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2010年05月31日

今日、愚妻は白内障の手術

 いま、病院にいる。
 愚妻が今日、もう片方の目(白内障)の手術をするのだ。

 3月(だっと思う)が、片方を手術し、〝快気祝い〟に行ったレストランで、
「わあ、カンパリオレンジの赤色がこんな鮮やかだったとは!」
 愚妻らしく、即物的なたとえで喜びを表現したものだった。

 きっと、カンパリオレンジの赤に魅せられて、今回の手術を決意したのだろう。
 おかけで私は、ノートパソコン持参で朝から付き添い、休憩室で原稿を書いている。
 罪なカンパリオレンジである。

「仕事、進んでるの?」
 手術の時間までヒマなものだから、フラフラと病室から出てくる。
「邪魔するな」
「邪魔なんかしてないわよ。進んでるのかどうか、訊いただけじゃないの」
「それを世間では邪魔と言うのだ」
「まったく、ああ言えばこう言うなんだから」
「ウルサイ!」
「なによ、その言い方!」

 看護婦さんが点眼にやって来なければ、わが夫婦は醜態をさらすところであった。

 それにしても初回手術のときは緊張していた愚妻だが、二度目となれば現金なもので、余裕をカマしている。
 手術中に鼻歌でも歌わなければいいが。
 私も人並みに、夫らしく心配をするのである。

投稿者 mukaidani : 12:33

2010年05月28日

福島大臣は「勝負どき」

 普天間問題で、社民党党首で大臣の福島瑞穂さんが「絶対反対」を貫き、頑張っている。

 その福島大臣に対して、北沢俊美防衛相は、
「署名を拒否するということは首相に対する不信の表れになる。その前に自らの立場を明らかにするのが政治家として当然の姿だ」
と強い調子で福島氏に辞任を迫ったそうな。

 ならば、鳩山首相に対して、
「公約違反は潔く職を辞するのが首相として当然の姿だ」
 と言うべきでしょうに、そうは言わない。

 やっぱり、鳩山内閣はヘンですな。

 たまたま鳩山サンがソフトなイメージがあるので、批判はこの程度ですんでいるが、これが前首相の麻生サンや福田サンだったらどうだっろうか。
 ボロクソだったでしょう。

 人間は、見かけやイメージで世間の受け取り方が変わってくるということを、改めて考えるのである。

 ま、それはそれとして、福島大臣も社民党もいまが千載一遇のチャンスだ。
 国民は、民主党の詭弁(きべん)とペテンにブーイングの嵐。
 ここで節を曲げず、信念を貫けば、福島大臣も社民党も国民の支持は得られる。

 問題は、捨て身で勝負できるかどうか。

 ためらう者にチャンスなし、なのである。

投稿者 mukaidani : 14:30

2010年05月26日

愚妻に通じぬ「鳩山論法」

 いやはや、鳩山首相の「言葉」は勉強になりますな。

 社民党の福島瑞穂党首が、普天間基地移設問題で沖縄入りしたことに対して、こう言うのだ。

「閣僚として行くのはいかがかと思うが、社民党党首の立場で行くのはやむを得ない」

 なるほど、そういうものなのか。

 で、さっそく私は、この論法を使わさせてもらった。

 昨日は保護司の研修会があり、道場に帰ってきたのは夕方の4時40分。
 5時から幼児・1年生クラスの稽古があるので、まもなく子供たちが来る。

 愚妻はご機嫌斜めで、
「遅いじゃないの」

 これに対して、私はおもむろに言った。
「館長の立場として遅くなるのはいかがかと思うが、保護司の立場で遅れるのはやむを得ない」

「なにバカなこと言ってるのよ」
「ウム。妻の立場で怒るのはいかがなことかと思うが、道場の事務長の立場で怒るのはやむを得まい」
「ホントに怒るわよ!」

 鳩山首相のこの論法は、愚妻にさえ通用しないのだ。
 まして国民に通じるわけがなかろう。

投稿者 mukaidani : 05:23

2010年05月24日

会社員の傷害事件に思う

 任天堂社員が、駐車に割り込んできたフリーター男を殴り、傷害現行犯で逮捕された。

 報道にれば、
「駐車の順番待ちをしていて、割り込まれたことに腹が立った」
 と供述しているという。

 殴った会社員が一方的に悪いように報道されているが、原因は割り込んできたフリーターにあるのではないか。

 私だって、話の成り行きによっては、ポカリとやるかもしれない。

 割り込む人間が得をし、順番を待っている人間が損をするなど、社会は決して許してはならない。

 ワルな〝割り込み人間〟があたかも被害者のように報道することに、私は疑問を感じる。

「暴力はいかん」
 というのはわかるが、〝割り込み〟は卑劣という意味で、もっと悪いことだ。
 こういう人間を看過しなかった任天堂社員は、むしろ立派ではないか。

 任天堂社員は37歳だそうだが、バカなフリーターのおかげで人生につまづくとしたら、何とも気の毒なことだ。

 任天堂は「正義感のあらわれ」として、この社員のことを受けとめるべきだろう。

 報道から見る限り、私はそう思うのである。

投稿者 mukaidani : 02:26

2010年05月22日

勝間和代さんと「自動車」

 人気の経済評論家、勝間和代さんが都内でタクシーに追突された。

 このニュースを見たとき、
(命は大丈夫か!)
 と、本当に心配した。

 というのも、勝間さんは移動時間のムダを省くため、都内はスポーツ自転車で毎日30キロ前後を移動している、と著書に書いてあったからだ。

 すべてを生産性で割り切るのもどうかとは思うが、スポーツ自転車で都内を移動しているというからには、
(この人は本気なんだな)
 と感心し、
(わしも自転車に乗ってみようか)
 と、ふと思ったものだった。

 だから、タクシーに追突されたというニュースの見出しに、
(大丈夫か?)
 と心配したわけである。

 ところがニュースを読んでみると、勝間さんはクルマを運転したと書いてあるではないか。

 それも平日の午後1時。
(なんだ、自転車じゃないのか)

 皮肉でなく、肩すかしの気持ちだった。

 「1日30キロを自転車」とはいっても、クルマを運転して移動することもあるのだろう。

 言行不一致などとヤボなことを言うつもりはないが、自転車移動に感心していた私にしてみれば、
(なんだかなァ)
 という思いがするのである。

投稿者 mukaidani : 12:01

2010年05月21日

女と「仕分け能力」

 面白い川柳である。

《仕分け人 妻に比べりゃ まだ甘い》

 第一生命保険が20日発表した「サラリーマン川柳コンクール」で、第1位になったものである。

 仕分け人というのは、きっと蓮舫議員のことなんでしょうね。

 そういえば、結婚したての若いフリーライターが、
「女房のしゃべり方が、仕分けするときの蓮舫議員にそっくりなんですよ」
 と、私にボヤいたことがある。

「あなた、毎晩、飲んで帰らなければいけないんですか」
「仕事のつき合いなんだから、しょうがねぇだろ」
「飲むことが仕事にどう関わっているか、きちんと説明してください」

 こんな会話がかわされるのだという。

 確かに、これじゃ、やりにくかろう。

 公益法人のムダを追求するのはぜひともやらなければならないが、この〝発想〟を人間社会や人間関係に持ち込むのはいかがなものか。

「なぜ」
「どうして」
 と追求されたら、私の言動など矛盾だらけで、即刻、仕分けされてしまうだろう。

 矛盾だらけで生きているのが人間である以上、ムダも当然ある。
 ムダによって心が豊かになることもあるのだ。

 公益法人にとってムダは「悪」であっても、人間にとってムダは「善」だと私は思うのである。

 このことを、愚妻に話して聞かせると、
「それって、自己弁護じゃないの」

 言外に、
「ムダが人生をどう豊かにするか、根拠を示せ」
 と言っているのだ。

 どうやら女というのは、生まれながらにして、仕分けの能力を持っているということか。
 逆らうことの愚かさを、私は悟ったのである。
 

投稿者 mukaidani : 15:34

2010年05月19日

東国原知事の発言に首をかしげる

 宮崎県の家畜伝染病「口蹄疫(こうていえき)」問題の拡大で、いよいよ全頭処分が取りざたされ始めた。

 畜産農家は誠にお気の毒で、心中は察して余りある。
 政府の迅速な対応と救済が求められる。

 だが、その一方、東国原知事の対応はいかがなものか。

 記者会見でイラ立ち、涙を浮かべて、
「我々は毎日寝ずに話している。(マスコミは)対応が甘かったとか、防疫措置がどうかとかいうが、一生懸命やっている」
 とまくし立て、それがテレビで報じられた。

 私が首をかしげたのは、
「寝ずに一生懸命やっている」
 という言葉だ。

 なぜなら、地方自治体の長が非常事態に臨んで「一所懸命やる」のは当たり前だと思っていたからだ。

 こういうのを「子供の言い訳」というのではないか。

 東国原知事の「責務」は、畜産農家をどう救済し、県経済の影響を最小限に食い止め、さらに今後の対応を打ち出すことだ。

 その対応と責務を指摘されると、
「寝ずに一生懸命やっている」
 とイラ立ち、涙を浮かべる。

 所詮、彼は政治にはアマチュアであり、「宮崎のセールスマン」に過ぎないということなのだろう。

 今夏の参院選で〝タレント候補〟が林立する。
 タレントが悪いと言うのではない。
 政治家にも「プロ」と「アマ」がいて、一国の運命と、私たちの人生をアマチュアにまかせていいのかと、気になるのである。

投稿者 mukaidani : 10:38

2010年05月18日

三原じゅん子さんの「出馬宣言」

 7月の参院選は、芸能人やスポーツ選手がたくさん出馬して、にぎやかですな。

 で、ちょっと面白いと思ったのは、自民党から出馬する三原じゅん子さんの出馬コメント。

「国会議員と〝二足のわらじ〟を履けるほど器用ではない」
 とかで、当選した場合は女優を引退するという発言。

 民主党から出馬する柔道女子の谷亮子さんが、現役続行を宣言したことに対する批判だろうとメディアは伝えているが、三原じゅん子さんの発言は、ちょっといただけませんな。

 なぜなら、「当選した場合は女優を引退する」は、「当選しなかったら女優を続ける」という意味だもの。

 国政に対して本気であるなら、
「女優を引退して出馬します」
 でなければならない。

「当選したら女優をやめる」
 という発言は、ご本人はカッコよく決意のほどを語ったつもりだろうが、語るに落ちるとはこのことだろう。

 失礼ながら、それほどの女優サンじゃないのだから、当選したら、そりゃ、やめるでしよう。

 今夏の参院選は、
「なんだかなァ」
 であります。
 

投稿者 mukaidani : 07:48

2010年05月16日

「若者にステテコ」の理不尽を怒る

「ステテコ」が人気だという。
 オッサンにではない。
 若者に、である。

 男だけではない。
 若い女性も、自分の部屋着に買っているというではないか。

 冗談じゃない。
 ステテコはオッサンになった証拠だと、私が若いころはバカにされたのだ。

 だから真夏、ズボンが汗で脚にまつわりつこうとも、ステテコは断固拒否した。
 冬場、寒さにガタガタ脚を震わせようとも、ステテコもパッチも穿かなかった。

 下半身だけではない。
 上半身は下着をつけず、じかにワイシャツを着た。
 ワイシャツからランニングが透けて見えるのはオッサンの証拠であったからだ。
 だからワイシャツの素材にも、仕立てにも大いに凝ったものだった。

 ところが四十を過ぎ、五十を迎え、私は〝清水の舞台〟から飛び降りるつもりで、ステテコを穿き、ワイシャツの下にシャツを着て、
(もう若くはないのだ)
 と自分に言い聞かせた。
「幸福の黄色いハンカチ」ならぬ「降伏の白旗」であった。

 それが、どうだ。
 いまになって、若者たちにステテコが人気だというのだ。
 ステテコはオッサンの穿くものだとして軽蔑した〝世間〟は、いったい何だったのだ。
 私は何のためにヤセ我慢をしてきたのだ

 私の腹立たしさがわかるだろうか。

 人生は無常というけれど、まさかステテコが若者に人気の時代が来ようとは、私は夢にも思わなかったのである。

投稿者 mukaidani : 21:21

2010年05月15日

亭主、三界に安息の地なし

 今朝、畑に行こうと思った。

 が、身体の芯が凝(こ)っていよるうな感じがして、畑はやめにしてマッサージに行った。

 週に一度は行くようにしているのだ、このところ凝りが取れないのである。

「おい、肩を揉め」
 昨夜、愚妻に命じたのだが、返事は、
「ハイハイ」

 二度返事は本人にその気がない証拠で、私が風呂に入っている間に自室にこもってしまった。

 風呂に入った私も、〝肩もみ〟のことはコロリと忘れている。
 一度口にしてしまうと、すぐに忘れてしまうのが私の性格で、さすがに愚妻はそのことを熟知しているというわけだ。

 で、今朝。
「おい、肩を揉まなかったではないか」
 抗議すると、
「忘れていたわ。言ってくれればよかったのに」
 調子がいいというのか、平気な顔で言うのである。

 それで畑はやめて、今朝はマッサージにしたというわけだ。

「先週よりも身体は柔らかくなりましたが、芯がまだほぐれていないですね」
 とマーサージのおばちゃんが言っていた。

 身体の芯が凝るほどに疲れているということか。

 そのことを愚妻に言おうと思ったが、やめた。
「あら、そうなの」
 きっと、鼻歌まじりに言うことだろう。

「亭主、三界に安息の地なし」ということか。

  

投稿者 mukaidani : 19:58

2010年05月13日

鳩山サンは〝悪い人〟かもな

 会議において批判を封じ込める〝切り札〟は、
「じゃ、あなたがやってくれますか?」

 これでいい。
 相手が返事に口ごもれば、他の出席者に対して、
「みなさん、批判するときは〝火中の栗〟を拾う覚悟でお願いします。その覚悟なくして批判だけするのは傍観者のやることです。私たちは傍観者であってはならない」

 むろん、これは詭弁(きべん)で、〝火中の栗〟を拾わなくても、意見も批判も大いにしてよいのだが、人間は、自分がやらずして批判することに後ろめたさを覚えるものだ。

 だから、
「じゃ、おまえ、やれんのか」
 と突っ込まれると、批判の矛先が鈍るというわけである。

 普天間基地移設問題で、鳩山首相は、
「沖縄の負担を全国で分かち合う」
 と、47都道府県の知事に問いかける姿勢を打ち出した。

 要するに、
「わしのことをゴチャゴチャ批判しとるが、じゃ、おまえら、米軍基地を引き受け気があるのか」
 と突っ込みを入れたのである。

 国民が鳩山首相を非難しているのは、のらりくらりと言い逃ればかりして、「ウソをついたこと」に対してである。

 その責任を頬っかむりして、
「引き受ける気がないなら、だまっとれ」
 と問題をすり換えようとしている。

 鳩山サン、どうやらソフトな外見と違って、素顔は悪い人のようである。

投稿者 mukaidani : 23:06

2010年05月11日

努力逆転の法則

 仕事に追われ、先月から〆切りと競争の日々が続いている。

 不思議なもので、忙しくなると、それに比例して眠くなるのだ。

 たぶん頭を酷使するせいだろうと思っていたが、どうやら違うらしいことに気がついた。

(書かねば、書かねば)
 と気持ちがあせればあせるほど憂鬱(ゆううつ)になり、その結果、「眠い」に逃避するというわけである。

 なぜそのことに気がついたかというと、
(私が眠くなるのは、ひょっとして《努力逆転の法則》に相通じるものがあるのではないか?)
 と、ひらめいたからである。

《努力逆転の法則》とは、
「頑張れば頑張るほど、結果はその努力とは反対になる」
 という法則で、提唱者の名前をとって「エミール・クーエの法則」と呼ばれる。

 たとえばスピーチをするときに、
(アガるな、アガるな)
 と思えば思うほど、余計にアガってしまう、というわけである。

「エミール・クーエの法則」を小難しく言えば、
《意志力と想像力(イメージ)が相反した場合は想像力(イメージ)が勝つ。意志の力で努力すればするほど想像力(イメージ)は強力となり、その意志の努力とは反対の結果なる》

 つまり「アガってはいけない」(意志)より、「アガるだろうな」(想像)のほうが強いわけで、「アガってはいけない」という《意志》が強くなればなるほど、「アガるだろうな」という《想像》が強くなり、結果、《意志》と反対の結果になるというわけだ。

 だから《努力》は逆効果。
(アガってもいいや)
 と《努力》を放棄すれば、アガらなるのである。

 ならば、私が「眠い」から解放され、ガンガン執筆するには、
(書かなくてもいいや)
 と思えばいいということになる。

 で、そう思ってみた。
 しかし、それでも眠い。
 これはきっと、「書かなくてもいいや」という思いが足りに違いない。

 で、「書かなくてもいい」と何度も自分に言い聞かせたところが、こちらはなぜか《努力逆転》は起こらないで素直に反応し、ますます眠くなっていくのである。

 

投稿者 mukaidani : 23:06

2010年05月09日

躾(しつけ)と「地獄の話」

 子供のころ、母親から「地獄」の話をよく聞い。

 なかでも、
「ウソをついたら地獄に堕(お)ちて、エンマ大王に舌をペンチで引き抜かれる」
 という話を、50年がたったいまも鮮明に覚えている。

 たぶん、そのころ私は〝親に内緒〟という小さなウソをついていたのだろう。
(ウソをつくとヤバイ)
 という思いが、リアリティーをもって迫ってきたのである。

「だから立派な人間に育った」
 というわけではなく、曲折を経て現在に至り、まもなく還暦を迎えるのだが、私の倫理・道徳観は、子供のころに聞かされた「地獄」によって植え付けられたように思う。

 つまり、善縁善果・悪縁悪果という考え方で、
「悪いことをしたら地獄に堕ちる」
 という思いを疑いなく子供心に抱いたのである。

 ひるがえって、いまの若いお母さん方を見ていると、子供の躾(しつけ)に対して、あまりに「理屈と説明」が多すぎるように思う。
「ウソをついちゃいけないのよ。どうしてかというとね、ウソをつく人間は恥ずかしいことなの」
 倫理・道徳を持ちだして説き、最後にこう訊くのだ。
「わかった?」

 そして子供は、
「うん」
 と返事して一件落着。
 お母さんは、きちんと躾けたつもりで自己満足にひたるというわけである。

 空手の指導をしていて痛感するのだが、子供の躾はまず、理屈抜きで善悪と社会規範を叩き込むことだ。
 そして、長ずるにおよんで、少しずつ「なぜ、そうなのか」という説明を折に触れてしていくことで、子供の倫理・道徳観は育っていくように私は思うのである。

 江戸時代、会津藩では、上級藩士の子弟は10歳になると藩校の日新館に入学した。
 かの白虎隊の学び舎としても知られるが、ここの教育方針は、
「ならぬ事はならぬ」
 というものだった。

 一例をあげれば、
《年長者の言うことに背いてはなりませぬ》
《虚言を言うことはなりませぬ》
《卑怯な振舞をしてはなりませぬ》
 などといった掟(おきて)が定められていて、文末は、
《ならぬことはならぬものです》
 と結ばれている。

 たぶん、当時の子供たちも躾けに対して、
「どうして?」
 と問いかけたのだろう。

 それに対して日新館は、
「ならぬ事はならぬ」
 と毅然たる態度をもって接したのである。

 躾とは、乱暴な言い方をすれば、社会規範や倫理、道徳といった「鋳型(いがた」)にはめることなのである。

 我が子だから、どう躾けようと親の勝手だが、
「自由に、のびのびと育てる」
 という親御さんに限って、実は躾を放棄しているように、私は思うのである。

 昨夜、寝ながら仏教本の地獄絵を見て、ふと子供ころに母親が語った言葉を思い出しつつ、そんなことを考えたのである。

投稿者 mukaidani : 21:25

2010年05月07日

人間関係は、どうあがいても難儀なもの

 四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦しみの分類である。

 根源的な苦しみが、生・老・病・死で「四苦」、これに次の四つの「苦」を加えて「八苦」とする。

 愛別離苦(あいべつりく)/愛する人と別離する苦しみ
 怨憎会苦(おんぞうえく)/怨(うら)み憎んでいる者に会う苦しみ
 求不得苦(ぐふとくく)/求める物が得られない苦しみ
 五蘊盛苦(ごうんじょうく)/あらゆる精神的な苦しみ

 このなかで、
(なるほどなァ)
 と感心するのは、「愛別離苦」と「怨憎会苦」である。

 何に感心するかというと、
「人間関係における悩みは絶対に避けて通れない」
 ということだ。

 だって、そうでしょう。
 愛する人とは「別離する苦しみ」が、怨み憎んでいる者には「会う苦しみ」が人間に備わっているのだから、
「どうあがいても人間関係には悩むもんだよ」
 と仏法は教えているのである。

 このことから私は、こう結論する。
「人間関係に悩む本質は、人間関係そのものよりも、解決不能のことを解決しようとすることにある」

 だから私は、いつも自分にこう言い聞かせるのだ。
「去る者は追わず、来る者は拒まず。追うな、追い払うな、こだわるな」

 人間関係は、たとえて言えば車窓を過ぎていく風景のようなものではないか。
 山もあれば海もある。
 単調な景色に退屈もすれば、青い空に目を奪われることもあるだろう。

 そのすべてをひっくるめて「景色」なのである。

 人間関係もしかり。
 車窓の風景が切り取ることができないのと同様、人間関係もまた、自分の都合よくはいかないもの。
 そのことに気づいたき、人間関係はスーッと楽になるのだ。

投稿者 mukaidani : 23:55

2010年05月06日

鳩山首相への罵声

「片足を切断? それは自民党病院の誤診です」
 民主党病院の鳩山医師が自信たっぷりに言う。
「本当ですか?」
 患者が喜色を浮かべる。
「もちろんです。最低でも投薬。手術は絶対しません」
 
 そして10ヶ月後。
「やっぱり足を切断するしかないですね」
「そんな。手術はしない、最低でも投薬とおっしゃったじゃないですか。だから私は民主党病院に転院したんですよ」」
「そのつもりでしたが、アメリカ病院に問い合わせたら、それじゃダメだということがわかったんです」
「なんですか、いまさら!」
「お気持ちはわかりますが、投薬にいつまでもこだわっていると健康に重大な害を及ぼすことになりますよ。それでもいいんですか?」

 政府は恫喝に転じ、これから沖縄県民はそのジレンマに苦しむことになるだろう。

 ある評論家がテレビで言った。
「普天間基地問題は、国民みんなが考えるべき問題ですね」

 そのとおりだ。
 だが、「国民みんなが」とか「国民一人ひとりが」という言葉が出てきたら、その問題は「他人事」ということでもある。

 鳩山首相に浴びせる罵声は、私たち自身にも向けられるべきではないだろうか。

投稿者 mukaidani : 06:01

2010年05月04日

ビンボーは美徳ならず

「幸せは、お金では買えない」
 という。

 お金に恵まれざる人がよく使う言葉で、
(そうだよなァ。〝貧しくても楽しい我が家〟なんて言うじゃないか)
 と、自分をなぐさめる

 私もかねて、そう思っていた。
 だから、金持ちが不幸な目に遭(あ)うと、
(なるほど、幸せはお金では買えないというのはホントだな)
 と溜飲を下げ、金持ちに対する妬(ねた)みを解消するのである。

 だが、最近はちょっと考えが変わってきた。
「幸せは、お金では買えない」
 というのは、「お金だけでは」買えないという意味であって、お金は幸せを手に入れる大きな要素であることに変わりがないのだ。

 ところが私たちは、ここを錯覚して、
「お金がなくても幸せになれる」
 と解釈している。

 もちろんビンボーでも幸せなれる。
 だが、確率は低い。
 私がいつまでもセレブになれないのは、そうした人生観に原因があるのではないか、とひそかに考えるのである。

 むろん、お金をたくさん稼げば、それに比例して苦労も背負い込む。
 だからといって、ビンボーであれば苦労が少ないかと言えば、そうではない。

 セレブも苦労、ビンボーも苦労となれば、セレブがいいに決まっているではないか。
(なるほど、ビンボーは美徳ならず、か)
 と、九十九里の温泉健康ランドに浸かりながら、目からウロコの思いに、私は唸(うな)るのである。
 

投稿者 mukaidani : 03:20

2010年05月03日

大人よ、理不尽であれ

「親は子の〝友達〟ではない」。
 あえて言えば、これが私の教育方針だった。

 だから理不尽なことも言えば、身勝手なこともした。

「メシを食わせてもらっていて文句は許さない。一人前になってから言え」
 それで通してきた。

 いま、空手の指導がそうだ。
 たとえば冬場。
 道場は暖房をしているが、学校の体育館は寒いので、私は手袋をし、ときに毛糸の帽子をかぶったりする。

 小学生たちが、
「館長、ズルい!」
 と抗議するが、聞く耳はもたない。

「バカ者! 館長とおまえたちは違う。これでいいのだ」
 理不尽さを承知で一喝する。
 私は子供たちの〝友達〟ではないことを、あえて理不尽な言動で知らしめる。
 すると、「館長、ズルい」という〝抗議〟はいっさいなくなっていくのである。

 いつだったか、高校生の7割が「大人に対して理不尽さを感じている」という意識調査があった。

 高校生たち自身によるアンケート調査だが、理不尽と感じる理由として、
「言行が一致しない」
「頭ごなしにしかりつける」
 などがあげられていた。

 このアンケート調査を私は見て、
「いや、申し訳ない。すまん、すまん」
 と思ったわけではない。

 高校生たちが、
「大人と対等である」
 という意識を持っているとことに、改めて気がついたのである。

 どおりで親や教師の言うことを聞かないはすだ。
「親は養う人で、自分は養われる人」
「教師は勉強を教える人で、自分は教わる人」
 という役割の違いはあっても、「人間」として「対等」だという意識を持っているのである。

 むろん人間は長幼に関係なく、また立場を超えて「対等」であるべきだが、それは「人格」「命の尊厳」において上下はないという意味で、社会生活や家庭生活において対等であるという意味ではない。

 二十歳未満は未成年であり、少年法で保護されているということは、子供と大人は対等でないと社会が認めていることなのである。

 極論を承知で言えば、大人は理不尽でいいのだ。
 むしろ、大人の言動に対して理不尽と感じる子供の「精神の在り方」が問題だと思う。

 人間が、相手に対して理不尽さを感じるのは、
「相手と自分は対等である」
 という意識を潜在的に持っているからだ。

 意識において対等な人間関係にあれば、親や教師が子供を教育することなど、できるわけがあるまい。
 学校が荒れるのは必然なのである。

投稿者 mukaidani : 12:32

2010年05月01日

試合というハードル

 稽古熱心な子供に理屈なく、不真面目な子供に理屈あり。
 最近、つくづく感じることである。

「足が痛い」
「ケガをした」
「疲れている」
 何だかんだ言って稽古をサボろうとする。

 反対に稽古熱心な子は、黙々と一人でも稽古をする。
 こんな子は、要するに集中力があるのだ。
 だから空手の稽古に限らず、勉強でも何でも、ある程度の域に達する。

 一方、理屈をこねて稽古をサボろうとする子は、集中力に劣り、他のことでも群を抜く存在にはなりにくい。
 なるほど、一事が万事とは、先人はよく言ったものである。

 しかし、面白いことに、稽古をサボるくせに試合には毎回、出場する子供がいる。
 本人は出場したくないのだが、親が「出なさい!」と尻を叩くため、嫌々ながら出場するわけだ。

 稽古をしていないのだから当然ながら負け、本人はますます稽古がイヤになる。

 ところが、何度も試合に出場しているうちに、何かの弾みでひょいと稽古熱心に変わっていくことがある。

 ここが、面白く、また素晴らしいところだ。

 たぶん、試合というハードルを嫌々ながらも飛び越えていくうちに、
「飛び越える」
 ということに対して気おくれしなくなるのだろう。

 そして、どうせ出場させられるのなら、
(勝ってみたい)
 という前向きな姿勢が芽生えてくる。

 かくして稽古熱心になり、集中力というものを知らず知らずのうちに身につけていくというわけである。

 ここに、試合に出ることの意義を私は感じると同時に、賢い親御さんだと感心する。

 子供だけではない。
 大人も、人生も同じではないか。

 嫌なこと、つらいことなど、ハードルがなければ人生はどんなに楽だろうかと思う。

 だが、それは所詮、逃避である。
 ハードルに対して〝言い訳〟という理屈をこねて、人生をサボろうとする。
 自分から人生を〝落ちこぼれて〟いくのだ。

 ハードルがあるから、日々に緊張感がある。
 空手の指導を通じて、そんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 23:57