、ありがたいことと心から感謝である。
 この場をかりて、改めてお礼申し上げます。

 今朝も、愚妻は部屋の後片付けである。
 用事を言いつけられたら一大事なので、私は早々に道場の仕事部屋へ退散した。

 出かける前、ふと思って、植物の栄養剤を用意させた。
 仕事部屋に何鉢も観葉植物を置いてあるのだが、植物に栄養を与えてやりたくなったのである。

投稿者 mukaidani : 10:13

2011年03月12日

「地震」と「ファミレスの好意」

 昨夜10時、急用ができて、余震のさなかクルマで出かけた。
 電車が不通になっているので、道路が混雑してるとは思っていたが、これほどまでとは。

 途中、尿意をもよおした。
 電車で20分の津田沼まで、実に8時間がかかっているのだから、それも無理はあるまい。

(ヤバイなァ)
 と思っていたところへ、目前にファミレスだ。

 ホッと安心しつつ、駐車場にハンドルを切ろうとして、
(アリャ!)

 営業時間がAM8:00~AM4:00とカンバンに書いてあるではないか。
 そのときの時間は6時。
 営業は終わっている。

 ところが。

 店内に明かりがとりも、何人か席に座っている。
 従業員が帰宅できずに待機しているのか。
 だが、この大渋滞で立ちションというわけにもいかず、店に飛び込んだところが、帰宅できない人のために、店が好意で営業をつづけていたのである。

 コーヒーなど飲み物を無料提供してくれるだけでなく、おにぎりまで握って配ってくれたのである。

「ギブ&テイク」の世知辛い世のなかに、こんな店もあるのだ。

 そして、7時をまわって一人、二人と席を立っていったが、サラリーマン風の男性も、〝腰パン〟の若者も、調理場をのぞき、丁重にお礼を言い、頭を下げて出て行った。

 それが、とても爽やかだった。

 ファミレスの名前は「ロイヤルホスト津田沼店」。
 いい店ではないか。

 先ほど、やっとこさ帰宅して、そんなことを思っているのである。

投稿者 mukaidani : 11:05

2011年03月11日

地震の最中に思う

 強烈な地震であった。
 道場の前を歩く人たちがしゃがみ込んでいた。
 道路をへだてて向かい側にあるドラッグストアから、人が駐車場へ駆けだしてくる。
 陳列品が落ちてくるのだろう。

 私の仕事部屋は、本が音を立てて落ちてくる。
 危ないので道場に出ていたのだが、ガタガタと揺れる最中、何を思っていたか。

 身の危険よりも何よりも、
(後片付けが大変だな)
 と、そんなことを思っていた。

 壊滅的な地震はこないという楽観が、心のどこかにあるのだろう。

 そういえば、いまふと思い出したのだが、今朝、送られてきた通販カタログに携帯トイレが載っていた。

「おい、女性用もあるから、ドライブ用に買っておけ」
 と愚妻に言うと、
「小さいテントがあれば、地震のときでもいいんじゃない?」
 そんなことを言ったのだ。

「バカ者。地震のことなんかどうだっていい」
 と、そのときは叱りつけたが、やはり備えは必要だろう。
「万に一つ」だからこその備えなのだ。
 いまも余震が続いている。

投稿者 mukaidani : 16:37

2011年03月10日

祖父の50回忌

 今日は朝10時から、お寺さんで、祖父(父方)の50回忌の法要をお願いしてある。
 命日は5月27日なので、ちょっと早い。

 では、なぜ早くなったかというと、日取りを決めたのが去年の秋口だったからだ。

「来年は、親父の50回忌じゃ」
 と、私の父である87歳の映芳爺さんの一言がキッカケである。

「わしも、いつ死ぬかわからんけん、法事は早ようやったほうがええかもしれんのう」
 と言うので、
「それもそうじゃ」
 と私も賛同し、
「じゃ、春先にでもやるか」
 とアバウトに提案したら、
「それがえかろう」

 こういうのをトントン拍子と言うのだろう。
 3月10日がおふくろの祥月命日ということもあり、今日に決まったという次第。

 もっとも、いつ死ぬかわからんはずの映芳爺さんはピンピンしていて、
「おい、明日は畑へ行かんにゃいけんど」
 と、これから出かける法事より、ジャガイモの心配している。

 なるほど、「死んだ者より、生きている者が大事」ということか。

投稿者 mukaidani : 08:11

2011年03月09日

「空手をやめるため」の特訓

 現在、空手1級で、次は初段にチャレンジする小学生のなかに、新6年生のA君がいる。
 不器用ということもあってか、A君は稽古がイヤになっている。

 だから身が入らない。
「稽古しないのなら道場をやめてしまえ!」
 とハッパをかけたところが、
「ボクだって空手をやめたいんですが、親が初段を取るまでは絶対にやめさせないって言うんですよォ」
 と、大人びた口調でボヤキながら、顔をしかめて見せるのである。

「そりゃ、困ったな」
 私もつい同情して、
「しかし、初段を取るのは難しいぞ」
「どうしましょう」
「おまえが本気で初段を取る気なら、館長も本気で教えるが、どうする?」
「頑張ります」
「よし!」

 かくしてA君の特訓を始めたのだが、やめさせるために一所懸命教えるとは、妙な気分である。

 が、しかし、考えてみれば、私たちもまた、死ぬために一所懸命生きているではないか。
 確実に死ぬとわかっていて一所懸命に生きるのは、空手をやめるために一所懸命稽古するのと同じだろう。
 そう考えれば、「やめるための稽古」もあっていいと納得した。

 だが、人生の場合は、どんなに一所懸命に生きたところで「確実に死ぬ」が、空手は違う。
 やめるための稽古であっても、黒帯を取ったら、
「もっとやろうかな」
 と思い直すことだってあるのだ。

 そんなことを期待しながら、昨夜も手取り足取り特訓した次第である。
 

投稿者 mukaidani : 11:13

2011年03月08日

佐倉、長島、そして空手

 千葉県佐倉市に居住して、3月末で26年になる。
 朝風呂に風呂につかっていて、ふと気がついたのである。

 引っ越した当時、住まいを問われて、
「千葉の佐倉です」
 と答えると、
「おっ、長島の出身地ですね」
 と、よく言われたものだ。

 これがイヤでたまらなかった。

 広島県呉市に生まれ育った私は、当時、熱烈な広島カープファン。
 しかも県民気質は、
(東京がナンボのもんじゃ)
 と威勢がいい。

 だから、強すぎた巨人が憎らしくてたまらなかった。
 後楽園球場では、「カープ対ジャイアンツ」を見た帰りに巨人ファンとケンカした。

 スナックで飲んでいたときは、居合わせた男が店のテレビで「カープ対ジャイアンツ」を見ながら、
「カープは弱ぇよな」
 とか何とか悪口を言ったので、頭にきてブン殴り、店の外へ引きずり出したこともある。

 若気のいたりとはいえ、それほどに熱烈カープの巨人嫌いだったのである。

 その私が、
「おっ、長島の出身地ですね」
 と、ニッコリされたときの気持ちがわかっていただけるだろうか。

「ええ、まっ」
 と曖昧な笑顔を返しながら、腹のなかで舌打ちをしたものだった。


 それから26年。
 私は佐倉の街に根をおろし、空手を教えている。

「おっ、長島の出身地ですね」
 とも言われなくなった。
 長島が倒れ、野球界の第一線から身を引いて、メディアの露出がほとんどなくったからだろう。

 歳月は、否応なく人生を、そして環境を変えていく。
 佐倉はいい街である。

投稿者 mukaidani : 09:53

2011年03月07日

ミダスの手

「ミダスの手」というギリシャ神話がある。
 バラ園を営んでいたミダスが、あることから王様に気に入られ、
「願いを何でも叶えてやろう」
 と言われる。

 すると、欲張りで、何よりも黄金好きなミダスは、
「手に触るものが、何でも黄金に変わるようにして下さい」
「よし、わかった」
 ということで、王様は願いを聞き入れた。

 さあ、それからが大変。
 食べものも飲みものも、ミダスが手にするものすべてが黄金になってしまい、飢えと渇きに苦しむのだ。

 ミダスは王様のもとへ駆け込み、
「さっきの願いを取り消してください」
 と懇願する。
「そうか。では、川の源で身体を洗うがいい」
 と言われ、さっそく洗って元の身体にもどるのである。


 うろ覚えだが、そんな神話だ。
 で、道場の小学生たちに、
「一つだけ願いを叶えてやると言われたら、何をお願いする?」
 と問いかけてみた。

「宿題をなくして欲しい」
「お金がザクザク欲しい」
「塾に行きたくない」

 ミダスのような返事が多かったが、ひとりだけ、
「空を飛ぶようになりたい」
 と言った女の子がいた。

 夢や願望が持ちにくい時代と言われるが、こういう子供がまだまだいることに、ほっと安心したのである。
 

投稿者 mukaidani : 08:46

2011年03月06日

啓蟄(けいちつ)を喜べる人

 今日は啓蟄(けいちつ)である。
 啓蟄とは、地中で縮こまっていた虫が暖かさに誘われ、もぞもぞと這い出てくる日のことで、この日を境に本格的な春の到来となる。

 ちなみに「はる(春)」という言葉は、「発(は)る」「張(は)る」「晴(は)る」「墾(は)る」の意味を持つそうだ。

「万物が発る」「木々の芽が張る」「天候が晴る」「田畑を墾る」となり、まさに「春」は、桜の花がつぼみから満開へと咲き誇っていく季節というわけである。

 だが、私は春があまり好きではない。
 春は卒業、退職、進学、就職、新年度など人生の大きな節目であり、新たな人生の始まりでもある。
 それが、何となくイヤなのだ。

 要するに、なまけ者なのだろう。
 啓蟄であろうとも、もぞもぞと地中から出ていくのは大儀で、私が虫であれば、ずっと穴倉で寝ているに違いない。

 だから、
「きょうは啓蟄です」
 なんて、朝っぱらからテレビのアナウンサーに笑顔で言われると、溜め息がもれる。


 それに引き替え、愚妻の精神状態は私と逆で、次第に春めいていく。
 花粉症で苦しんではいるが、くしゃみが出なかったら、鼻歌が飛び出していることだろう。
 春を喜べる人は、人生に屈託がないということにおいて、きっと精神は健全なのだ。
 

投稿者 mukaidani : 07:28

2011年03月05日

人生のリアリスト

『一押し、二金、三男』ということわざがある。
「ホレた女性を口説くには、押しの強さが第一。お金があることや男ぶりのよさは第二、第三の条件にすぎない」
 という意味だ。
「男」を「女」に置き換えても同じ意味になる。

 あるいは出世に関することわざに、
『一引き、二才、三学問』
 というのがある。
「出世の条件は、まず上の人間の引き立てを得ることが第一。世渡りの才能や能力はその次の条件に過ぎない」
 という意味になる。

 どんな美男美女も、大金持ちも、「押し(情熱)」の強さには叶わないということであり、どんなに勉強ができ、世渡りが上手であろうとも、上の者に可愛がられる人間には勝てないと、先人は教えるのだ。

 つまり「押し」も「可愛がられる」もキィーワードは《熱意》。
「熱意で夢は叶う」
 ということになる。


《熱意》の対極にあるキィーワードは「たら」。
「お金があったら」「上司に理解があったら」「もう少し若かったら」「もっと能力があったら」・・・等々。

 なるほど、お金があれば叶う夢もあるだろうし、上司にもっと理解があれば仕事冒険ができるかもしれない。もっと若ければ実現できる夢もあるだろう。

 だが、「たら」の本質は、
「努力すればできるにもかかわらず、その努力を放棄し、〝たら〟という言い訳に逃げ込んでいる」
 ということにある。

 すなわち、
「イケメンだったら彼女を口説けるのに」
「美人だったら彼氏を振り向かせることができるのに」
 という「たら」は、努力の放棄、情熱の喪失なのである。


 だから私は「たら」という言葉を意識して使わない。
「もし」
 という仮定の話もしない。

 私が「もし」という言葉を使うときは、最悪の結果を想定し、その対応策を練るときだけで、希望的観測としての「もし」という話は、まずしない。

 そういう意味で、私はリアリストだと自分で思っている。
 愚妻は私のことを、生活ということを一切考えない「極楽トンボ」だとあきれるが、そうではない。
 人生に対してリアリストであるがゆえに、「極楽トンボ」になれるのだと、自分では思っているのだ。

投稿者 mukaidani : 09:22

2011年03月04日

「幸せ」と「ラッキョウの皮」

『本願寺新報』に、仏教国であるブータンのケサン王女が西本願寺を訪問したとの記事が掲載されていた。

 ブータンの政策理念は、「GNP(国民総生産)よりGNH(国民総幸福度)の向上が大切」というもので、同国は「国民の9割が幸福」といわれているそうだ。

 そして、ケサン王女は講演で、
「生きとし生けるものの幸福を願う、それらが自らの幸せにつながるというのが仏教の幸福観。他者のために自分の煩悩や欲望をすべて否定する『禁欲主義』でなく、煩悩や欲望にあたる物質的幸福とともに、精神的幸福とのバランスが重要」
 と語ったとのこと。

 講演を聴いていないので内容についてはよくわからないが、「物質的幸福」と「精神的幸福」のバランスとは、釈迦の説く《小欲知足》のことだろうと、私は解釈した。


 しかしながら、「生きとし生けるものの幸福を願う」の「幸福」とは何なんだろう。

 私たちが描く幸福の概念は、端的に言えば、
「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(憲法25条)
 ということになろうか。

 となれば、「病気の人」は「幸せでない」ということになる。

 病気になって喜ぶ人はいないが、しかし病人であろうと、健康人であろうと、等しく救われていくと浄土真宗では教えることからすれば、「健康=幸福」は矛盾である。


 幸福論とはかくも難しく、
「幸福とは何か」
 と考え込んでいるうちに人生はどんどん過ぎ去り、還暦を迎えてなお、
「幸福って何だ?」
 と頭を悩ませている。

 つまり、「幸福とは何か」を考え追求していくのは、ラッキョウの皮を剥くようなもので、幸福に「実体」を求めようとする、その生き方が間違っているのではないだろうか。


 小難しい理屈はいい。
 世間の概念からすれば不幸であろうとも、
「私は幸せだ」
 と思えるかどうか、すべてはここにあると私は考えるのである。


投稿者 mukaidani : 10:18

2011年03月03日

ひな飾りに「爺さん人形」

 あるホテルでのことだ。
 約束の時間より早く着いたので、ロビーをブラついていたら、でっかい「ひな飾り」があった。

 5月5日の「端午の節句」は祝日なのに、「桃の節句」はそうでない。
(よく男女差別の抗議が起きないものだ)
 と思いながら、ひな人形を眺めていて、目を剥(む)いた。

 なんと下段に、老人のひな人形があるではないか。
 白い長いヒゲを生やしている。
 まさか爺さん人形があろうとは・・・。

(知らなかった)
 と、唸(うな)るほどの驚きだったのである。


 帰宅して、
「おい。ひな人形に爺さんがいるのを知っているか」
 愚妻に問いかけてみた。
 ひょっとして、あのホテルだけ、爺さん人形を置いてあったかもしれないからだ。

 すると愚妻は、
「あら、知らなかったの」
 これまた目を剥いて、
「娘がいて、どうして知らないのよ」
 非難の目で私を見たのである。

 娘は3月2日生まれ。
 毎年、誕生祝いとひな祭りを一緒に行っていた(と思うのだが)、ひな飾りをまじまじと見たことは、これまで一度もなかった。
 まさか爺さん人形があろうとは・・・。

「となれば」
 私は言った。
「60歳であろうとも、龍笛(りゅうてき)を始めた私は、五人囃子もつとまるというわけだ」

 冗談を言ってみたが愚妻には通じず、娘の誕生日のことも覚えていないのかと、いつまでブツクサ言っていた。


 ひな祭りは、女の子のすこやかな成長を祈る節句だ。
 日本の美風のひとつである。

 ひな人形に〝洋風人形〟もあると聞いて、
「大和撫子(やまとなでしこ)」
 という言葉が脳裏に浮かぶ。

 洋風人形が悪いというのではない。
「桃の節句」は、古来よりのひな人形であるべきだ。
(文化とは、そういうものではないか)
 と、娘の誕生祝いが記憶から抜け落ちている我が身を棚に上げつつ、私は思うのである。

投稿者 mukaidani : 06:08

2011年03月02日

メダカが死んだ

 メダカ8匹がすべて死んでしまった。

 早朝、いつものよう道場の仕事部屋に入り、エサをやろうかどうか一瞬、迷ったが、
(寝起きだから食べないな)
 と思い直し、原稿を書き始めた。

 それから小一時間ほどたってからだろうか。
 なんとなく部屋の雰囲気がいつもと違うのだ。

 不審に思い、部屋を見まわしてみて、水槽の濾過器が作動していないことに気がついた。

 モーターが低く唸る音、そしてブクブクと水が循環する音がしていないので、いつもと雰囲気が違ったわけである。

 そういえば昨夜、モーターを止めたことを思い出した。
 エサをやると、いつもブクブクにまぎれてしまうので、昨夜は静かな水面にエサを浮かべてみようと思ったのである。

 それで、モーターのスイッチを切ったまま、入れるのを忘れていた。

 で、立ちあがって水槽の場所に行って、
(アッ!)

 メダカが死んで浮いていたのである。

 あわてて数えてみる。
 三度、数え直して、やはり8匹。
 すべてが死んでいた。


 早朝、部屋に入ったときに水槽を見たはずなのに、メダカが泳いでいたかどうか記憶がない。
(泳いでいるはず)
 という先入観によって目がふさがれていたということか。
「見る」ということの頼りなさを、このときつぐづく思い知らされたのだった。


 いつも行くウナギ屋でもメダカを飼っているのだが、
「メダカは手間いらず。ブクブクもいらないから」
 と、女将さんが言っていた。

 数日前、ここにやって来た編集者も、
「うちもメダカを飼っているんですよ。メダカは生命力が強いから、飼いやすいですよ」
 と言っていた。

(こりゃ、楽でいいや)
 と思った矢先の、メダカたちの死である。

 水槽を片づけながら、命は、一寸先はわからないのだということを改めて思った。

投稿者 mukaidani : 11:39

2011年03月01日

映画はおもしろいものだ

 昨日、『ナルニア国物語』を見に行った。
 おもしろかった。

 と同時に、
(こんな物語、とうていわしには創れん)
 と感心した。

 だが、この物語は1950年から1956年にかけて刊行された全七巻からなる小説なのだ。
 つまり、60年前に書かれた児童文学。
 3D映画に合わせて書き起こされたシナリオだとばかり思っていた私は、唸るばかりである。

 それにしても、映画とは楽しいものではないか。
 こんな楽しいものが、どうして衰退したのかと、不思議でならない。

(さて、次は何を観に来ようか)
 と、映画館のロビーで上映予定作品を眺めながらも、
(これだ!)
 という作品がないのである。

 映画の衰退は、結局、作品がつまらないという一語につきるのかもしれない。

 いい役者がいて、あるいは3DにCGにとハードが進歩しながら、「作品自体」がつまらない。
 すなわち、人間の頭脳という「ソフト」の問題ということか。

 今日は3月1日。
 毎月1日は、「映画ファン感謝デー」だそうだ。

投稿者 mukaidani : 05:32