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2010年03月30日

鳩山は〝ガキの居直り〟

 沖縄の普天間基地の移設問題。

 やっぱりというのか、ことあるごとに「3月一杯」と言いつづけてきた政府案がまとまらなかった。

 しかも、鳩山首相は、
「いつまでに全部やらなきゃいけないという話ではない。今月中じゃなきゃならないとか、別に法的に決まっているわけではない」

 言ってくれますな。

 頼まれもしないのに「3月一杯」といったのは、あなたでしょうが。

 それに「法的に決まっているわけではない」というのは、返事に窮したときの〝ガキの居直り〟なのだ。

「こらッ、電車の中で足を組むんじゃない」
「足を組んじゃいけないって、法律で決まってんのか」

 一国の首相が口にすべきことではあるまい。
 こういうのを「言うに事欠いて」というのだ。

「約束どおり、すでに腹案は固まっている。しかしいま、岡田外相が渡米して米国と重要な話し合いをしている。その結果を踏まえて発表したい」
 とか何とか、もうちょっと言いようがあるだろう。

 そして岡田外相が帰国すれば、
「いま重大な局面を迎えている。その結果を踏まえて」
 とか何とか言えばよい。

 私は鳩山首相に期待などしていない。
 首相がどういう詭弁(きべん)を弄(ろう)すのか、それを楽しみにしているのだ。

 だから、ガキのような居直りだけはやめてほしいのである。

投稿者 mukaidani : 09:09

2010年03月29日

忙しいという錯覚

 昨日、都内で所用があり、電車で出かけた。

 私の隣に座る30代とおぼしき男性が、熱心にケータイ電話でゲームをやっている。

(何がそんなに面白いのか)
 と思うのは私の勝手で、彼にしてみれば楽しいのだろう。

 前の席では、若い女の子がメールでも打っているのだろう。
 これまた熱心に親指を動かしている。

 さらに別の席では、中年女性が文庫本を読んでいる。

 そこで、ふと思った。

(この人たちはヒマつぶしにそうしているのか、ヒマを見つけたからそうしているのか)

 そんなことを考えている私こそ、まさにヒマ人ということになるが、他人様を見ながらあれこれくだらないことを考えるのは、電車に乗る楽しみの一つでもある。

《忙中閑あり》
 という言葉がある。

「忙しい中にも、ちょっと一息つける時間はあるものだ」
 という意味だが、東洋哲学の大家・故安岡正篤氏は、太平洋戦争当時を振り返りつつ、《忙中閑あり》について、こう語っている。

「ただの閑は退屈にして精神が散じてしまう。忙中につかんだ閑こそ、本当の閑でありまして、激しい空襲の中でも十分、二十分の短い閑に悠々と一座禅、一提唱できました。こういうのが〝忙中の閑〟であります」

 私など、まったく逆で、「〝閑中〟の忙」ではないのか。

 だから「相対的」に忙しく感じ、さも充実した日々のように錯覚しているのかもしれない。

 1日は24時間もあるのだ。

 そうそう忙しいはずがないではないか。

 隣席でゲームに没頭する男性の手元を横目で寝ながら、自分にそう言い聞かせたのだった。


投稿者 mukaidani : 07:36

2010年03月27日

何事も「出口」が大事

 毎年、この時期になると、道場をやめていく子がいれば、新しく入ってくる子がいる。
 差し引きして、大人から子供まで、だいたい100名ほどで推移している。

 入会を「入口」とすれば、退会は「出口」となるが、私は何ごとも「出口」が大事だと考えている。

 つまり私の道場でいえば、やめるのはもちろかかまわないが、「いかにやめるか」が大事だと思うのだ。

 やめていく子供の多くは、小学生なら塾、中学なら部活で忙しくなるというのが理由だ。

 それもほぼ全員が、緑帯が紫帯といったレベルで、そのことが私は残念であり、気がかりである。

 つまり彼らは、黒帯というゴールに達する前にやめていく。
 やむを得ない事情は当然あるだろう。
 それはいい。

 私が気になるのは、自分が落ちこぼれ、そのための理由を〝後付け〟している場合で、そのことは当人が誰より承知している
「完走できなかった」
 という〝挫折感〟が、もし心の片隅に残るとすれば、彼らにとって気の毒だと思うのである。

 人生も同じではないか。

「挫折感」とは「達成感」と表裏の関係にある。
 そして「達成感」は〝事後〟に感じるものであり、だから「出口」が大事だと私は思うのである。

 道場では、落ちこぼれを出さないよう細心の注意を払って指導しているのだが、「出口」がいかに大事であるかがわかっている保護者は、残念ながら少ないようである。

 

投稿者 mukaidani : 15:32

2010年03月26日

愚か者に、深い溜め息

 中国古典の『菜根譚』に、
《花は半開を看(み)、酒は微酔(びすい)に飲む》
 という言葉がある。

 花を見るのなら五分咲きを楽しみ、酒を飲むならホロ酔いで盃を置くのがよい、という意味から転じて、
「何事も、ほどほどをもって最上とする」
 という教えだ。

 ところが人間は、トコトンまで貪(むさぼ)ろうとする。
 食事なら、満腹になるまで箸を置こうとしない。
 健啖家といえば聞こえがいいが、要するに、ただの大食漢に過ぎず、犬やネコと同じなのだ。

「だから」
 と、私が愚妻にさとす。
「人生、不足をもって幸せと言うのだ」
「じゃ、私ほど幸せな人間はいないってことね」
 愚かにも、皮肉を言って喜ぶのである。

 今日は、コンサルタント会社へ出かけ、会員向けのCDを制作するため、処世術について話しをしてきた。

 担当者は熱心に聞いてくれ、
「とても参考になりました」
 と言ってくれた。

 夜は編集者と酒席で打ち合わせをし、私の人生観を語ると、
「とても参考になりました」
 と言ってくれた。

 しかるに我が家のバチ当たりはどうだ。
 私のありがたい言葉に耳を貸さないばかりか、皮肉で応じるのだ。

 私はただ、深い溜め息をつくばかりなのである。  

投稿者 mukaidani : 01:57

2010年03月25日

すべては「見方」で決まる

 10人に営業をかけて、7人に断られたとする。

「成功率3割」
 と考えるのは、二流の人間の発想である。

 なぜなら、7人を〝捨て石〟と考えているからだ。
 この発想をしている限り、10人で7人、20人で14人、30人で21人と、〝捨て石〟は山積みになっていく。

 一流は違う。
 断られた7人を〝貯金〟と考える。

(今回はたまたま断られたが、次回は何とか成功させたい)
 と目標にする。

 だから断られたときは、次回の訪問にそなえ、丁重な態度で挨拶して帰って行く。
「預金」だから、どんどん貯まっていく。
 一流の人間が営業して成功率が高いのは、そうした発想と努力によるのだ。

 たまたま営業を例にあげたが、ものごとはすべて、「どう見るか」「どうとらえるか」という発想によって、うまくもいけば、失敗もする。

 欣喜雀躍もすれば、落胆もする。

 人生とは、そういうものであると、私は考えるのだ。
  

投稿者 mukaidani : 01:22

2010年03月23日

頑張らない生き方

 還暦を目前にして、人生はいよいよ〝引き算〟に入った。

「人生の現役」として生きるのは、長くてあと十余年か。
 いや、あと数年ということだってある。

 悲観しているのではない。
 人生マラソンのゴールが見えてきて、
「やれやれ」
 と安堵しているのである。

 そういう意味で、歳を取るというのは、私はウェルカムである。

「頑張らない生き方」の象徴として、これからステッキをついて歩こうかと考えている。

 どんなステッキにするか。
 考えるだけで、ワクワクしてくるのである。
 

投稿者 mukaidani : 23:55

2010年03月21日

審査会で我が身を考える

 今日は、私の道場の春期審査会だった。

 子供たちは普段の稽古で見るのとは違い、気合いが入っていて嬉しい驚きだった。

 と同時に、「上達」と「精神年齢」とは密接に関係していることを改めて認識した。
 実年齢と精神年齢とは必ずしも一致するわけではないので、精神年齢の発達を注意深く見守りながら、教えるタイミングをはかるようにすべきだと、これまた改めて肝に銘じた次第。
 
 各支部から大人たちが受審した。
 昇級審査は各支部で行うが、段位審査は私の本部道場で行うことになっているからだ。

 しばらくぶりに見る受審者たちが、ずいぶん上達していることに驚き、努力のたまものであろうと感心しきりである。

 その一方で、
(私の指導でいいのかな)
 という思いもある。

 習い事の上達の秘訣は、よき師につくことである。
 そういう思いで我が身を振り返ると、心もとない気がしないでもない。

(自分は、よき指導者たりうるだろうか)
 と自問して心境は複雑である。

 会員たちは習うことに全力投球、指導者は立場にあぐらをかくのではなく、教えることに生涯をかけて全力投球すべきだろうと、いつになく殊勝な思いをいだいた審査会であった。

投稿者 mukaidani : 20:24

2010年03月20日

生方副幹事長にエール

 生方幸夫副幹事長の解任問題で、民主党が揺れている。

 生方氏が小沢幹事長を批判したことが原因だが、これまで小沢氏の〝剛腕ぶり〟を見ていると、
(なんだかなァ)
 という思いを持つ人も少なくないのではあるまいか。

 剛腕は「公」のために用いてこその評価で、「私」のために用いたのでは、ただのワガママなのである。

 生方氏と私は週刊誌記者時代の仲間で、よく一緒に麻雀を打った。
 強気の麻雀で、リーチに向かってバンバン勝負してくる。

 彼の性格からすれば、
(小沢なにするものぞ)
 という気構えで勝負に出ているのだろう。

 エールを送りたい。

投稿者 mukaidani : 09:10

2010年03月18日

政治と命

 北朝鮮で、デノミを担当した実務者が、失敗の責任を問われて銃殺刑にされたそうだ。

 すごい国ですな。

 北朝鮮は昨年11月末、インフレ抑制や計画経済への回帰を狙って、旧貨幣100ウォンを新貨幣1ウォンとするデノミを実施したものの、うまくいかず、逆に物価暴騰や流通の停滞を招いた。

 その責任を、前財政計画部長が取らされたというわけだが、日本のノー天気な国政を見ていると、「責任とは何か」「責任を取る」とはどういうことかについて、考えさせられてしまう。

「責任を取って辞任します」
 と言って頭をペコンと下げれば一件落着。

 それでいいのだろうか。

 北朝鮮の銃殺刑も問題はあるが、日本と日本国民をその手に預かる政治家は、失政を犯して「ゴメン」ですむことだろうか。

「あなたは政治に命を懸けますか?」
 こう問うて、何人が深くうなずくだろう。

「もちろんです」
 と答えながら、ドジを踏んだら、きっとこう言うのだ。

「私が命を懸けると申し上げたのは、あくまで〝決意〟を述べたのであって、それがただちに命をどうこうという問題にはならないと認識しております」

 言葉が軽い時代になったような気がしてならない。

投稿者 mukaidani : 17:44

2010年03月17日

思い出にも〝利息〟がつく

 私は、イヤなことはすぐ忘れるようにしている。

 いや、イヤなことはハナから記憶にとどまらないようになっているのだ。

 私を知る人間は、
「うらやましい性格だ」
 と揶揄(やゆ)するが、これは性格ではなく、訓練したのである。

 訓練といっても特段のことをするわけではない。
 イヤな結果になってしまったことは頭から閉め出し、いっさい考えないようにすればいいのだ。

 こう言うと、
「そう簡単にいくかよ」
 という返事がたいてい返ってくるのたが、そう簡単にいかないから「訓練」するのである。

 多くの人は気づいていないようだが、「イヤな記憶」も頭にとどめておくと〝利息〟がつくのだ。

(ああ、あのときこうすればよかった)
 と、いつまでも悔やんでいると、これに少しずつ〝利息〟がついていって、
(なんてバカなことをしたんだ)
 と自己嫌悪に陥(おちい)ってしまうのである。

 すなわち、イヤな記憶は〝ヤミ金〟と同じで、さっさと〝返済〟しなければ、利息が利息を呼んで、人生、にっちもさっちもいかなくなってしまうというわけだ。

 反対に、楽しい思い出はいつまでも記憶にとどめておけば、どんどん利息がついていって、ますます楽しくなる。

 だから老人は昔話を宝物のようにして、繰り返し話して聞かせる。
 老人にとって楽しい思い出は、長い年月のうちに利息が利息を呼んで〝元金〟の2倍にも3倍にもなっている。
 老人が、飽きずに同じ思い出を何度も話して聞かせるのは、もうろくしているからではなく、〝思い出の金持ち〟になっているからだろうと、私は考えるのである。

投稿者 mukaidani : 16:43

2010年03月15日

「欲望」と「貨幣の雨」

 人間の「欲望」について、お釈迦さんのこんな言葉がある。

「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない」

 物質的に満ち足りた生活を求めながらも、欲望は決して満たされることはなく、満たされないがゆえに苦しむというパラドックスである。

「不自由を常とおもへば不足なし」
 とは徳川家康の遺訓だが、仏教に造詣の深い家康のことだから、お釈迦さんのこの言葉を〝意訳〟して家訓に残したのだろう。

「聞け」
 九十九里の温泉健康ランドの帰途、立ち寄ったイタメシ屋で、私は愚妻に告げた。
 
「釈迦にいわく。『たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない』。これが人間の実相だ。わかるか?」
「さあ」
 愚妻は白ワインを豪快に飲み干して、
「欲望が満足されなくてもいいから、貨幣の雨を降らして欲しいものね」
「このバチ当たりが」
 叱責しようとして、言葉を飲み込んだ。

 愚妻の言うことにも一理あるではないか。
(あくなき欲望に苦しもうとも、貨幣の雨を降らしてくれるなら、それもウェルカムだ)
 と思いつつ、バチ当たりの愚妻に感化されている自分に気がつき、心境は複雑になっていくのである。


投稿者 mukaidani : 21:25

2010年03月13日

「やろうと思えばいつでもやれる」の錯覚

 畑が近くに〝引っ越し〟てきたからというもの、農作業にとんとご無沙汰である。

 87歳の老爺(ろうや)は、電動自転車に颯爽とまたがって畑へ出かけている。
 先日はジャガイモを植えたそうだ。

 3歳になる曾孫(ひまご)の女児が、遊びに来ては、トマトが大好きだという。
 そのせいであろう。
 老爺は今年こそうまいトマトを作るのだと張り切り、拙宅の庭にある植木の支柱を、鼻歌まじりで何本も引っこ抜いて用意していた。

 植木は愚妻が丹精をこめ、成長を心待ちにしているものだ。
 その支柱を鼻歌まじりで次から次へと引っこ抜いていく。
 わしゃ、どうなっても知らんぞ。

 ま、それはともかく、「いつでも行ける」は「いつでも行けない」であることを改めて思い知らされている。

 畑が遠いときは
「行かなきゃ」
「いつ行くか」
 という思いで予定に組み込んでいたが、「いつでも行ける」となれば、手帳にニラめっ子することはなく、結局、忙しさにかまけてしまうというわけである。

 畑に限らず、
「やろうと思えば、いつでもやれる」
 というのは、おおいなる勘違いだ。

「やろうと思えば」という前提がくせ者で、「いつでもやれる環境と条件」にある人間は、いつでもやれるがゆえに、やろうと思わない。
 やろうと思わないのだから、「やろうと思えば」という前提は成立しないことになり、結局、やれないまま終わってしまうということになる。

 こうしてみると、
「やれるときに、やれることを」
 というのは、意外に難しいことがわかる。

 午後、畑のことを思い浮かべながら、そんなことを考えていると、愚妻が首をひねりながら、道場内の私の仕事部屋にやってきた。
「とうした?」
「それが、庭の植木の支柱が1本もなくなってるんだけど」
 私は言葉に詰まるばかりであった。

投稿者 mukaidani : 02:10

2010年03月11日

僧侶の立場と、道場の神棚

 私の道場にも神棚があり、稽古の始めと終わりに一同、「神前に礼」をやる。

 これに悩んでいた。

 僧籍にある私が「神前に礼」というのまずのではないか、という思いである。

 だが、そうかといって、神さまを仏さまに取り替え、
「仏前に礼」
 とやるのも、「なんだかなァ」という違和感がある。

 私が得度する前から、神棚はそこにあって「神前に礼」とやっていたのだから、私の勝手な都合で神さまにお引き取り願うのは失礼な気もして、
(どうしたものか)
 と悩んでいたというわけである。

 すると、たまたま『在家仏教』という雑誌を読んでいると、神仏習合について、駒澤大学名誉教授である佐々木宏幹先生のこんな一文が目に止まった。

《神さまが仏さまを守り、仏さまが神様の弱いところを補う。例えば奈良の大仏を造るという一大事業では、宇佐八幡をお迎えして、無事故で大仏が造れますようにと守ってもらう。ですから今でも東大寺の境内には、八幡神が祀られています。》

(なんだ、神棚があってもいいんじゃん)
 まさに〝渡りに船〟。
 神さまだろうが、仏さまだろうが、要は道場でケガなく稽古ができればいいのだ、と神棚の問題は強引に解決したというわけである。

 そんなこともあって、私はいま「曖昧(あいまい)さ」ということについて考えている。

「白か黒? どっちでもいいんじゃないの」
 と、あえて正解を求めない生き方である。

 人生に苦しむのは、人生自体が曖昧であるのに、実生活において曖昧さを認めないからではないだろうか。

 価値観は時代とともに変わる。
 白でも黒でも、どっちでもいいのだ。

「白」か「黒」を決めるのは司法の仕事。
 私たちは「灰色」であって大いに構わないのである。

 だからこの信念にもとずき、僧籍にある私は道場で、
「神前に礼」
 と、大いばりでやるのである。

投稿者 mukaidani : 22:56

2010年03月10日

壁にぶつかったら〝回り道〟

 私のことを「楽天家」だと、愚妻は言う。

「いい性格よね」
 と、必ず続ける。

 誉めているわけでは、もちろんない。
 小言の締めくくりが、いつもこの言葉なのである。

 だが、私は楽天家ではない。
 見た目はどうあれ、あれこれ神経質に悩んでいるのだ。

 ただ、悩みつつも、
(しかしなァ)
 という思いがよぎるのだ。
(しかしなァ。悩んだところで、結局、なるようにしかならないもんなァ)

 悩むだけ損だ、という結論になり、悩むことをやめるのである。

 性格的に「悩まない」のではない。
 人並みに悩むのではあるが、悩むのを自分の意志で「やめてしまう」のである。
 悩みというタネはあるけれども、水も養分もやらないのだから、発芽しないということになる。

 この人生観に従って生きているだけなのに、愚妻は眼がフシ穴であるため、結婚して36年になるというのに、私が生来の楽天家に見えるというわけである。

 私たちはみんな、壁にぶつかり、ぶつかりしながら人生街道を歩いている。
 小さい壁であるなら乗り越えればよい。
 回り道するのは時間のムダだから。

 でも、大きな壁だったら、まわり道をしよう。
 人生は、壁を乗り越えるのが目的ではなく、人生街道を歩いて行くことなのだ。

 ところが、大きな壁であればあるほど、頑張って乗り越えようとする。
 だから途中で力尽きる。

 楽天家とは、ノホホンとした人間のことではなく、壁を回避し、鼻歌まじりで回り道ができる人のことではないだろうか。
 つまり、最後まで人生を捨てない人のことを言うのだ。

 そういう意味で人間はみな、楽天家になろうと努力すべきだろう。
 ノー天気な人間はいても、生来の楽天家はいない。
 楽天家は、努力してなるものなのだ。   

投稿者 mukaidani : 03:36

2010年03月09日

夫婦別姓を危惧する

「自分以外の人間は信用できない」
 これが中国人の考え方だという。

 春秋戦国時代の昔から中国は戦乱に明け暮れ、支配者はコロコロと変わる。
 民衆にしてみれば国家は頼りにならず、自分の生活は自分で守るしかないわけで、「利己主義」になるのは当然だろう。

 かつて、取材で上海に行ったとき、見地の人が中国人の「利己主義」について、こんなたとえ話をしてくれた。

 子供が川で溺れていて、その子の母親が泣き叫びながら、通行人に助けを求めたとする。
 すると通行人は冷ややかに、こう言うのだ。
「なぜ私が危険をおかしてまで、あなたの子供を助けなくてはならないのですか?」

 こうした人生観をもつ中国人だから、
「騙すほうが悪いんじゃない、騙されるほうが悪い」
 という考え方になる。

 日本人は逆で、子供でも「騙すほうが悪い」と答える。

 これは倫理・道徳観を含め、「騙すのは悪いことだ」という社会的コンセンサスがあるから成り立つわけで、「社会があって、個人がある」とする考え方だ。

 一方、「自分以外の人間は信用できない」という中国人は、
「自分があって、社会がある」
 という考え方である。

「国家は頼りにならない」
 という歴史観からすれば当然だろう。

 そういえば北京オリンピックのときに、中国人はバスに乗るときに整列せず、我先に乗り込むことが話題になった。

「自分があって、社会がある」という中国人の考え方からすれば、他人を押しのけて自分が先に乗ろうとするのは、これも当然だろう。

 そんな社会がいいのだろうか。

「滅私奉公」は論外としても、「社会があって個人がある」と私は考えたい。

 そして、「社会」と「個人」とをジョイントするのが「家族」という集合体である。

「家族」という単位をバラせば、社会は個人の集合体となり、そのいきつく先は「個人があって社会がある」という利己主義的な人生観になるだろう。

 夫婦別姓に、私が危惧するゆえんである。

投稿者 mukaidani : 14:46

2010年03月08日

ストップウォッチを使う

 某大学教授をインタビューしたとき、教授がストップウォッチをテーブルにおいて話し始めた。
 時間管理の徹底さに思わず唸り、私もマネをしてみることにした。

 空手競技用のストップウォッチを引っ張り出してきて、
(よし、この原稿は1時間で書き上げる。ヨーイ、スタート!)

 やってみると、確かに作業は早くなる。
 ただし、集中力が増すというのとはちょっと違う。
 ノンキに考えているヒマがなく、〝見切り発車〟で書き始めるから早くなるわけだ。

 たとえて言うなら、飛びこんだレストランで、
「そろそろオーダーストップですが」
 と告げられ、あわてて〝見切り発車〟で注文をする、あの心境と思っていただければいいだろう。

 じっくり考えて書き出そうが、〝見切り発車〟で書き出そうが、原稿の出来映えはさして変わらないようだから、ストップウォッチを重宝している。

 家にいてもストップウォッチを首からぶら下げ、ことあるごとにカチッとスタートのボッチを押す。
 夕食時には、愚妻がご飯を口に運んで、噛み、呑み込むまでの時間までもカチッ、である。

 余計なことまで計測するので、能率がいいはずが、かえって非効率になったような気がしないでもない。

 何ごとにおいても、プラス面には必ずマイナス要素が内在していることに、あらためて気づかされるのである。

  

投稿者 mukaidani : 03:07

2010年03月05日

小さいことは、いいことだ

 恐竜が絶滅したのは、 小惑星の衝突が原因だそうだ。

 ニュースで報じている。

 直径10~15キロの小惑星がメキシコあたりに衝突して、マグニチュード11以上の地震が起こり、高さ300メートルの津波が襲う。

 さらに衝突の衝撃で、地表から大量の塵(ちり)が舞い上がって太陽の光を遮ったため、地球は寒冷化。これが10年にわたって続き、海のプランクトンや植物は死滅。食物連鎖の上位にいた恐竜などが絶滅したというわけである。

 ま、それはいいのだが、注目すべきは、
「身体が小さく、食料が少なくてすんだ哺乳類は生き延び、のちに多様化した」
 という下りである。

 恐竜は身体がバカでっかいので、大量の食料を必要とするがゆえに絶滅。
 身体が小さい哺乳類は食料がさしていらないため、生き延び、多様化していく。
 つまり、危機や逆風においては「小さいこと」は武器であるということなのだ。

 大不況のいま、トヨタを筆頭に大企業が苦しんでいる。
 図体が大きければ、逆風にさらされる面も大きいということだ。

 してみると、〝生涯自由業〟の私は、芥子粒(けしつぶ)のごとく小動物であり、これからも強く生き抜いていくという理屈になるではないか。

「どうだ、わかったか」
 胸を張って愚妻に告げると、ジロリと私をニラんで、
「芥子粒って、吹けば飛ぶんじゃないの」
 バチ当たりが、冷ややかに言い放ったのである。

投稿者 mukaidani : 14:30

2010年03月03日

白内障と「井の中の蛙」

 白内障の手術をしてからというもの、
「よく見える」
「こんなに明るいとは思わなかった」
 と、愚妻がハシャいでいる。

 現金なものだ。

 が、それはそれとして、これは仏法を説くいい機会だと思った私は、
「そうであろう。不幸な境遇を経験して初めて、幸せというものが見えてくる」
 と言いかけると、
「あら、説法ならよそへ行ってしてちょうだい」

 縁なき衆生は度し難いもので、私の言(げん)など、もとより耳を貸すはずがなく、
「あなたも、そろそろ白内障の検査をしたほうがいいかもよ」
 鼻歌まじりで言うのである。

 私は風邪でも引いたか、今朝は体調不良で起き上がるのがやっと。
 それでも愚妻のためにと力をふりしぼり、〝ありがたい話〟を聞かせようとしたのに、まったく罰当たりなことではないか。

 しかし、「こんなに明るいとは思わなかった」という言葉には、いろいろ考えさせられた。

 いま見えている現実よりも、違う現実に気づくのと同じで、これは果たしていいことなのだろうか。

 もっと言えば、現状に満足していた「井の中の蛙(かわず)」が、大海の存在を知ることはハッピーなことなのだろうか。

 答えは簡単そうで、実はなかなか難しいのである。
 

投稿者 mukaidani : 22:03

2010年03月01日

白内障の手術に付き添う

 今日は、愚妻の白内障の手術だった。

 早朝8時に病院へ着き、診察だ、点眼だ、順番待ちだと、手術が始まったのは、何と7時間30分後の午後3時30分から。
 手術時間そのものは、わずかに30分足らずであったが、いやはや長い一日であった。

 手術が始まるまで、私は待合室にパソコンを持ち込んで、ひたすら原稿書き。

 簡単な手術とはいえ、不安がっているだろうと、控えの部屋をのぞくと、リラックスチェアーに深々と腰をかけてオットマンに脚を乗せ、グーグーと高いびきではないか。

 度胸がいいのか、あるいは昨夜、メシを食いに行って飲んだ赤ワインの余韻が残っているのか。

 手術は無事に終わった。

「待たせてごめんなさい」
 と、愚妻が感謝したわけではない。

「晩ご飯、どうする?」
 きわめて現実的な第一声であった。

「大丈夫か」
 という言葉を私は呑み込んだ。

 このぶんなら心配はあるまい。
 

投稿者 mukaidani : 21:50