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2010年10月28日

まさか雨が降っていようとは

 今日は稽古がないので、道場の仕事部屋に行かず、自宅二階の自室で終日、原稿を書いていた。
 夕方になって、にわかに風呂へ行きたくなったので、
「おい、行くぞ。支度(したく)だ」
 と階下の愚妻に携帯電話をかけ、階段を降りて驚いた。

 雨がザーザー降っているではないか。

 自室は、外の明かりがパソコンのモニターの反射するのでカーテンを閉めきっているし、お茶やコーヒーは階下の愚妻に携帯電話をかけて運ばせるので、部屋から出るのはトイレだけ。

 それで、不覚にも雨に気がつかなかったというわけである。

 愚妻も風呂好きなので、上機嫌で支度している。
「雨だからやめた」
 と言えば、頭からツノが飛び出てくるだろう。
 気が乗らないまま、ノートパソコンと資料を持って風呂へ行った次第。

 客は当然ながら少なかった。
 私が大好きな露天風呂は、雨で入れない。
(こんなことなら、家の風呂でメロンを食べながら雑誌でも読めばよかった)
 休憩室で仕事をしながら後悔しきりであった。

 不用意な言葉は自分を苦しめることになる。
 諸賢、ご用心を。

投稿者 mukaidani : 22:24

2010年10月26日

「裏切り」の本質を考える

 日刊ゲンダイから電話取材があった。
 以前、取材を受けたK記者からで、「上司に裏切られる」がテーマだった。
 K記者はとても質問上手なので、こういう取材は楽しく、話しも弾むのだ。

 で、先ほどのこと。
 稽古が終わって帰宅し、風呂に入ると、いつものようにいろんな思いが頭を駆けめぐり、
「裏切りとは何か」
 ということについて改めて考えてみた。

 たとえば上司が、
「キミを課長に引き上げる」
 と言って課長にしてくれなかったら、これは「裏切り」というよりも、「騙(だま)し」である。

 そうではなく、
(この上司に一所懸命つくせば課長にしてくれるだろう)
 と期待し、滅私奉公で仕えた結果、課長に引き上げてくれなかったら、これは「騙された」ではなく、
「期待を裏切られた」
 ということになる。

 つまり「裏切られた」の本質は、「自分の期待に裏切られた」ということではないのか。

 そんなことを、つらつら考えていると、「期待」のないところに「裏切り」は存在しないという結論に行き着いた。

 道理で、私は愚妻に裏切られたことがないはずである。
 湯船につかりながら、ひとり合点した次第。

  
   

投稿者 mukaidani : 22:36

2010年10月23日

私はヘソ曲がりなのだろうか

 今日、久しぶりに畑へ行った。
 理由はない。
 ただの気まぐれで、畑指南役の87歳と愚妻を乗っけてクルマで出かけた。

 途中、細い道で、対向車と鉢合わせになった。
 対向車は停まるや、すぐに退がり始めたので、私はクラクションを軽く鳴らして合図し、私のほうがバックしたのである。

 対向車は初老の夫婦。
 頭を下げながら通り抜けて行った、その直後。
 私のクルマの左後部がガガガッとイヤな音がした。
「ぶつかったわよ!」
 助手席の愚妻が、険しい顔で私をニラんだのである。

 そして、こう言った。
「相手がバックしかかったんだから、そのまま進めばいいじゃなの」

 言われてみれば、ナルホドごもっともなことで、
(私はなぜ相手が後退しようするのを制止して、私がバックしたのだろうか)
 この理由が自分でわからず、今日は一日中、バックした理由について頭を悩ませていたのである。

 ところが、先ほど自宅の風呂の湯船に身体を沈めたとたん、
(そうか)
 と、氷解した。

 私は、人の好意に甘えるのがイヤなのだ。
 もっと言えば、お礼を言って頭を下げるのが苦手なのだ。
 だから相手のクルマにバックされると、頭を下げて通り過ぎなければならない。
 そのことが無意識にわかっているから、咄嗟に私のほうで退がったというわけである。

 私は、たとえば馴染みのレストランで、
「よかったらどうぞ」
 と、ちょっとしたものをサービスで出してくれたりするが、そういうのが心苦しいのだ。
「ありがとう」
 と言って頭を下げるのが苦手なのだ。

 反対に、人にサービスするのは大好きだ。
 お礼など言ってもらわなくて全然かまわない。
 むしろ丁重なお礼は相手に精神的な負担をかけたようで、これも心苦しくなるのだ。

 そんな私を、
「おかしな人よねぇ」
 と愚妻はあきれる。
「ヘソ曲がりよねぇ」
 と、揶揄(やゆ)する。

「バカ者、わしが正常なのだ」
 と、これまで嘯(うそぶ)いてきたが、クルマの後部をガガガッとやった今日は、
(ひょっとして愚妻の言うとおり、わしはヘソ曲がりかもしれん)
 と素直に反省した次第。

 だが、愚妻はブツブツ言っているが、ガガガッも、我が身を振り返るキッカケになったと思えば安いものではないか。
 何事も前向きに考えれば、「今日も心は晴天なり」なのである。

 

投稿者 mukaidani : 23:35

2010年10月22日

『人間関係」ということについて考える

「自分の人生は〝他人〟が拓く」
 最近、そんな思いを強くしている。

 自力で人生を駆けてきたように思うが、それは間違い。
 多くの〝他人〟が手をさしのべてくれ、いろんな機会を与えてくれ、知恵を授けてくれて、自分はそれに従って駆けてきただけなのではないか。
 そんなことを考えるのである。

 本を一冊書くにしても、私一人の知恵などたいしたことはなく、編集者が、「あなたは、こんな〝引き出し〟を持っているじゃないですか」
 と、自分が気がつかないでいる〝引き出し〟を開けてくれるから作品として成立している。

 そんなことを考えつつ、これまでの自分を振り返ってみると、「自分の力」なんてものはゴミみたいなもので、すべては〝他人〟が切り拓いてくれた道であることを思い知らされる。

 もっと言えば、よくも悪くも、自分の人生は〝他人〟が握っているということなのだ。
 そう思えば、周囲の人を見る目も変わってくるだろう。

「人間関係を大切する」
 という言葉には、そう意味もあるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 10:40

2010年10月21日

「面白い=売れる」とは限らない

 マージャンをやる人ならわかると思うが、マージャンの技術には「うまい」と「強い」がある。

「うまい人」は、相手の捨て牌(パイ)からテンパイを見破り、丁重にまわし打ちしていく。
 後ろで見ていて、
(うまい!)
 と感嘆するが、トータルでは負けている。

 反対に「強い人」は、危険牌でも「エイ、ヤー!」と勝負し、強引にアガっていく。
 技術的にはうまくないが、トータルでは勝っている。

 つまり「技術」は「結果」に比例しないということだ。

 空手においても同じだ。
 上手だからといって、試合に勝てるとは限らない。
 反対に、技術はヘタでもファイトで強引に勝ちにもっていく選手は少なくない。

 出版の企画も同じで、編集者と打ち合わせをしていて、
「それ、おもしろい!」
 と、ノリノリでも、
「売れるか?」
 となると、沈黙である。

 そんなわけで、「面白い企画」「書きたいテーマ」と「売れる企画」は同じではないということなのだ。

 今日も編集者と打ち合わせがある。
 いつものように「面白い企画」で盛り上がり、「売れる企画」で頭を悩ますのだろう。
 


投稿者 mukaidani : 11:31

2010年10月19日

恐怖の曜日

 私には恐怖の曜日が二つある。
 火曜日と土曜日。
 夕方5時から、「幼児・小1」の稽古があるのだ。

 現在、このクラスは16名。
 しかも、この年ごろは個人差が大きく、運動神経も、体力も、精神年齢もバラバラ。

 遊ばすのは簡単だが、彼らを統率して空手を教えるとなると、これは大変な労力を要するのだ。

「こらッ!」
 と一喝しても、聞く耳は持たず、
「おっ、上手だね」
 と、おだてて得意になるのはものの数分で、たちまち厭(あ)きてしまう。

 まっ、サッカーや野球、水泳と違って、空手の稽古がそう面白いわけがなく、それも当然だろうと納得しつつも、指導者として放っておくわけにはいかない。

 で、考え出したのが「競争」である。
 誰が上手か、競わせるのだ。
 個人でも、チームでも、彼らは嬉々として、そして本気で頑張るのである。

 動物界も、植物界も、生きとし生けるものはすべて、「種の保存」という本能を備えている以上、競争は本能的なものだ。
 だから子供たちも無意識に頑張るのだろう。

 このことに対する仏教的見地は措(お)くとして、生きることは、すなわち競争なのである。

 ところが、いまの教育は「競争」ということを極端に排除している。
 果たしてそれは正しいことなのだろうか。
 あれこれ考えさせられ、「幼児・小1」のクラスは心身ともに疲れるのである。

 昨日も、幼児3人をつれて見学に行きたいと、母親から電話があった。
「どうぞ」
 と返事しつつも、にわかに恐怖心がもたげてくるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 13:23

2010年10月18日

そうだ、京都へ行こう

 そろそろ今年の仕事も、店じまいの時期になってきた。
 11月に『親鸞の言葉/明日を生きる勇気』が出て、年内の刊行はたぶん終わるだろう。

 と言っても、来年刊行に向けていつくか企画が進行しているので、執筆は継続。
 例年どおり、年末年始もパソコンに向かうことになりそうなので、ひと息つく11月は、紅葉を見に京都へ行くことにした。

 楽しみにしていた庭のアサガオはついぞ見られず、大好きなコスモスも、見る時間がないままシーズンを終えようとしている。
 ならば、せめて紅葉だけでも見たい、というわけである。

 私が加入している保険屋さん(女性)が京都通で、2泊3日でまわるコースを作ってくれた。

 添乗員として、愚妻が同行する。

 私はこれまで京都には数え切れないほど行っているが、飲み歩いてばかりで観光地はほとんど知らないし、地図を見て歩くほど酔狂ではない。

 ゆえに、京都のガイドブックを愚妻に買い与え、
「あとはまかせるから、よきにはからえ」
 と昨夜、しかと申しつけたところが、
「文句言わないでよ」
 バチ当たりなことを言うのだ。

「バカ者。文句は言われるほうが悪いのだ」
 たしなめたところが、
「私はあなたに対して山ほど文句を言いたいんだけど、これは、文句を言われるあなたが悪いということになるわけね」
 昨夜も元気に〝減らず口〟を叩くのである。

投稿者 mukaidani : 06:05

2010年10月15日

胃は「異常なし」

 胃の検診結果は、愚妻も私も異常なし。

 私においては、当然の結果である。

 だから、町医者を出たところで、愚妻にそう告げると、
「私だって異常なしだと思ってたわ」
 と、私に対抗するように言う。

「なぜそう思う」
「胃の調子が悪くないもん」
「バカ者が、調子が悪くなってからでは遅いのだ」
 一喝して、
「いいか、わしが死ぬまで生きておるのだぞ」

 すると愚妻は、眉毛を逆立てて言い放った。
「意地でも、あなたより長生きします」

 還暦以後の人生は早いと、諸先輩が口をそろえておっしゃる。
 ならば、あとは野となれ山となれで大暴れするか、それとも良寛さんのように心身脱落のマネごとをして暮らすか。
 人生自在型を自認する私としては、還暦以後をどう生きるか考えるだけでワクワクしてくるのだ。

投稿者 mukaidani : 23:13

2010年10月14日

明日は健康診断

 明日は市の健康診断で、近所の町医者に行って胃の検査をする。

 そんなものがあるとは知らなかった。

 いや、健康診断という制度があることは知っていたが、毎年、我が家にその通知が来ていたことを、最近になって知った。

 それも、たまたま先月、大学病院の医師から、
「健康診断は地域の町医者でやり、そこで手に負えない検査を大学病院でやるのです。毎年、健康診断の知らせが行っているでしょう?」
 と言われたからだ。

「いや、知りませんな」
 私が答えると、
「まさか」
 と驚いた。

「本当に知らないのです」
「そんなはずはありません。奥さんにお聞きになってください」

 さっそく帰宅して愚妻に尋ねると、
「来てるわよ」
 とノンキな返事。

「なぜ、それをわしに言わんのだ」
「聞かないから」

 こんな不毛のやりとりがあって、明日、胃の検査を受けることになった次第。

 で、今日の夕方。
 会食に出かける私に、愚妻が検査の注意事項を書いた紙を見ながら、
「夜の8時以降は何も食べちゃだめ。10時以降は飲み物もだめですからね」
 と口うるさく言うので、
「では聞くが、おまえの言う飲み物とは、水も含まれるのか」
「当たり前でしょう」
「それはおまえの考えか、それとも水も飲み物に含まれると書いてあるのか。水がだめとなると、ノドが渇いたらどうするのだ」

 こんな不毛のやりとりがあって、愚妻が町医者に電話。
 水も「飲み物」に含まれることを確認してから、
「看護婦さんが、水も飲んじゃダメだって」
 怒っていた。

 そんなわけで、明日は検査。
 朝8時30分からだという。

「早いな。午後にならんのか」
「じゃ、やめたら!」
 いやはや愚妻の怒るまいことか。

 


投稿者 mukaidani : 22:44

2010年10月11日

生きるという「バカバカしさ」

「ブログ、読んでいますよ」
 と言われると、ありがたいと思う。

 そして、次にブログを書くときは、そう言ってくれた人の顔が思い浮かべ、
その人が読んで面白いものを書こうと思う。

 ところが、「読んでいます」をいろんな人から言われると、頭がこんがらかってくる。
 若い人もいれば年配もいらっしゃるし、男も女もいる。
 誰に向けて書けばいいのか、ハタと困るのである。

 かくのごとし、好き勝手に書いているはずのこのブログでさえ、「他人の目」に引きずられているのだ。

 まして、日常生活において「他人の目」を気にせず生きるということは、不可能ということになろうか。

 私から見れば、周囲の人は「他人の目」。
 周囲の人から見れば、私は「他人の目」。
 すなわち、お互いがお互いを気にし、窮屈な人生を送っていることになる。

 そう考えると、何だかバカバカしくなってくる。
 いや、死に向かって走りつづけることを「生きる」とするなら、生きること自体、とてつもなくバカバカしいことではないか。
 ゆえに、人生は大いに楽しむべし。

「わかったか」
 つい先ほど、九十九里の温泉健康ランドに浸かった帰途、愚妻に話してきかせたところが、
「これ以上、あなたに楽しまれたら、たまったもんじゃないわ」
 
 なんとバチ当たりなことを。
 人生のバカバカしさに気づかない愚か者と、私は暮らしているのだ。

投稿者 mukaidani : 20:03

2010年10月09日

保育園の運動会

 今日は保育園の運動会。
 孫が二人通っている。

 しかし、早朝から雨。
「中止だな」
 アクビを噛み殺しながら愚妻に言うと、
「小学校の体育館でやるのよ」
 キッと睨(にら)んで、
「トンズラなんか許しませんからね」

 そんなわけで、娘夫婦と愚妻、87歳の爺さん、そして私の5人が運動会を観た次第。

 爺さんは曾孫(ひまご)が一所懸命走るのを見ながら、目をうるうる。
 私は空腹をおぼえ、
「終わったら、うなぎを食いにいくか」
 愚妻に言ったら、またまたキッと睨んで、
「孫が走っているんだから、黙って見てなさいよ」

 それにしても、子供たちの元気な姿は見ていて楽しいものだ。
 しかし一方で子供の虐待が社会問題になっている。
 境遇はどうあれ、
「どの子も、この子も、すこやかに育て」
 と応援しないではいられない。

投稿者 mukaidani : 16:21

2010年10月07日

ノーベル賞受賞者のコメント

 ノーベル賞を受賞した鈴木章氏(北海道大学名誉教授)のことを、愚妻がしきりにホメている。

「受賞できたのは、学生やみなさんの協力のおかげだ」
 といった意味の鈴木教授のコメントに、いたく感心しているのだ。

「だって、自分が自分がという人間が多いのに、こんなこと、なかなか言えるもんじゃないわ」
 なるほど、そうだ。
 たまには、いいことを言うではないか。

 と思っていたら、
「ダメな人間は、周囲の人のお陰ということがわからないものなのよねぇ」
 話が妙な方向に振れていく。

「好き勝手なことができるのは周囲のお陰だということに気がつかないで、威張ってばかりで」
 鈴木教授のコメントを引き合いに出して、私に対してあてつけているのだ。

 だから、私は言ってやった。
「わしがノーベル賞をもらったら、妻の協力のお陰、駄犬の協力のお陰だと言うだろうが、残念ながらくれそうもないのだ」

投稿者 mukaidani : 17:02

2010年10月06日

パソコンの故障で考える

 ノートパソコンが本日、動かなくなった。
 8月には別のノートパソが壊れているから、2ヶ月ちょっとで2台が壊れたことになる。

「だから高い機種を買うことないのよ」
 と愚妻は鬼の首でも取ったように私を責める。

「バカ者!」
 と怒鳴りたいところだが、立て続けに2台が壊れてみれば、愚妻の言うことにも一理ある。

 そう、パソコンは消耗品なのだ。

 バックアッフを万全にしておいて、最新機種の安いやつを、とっとこ買い換えていくのがいいようである。

 幸い、あと何台か動いているので仕事に支障はないが、機械というやつは意のままに動いてくれるが、突如として故障するから信頼にかける。

 一方、愚妻は決して意のままに動いてはくれないが、故障することがないので信頼はできる。

 さて、どっちが私にとって有用だろうか。

 難問を前に悩むのである。
 

投稿者 mukaidani : 00:36

2010年10月04日

指導とは、何と難しいものであることか

 空手の稽古は週4日。
 幼児から大人まで100名ほど在籍しているので、きめ細かい指導をしたいと思い、稽古日を週4日設定したのである。

 しかも夕方5時から9時まで1日3コマ。4時間の指導である。

 4日稽古で1日3コマだから、週に12コマ、16時間の指導をしていることになる。

 疲れますな。
 肉体的な疲れよりも、精神的な疲れだ。

 大人はともかく、子供たちで本気になって稽古しているのは少数で、多くは〝お楽しみ稽古〟であるからだ。

〝お楽しみ稽古〟であってもいいのだが、困るのは審査会と試合。
 昇段、昇級となれば稽古をしなければならない。
 しかし、稽古はしたくない。
 この二律背反する〝お楽しみ組〟を、どうやって稽古させるか。
 ここに精神的な疲れを覚えるのである。

 技量の未熟な子供を、お情けで進級させることはたやすい。
 しかし、茶帯や黒帯になって、試合で格下にコロリと負けると、試合に出るのをイヤがるようになる。
 試合がイヤになれば、次第に稽古が億劫になり、道場をやめていく。

 つまり、情けで昇進させると結局、ダメになっていくというわけだ。

 さりとて、進級はしたい、稽古はしたくない。
 将棋で言えば、〝王手飛車取り〟のようなもの。
 指導とは、かくも難しいものかと、稽古日のない日曜、月曜の〝連休〟に、あらためて考えるのである。

 

 

投稿者 mukaidani : 02:38

2010年10月02日

保険と健康

 所得保障保険というのに入っている。
 フリーライターを始めたとき、業界の先輩に勧められて加入した。

 病気やケガで仕事ができなくなったとき、掛け金に応じて一定の月額を保障してくれるやつで、
「この商売、頼れるのは自分の身体だけだぞ」
 先輩にそう言われ、
「なほど」
 と思って加入したのである。

 それから37年。
 積極的に解約する理由もなく、何となく掛け続けている。
 掛け捨てだから、掛け金を総計すると結構な額になっている。
 だが、見方を変えるなら、健康でよかったということにもなるではないか。

「そう思わんか」
 愚妻に告げると、
「病気するのはこれからじゃないの」
 ニコリともしないで言った。

 なるほど、言われてみればごもっとも。
 これから先、所得保障金を受け取ることがあるや否や。
 今日の午後、保険屋さんが更新にやってくるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 08:29