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2010年05月03日

大人よ、理不尽であれ

「親は子の〝友達〟ではない」。
 あえて言えば、これが私の教育方針だった。

 だから理不尽なことも言えば、身勝手なこともした。

「メシを食わせてもらっていて文句は許さない。一人前になってから言え」
 それで通してきた。

 いま、空手の指導がそうだ。
 たとえば冬場。
 道場は暖房をしているが、学校の体育館は寒いので、私は手袋をし、ときに毛糸の帽子をかぶったりする。

 小学生たちが、
「館長、ズルい!」
 と抗議するが、聞く耳はもたない。

「バカ者! 館長とおまえたちは違う。これでいいのだ」
 理不尽さを承知で一喝する。
 私は子供たちの〝友達〟ではないことを、あえて理不尽な言動で知らしめる。
 すると、「館長、ズルい」という〝抗議〟はいっさいなくなっていくのである。

 いつだったか、高校生の7割が「大人に対して理不尽さを感じている」という意識調査があった。

 高校生たち自身によるアンケート調査だが、理不尽と感じる理由として、
「言行が一致しない」
「頭ごなしにしかりつける」
 などがあげられていた。

 このアンケート調査を私は見て、
「いや、申し訳ない。すまん、すまん」
 と思ったわけではない。

 高校生たちが、
「大人と対等である」
 という意識を持っているとことに、改めて気がついたのである。

 どおりで親や教師の言うことを聞かないはすだ。
「親は養う人で、自分は養われる人」
「教師は勉強を教える人で、自分は教わる人」
 という役割の違いはあっても、「人間」として「対等」だという意識を持っているのである。

 むろん人間は長幼に関係なく、また立場を超えて「対等」であるべきだが、それは「人格」「命の尊厳」において上下はないという意味で、社会生活や家庭生活において対等であるという意味ではない。

 二十歳未満は未成年であり、少年法で保護されているということは、子供と大人は対等でないと社会が認めていることなのである。

 極論を承知で言えば、大人は理不尽でいいのだ。
 むしろ、大人の言動に対して理不尽と感じる子供の「精神の在り方」が問題だと思う。

 人間が、相手に対して理不尽さを感じるのは、
「相手と自分は対等である」
 という意識を潜在的に持っているからだ。

 意識において対等な人間関係にあれば、親や教師が子供を教育することなど、できるわけがあるまい。
 学校が荒れるのは必然なのである。

投稿者 mukaidani : 2010年05月03日 12:32