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2010年07月30日

スイカと愚妻

 午前6時15分。
 とりあえず脱稿である。
 やれやれ、風呂に入って、週刊誌でも読みながらスイカを食べるか。

 そう思い、隣室の愚妻を叩き起こそうかと思ったが、自重した。
 愚妻は、スイカがあまり好きではないのだ。
 叩き起こして、しかも好きでもないスイカを用意しろといえば、柳眉が逆立つことが目に見えているからである。

 先日もスイカでもめた。
「おい、スイカ!」
 風呂から怒鳴ったら、皿に入れたスイカを持ってきて、ドンと無言で風呂蓋の上に置いた。

「なんだ、その顔は」
「何十年も見てるでしょ」
「おまえという女は結婚して36年、〝すみません〟というセリフを一度も言ったことがないな」
「だって悪くないもの」

 こういう女なのだ。
 スイカは自分で冷蔵庫から出して、風呂に持って行こう。

 でもなァ。
 冷蔵庫を自分で開けたことが、私は一度もないのだ。
 何となく気後れして、スイカは愚妻が目ざめてからにして、とりあえず風呂に入ることにするか。

投稿者 mukaidani : 06:27

2010年07月27日

人生のリバウンド

 九十九里の仕事場にいる。
 いま午前1時25分。
 ノルマとする本日分を書き終えたところ。

 仕事場には土曜日の深夜に来た。
 昨日、一昨日と快晴。
 海まで歩いて10分もかからないのだが、ついぞ部屋から出ることはなかった。
 海水浴を存分に楽しむつもりで、この地を仕事場としたのに、いったい何たることだ。

 8月20日にもう一冊〆切がある。
 それまでの間に、子供たちの空手合宿がある。
 打ち合わせがあって、軽井沢にも行かねばならない。
 26日から2泊3日で、京都で仏教の勉強会がある。
 9月には大人の合宿もある。

 年々、人生の残り時間が少なくなっていくというのに、用事は逆に増えていく。
 50歳を契機に人生のスリム化を始め、贅肉を削ぎ落としたばずなのに、いつまにやら〝肥満〟になりつつある。

(なるほど、人生にもリバウンドがあったか)
 と、そんなくだらないことを考えつつ、そろそろ就寝とするか。

 

投稿者 mukaidani : 01:38

2010年07月23日

敵を愛し、不幸を愛す

 子供の夏カゼがはやっているそうだ。
 昨日、所用であった医者が言っていた。

「病院経営ということからいえば結構なことですが、病気を根絶するという医者としての立場からすれば困ったことです」

 つまり、
「医者は病気を治すが、病人がいなくなれば医者の生活は困る」
 ということで、矛盾の上に自分たちの存在は成り立っているというわけである。

 マジメな彼は「それでいいのか」と悩んでいたが、これは犯罪と警察の関係においても言えること。
 警察は犯罪の根絶を目指すが、犯罪があるから警察官の生計は成り立っているのだ。

《狡兎(こうと)死して良狗(りょうく)煮らる》
 という、よく知られた故事がある。

「すばしこいウサギがいなくなると、猟犬は不用になって煮て食われる」
 ということから、
「働きのある間は使われるが、利用価値がなくなると捨てられる」
 というたとえである。

 つまり「敵」の存在によって、私たちもまた「存在」しているということになる。

 この論理でいけば、「不幸」があるから「幸福」があることになる。

 ゆえに、
「敵を愛し、不幸を愛せ」
 ということになる。

 妙な話だが、そういうことなのである。

「とすると」
 先の医者が言った。
「私は病気を愛すればいいんですね」

「そういうこと」
 私はうなずきながら、やっぱり妙な話だと思うのである。 

投稿者 mukaidani : 11:55

2010年07月20日

試合と、子供の成長

 今日(といっても正確には昨日になったが)、市内の夏期空手道大会があった。

 私の道場から60名ほどの子供たちが出場した。

 みんなにメダルを取らせてやりたいが、そうはいかない。
 勝って喜ぶ子供はいいとしても、負けた子供たちをどう励ますか。
 本部席で試合を見ながら、そんなことばかり考えるのである。

 それにしても、試合をしているときの子供たちは見違えるようだ。
 普段の稽古ではふざけていても、試合に臨むときの顔は真剣そのもので、
 勝敗はともかく、
(結構やるじゃないか)
 と、嬉しく見直すのである。

 武道の試合は1対1で戦う。
 誰も助けてはくれないし、他人を頼ることもできない。
 自分ひとりで恐怖に打ち克ち、頑張るしかないのだ。
 ここに武道の素晴らしさがある。

 そして、子供は試合に出ることで人間としても成長していく。
 勝っても負けても、それなりに何かをつかんで欲しいと、心底、願うのである。

投稿者 mukaidani : 01:51

2010年07月18日

人間は、ひとりぼっちなのだ

 今朝は6時に家を出て、当会横浜支部へ指導に出かけた。

 〆切りで尻に火がついてるが、一ヶ月以上前に約束したことなので、頑張って出かけた。

 支部諸氏の稽古熱心さについ熱が入り、午後に帰宅して気持ちよく午睡をとっていたところが、愚妻に叩き起こされ、
「ちょっと、誕生祝いに出かけるわよ!」
 近所に住む孫の誕生祝いなのだそうだ。

 孫の誕生祝いとあっては、さすがに不機嫌な顔もできず、私は愚妻と爺さんをクルマに乗せて出かけた。

 娘夫婦と愚妻、爺さんはビールで、私はウーロン茶。
「乾杯!」
 とグラスを合わせた瞬間、愚妻が私を叩き起こした理由がわかった。
 私は、ただの運転手役だったのである。

 明日は、市内の空手道夏季大会。
 早朝から出かけねばならない。
 仕事はどうする。

「会場で書けばいいじゃない」
 愚妻が人ごとのように言う。

 そう、人ごとなのだ。
 夫婦といえども所詮、人間はひとりぼっち。

 独生独死独去独来。

 ひとりで頑張るしかないのだ。

投稿者 mukaidani : 18:59

2010年07月17日

早朝4時30分の目覚め

 今朝、庭の物音で目が覚めた。

 水道の水でバケツを洗う音だ。

 時計を見ると、午前4時30分。

 87歳の〝畑指南役〟が、これから畑に出かけるのだろう。
 ガタゴトとうるさいのである。
 私の部屋は、ちょうど水道がある真上の二階なのだ。

 私が結石で難儀したとき、
「無理をせんで、ゆっくり休養したほうがええど」
 と指南役は心配してくれていたはずなのに、早朝4時30分からガタゴトやれば、私の目が覚めるではないか。
 私の身体を気づかったことは、すでに忘却の彼方なのだろう。

 ひと風呂浴びたところへ、愚妻が起きてきた。
「どうしたの?」
 私のイラついた顔を見て言う。

「原稿が予定より遅れているのだ」
「じゃ、遅れを取りもどせばいいじゃない」
 アクビをしながら言った。

 そうだ、私に欠けているのは、このシンプルな人生観ではないのか。
 私は愚妻のアクビを横目で見ながら、人生の一端をさとった思いがしたのだった。

投稿者 mukaidani : 09:09

2010年07月13日

左の腎臓がデコボコだ

 何だかんだ忙しく、ブログを書く時間がなかった。

 で、結石に関して造影剤検査をすると書いたきり、その結果について報告していなかったので、
「どうだった?」
 と、友人たちからありがたいメールをいただいた。

 造影剤検査では、結石は排出されて問題なかったのだが、
「ウーン」
 と若い医者はレントゲン写真を見ながらうなって、
「ほら、左の腎臓が小っちゃいんですよね」
 と、イヤなことを言ったのである。

 なるほど、左の腎臓が右のやつより小さくなっている。

「気になるので、エコーの検査をやってみましょう」
 医者はすぐエコー検査にかかり、
「左の腎臓が凸凹してますねぇ」
「凸凹ですか」
「ガタガタと言ってもいいですけど」

 若い医師は表現が巧(たくみ)で、シロウトの私にも腎臓の状態がすぐに思い浮かんでくるのだ。

「左右アンバランスだとまずいですか?」
 シロウト考えを口にすると、
「アンバランスが問題なのではなく、片方が小さくなった原因が問題なのです」
 
 なるほど、ごもっとも。

 で、結論は、高血圧の影響で腎臓が弱っているとのこと。
「腎臓は悪くなったら治す薬はありませんよ」
 医者のご託宣に、愚妻がそばで大きくうなずいてから、
「血圧の薬、ちっとも飲まないんですよ」
 と〝つげ口〟をする。

 私が医者にかかるときは必ず一緒に診察室に入ってきて、私のことを監視するのだが、たいてい私の悪口になるのだ。

「ご主人、いけませんねぇ。薬はきちんと飲んでくださいよ」
 医者が味方するものだから、愚妻は勝ち誇ったように私を見て、
「ほら、私がいつも言ってるとおりでしょ」
 得意になっているのだ。

 愚かな女だ。
 医者の前で亭主を責(せ)めてどうする。
 私は無言で、小さく溜め息をつくばかりだった。

投稿者 mukaidani : 23:09

2010年07月08日

油断大敵、腹の石

 今日は朝から道場の仕事部屋に籠もって仕事をしていた。

 夕刻、尿意をもよおし、トイレに行くと、小便といっしょに結石がポロリと出た。
 ゴマ粒の半分くらいの大きさである。
 これまで何度も自分の結石を見てきているが、こんなケシ粒で七転八倒するなど、考えてみたら人間の身体というのは精密機械のようなものではないか。
 大事に扱わねば。

 結石が出て気をよくした私は、すぐに愚妻に電話をかけた。
「おい、メシを食いにいくぞ。すぐクルマで迎えに来い」

 で、中華料理屋へ出かけ、
「快気祝いだ。老酒を飲め」
 愚妻をねぎらった。
 私はやさしいのだ。
 酒を断っている私は、もちろん呑まない。

「じゃ」
 愚妻がニンマリする。
 現金なものだ。

「で、明日の検査はシカトするかな」
 私がギョーザを食べながら言う。

「なに言ってるのよ」
 愚妻が、キッとなって、
「レントゲンに写っていた石は一つだけじゃなかったでしょ」

 そうか、そうだった、うっかりしていた。

「薬は飲んだの?」
 愚妻が私の顔をのぞきこむ。
「いや」
「水は?」
「いや」
「どうして?」
 険しい顔になっている。

「忙しくて呑むヒマがなかった」
「いくら忙しくたって薬くらい飲めるでしょう。水くらい飲めるでしょう」
「バカ者!」
 このままではヤバイので、私は反攻に転じる。
「コーヒーを淹(い)れる時間はあっても、水を飲む時間はないのだ。なぜなら」
 と言いかけたとき、左脇腹に違和感が生じた。

「どうしたの?」
「何でもない」
「痛くなったんでしょ?」
「解釈はいろいろある」
「ほら、薬を飲まないからよ!」
 勝ち誇ったように言って、老酒をキッュ。

 やっぱり明日は検査に行こう。
 造影剤を打ってレントゲン撮影である。

 油断大敵、腹の石。
 脇腹の鈍痛を顔に出さず、私は冷麺を食べた。

投稿者 mukaidani : 19:37

2010年07月07日

尿管結石にのたうつ

 今朝、「石」が動いた。

 尿管結石である。

 左脇腹で鈍痛が始まったとき、
(来た!)
 と思った。

 何度も経験しているから、ピンとくるのだ。

「おい、結石だ」
 脇腹を押さえ、愚妻に顔をしかめて見せると、
「早く跳びなさいよ」
 心得たもので、テレビを見ながらノンキな声で言った。

 結石の痛みは七転八倒の苦しみで、最初に苦しんだのは30年ほど前のこと。
 買い物から帰ってきた愚妻は、床でのたうち回る私を見て、
「あら、何してるの?」
 アッケラカンと言ったものだった。

 それから何度となく尿管結石に襲われ、深夜、大学病院の救急外来へ這うようにして行ったこともあれば、入院したこともある。

 やっかいな持病だけに、ズンと鈍痛が走ると、
(来た!)
 とばかり、跳んだりハネたりして石を膀胱に落とすというわけだ。

 空手の稽古で沖縄にいるとき、ズンの鈍痛に襲われ、深夜の歩道橋を上がったり降りたりしたこともある。

 あるいは深夜、道場をハネながら走りまわったこともある。

 だから今朝も、
「早く跳びなさいよ」
 という愚妻の指摘は正しいのである。

 だが、痛みは激しくなるばかりで、これはヤバイとばかり、愚妻の運転で大学病院へ行った。

 座薬でとりあえず痛みはおさまり、帰宅したのはいいが、座薬のせいで今度はジンマシンだ。
 愚妻はすぐに病院へ電話し、テキパキと再診察を取りつける。
 こういうところは、愚妻は実に頼もしいのである。

 ま、そんなこんなで、今日は大変な一日であった。
 いや、まだまだ大変なようで、そろそろ痛み止めの薬が切れてきて鈍痛が始まった。
 9日に造影剤を入れてレントゲンを撮る。

 いま、そばで愚妻が険しい顔をしてスタンバイしている。
 私が頼るのは愚妻だけであることを思い知らされた一日であった。
 

投稿者 mukaidani : 20:28

2010年07月06日

「突然変異」という人生観

 私は「頼まれ事」は基本的に断らないことにしている。

 愚妻に言わせれば、
「あなたは、いい顔をし過ぎる」
 ということになるが、これは自分にとばっちりが来るのを恐れての牽制で、バチ当たりの発想である。

 私がなぜ「頼まれ事」を引き受けるかというと、それが「自分の意志に関わらないこと」であるからだ。

 つまり、どんなことにせよ、「自分の意志」が介在するものは、人生において「昨日」の続きに過ぎない。

「昨日」と違う「今日」、「今日」と違う「明日」にしようと思えば、自分の意志と関わりのないこと、すなわち「頼まれ事」を引き受けることである。

 私は、過去・現在・未来が一直線上に並ぶような人生はイヤなのだ。

 だから突然変異の人生を求めて「頼まれ事」を引き受けるというわけである。

 このことを愚妻にどう説いてみても理解不能のようで、
「突然変異だか何だか知らないけど、あたしに迷惑かけないでちょうだい」
 愚かなことを冷たく口走るのである。

「馬の耳に念仏」という諺(ことわざが)ある。
 アホな馬は救いがたいという意味だが、本意は「馬に念仏を説こうとする坊主がアホ」ということではないのか。

 なるほど、そうか。
 愚妻に〝突然変異の人生論〟など話しても理解できるわけがないと、私は一人静かに納得するのである。

投稿者 mukaidani : 14:46

2010年07月03日

煩悩を刺激すれば人は動く

 愚妻との会話は、禅問答に似た緊張感がある。

 たとえば、今朝のことだ。

 ひと風呂浴びてから居間のソファに腰を下ろすと、壁際にある受話器が赤く、ハデに点滅している。

「何だ、あれは」
 愚妻に問う。

「ファックスのインクリボンを交換しろってサインよ」
「ならば、さっさと交換すればよかろう」
「忙しいのよ」
「点滅が鬱陶(うっとう)しいではないか」
「だったら、見なきゃいいでしょ」

 このあたりで、私はやや劣勢を意識し、体勢を立て直す。

「バカ者。『見る』のではなく、『見える』のだ」
「横向いていれば」

 今朝の第一試合は私の完敗だった。

 と、唐突に原稿の書き出しが閃(ひらめ)いた。

 だが、こうした閃きはすぐにメモにしておかなければ、たちまち雲散霧消してしまうのだ。

「おい、ポストイットはどこだ!」
 台所に立つ愚妻に怒声を発する。
「無いの?」

 声はノンキだが、鋭い返答である。
 無いから「どこだ」ときいているのに、それを承知で「無いの?」と返答してくるのだ。

「バカ者、無いからどこだときいているのだ!」
 と、私は怒ったわけではない。
 直球が通じるほどヤワな女ではないし、私もそこまで愚かではない。

 私は独り言のようにつぶやいてみせたのだ。
「そうか、無いか。印税の試算をしようと思ったのだが」

 すると、どうだ。
 愚妻は手をタオルで拭きながら、台所から駆け込んで来るや、
「ここ、ここにあるわよ」
 さっとポストイットが私の面前に用意されただけでなく、ボールペンまで添えられていた。

 欲という煩悩は人間を不幸にする元凶とされるが、とんでもない。
 うまく刺激さえすれば、相手を意のままに動かすことだってできるのだ。
 煩悩とは何とも重宝なものであることを、私は愚妻をとおして悟ったのだった。
 かくして第二試合は私の圧勝となる。

投稿者 mukaidani : 10:59

2010年07月02日

ブログを書いている場合ではない

 昨日は銀座と新宿で打ち合わせがあり、クルマで出かけた。

 事前に駐車場をチッェクし、カーナビに駐車場の電話番号を入力をして、ノートバソコン持参で出発。予定より1時間早く到着するはずで、待ち合わせの時間まで喫茶店で原稿を書くつもりだった。

 ところが、都内に入ると、カーナビは銀座と逆方向を指示するではないか。

 根が正直な私はカーナビを信用し、指示されるままに運転すると、やがて、
「目的地周辺です」
 のガイド音。

 おいおい、ここは銀座じゃないじゃないか。

 何度か試行錯誤した結果、私が入力した電話番号は駐車場の運営会社のもので、駐車場の所在地ではなかったのである。

 おかけで、現地到着は約束ギリギリの時間。
 原稿を書くどころでなく、こんなことをやっているようでは忙しいはずではないか。

 都内から急いで帰宅すると、夕方6時から最寄りの駅前に行き、襷(たすき)かけてウチワを配布した。
 7月は「社会を明るくする運動」の強化月間で、保護司活動の一環として参加したわけである。

 7時過ぎ、ウチワを配布し終わったころ、民主党の枝野幹事長が駅前にやってきて、宣伝カーの上から応援演説を始めた。

 何をどうしゃべるのか興味があり、演説を聴いていたら、愚妻から携帯に電話がかかってきた。

「何してるのよ、7時15分よ!」

 木曜日は空手の稽古がない日なので、愚妻と晩メシを食べに行く約束をしていたのだが、コロリと忘れていたのである。

 愚妻は予約した店でカリカリしながら待っているようだ。

 こんなことばかりやっていると、原稿は溜まる一方ではないか。
 7月下旬、8月中旬と2冊の〆切がある。

(ブログを書いている場合ではないぞ)
 と自分に言い聞かせつつ、こうしてブログを書いている。
 忙しいはずである。  

投稿者 mukaidani : 16:08