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2011年02月28日

運の正体、枯れ尾花!

 週に一度、マッサージに行く。
 半日以上もパソコンに向かっているので、肩と腰が疲れる。
 年齢のせいもあって、いったん凝り固まってしまうと、容易にはほぐれなくなる。
 だから、早めの対処ということで、週に一度はマッサージするようにしているというわけだ。

 私はこのブログで何度か紹介しているが、風呂の湯船につかると「妙想飛来」で、パッと閃(ひら)く。

 それは企画であったり、タイトルであったり様々たが、実はマッサージ中にもピピピッと閃いてくるのである。

 昨日は、「運」ということがマッサージ台で閃いた。
(運がいいから物事がうまくいくのではなく、物事がうまくいったから「運がいい」と言うのではないか)

 つまり、「運は結果論」という考え方である。
 となれば、運は存在しないことになる。
 これはすごい発見だ。
(運の正体見たり、枯れ尾花!)

 腹で叫んだ拍子に身体を突っ張ったのだろう。
 マッサージのオバちゃんが、うつぶせになった私の背中から問いかけた。
「揉むのが強いですか?」
「ウン」
「じゃ、すこし柔らかく」
「ウンじゃない」
「ハッ?」
「ウンは存在しないんだ」
「・・・・」

 チグハグな会話になったせいか、今朝は少し〝モミ返し〟がきているような気がするのである。

投稿者 mukaidani : 10:17

2011年02月27日

龍笛は「人生」に通じる

 大分県のU氏の助言にしたがって、毎日、10分ほど龍笛(りゅうてき)を吹いている。

 ピ~ヒャララと音が出るので気持ちがいいが、何事も基礎にこだわる性分なので、4月23日に都内の「初心者体験」に出かけることにした。

 3月19日も同体験があり、ぜひ行きたいのだが、この日は佐倉市空手道連盟の総会があって、すでに出席すると返事をしている。
 予定やアポイントは「早い順」が鉄則で、動かしてはならない。


 そんなわけで4月になったのだが、漫然と待っているわけにも行かず、CD付きの入門書を買った次第。

 読んでみると、これが面白いのだ。
 吹き方ではなく、雅楽についての話である。

 たとえば、こんな記述。


《笛は鳴るようにできています。鳴らそうと力を入れるとかえって鳴らなくなるものです。
「鳴らしてやるんだ」という気持ちを抑えて、何も考えずに息を吹き込むだけにしてください。
 そうすれば、笛はおのずから鳴ってくれます。》

《初めて笛を吹く人がよくおちいりやすいことに酸欠があります。これは吹くことに夢中になるため、十分な時間をかけて息を吸わないために起こります。》
(以上、『はじめての雅楽/笹本武志著』)


 何やら「人生の処し方」に通じるではないか。
《「鳴らしてやるんだ」という気持ちを抑えて、何も考えずに息を吹き込む》
 まさに「無心の境地」であれと教える。
 雅楽から学ぶことは多そうである。
 

投稿者 mukaidani : 04:36

2011年02月26日

子供を見て、法を説く

「人に迷惑をかけてはいけない」
 と、道場で子供たちによく言う。

「自分が怠けて稽古しないのはいいが、人の邪魔をするな、人に迷惑をかけるな」
 というわけである。

 しかし、浄土真宗では、
「人間は、迷惑をかけずして生きていくことのできない存在である」
 と教える。

「それほどに人間は救いがたい存在である」
 ということに気づくことが大事と教える。

 つまり、このことに気づけば、
「おかげさまで」
 と、生かされていることへの感謝の心が芽生えてくるというわけだ。


 さて、そこで困ったことになる。
「人に迷惑をかけてはいけない」
 と道場で教えることと矛盾する。

 だが、小学校の〝可愛い悪ガキども〟に、
「人間は、迷惑をかけずして生きていくことのできない存在である」
 と、教えたらどうなるか。

「ワーイ!」
 大喜びで騒ぐだろう。

「人を見て法を説け」
 とは、なるほどお釈迦さんは、いいことをおっしゃるではないか。

投稿者 mukaidani : 10:25

2011年02月25日

迷いは「待つ」にあり

 近年、柔道や空手など武道の試合会場で、音楽を聴いている選手が目につくようになった。
 イヤホーンをかけ、身体を小刻みに揺すっていたりする。かつて考えられなかった光景だが、これが時代の流れというものなのだろう。


 試合前に好きな音楽を聞くのは、緊張をほぐす効果があると言われる。
 確かにそうだろう。
 だが「音楽を聴く」という行為は、音楽によってリラックスするということに加えて、「待つ」ことから生じる不安と緊張感を薄めることに効果があると、私は思っている。

 緊張が「考えること」で増幅されるなら、出番まで「考えない状況」をつくりだせばいいわけである。


「出番」と言えば、スピーチの順番は早いほうがいいと言われる。
 ことに結婚披露宴や祝賀会でのスピーチはそうだ。
 早いとこ〝義務〟を終えてしまえば、あとはゆっくりパーティを楽しむことができるからだ。

 ところが順番が最後のほうだと、そうはいかない。酔っぱらうわけにもいかず、楽しめないばかりか、スピーチが終わるまでは、緊張がずっと続くことになる。


 スピーチに限らず、面接にしろ、プレゼンにしろ、人間は、待てば待つほど神経をすり減らす。
 緊張が持続するからではない。
(トチったらどうしよう)
(仕事を逃したらどうしよう)
 不安が不安を呼んで、時間の経過とともにどんどん膨らんでいくからである。

 ケンカを例にすると、わかりやすいだろう。
 街を歩いていて、いきなり殴りかかられるとする。無意識によける。何がなんだかわからないまま、応戦する。恐怖を感じるヒマはない。

 ところが〝ケンカになりそうな状況〟だと躊躇が生まれる。
(ヤバイな)
(勝てるだろうか)
(あとで仕返しされたらどうしよう)
 思いは千々に乱れ、
「テメエ、叩き殺すぞ!」
 タンカの一つも切られれば、ゴメンナサイになってしまう。
 考える時間に負けるのである。


 だから、スピーチをするときは、スポーツ選手のように〝出番〟までイヤホンをかけていればいいのだが、現実にはイヤホンは無理。

 ならば、どうするか。
 不安が不安を呼ぶのであれば、楽しさが楽しさを呼ぶようにすればいいのだ。

 たとえば、久しぶりゴルフは、ワクワクして前夜は眠れないものだ。
 海外旅行は、行くまでの準備が楽しいのだ。
 ならば、スピーチやプレゼン、面接、クレーム処理など、気が重いものもはワクワクすればいいではないか。

 どうやるか。
 自分が監督になり、自分が主役になり、自分が観客になるのだ。
 たとえば上手にスピーチする自分、トチる自分。どっちに転んでも〝主役〟だと思えばよい。

(さあ、演じてやるぜ)
 と、前向きにとらえるのだ。

「そんなにうまくいくかよ」
 と鼻で笑う人は、自分自身の人生においすら〝主役〟になれない人なのである。

投稿者 mukaidani : 08:57

2011年02月24日

50代からは「おまかせメニュー」

 毎週、水曜日はメダカの水替えの日にしている。
 水曜日の「水」は「水替え」と覚えておけばいいからである。

 で、昨日の水曜日も水替えをしたが、
(同じものを食べていてあきないのだろうか?)
 と余計なことを考えながら、メダカがちょこまか泳ぐ姿を見ているうちにふと、「人生」を「食事」にたとえる考えがよぎった。


 50代までは《アラカルトメニュー》、50代からは《おまかせメニュー》ということだ。

《アラカルトメニュー》であれば、好きなものをチョイスできる。
 つまり、「選ぶ食事」だ。

《おまかせメニュー》は、店が出してくれる料理を食べる。
 好き嫌いはあろうが、板前なりシェフが腕を振るったもので、出されたものを味わう食事だ。
 これを人生に即して言えば、意に染まないことでも〝出された〟ものを引き受ける処し方だ。

 たとえば町内会の役員、あるいは趣味の会など、頼まれたり誘われたりしたら、気が進まなくても引き受けてみるのだ。

 依頼する側、誘う側にしてみれば、
「この人なら」
 という思いでそうしているのだ。

 20歳の若者に、町内会の役員を依頼することはない。年齢、見識など「この人なら」と思って頼んでくるのだ。
 自分は、若いままの人生を引きずっているため、そうと意識しないが、
「社会的にそういう人間に見られている」
 ということでもあるのだ。

 ならば、引き受けるべし。
 誘いには乗るべし。
 これを「縁が整った」という。

 流れに逆らわず、身をまかせよう。
 きっと、人生の新しいステージが開けるに違いない。


 水槽のメダカを見やりながら、そんなことを考えていると、
(龍笛を始めた事で、また少し人生が変わるかもしれないな)
 と、わくわくしながら、そんなことを思うのである。

投稿者 mukaidani : 10:28

2011年02月23日

指導とは、何と難しいものか

 私の道場には、小学生だけで70名ほどいる。
 これだけの人数がいれば、当然ながら上手・下手がある。

 だが、武道は反復練習によって練度を上げていくものだから、下手であっても一向にかまわない。
 やる気さえあれば、必ず一定の技術水準に達するからだ。
 要するに、そこに達するのに早いか遅いかだけの違いだけであり、したがって、やる気さえあれば上手下手はかまわないというわけである。


 ところが、やる気に乏しい子は困る。
 親にケツを叩かれて仕方なく稽古にやってくるのだろうが、やる気に乏しい子は、後ろめたさを「無意識に自覚」しているため、仲間を引きずりこもうとする。
 これが困るのだ。


 やる気がなければ、道場に来るのは時間のムダでもったいないと思いつつも、モチベーションを高めることによってやる気が出るのではないか、という期待が私にある。

 黒帯を取得し、「達成感」を味わうことは、これからの人生に必ずプラスするという思いもある。

 そのかわり、一定の到達点まで行けずして落後すれば、心の奥底に挫折感が残る。
 これは当人にとって不幸で、だから何と落後せず、黒帯になるまで頑張って欲しいと心底、願うのである。


 技術を教えるだけなら簡単だが、指導者の思いを伝えるのは難しいものだ。
 だが、思いが伝わらなければ、やる気に乏しい子が発奮することはない。
 しかも、学校のように義務教育であればいいが、空手道場はイヤになったらやめればよい。
 こういう環境において、子供を指導するというのは、何と難しいものであることか。

 人生に似て、指導に本気になればなるほど、難しさは増していくのである。

投稿者 mukaidani : 09:55

2011年02月22日

葬式費用について電話取材

 昨日、日刊ゲンダイの記者から電話でコメントを求められた。

「テパートなどが相次いで葬式ビジネスに参入しているが、これは葬式費用が不明瞭で高過ぎるということが背景にあるからだと思う。ついては、ご意見をうかがいた」
 といった内容であった。

 電話コメントは考える時間がなく、すぐにしゃべらなくてはならない。

 私の脳裏に「費用対効果」という言葉が浮かんだ。 

 つまり、高額なお金を払って葬式をして、
「それが何になるの?」
 という思いがあるのではないか、ということである。

 これが結婚式なら、「新たな人生のお披露目」という意識があり、大枚をハタいてもやる価値はあると思うだろう。相応のお祝いも集まる。

 だが葬儀は「人生の終わり」である。
「大金を使って〝お披露目〟をしたって意味がない」
 という気持ちが芽生えても不思議はあるまい。


 こうした思い背景には、葬式の意味が理解できていないということがある。
 葬儀に対する考え方は宗派によって差異があり、死者の供養、儀礼とする考え方から、浄土真宗のように、近親者の死という悲しみを機縁として、仏の教えを学ぶ「聞法」の場であると位置づけるものまである。

 ここでは葬式の意味に立ち入らないが、いずれにせよ葬式は、「いま生きている人間」にとって、とても重要な意味を持つ。
 したがって葬式が不要とする考えは、「生きる意味」について考えることを放棄するもので、これはとても不幸なことだと思う。


 しかし、だからといって葬式に多額の費用がかかっていいということにはならない。
「葬式の意義」と、そのための「費用」とは別問題なのだ。

 もっと言えば、死者儀礼にせよ、葬式を機縁の場とするにせよ、それらはお金などかけないで、いくらでもできるということなのである。

 したがって、「葬式」と「葬式ビジネス」を分けて考える必要があると、私は考えるのである。


 いま、若者の仏教離れが深刻な問題として仏教界で論議されている。
 だが私は、「若者の仏教離れ」という言葉を聞くたびに、
(そうだろうか?)
 という思いをいだく。

 若者が離れていったのではない。
 僧侶が離れていったのだ。
 僧侶が本来あるべき姿から離れ、社会のなかに埋没しつつあるのだ。


 金閣寺住職の2億円の申告漏れで、1億円が追徴課税されたことが大きなニュースになった。
 住職は、揮毫料をお布施と考え、税務申告する必要がないと誤解したとのことだが、それはともかくとして、この申告漏れのニュースを世間はどう受け止めただろうか。

(儲かるんだな)
 という思いは否定できまい。

 そんな思いで仏法を聴いて、どれだけ人が「納得」するだろうか。


 親鸞は一カ寺も自分の寺を持たないで、布教に努めた。
 良寛は越後の山中に草庵を結んで、清貧に生きた。

 名利を求めない「生き方」ゆえに、人々は仏法に耳を傾けたのではないか。

 僧侶はどうあるべきか。
 どう生きるべきか。

 このことを真剣に考え、本来あるべき姿を追い求めたならば、仏教はもっともっと見直されるだろうと、自省を込めて考えるのである。

投稿者 mukaidani : 10:02

2011年02月21日

ホメられると、足がシビレるのだ

 仕事部屋に来たときは、かならず寄る店がある。
 魚料理屋で、安くて、うまい魚を食わせてくれる。
 座敷にテーブルが八つほどあって、おばちゃんが四、五人ほど働いている。
 みなさん気さくで、楽しい店なのだ。

 で、昨夜も行った。
「私はヒレ酒」
 愚妻が迷わず言い、私は少し迷ってから、
「ノンアルコールのビールを」
 と告げる。

 少し迷ったのは、ほかでもない。
 元呑んベェとしては、ノンアルコールという〝代用ビール〟を潔(いさぎよ)しとしないからだ。

 だが、熱いお茶で刺身を食べるのは、
(なんだかなァ)
 という思いもあって、ノンアルコールを頼んだところが、
「はいよ。ノンビーね」
 と、オバちゃんが言ったのである。

「へぇ、ノンアルコールビールはノンビーって言うの?」
 私が驚くと、
「ほかに言い方があるの?」
 ああ言えばこう言うで、まるで愚妻のような口調であった。

 それにしても、「ノンビー」とは、何とも響きのいい言葉ではないか。
(よし、これからはノンビーを愛飲しよう)
 と、このとき決めたのである。

 そして、
「よっこいしょ」
 と正座した。

 冬の稽古は、立っているだけで腰に負担がくるため腰が痛い。
 腰痛には正座が楽なのだ。


 正座し、ノンビーをチビリとやり始めところで、〝ノンビー〟のオバちゃんが刺身を運んできて、
「あら、ご主人、姿勢がいいわねぇ」
 と感心の声である。

「いや、ま、アッハハ」
 と笑ったものの、もはや足を崩すわけにいかない。
 ときとぎ足を組み替えつつ、我慢である。

「ちょっと、いい加減にしなさいよ。足が痛くなるわよ」
 愚妻が余計なことを言うが、男は黙ってヤセ我慢したのである。


 店を出てから、足をひきずる私に愚妻が悪態をつく。
「だから言ったでしょ。ちょっとホメられただけで、すぐその気になるのは、あなたの悪いクセだわよ」

 わかっている。
 確かに私の悪いクセだ。
 だが、そうやってヤセ我慢しながらこれまで生きてきたのだ。
「いまさら性格が変わるわけがない」
 と、つぶやきつつ、ホメられること怖さをしみじみと悟ったのである。

投稿者 mukaidani : 05:58

2011年02月20日

「愚妻」とは、最大級のホメ言葉

 昨夜、1カ月半ぶりに、九十九里の仕事部屋にきた。
 私は今朝から部屋にこもって執筆。
 愚妻は、さっさと温泉健康ランドである。

 昨夜、愚妻が私のことを「極楽トンボ」と揶揄(やゆ)した。
「バカ者、わしのどこが極楽トンボだ」
 と、厳しく問い詰めると、
「九十九里浜で、横笛をピ~ヒャラと吹くんでしょう。極楽トンボに決まっているじゃない」
 と言い放った。

 九十九里浜でピ~ヒャラには理由があるのだ。
 私に龍笛(りゅうてき)を勧めてくださった大分在住のU氏が、
「1日10分の練習を心がけるように」
 とメールでクギを刺し、
「笛は吹かねば鳴らない」
 と、深遠なるお言葉も頂戴している。

 これで吹かずにおられようか。

 だから、愚妻に告げた。
「そちは愚妻であろうとも、わしは断じて極楽トンボではないのだ」
「ええ、どうせ私は愚妻ですよ」
 捨てゼリフを残して、さっさと温泉健康ランドへ出かけ、私はひとり原稿書きというわけである。


 だが愚妻は、「愚」の真意について誤解している。
 愚妻の「愚」は、
『大賢(たいけん)は愚なるがごとし』
 という諺(ことわざ)から取ったものなのだ。

 これを「外愚内賢」と言い、
「賢者は知識をひけらかさないから、一見、愚かな人のように見える」
 という意味で、「愚」はホメ言葉なのである。

 ちなみに、「外愚内賢」を私なりに読み解けば、
「知識をひけらかさないから賢者なのではなく、自分を大きく見せたいという見栄を心の裡(うち)に封じ込める知恵を持っているから賢者である」
 ということになる。
 ひらたく言えば「さとり」の境地ということなのだ。


 実は先夜、このことを愚妻に説いた。
 友人知人が電話をかけてきて、
「ブログに愚妻と書いてある」
 と、愚妻に余計なことを吹き込むからである。

 ここはひとつ、きちんと説明しておかなければなるまいと思い、「外愚内賢」を説き、
「愚妻とは、さとりを得た妻ということであり、おまえさんは仏と同じであると私は敬意をもって呼び、ブログにもあえて愚妻と書いているのだ」
 と、ホメ讃(たた)えたのである。

 喜んでくれると思ったら、違った。
「ちょっと、私を仏さんにしないでよ!」

 その愚妻は、いまごろ露天風呂につかって鼻歌でも歌っていることだろう。

投稿者 mukaidani : 10:15

2011年02月19日

人生観はなぜ、コロリと変わるのか

 今日は、二十四季節の一つ《雨水(うすい)》で、
「あたたかさに雪や氷がとけて、雨水として降りそそぐ日」
 とされる。

 二十四季節については、以前もこのブログで以下のように紹介した。

《二十四節気とは、太陰暦を使用していた時代に季節を表すものとして考え出され、1年を24等分して、その区切りに名前をつけた。立春、啓蟄(けいちつ)、春分、立夏、夏至、立秋などがそうで、これも字面を見ただけで季節感がすぐにわかる。》

 ちなみに二十四節気は、一月の《立春》から始まって《雨水》、《啓蟄(けいちつ)》、《春分》《清明(せいめい)》《 穀雨(こくう)》《立夏(りっか)》・・・と続いていって、十二月の《冬至》となる。

《雨水》は、昔から農耕の準備を始める目安とされてきたほか、この日に雛人形を飾りつけると良縁に恵まれるとされてきた。

 わが家には87歳の映芳爺さんと愚妻、小生、そして駄犬のマック爺さんの三人と一匹しかいないので、雛人形は関係ないが、娘さんがいらっしゃて雛人形を飾る予定のご家庭は、どうぞ、本日、雛人形を出してください。


 さて、《雨水》がわが家に関係するのは、「農耕の準備」である。
 一昨日、畑に行く予定であったが、
「今日は雨になるけん、またにする」
 と、畑指南役の映芳爺さんが断を下したので、畑を耕すのは延期になっている。

「今年は二種類のジャガイモを植える」
 と、映芳爺さんが張り切り、3月の初旬には植えるそうだから、来週には耕しに行かねばなるまい。

 だが、畑をしていていつも思うのだが、
「来年は」
 という言葉を、畑仲間の人たちは使う。
「今年は失敗したから、来年は早めにタネを播いて・・・」
 といった言い方をする。

 映芳爺さんだって、
「わしの命は、もう長いことないけんのう」
 と言いつつ、昨年暮には、
「トマトは失敗したけん、来年はちゃんと作らんにゃいけん」
 と「来年」のこと言って張り切っているのである。


 しかしながら、「来年」という〝のんびりとした言葉〟を聞くと、セコセコと忙しくしている自分に、ハタと気づかされる。

(そうだ、忙しがっていてはいけないな)
 と反省しつつも、
(しかし)
 とも思うのだ。

 仏教は「明日をたのみにするな」と教えるからだ。


 いつ死ぬかも知れぬ身を生きる私たちは、
「《明日》という、あてにならないものを信じて生きてはならない」
 と仏法は説く。

 これが「一日一生」という考え方であり、親鸞は、
《明日ありと 思う心の徒桜(あだざくら) 夜半に嵐の吹かぬものかわ》
 と詠んだ。

 その一方で、
「トマトは失敗したけん、来年はちゃんと作らんにゃいけん」
 という生き方もある。

 私はこれを「畑の人生観」と名づけた。
 あてにならない「明日」をあてにすることで、「今」をやりすごす生き方である。

 僧籍にある身としては、仏法の説くごとく、「明日をあてにしない生き方」であるべきだと思いつつも、畑を耕す身としては、
「トマトは失敗したけん、来年はちゃんと作らんにゃいけん」
 と思わなければ、やってはいけないのだ。


 そんなことを考えるていると、
「人生観にしたがって生きる」
 というは、実は間違いで、
「人生観とは、いま生きている、その生き方に一定の法則を後付けしたものではないか」
 という思いがよぎる。

 だから人生観は、境遇によってコロリと変わるのだ。

投稿者 mukaidani : 11:14

2011年02月18日

欲望は「拡大再生産」する

『たとえ金貨の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない』

 釈迦の言葉だ。

 いま釈迦の言葉について調べているのだが、この一語に引っかかった。

「人間の欲求には際限がなく、決して現状に満足することがない」
 という意味で、
(なるほど、釈迦はいいことを言うな)
 と感心ししつも、
(しかし)
 と、いまひとつ納得しないのである。

 なぜなら、
(満足せずとも、金貨の雨を降らせてくれればいいのに)
 と、そう思ってしまうのだ。

 十万円でも、百万円でも、千万円でも満たされないなら、千万円もらったほうがいいに決まっているではないか。

 だが、釈迦ともあろうお方が、そんな底の浅いことを言うはずがない。

 釈迦の真意を考えているうちに、ハタとヒザを叩いた。

 釈迦は、
「金貨の雨が降れば降るほど、それに比例して欲望に苛(さいな)まれていく」
 ということを教えているのではないか。

『富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が乾いてくる』 
 とは、ドイツの哲学者・ショーペンハウエルの言葉だが、釈迦はこのことをさとしているに違いないと考えたのである。

 これなら、私にも理解できる。
 金貨の雨が降れば降るほど、欲望に苦しむということになれば、
(満足しなくてもいいから、金貨の雨を降らせてくれればいいのに)
 という不遜な願いは成立せず、
「もう金貨は結構だ!」
 と悲鳴をあげることになるだろう。


 だが、ここで再び、
(しかし)
 という思いがよぎる。

「金貨の雨が降れば、なぜ欲望に苦しむのか」
 ということである。

 で、こんなことを考えてみた。

 たとえば、お茶漬けしか食べたことのない人は、ステーキを食べたいとは思わない。
 ところが、ステーキというものを食べたとする。
 すると、どうか。

 お茶漬けだけの生活に嫌気がさし、
(ステーキを食べたいな)
 と、欲望がひとつ増える。

 つぎにフォアグラを食べれば、
(ああ、ステーキが食べたい、フォアグラが食べたい)
 と、欲望は「拡大再生産」をしていって、
(あれが欲しい、これが欲しい)
 と欲望に苛(さいな)まれるというわけである。


 以上の考察から、
「幸せとは、金貨の雨に一滴も濡らされないことにあり」
 という結論に達した。

 富も、名誉も、何もかも、一切のものに無縁の生活である。
 それが無理なら、できるたけ無縁の生活を心がける。
 食べ物にたとえれば、お茶漬けだけにして、他のものを食べないのだ。
 ステーキを食べたことがなければ、決して欲しくはならない。
 これぞ、幸せの極地ではないか。

 できるかどうかは別として、理屈としてはそうなるのだ。

投稿者 mukaidani : 08:44

2011年02月17日

「竜虎」の咆吼(ほうこう)

 昨日、龍笛(りゅうてき)が届いた。

 先日、このブログで紹介したが、龍笛は雅楽の楽器(横笛)で、2オクターブという広い音域をもち、
「舞い立ち昇る龍の鳴き声」
 とたとえられることから「龍笛」と呼ばれる。

 大分県在住のU氏のアドバイスで、篠笛(しのぶえ)を買う予定から急きょ、龍笛に変更したものである。

 私は寅年の生まれなので、私が龍笛を吹けば「竜虎の咆吼(ほうこう)」になるではないか。

 さっそく梱包を解き、道場でフーフーと吹いてみたが鳴らない。
 愚妻が冷ややかな目で見ている。

 初心者は音を出すだけでも大変だと聞いていたが、ここでピ~ヒャララと音を出してこそ、値打ちがある。

 フーフーと必死でやっているうちに、
 ピィ~
 と鳴ったではないか。

 一度、コツをつかむと、あとはピーヒャララ。
 調子よく鳴るのである。

 愚妻の冷ややかな目は、次第にうんざりした顔になって、
「人が聞いたら、また妙なことを始めたと言われるわね」
 憎まれ口を叩くが、私はおかまいなしで、ピーヒャララ。

 だが、ピーヒャララと鳴るだけではしょうがない。
 さりとて、独習が叶うものか。
 都内で初心者向けの講習会があることは、すでに調べてある。
 通うべきか否か、いま思案の最中なのである。


 ここ数日、雪と雨で天気が悪かったが、一昨日からカラリと晴れている。
 畑指南役の映芳爺さんが昨日、
「いっぺん畑へ行ってみんにゃいけんのう」
 と、独り言をよそおいながら、私にプレッシャーをかけている。

 そんなわけで、今日は畑へ行くか。
「龍笛を畑でやるのも悪くないな」
 私が愚妻に言うと、
「野菜が枯(か)れちゃうんじゃないの」

 愚か者が、そのうち「竜虎の咆吼」を聞かせてやる、と心のなかでつぶやくのであった。

投稿者 mukaidani : 08:01

2011年02月16日

「母の愛は海より深い」を考える

 この時期は、入会してくる子供が多くなる。
 また、道場について問い合わせの電話もよくある。

「うちの子は気が弱くて・・・」
「空手を習わせれば、礼儀がきちんとできるのではないかと思いまして」

 たいていお母さんが電話を掛けてくるのだが、お母さんたちの話を聞いていると、子を持つ親の愛情というものをひしひしと感じる。

 育児放棄や児童虐待などが連日のように報道されていて、
(いまの若い親は何を考えているんだ!)
 と憤りをおぼえるだが、こうして道場に電話を掛けてくる若いお母さん方と話せば、
(まだまだ日本の母親は捨てたもんじゃない)
 と、うれしくなってくるのである。

 仏教の根幹は「慈悲」である。
 慈悲とは、ひらたく言えば「人の痛みを、我が痛みとする心」のことだ。
 そして慈悲は、「自己責任」と対極にある。

 たとえば、
「勉強しなさい!」
 と母親叱り、子供が遊んでばかりいて勉強しなかったとする。

 その結果、テストの成績が悪いと、母親はこう言って叱る。
「ほら、言ったじゃない! 勉強しないあなたが悪いのよ!」

 すなわち「自己責任」を問うわけだ。

 だが、母親に「慈悲の心」があれば、きっとこう思うだろう。
(勉強することの大切さに気づけない我が子がかわいそう・・・)

 母親VS子供という「対立の関係」でなく、「寄り添う関係」ということになろうか。

 昔から「母の愛は海より深い」と言うが、まさに母親の慈悲の心を言うのだと私は思う。

 甘やかすこととは違う。
 過保護とも違う。
 寄り添うとは、「真に子供を思う心」だ。

 真に子供をのことを思えば、叱りもすれば手も上げるだろう。
 誉めることもある。

 そんな母親であって欲しいと、道場生の母親を見るたびに、私は願うのである。

投稿者 mukaidani : 08:28

2011年02月15日

釈迦の教えと「世間体」

 良くも悪くも、私たちは世間体を気にして生きている。
「みっともない」
 という〝恥の文化〟は日本の美徳としても、世間体に縛られて生きていくのは、しんどいものだ。

 仏法の基本に、
《自灯明じとうみょう) 法灯明(ほうとうみょう)》
 という教えがあり、次のようなエピソードで語られる。

 八十歳という高齢になったお釈迦さんが、伝道教化の旅の途中で体調を崩し、弟子の阿難(あなん)にみずからの入滅が近いことを告げる。

 阿難は嘆き悲しみ、そして問いかけた。
「お釈迦さまが亡くなられたあと、私は誰の教えによって悟りへの道に入ることができるのでしょうか」

 すると、お釈迦さんは、こう言った。
「自分自身を拠(よ)り所とし、他の者を頼ってはいけない、法(普遍的法則)を拠り所とし、他のものをたよってはいけない」

 悟りとは、人から教わって知るものではなく、「自分自身」と「法」を頼りにしながら、みずから至るものである--と病床で説いたのである。

「法」とは仏法のことであり、「自分自身」とは、仏法に照らされた自分のことを言うが、私は《自灯明 法灯明》を「世間体」という文脈でとらえた。

 すなわち、
「世間体という不確かで実体のないものに振りまわされ、《自分》というものを持たない人生は浮き草に等しい」
 というものだ。

 ひらたく言えば、
「世間の目なんかクソくらえ」
 という生き方である。

 だから、私は作務衣に陣羽織を着て外出する。
 着物に袴をつけて近所を歩き、ファミレスに行く。
 ハンチングをかぶり、時にステッキもつく。
 サングラスをかけることもある。

「ちょっと、ヘンな人に見られるじゃないの」
 眉をひそめる愚妻に、私はさとすのだ。

「自灯明、法灯明--。これは、釈迦が亡くなるときに残した言葉でな。その意味するところは・・・」
「どうでもいいけど、お釈迦さんが、そんな格好をしろって言ったの?」

 今日2月15日は、お釈迦さんが入滅された日である。

投稿者 mukaidani : 08:11

2011年02月14日

「夷狄(いてき)の3冠王」

 私は、バレンタインデーが好きではない。
「チョコレートがもらえないからじゃないの?」
 と、愚妻はまさに愚(おろ)かなことを口走るが、そうではない。
 日本男児を自認する私としては、《夷狄文化》に浮かれることに抵抗があるのだ。

《夷狄》は「いてき」と読む。
本来は漢民族による異民族の蔑称で、《夷》は東方の蛮人、《狄》は北方の未開人のことを言うが、日本の幕末においては、恫喝をもって開国を迫った諸外国を指す。

 そんなことから、ハロウィン、クリスマス、そしてバレンタインデーの3つを、
「夷狄の3冠王」
 と、私はひそかに呼んでいる。

《ハロウィン》は、ヨーロッパを起源とする民族行事で、万聖節(カトリックの諸聖人の日)の前夜に行われる。
《クリスマス》は、イエス・キリストの誕生を祝うキリスト教の祭日だ。
 そして《バレンタインデー》は、キリスト教の聖人・聖バレンタインにちなんだイベントで、欧米では恋人同士がプレゼントを贈り合う日となっている。

 すなわち、これら《夷狄の3冠王》は日本が戦争に負けて以後、占領軍とともに入ってきたもので、「日本の歴史と文化」とは何の関係もないのである。

《夷狄の3冠王》が悪いというのではない。
 クリスチャンを批判しているのでもない。
 無節操に浮かれる日本人に対して、抵抗感を覚えるのである。

 文化は「先進国」から「発展途上国」へと伝播していく。
 そういうことから言えば、《夷狄の3冠王》に日本人が浮かれるのは当然だったろう。
 まして日本は、第二次世界大戦に負け、夷狄に占領されたのだ。
「メリークリスマス!」
 と叫んで、アメリカンクラッカーを威勢よく鳴らすしもするだろう。

 その日本が、勤勉刻苦して先進国の主要メンバーにまでなった。
 だが、文化が「先進国」から「発展途上国」へと伝播していくという普遍のセオリーを考えるとき、「お花見」や「お盆」「お彼岸」など日本の伝統的慣習は、どれほど発展途上国でマネされているのだろうか。


 エジプト政変のニュースで、エジプトの青年が街頭インタビューに答えて、こんなことを叫んでいた。
「これからエジプトも頑張って、ジャパンのようになるんだ!」

 その日本はいま、不景気に喘(あえ)ぎ、忍び寄る無縁社会に悲鳴をあげている。

投稿者 mukaidani : 07:23

2011年02月13日

「名字制定記念日」に夫婦別姓を考える

 いまから136年前の1875(明治8)年2月13日、明治政府によって「平民苗字必称義務令」が布告された。

「すべての国民は苗字(姓)を名乗れ」
 と義務づけたのだ。

 したがって今日、2月13日を「苗字制定記念日」という。

 周知のように江戸時代まで、苗字を使えるのは貴族と武士、そして庄屋や名主など一部の有力庶民に限られていたが、明治維新によって「平民」も苗字を持つことが認められた。

 これは命令ではなく、
「名乗ってもよい」
 ということなので、
「苗字なんざ、いらねぇや」
 と、平民はあえて名乗ろうとはしなかった。

 というのも、国民は明治新政府を信用しておらず、
(これは税金を課すなど、何か魂胆があるに違ぇねぇ)
 と疑ったのである。

 それで、業を煮やした明治政府が「義務」として命じたため、国民はアワを食って適当な苗字をつけたという次第。

 さしずめ、私の「向谷」という苗字は、たぶん向かい側に谷でもあったのだろう。
 そんなことを思いながら苗字を考えると、楽しくなってくる。


 いま「夫婦別姓」が論議されている。

 賛成派は、
「男女不平等感」
「アイデンティティの喪失」
「仕事上におけるキャリアの断絶」
 といったことを主張する。

 一方の反対派は、
「家族の絆(きずな)の薄弱化」
「一人っ子同士の結婚の場合、家名が途絶えてしまう」
「子どもに悪い影響を与える」
 と、こちらも譲らない。

 だが、私が不思議に思うのは、「姓」というレッテルより以前に、
「家族」「子育て」
 という大問題があるにもかかわらず、大きな論議になっていないということだ。

 つまり、育児放棄や虐待などの社会問題が、「夫婦別姓」ほど熱気を帯びて論議されないのはどうしてなのか、という思いである。
「夫婦別姓」の論議に、思想的な背景があると考えるのは私だけだろうか。


 動物には「姓」も「名」もない。
 そんなレッテルと無縁の世界に生き、命がけで子供を育てている。
「それは種の保存本能だ」
 と、したり顔で言ってはなるまい。

 私たち人間は「種の保存本能」さえ、失おうとしているのだ。

 今日が「苗字制定記念日」と知って、そんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 07:48

2011年02月12日

依存症という病気

 覚醒剤取締法違反で、タレントの小向美奈子容疑者のことが連日、報道されている。

 逃亡先のフィリピンと日本間とでは、国外逃亡した犯罪者を引き渡す国際条約が締結されていないため、永住すら可能だという。

《小向容疑者は、いま限りなく〝安全圏〟にいる》
 と報じたメディアもあるが、本当に〝安全圏〟なのだろうか。

 フィリピンにいれば、覚醒剤を断つことはできまい。
 彼女にとってフィリピンは〝安全圏〟ではなく、廃人にしてしまう〝地獄〟と言っていいだろう。

 まだ25歳。
 人生は、これからが長いのだ。
 帰国して罪を償い、覚醒剤を断ち切って欲しいものだ。


 私はいま、アルコール依存症の青年とつきあっている。
 くわしい経緯は記せないが、保護司活動を通して知り合った青年だ。

 気のいい青年で、いっしょにお茶を飲んでいると、私も楽しくなる。

 だが、アルコール依存に苦しんでいる。
 心底、苦しんでいる。
 酒を断とうとしても、コンビニを見ただけで、衝動的に中に駆け込んで酒を買ってしまうのだと気弱な笑みを浮かべる。

 私のような〝健常者〟でさえ、酒を断つのは大変なのに、依存症という〝病気の人間〟が断酒するのは至難のワザだろう。

 だが、いかに至難であろうとも、酒を断たねば人生を失う。
 アルコール依存症だった私の古い友人は、数年前、みずから命を絶った。

 小向美奈子さんの報道を目にしつつ、人間が生きていくことの大変さを考えてしまうのである。
 

投稿者 mukaidani : 08:54

2011年02月11日

「篠笛」から「龍笛」に心変わり

 一念発起、ピーヒャラと「篠笛(しのぶえ)」を始めようと、このブログに書いたところ、
「ちょっと待て!」
 と、大分県在住のU氏からメールをちょうだいした。

 U氏は4年前、得度習礼で同じ班になった〝戦友〟で、私より年長者。人生の先輩である。

 そのU氏が、
「篠笛をやるなら、龍笛(りゅうてき)にしなさい」
 とおっしゃるのだ。

 ちなみに龍笛とは、雅楽の楽器(横笛)で、2オクターブという広い音域をもち、
「舞い立ち昇る龍の鳴き声」
 とたとえられることから「龍笛」。

 U氏は雅楽をやっておられ、龍笛を能(よ)くする方だ。

 ピーヒャラの祭り囃子も悪くはないが、私の好みからすれば、やはり「龍の鳴き声」である。

(よし!)
 と、いうわけで篠笛をやめ、本日、龍笛入門セットを通販で注文した次第。

 独学では難しかろうとわかってはいるが、とりあえずやってみよう。
 習うのはそれからのことだ。


 朝方、霙(みぞれ)混じりだった雨が、いまは雪に変わっている。
 今日は建国記念日。
 龍笛という伝統芸能を思い立ったのも、何かの縁だろうか。
 日本文化の素晴らしさを、いま一度、見直してみたいという思いが、私の心の隅にあるのかもしれない。
 

投稿者 mukaidani : 10:18

2011年02月10日

「ニットの日」と「稽古着の破れ」

 今日は「ニットの日」だ。
 2月10日で「ニット」。
 語呂合わせである。

 神奈川県の編み物教室や編み物学校で組織する「横浜手作りニット友の会」が1988(昭和63)年に制定し、1994(平成6)年に日本ニット工業組合連合会が全国的な記念日として制定したものだ。

 昨年の記事を見ると、全国各地の手芸店でニットのイベントが開催され、編み物に自信のない人でも丁寧に教えてくれたとあるから、今年も各地で開催されるのだろう。

 編み物といえば、あの歌である。

「母さんが、夜なべをして、手袋編んでくれた・・・」

「夜なべ」なんて、いい言葉ですな。
 これが「徹夜」だと、残業のようで雰囲気がでない。やはり「夜なべ」でなくちゃ。
 メロディーと相まって、いくつになって聞いても、胸にジーンとくる歌である。

 母さんだけでなく、若い娘さんもバレンタインデーを目前に、彼氏のためにせっせと手編みのマフラーを編んでいることだろう。

 だからか、編み物は趣味としても人気のようだが、裁縫はどうなんだろう。

 というのも、前々から気になっているのだが、道場で、稽古着の膝が破れたままになっている子供を、ちょくちょく見かけるのだ。
 稽古着の乱れは、心の乱れにつながる。
 だから、
「縫ってもらいなさい」
 と、心を傷つけぬよう、やさしく注意する。

 ところが、いつまでたっても縫ってこない子が、これも少なからずいるのだ。

 稽古着を洗濯するときに、膝の破れに当然、親御さんは気がついているだろう。
 いや、たいてい稽古着で通ってくるから、家を出る前に親御さんは膝の破れを目にしているはずだ。

 それでも縫ってこない。
 ミシンが使えないのか、破れたままで平気なのか、そのうち新しく買うからいいと思っているのか。あるいは、ひょっとして気にならないのか。

 それぞれ事情もあるだろうが、親御さんの気持ちがわからず、私は戸惑いつつも、
(「夜なべ」しなくても、ミシンですぐ縫えるだろうに)
 と、「ニットの日」に思ったりするのである。

投稿者 mukaidani : 06:17

2011年02月09日

「そうだ、横笛を吹こう!」

 唐突に、横笛をやってみたくなった。
 祭りのときに吹く「篠笛(しのぶえ)」である。
 経験はない。
 ただ、何となく吹いてみたくなったのだ。
 和服に篠笛。
 ピーヒャラ、ピーヒャラ・・・。
 想像しただけで、何と粋ではないか。

 問題は愚妻である。
 了解を取っておかなければ、何だかんだケチをつける。
 ケチをつけられれば、私といえども気が散るのだ。

「横笛をやろうかと思うが、どうだろう」
 とストレートにもちかけるようでは、とても了解は得られない。

 で、どうやったか。
 ご参考までに、《交渉術》と《実戦心理術》を何冊も書いてきた私の〝実体験〟をご紹介しよう。


「おい」
 と、晩酌に熱燗をグビリとやっている愚妻に言う。

「なに?」
「小鼓(こつづみ)をやってみようかと思うが、どうだろう」
「あら、あれは難しくて、ちゃんと音が出ないのよ」
「そんなに難しいか」
「ええ」
「わしでは無理か?」
「無理ね」
「そうか・・・」

 猪口(ちょこ)に酒を注ぎ足してやりながら、
「しかし、そうかと言ってトランペットというわけにはいかんしな。あれは音がうるさい」
「うるさいより、音を出すのが大変だわよ」
「そうか。困ったな、サキソフォンは高価だろうし・・・。おっ、そうだ! 笛だ、篠笛ならどうだ!」
「そうね、いいんじゃないの」
「しめた!」
 とはもちろん口に出さないで、ポーカーフェイス。
 こうして愚妻をチョロまかした。

 このやり方を、名づけて《敵は本能寺作戦》という。
 相手をじわりと話に誘い込み、手のひらに乗せ、そして手のひらの上で転がすのである。


 そこでさっそく、篠笛について調べてみた。
 篠笛は、篠竹という竹でつくられていて、洋楽器でいえばフルートと同じようなもの。中国より伝来し、祭事などを通じて日本の社会に密着しながら、大衆芸能の笛として継承されてきたという。

 そういえば、子供のころ、お寺の境内に大人が集まり、祭りの稽古をしていたことを思い出した。あのときの篠笛の音色を、記憶の彼方に探してみる。

(よし、篠笛を買おう!)
 と、さっそくネットでショップを探し始めたところが、
「自分で買うんでしょうね」
 愚妻がサラリと言ってのけた。
「まさか!」
「それから練習は道場でやってよね」
「バカな・・・」

 自分で買って、道場で練習するなら、愚妻の了解など取る必要はないではないか。
 何のための《敵は本能寺作戦》だったのか。

 私たち夫婦は、この4月で結婚37年になる。
 お互い、手の内は百も承知。
 敵もなかなか手強いのだ。

投稿者 mukaidani : 09:49

2011年02月08日

半世紀前のロカビリー旋風

 今日は、第1回「日劇ウエスタンカーニバル」が開催された日だ。
 初日だけで9千500人、1週間で4万5千人を動員。これを契機に日本はロカビリー旋風が吹き荒れることになる。

 芸能界に関する資料をネットで調べていたら、ひょっこりそんな記述に行き当たった。


 いまから53年の昭和33年2月8日のことで、当時、8歳だった私に記憶はもちろんないが、その熱狂ぶりについては、昭和の懐古番組などで何度か観たことがある。

 だからロカビリーのことは直接には知らないのだが、週刊誌記者時代、「ロカビリー3人男」のひとりである山下敬二郎さんにインタビューしたことがある。

 山下敬二郎さんは今年の1月5日、胆管ガンによる腎不全のため71歳で亡くなられたが、享年から逆算すると、インタビュー当時、山下さんは40歳前だったろうか。

 赤坂東急ホテルに部屋をとってインタビューした。

 芸能人はこれまで、それこそ数え切れないくらいインタビューしてきたが、そのなかでも山下さんは印象に残る1人だ。


 山下さんの父親は、落語家で喜劇俳優の柳家金語楼で、金語楼は国民的人気者だったが、彼は真顔でこう言った。
「金語楼の息子が山下敬二郎じゃなく、山下敬二郎の父親が金語楼なんだ」

 往年の人気はすでになかったが、この強烈なプライドに私は引き込まれたものだった。

 そしてインタビューの途中で彼は立ち上がり、何気なく窓辺から下を見やって、
「あっ、ジャガーのEタイプだ!」
 と感嘆の声をあげた。

 私も立ち上がって見下ろすと、白いジャガーのオープンカーがホテルの玄関前に停まったところだった。

「いいな、カッコいいな。オレ、あれが欲しいんだよ」
 と、目を輝かして早口に言った。

 まるで少年のようだった。

 強烈なプライドと、少年のようなあどけなさ。

(この人は、ウェスタンカーニバルで超人気者になって以後、まったく歳を取っていないのではないか)
 ふと、そんなことを感じたものだった。


 ロカビリーに熱狂した女性たちは、熟年世代になっている。
 このお婆ちゃんたちの目には、いまジャニーズ系のアイドルグループに黄色い声援を送る少女たちの姿が、どう写っているのだろう。
 若かったころの自分を見るか、それとも眉をひそめるのか。

 今日が、第1回ウエスタンカーニバルの日だと知って、そんな思いがよぎるのである。 

投稿者 mukaidani : 06:33

2011年02月07日

志を高く掲げる

《現実》は《志(こころざし)》を超えてはならない」
 私が好んで使う言葉だ。

(あッ、ラッキー!)
 というのは、ラッキーなのではなく、単に《志》が低いだけなのである。

 だから、
(あッ、ラッキー!)
 と思う自分を、私は反省する。

 だが、そういう生き方は、自分で鼻先にニンジンを鼻先にぶら下げ、それを自分で追いかけるようなもので、《志》は《現実》によって満たされることはない。

 楽ではない。

 楽ではないが、
「満たされざるのが人生だ」
 と自分に言い聞かせれば、それはそれで、また別の楽しさがあるのだ。
《現実》に《志》が妥協してはならない。


 今朝も未明に道場の仕事部屋に向かった。
 夜空が明けていくからだろうか、明け方の星は遠くに見える。
 冬の寒さは峠を越えたようだ。

投稿者 mukaidani : 06:32

2011年02月06日

メダカと駄犬と愛憎違順

 メダカが、朝の餌の食いが悪い。
(ハハーン、寝起きだからな)
 と理解はしていても、おもしろくない。

 メダカが可愛くないのだ。

「ワーッ、エサだ!」
 と言わないまでも、エサに食らいついてくれば、私もうれしくなる。

 あるいは、わが家の駄犬の〝マック爺さん〟。

「おい、寒いからコタツに入れ」
 と、コタツの中に入れてやろうとすると、
「ウー」
 と、四股を突っ張って唸る。

「こら、駄犬! 私のやさしさがわからんのか。入れ!」
「ウー」
 かたくなに自己主張するのだ

「まったく駄犬とはしょうがないものだ」
 私が毒づくと、
「入りたくなんだから、放っておきなさいよ」
 と愚妻が〝マック爺さん〟の肩を持つ。

「バカ者。老い先短い駄犬が可哀想だと思うから、コタツに入れてやろうとしているのだ。その慈悲の心がわからんとは、畜生とは何と愚かな生き物であることか」
「あなたは、マックが自分の言うことを訊かないから怒っているだけじゃなくて」

 たまには鋭い指摘をするではないか。
 私は感心しつつ、
「人間の身勝手さをあらわすのに、愛憎違順(あいぞういじゅん)という言葉ある」
 と説法を始めた。

「愛憎違順とは、『自分の心に順(したが)う者に親愛の情をいだき、違(たが)う者には瞋(いか)りや憎しみをいだく』という意味で、人間の愚かさを言うのだ」
「ちょっと」
「何だ」
「人ごとみたいに言わないでよ。それって、あなたのことでしょう」

 愚か者は、私が我が身をもって愛憎違順を示していることに気がつかないのである。


 

投稿者 mukaidani : 09:25

2011年02月05日

「ヤバイ、痛風だ!」

 畑はいま〝冬休み〟である。
 先日、堆肥を混ぜて、フーフー言いながら耕した。
 ジャガイモの準備に取りかかる2月中旬まで、畑は休み。
 人間も畑も、寒さに身を縮めている。

「やれやれ」
 と、のんびり過ごした今朝のこと。

 自室でひと仕事をしてから、朝風呂に入ろうと階段を下りかけたところ、
 チクリ
 と、針で刺したような痛みが左の足首に走った。

(ヤバ!)

 痛風である。
 発作の前兆である。
 私のように痛風のベテランともなると、チクリだけで即座にわかるのだ。


 足首を見やると、リンゴのように赤くなっている。
 痛風の経験がある方ならご存知だろうが、これが何とも言えず、きれいな赤色なのである。

《赤いリンゴに口びるよせて、だまってみている 青い空》
 と歌う、あのリンゴは、きっとこんな色だったのだろう。

 もっとも、この歌は、
《リンゴ可愛(かわ)いや可愛いやリンゴ》
 と締めくくるが、痛風は、とても可愛くはないのである。


 私はすぐさま愚妻を呼ぶ。
 何しろ私は、「鎮痛剤アレルギー」なのだ。
 痛風が本格的に痛み始めたらヤバイ。
 火事と同じで、初期消火が勝負なのだ。

「どうかしたの?」
 愚妻が階下に降りてきて、アクビを噛み殺しながら言う。

「痛風だ。利尿作用のクスリを出せ」
「だから言ってるでしょう!」

 愚妻はキッと目をつり上げて、
「このところ、ちっとも水を飲まないって、きのうも言ったばっかりじゃないの」
「バカ者。水を飲んで痛風にならないのであれば、痛風のクスリは不要ということになるではないか。しかるに痛風の薬が存在することは、水を飲んでも痛風には基本的に効果がないと・・・」
「何をくだらないこと言ってるのよ! 痛風の本にも、水分をたくさんとれって書いてあるじゃないの」
「議論はあとにして、はよう薬を出してくれんか」

 かくして〝初期消火〟に成功。
 事なきを得たのである。


 しかし、鎮痛剤の大半においてアレルギーが出るとは、マジにヤバイではないか。

 水を飲もう。
 しっかり飲もう。
 こればっかりは、愚妻に白旗をあげた朝であった。
 

投稿者 mukaidani : 10:15

2011年02月04日

世も末の時代を「末法」と言う

「ホンマにもう、政治家は何をやっとるんかのう」
 先夜のこと。
 テレビで連日の国会中継を見ていて、88歳の映芳爺さんが怒っていた。
「国民が大変なときに、小沢がどうした、あれがどうした、これがどうした言うて、身勝手なことばっかりやっちょる」

 88歳を怒らせるくらいだから、与党も野党も、どうしょうもないということか。

 愚妻も、
「エジプトのように、日本でデモが起きなのかしらねぇ」
 と、物騒なことをさらりと言ってのける。

 まさに時代は「末法(まっぽう)」である。

 仏教では、釈迦の立教以来千年(五百年とする説もある)の時代を「正法(しょうぼう)」、次の千年を「像法(ぞうぼう)」、その後一万年を「末法」とし、「末法」の時代になると、釈迦の教えが及ばなくなるとする。

 要するに「末法」とは、
「世も末(すえ)」
 と言うことで、日本では平安中期から末法の時代に入ったとされる。

 そこで、末法の時代になると、人間と時代はどうなるか、

 少し長くなるが、拙著『親鸞の言葉』を以下に転載させていだく。

            *

 僧侶が京都祇園のクラブで泥酔しても、
「坊(ぼん)さんも人の子やさかい、飲めば酔いまんがな」
 と大目に見てもらえる。

 教師が性的ハレンチ罪を犯せば、非難囂々(ごうごう)で法的処罰を受けはするものの、
「まっ、教師も人の子ってことさ」
 と世間は妙な納得をする。

 選良であるはずの政治家の不正行為に対しても、
「政治家も人の子だ。そのくらいのことはやるだろう」
 と、驚く人もいない。

 社会的な立場にありながら、「人の子」というひと言で世間は納得してしまう。
 これが現代社会ではないだろうか。

 七百五十年前の昔、親鸞聖人はこんな和讃を詠(よ)んだ、


  五濁(ごじよく)邪悪(じやあく)のしるしには
  僧(そう)ぞ法師(ほうし)といふ御名(みな)を
  奴婢(ぬひ)僕使(ぼくし)になづけてぞ
  いやしきものとさだめたる


《五濁》とは、末世(まつせ)において現れる避けがたい五種の汚れのことで、飢饉(ききん)・戦争といった社会悪の増大や、思想の乱れ、煩悩が盛んになることなどを言う。

《奴婢僕使》は下男下女など身分の低い者のことで、
「時代が邪悪な末世に入った証拠として、僧侶や法師という貴い名が下男下女の呼び名として用いられている」
 と親鸞は歎(なげ)くのだ。

 たとえば、小僧・若僧・洟垂(はなた)れ小僧など卑(いや)しめる言葉に「僧」の字が用いられ、また、もともとは「住職」の意味であった「坊主」という呼び名も、クソ坊主・生臭さ坊主・乞食坊主など、僧侶をバカにする言葉になっている。

 親鸞は、《五濁》の象徴として僧侶を引き合いに出すことによって、
「坊さんも人の子」
 と蔑(さげす)まれる堕落ぶりを歎いているのではないだろうか。

 これを現代社会で考えるなら、教師、政治家、警察官、弁護士、親など社会的立場にある人間は、「人の子」という逃げ口上は赦(ゆる)されないということになる。
 社会も赦してはならない。

 ところが現状はどうだろう。

「わしも人の子や」
 と僧侶が公言し、
「まっ、坊さんも人の子やさかい」
 と世間も赦す。

「教師も労働者であり、人の子に変わりはない」
 と教師が公言し、世間もまた、
「先生も人の子さ」
 と受け入れる。

 そんな社会が健全であるわけがない。
 社会的立場にある人は粛然と襟(えり)を正し、世間もまた襟を正すことを強く求めるべきだ。ケジメのない〝なあなあ〟の社会は、《五濁》のごとく濁った社会ではないかと、親鸞聖人の和讃に考えるのである。
(以上)

            *

 映芳爺さんはもちろん、愚妻も私の著書など読んだことはない。
 だから、上記の「五濁悪世」について話して聞かせ、
「だから民主党の議員は命を賭けて政治を担(にな)わなければならない。失政をおかせば、国民は堂々と〝腹を切れ〟と求めるべきでなのである」
 と説いた。

 二人とも「五濁悪世」の解説にはアクビを噛み殺していたが、
「政治家は腹を切れ」
 という一言だけは、
「ほうじゃ!」
「そうよ!」

 キッパリと賛意を示したのであった。

 

投稿者 mukaidani : 11:14

2011年02月03日

「鬼は外、福は内!」

 本来、「節分」とは、「季節を分ける」という意味で、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日を言う。

 いま「節分」は、立春(2月4日ごろ)の前日に限って用いるが、これは江戸時代以降のこととされる。

ちなみに「豆まき」は、季節の変わり目には邪気が入りやすいとされ、その邪気を払うために豆をまいたのである。


「鬼は外、福は内!」
 子供のころ、私も高らかに声をあげて豆をまいたものだ。

 何歳のときだったか忘れたが、生来、天の邪鬼(じゃく)の私は、
「福は外、鬼は内!」
 と、わざと逆にコールし、おふくろに怒られた記憶がある。


 長じてからは、「鬼は外、福は内」とは、何と人間は欲張りなことであろうかと、憤怒するようになった。

「わが家から鬼を追い出せばいい」
「わが家に福がくればいい」
 というのは、まさに身勝手。

《福》は「わが家」だけでなく、すべての家庭にもたらされるべきで、鬼もまた、仲よく暮らしてこそ、私たちは幸せになるというわけだ。

 それで、私の子供二人がまだ小さかったころ、
「豆まきはエゴの慣習ゆえ、わが家は厳禁する」
 と申し渡したところ、家族から非難囂々。

「ちょっと、バカなことばっかり言わないでよ」
 愚妻が柳眉を逆立てたものだ。


 昨夜、そのことを愚妻に話すと、
「そんなこと、あったかしらねぇ」
 つまらなさそうに言ってから、
「あなたのことだから、何があっても不思議はないわね」
 と、憎まれ口を叩いた。
 今夜は〝鬼妻〟に豆をぶつけてやるか。

投稿者 mukaidani : 10:16

2011年02月02日

朝風呂と仏教語

 朝、風呂のなかで、ハチ蜜入りの紅茶とクラッカーを食べる。
 クラッカーに理由はない。
 先日までビスケットだったが、厭(あ)きただけである。
 ビスケットの前はかりんとうで、さらにその前は〝柿のタネ〟に凝っていた。

 おつまみの好みが変わるたびに、コーヒーになったり、日本茶になったり、紅茶になったり、ころころ変わっていく。
 何にするかは前夜、寝る前に決め、愚妻にリクエストしておくと、愚妻はブーブー言いながらもそれらを用意するというわけである。


 ところが今朝、自室でひと仕事して台所へ行ってみると、クラッカーが置いていない。

 愚妻の怠慢である。

 二階に上がり、愚妻の寝室に入って、
「おい、クラッカーがない!」
 と叱責したところ、
「ちょっと、起こさないでよ」

 愚妻がムクれ、駄犬の〝マック爺さん〟がもぞもぞとフトンから顔を出すと、同じように抗議の目で私を見上げる。

 愚かな飼い主と駄犬ではないか。

「もう8時だぞ」
「失礼ね。早い時間から目は醒めているわよ」
「ならば、なぜ起きぬ」
「ウトウトしているのが気持ちいいのよ」

 愚妻の主張を要約すると、朝日が差し始めるとベッド脇のカーテンを引き開け、朝日を浴びながら微睡(まどろ)のが至福の時なのだというのだ。

 まるで、勤労主婦が口にする「日曜日のセリフ」ではないか。
 と、このとき、唐突に『一水四見』という言葉が脳裏をよぎったのである。


『一水四見』とは仏教語で、
「同じ水であっても、立場が変わればまるで違って見える」
 という意味だ。

 水は、人間にとっては「飲み物」だが、天空から見下ろす天人にとっては「水晶の鏡」、魚にとっては「住みか」、そして強欲な生き方をする餓鬼には「膿血」に見えると教える。

 つまり、価値観に「絶対」はなく、それぞれの立場や性格、置かれている環境や境遇によって変わってくるというわけだ。

 愚妻にとって朝日を浴びる寝床は「至福」。

 一方、4時半起きを日課とする私は、深夜まで用事があるときなど不覚にも寝過ごすことがあり、寝床で浴びる朝日は、
(あっ、ヤバ!)

 至福どころか、大あわてである。

 朝日ひとつ取っても、夫婦でこうも価値観が違うのだ。
 人間同士、ツノを突き合わして生きるも当然だろうか。

 お互いが相手を思いやるとは、双方の価値観の相違を受け入れ、認め合うことだ。

 愚妻よりも、私の価値観のほうが立派であると確信はしているが、これからは愚妻の価値観も少しは認めなくてはなるまい。

 まさか、クラッカーから仏教語を思い浮かべようなど、思いもしなかった朝である。

投稿者 mukaidani : 09:22

2011年02月01日

「武士の家計簿」と「電卓」

 今日から2月だ。

 陰暦で「如月(きさらぎ)」と言う。

 如月の語源は諸説ある。


 寒さのため衣(ころも)を重ねて着ることから「着更着(きさらぎ)」。

 気候が次第に陽気になっていくことから「気更来」(きさらぎ)。

 さらに、草木が生え始める月であることから「生更木(きさらぎ)」


 どれも風情があっていいですな。


 風情ある季節に逆らうようだが、私は小さな電卓とノート、筆ペンを持ち歩いている。

「エー、昼飯代が・・・」
 と、たとえばファミレスで、さらさらと書きつけるのだ。

 家計簿である。

 先日、ご紹介したが、映画『武士の家計簿』を見て、えらく感激し、
(よし!)
 と思い立ったのである。

 この映画のストーリーを書くと長くなるので、
《刀でなく、そろばんで家族を守った武士がいた》
 というキャッチから推測していただきたい。

 ちなみにキャストは、堺雅人、仲間由紀恵、中村雅俊、松坂慶子、西村雅彦、草笛光子といった面々で、笑いあり、涙あり。なかなか面白かった。

 で、私も主人公のお侍さんにならって、家計簿をつけてみようと思い立ったわけである。

「おい、ソロバンはないか」
 愚妻に命じると、
「あなた、ソロバンができるの?」
「電卓でいい」

 そんなわけで、スーパー銭湯へ行っても、
「エー、ソフトクリームが2つで440円」
 筆ペン片手にさらさらと書きつけるのである。

 面白い。
 実に面白い。
「これ、家計簿がこんなに面白いものとは思わなかったぞ」
 武家言葉で愚妻に告げると、
「あなたは、遊びでつけるだけだから面白いのよ。主婦は家計簿を見て溜め息をついているんだから」
 いや、ごもっとも。

 私の2月は、こうして始まったのである。

投稿者 mukaidani : 08:24