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2010年01月31日

若者はなぜ〝小市民的〟になったのか

  ザブン、と湯船につかると、唐突にいろんな思いが脳裏に浮かんでくる。

 今日も、九十九里の温泉健康ランドの露天風呂に浸かるや、
(重厚長大、軽薄短小)
 という言葉が浮かんできた。

 たぶんメタボのおっさんを目にしたせいだろう。

 パソコンやテレビを持ち出すまでもなく、時代はどんどん「軽薄短小」に向かっている。

 機器に限らず、成熟した先進諸国は「小さな政府」を目指している。

 長らく続く小顔ブームも、ダイエットによるスリム化も、こうした人類のトレンドと無縁ではないのではないか。

 高度経済成長期、日本は産業界をあげて「重厚長大」を目指した。
 このトレンドにあって、メタボのおっさんは、
「恰幅がいい」
 と賞賛され、スリムな男は、
「貧相だ」
 とマイナス評価された。

 メタボがヤリ玉にあげられるようになったのは健康志向のあらわれである、というのは当たらない。

 健康によかろうが悪かろうが、人間は理屈でなく、「そいう気分」にならなければ節制をしないものであるからだ。

 いまの時代、若者が〝小市民的〟になったといわれる。

 なるほど、ホラを吹く若者に会ったことがない。
 ホラどころか、老後がどうした、安定した会社に勤めたらどうとか、将来の夢さえ語らない。

 だが、若者を非難してはいけない。
 若者の「大志」が「小志」になってしまったのは、「軽薄短小」のトレンドであることを思えば、当然なのである。

 むしろヤバイのは、「重厚長大」を引きずっている我ら中年以降の世代だ。
 人間関係や生活スタイル、人生観を含め、すべてにおいて、もっともっとシンプルにスリムに生きなければ、時代に取り残され、哀れな晩年になるだろう。

 と、ヒマにあかせ、そんなことを湯船でつらつら考えたのであった。

投稿者 mukaidani : 19:16

2010年01月30日

「選択」と「迷い」

 人生は日々、「迷い」である。

 何に迷うかというと、「選択」である。

 右に行くか左に行くか、イエスかノーか、やるべきか、やらざるべきか。

 レストランでメニューを選ぶなら経験則で簡単だが、人生における選択となると未経験のことが多く、迷いに迷ってしまう。

 だが、この迷いの根源は「正解」を求めることにある。

 人生の幸不幸は「あざなえる縄のごとし」で、幸せも不幸も半分半分であるにもかかわらず、
「どっちを選択したほうが幸せになるか」
 という考え方をする。

 正解など無いにもかかわらず、正解を求めるのだから、迷い、悩むのは当然だろう。

 しかし、こんな言い方をすれば身もフタもないが、どっちを選らんだところで、結局は後悔するのだ。

 選択の結果が不幸であれば当然後悔するだろうし、ハッピーであっても、それを素直に喜ばず、
(あっちを選んでおけば、もっと幸せになれたのではないか?)
 という思いが頭をもたげてくるというわけだ。

 選択とは、「何かを得るかわりに、何かを捨てること」なのだ。
 ここに気づかず、すべてを得ようと考えるから迷い、悩み、その結果、どっちを選択しても不満足な思いにとらわれてしまう。

 選択をハッピーな結果にするには、
「得て、そして捨てる」
 という決然とした覚悟を持つこと以外にないのだ。
 
《選択とはすなわち、これ取捨の義なり》
 とは、法然上人が著した『選択本願念仏集』の冒頭に出てくる言葉だ。

「一つのものを選び取ることは、ほかのものを捨てることである」
 という意味で、まさに「選択」という人生の要諦を喝破した至言ではないか。

 人生の幸不幸は「選択」で決まるのではない。
「選んだ結果に対して、どう向き合うか」
 という覚悟で決まるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:50

2010年01月29日

言動を正せば「意欲」が出てくる

 保護司は、保護観察対象者に月2回面接をして、近況を聞いたり、相談に乗ったり、更正のための指導をしたりする。

 面接は対象者の来訪が基本だが、1人につき月2回ということは、私の場合は5人担当しているので、月10回のアポイントとなる。

 しかも約束をすっぽかす対象者もいるので、5人担当していれば月に15回ほどスタンバイすることになる。

 これに加えて現在、刑務所で服している対象者が5人。身元引受人と会ったり、刑務所へ面会に行ったり。

 ま、そんなことはともかくとして、対象者の更正に対する意欲は、約束を守れるかどうかでわかる。

 きちんと来訪する対象者、あるいは都合が悪くなったと事前に電話してくる対象者は更正の意欲に富み、自分の将来にきちんと目を向けている。

 反対に、約束ひとつ守れない対象者は更正の意欲に乏しい。

 このことは、道場の稽古でも言える。
 稽古時間前に来る子供、挨拶できる子供、姿勢のよい子供、きちんとした言葉が使える子供は、稽古に意欲的である。

 すなわち、
「意欲は言動に出る」
 ということなのだ。

 これを逆説的にとらえるなら、
「言動を正せば、意欲が出る」
 ということでもある。

 だから保護観察対象者は、更正を指導するよりもまず、時間を守る、約束を守るという生活態度(言動)を正すようにすれば、結果として更正意欲が出てくるということになる。

 道場の子供たちは、技術を教えるよりも、挨拶や姿勢、言葉づかいを正せば、結果として稽古に意欲が出でくる。
 幼児のうちから親がきちんと躾(しつけ)ておきさえすれば、子供は勉強にスポーツに武道にと、スクスクと健全に育っていく。

 組織においてもそうで、部下に対して仕事の意欲を喚起させようと思えば、普段の言動をきちんと正せば、おのずと仕事はできるようになっていく。

 すべては「日々の態度(言動)」にカギがあるのだ。

投稿者 mukaidani : 11:15

2010年01月28日

「ほめる」ということについて

「ほめる」ということが、最近、よく話題になっているようだ。

 ギスギスした世のなか、「ほめられること」で気持ちが救われるのだという。

 私も「ほめること」は大事だと思っている。

 だから、稽古では、「叱る」より「ほめること」を常に考えている。
 北風と太陽のたとえを持ちだすまでもなく、太陽のほうがはるかに効果的だと思うからだ。

 だが、最近になって、ちょっと考えが変わってきた。
「ほめる」は、実は「叱る」があるから意味を持ってくることに気がついたからだ。

 叱られるから、あるいは評価されないからこそ、ほめられると嬉しくなってくる。気持ちが救われる。

 ということは、上手にほめるためには、いかに「上手に叱るか」ということが大事になってくるというわけである。

 だが、叱り方は難しい。
 ほめられて相手を恨む人間はいないが、よかれと思って叱ったことでも、逆恨みされることがあるからだ。

 だが、「上手な叱り方」を抜きにして「上手なほめ方」は存在しない。

「叱る」という〝リスク〟を避け、ほめることばかりがクローズアップされるのは、社会全体において「事なかれ主義」の象徴のような気がするのである。

投稿者 mukaidani : 06:14

2010年01月27日

愚妻の「明日から地獄」

 愚妻が、1日1400カロリーの食事を心がけるよう医者から言われた。

 カロリーのことなど念頭にない愚妻のために、私は食べ物のカロリー一覧を用意し、愚妻の〝カロリー生活〟が始まった。

 愚妻らしく、愚直に〝カロリー生活〟を始めたので、私は危惧した。
 いきなり小食にするとストレスが生じ、イライラが私にハネ返ってくるかもしれないからだ。

 で、言った。
「何事も〝急ハンドル〟を切るのはよくない。〝カロリー生活〟も少しずつにすべきだ」
「わかったわ。少しずつね」
 眼が輝いている。
 もともと食い意地が張っているだけに、こういう助言には素直に耳を貸すのである。

 で、某夜、イタ飯を食べに行った。
「どうした、ワインは飲まないのか?」
「カロリー、高くなりすぎない?」
「大丈夫。明日、節制すればよいのだ」
「そうね」
 赤ワインをグラスで3杯飲んだ。

 で、先夜、寿司屋さんに行った。
「どうした、酒は飲まないのか?」
「カロリー、高くなりすぎない?」
「大丈夫。明日、節制すればよいのだ」
「そうね」
 熱燗を銚子で3本飲んだ。

 かして、愚妻はそうと知らず、恐怖の「明日から地獄」に陥(おちい)りつつあるのだ。

 これまで私は、いろんなことで「明日から地獄」に苦しんだ経験がある。
(明日から。よし、明日から。なあに、明日からやればいいんだ)

 その「明日から地獄」を、決意することに乏しい愚妻に身をもって教えるのは、意地悪でなく、夫たる私の義務でもあるのだ。

投稿者 mukaidani : 06:30

2010年01月25日

朝の湯船で、思わず唸る

 今朝5時30分。
 起床して、いつものように朝風呂に浸かっていて、唐突に「知識」という言葉が浮かんできた。

 世のなか、博学の人がいるが、
(博学であることに、どれほどの意味があるのか?)
 という懐疑である。

 政治、経済から社会、文学、科学、雑事まで、立て板に水で博識を披露するコメンテーターがいて感心するが、よくよく考えてみたら、知識のひけらかしにすぎないではないか。

 博識は、そこに立脚して「自分の意見」や「人生観」を語って意味があり、知識のひけらかしは、百科事典を広げているようなものである。

 反対に、たとえばこの道一筋の職人さんは、博識ではないが、仕事を通じて得た経験をもとに、人生をも語る。

 ある植木職人さんは、
「曲がった木だって、使いようで活きてくるんだ」
 と言った。

 本人は「人生論」を語っているつもりはないにしても、これは人生に一脈通じることである。

 博識をひけらかす〝百科事典人間〟の言葉には、この含蓄がない。

 博識人間の知識は、いわばボデイービルの筋肉のようなもので、筋肉モリモリであっても、その筋肉の使い道がないのだ。

 反対に、職人さんなどこの道一筋の人間は、その〝競技〟を通じて鍛え上げたアスリートの筋肉ということになろうか。

(さて、私はどっちだろうか?)
 湯船で考え、思わず唸った。

 ひょっとして、私はボディビルダーでもアスリートでもない、ただの〝観客〟ではないのか?

 

投稿者 mukaidani : 09:59

2010年01月24日

袴と着物と〝長幼の序〟

 稽古のとき、稽古着の上に袴(はかま)をつけることがある。

 着物に袴をつけるときの練習である。

 ところが、小学校低学年の子供たちにはスカートに見えるらしく、
「あっ、館長がスカートはている」
 ククククッ、と笑う。

 小3の女の子など、何を思ってか、私のそばにやってきて、
「館長、それ、穿かないほうがいいよ」
 声をひそめて注意してくれるのである。

 スカートを穿いていると思われたのでは、実にマズいので、私が誤解を解くべく言う。
「これは袴。剣道の選手が穿いているだろう」
「剣道と空手は違うもん」
「じゃ、サムライ。ほれ、テレビで龍馬が穿いてるだろう」
「館長は龍馬じゃないもん」
 聞く耳を持たないのである。

 あるいは先日。
 稽古が始まる前、着物で道場にいたところ、低学年の女の子が早めにやってきて、
「館長、着物を着るのは七五三のときだよ」
「違う」
 と、私が抗弁しても、「着物は七五三」と意って譲らないのである。

 日本の文化は、もはや風前のともしびである。
 かつて弟子は、師に対して、三尺下がって影も踏まなかったのに、いまの子供たちは、私のスキンヘッドを競うようにして触りたがる。
「長幼の序」と言ったところで、いまの若者の何人が理解できるだろう。

「長」の年代になった私は、ひたすら嘆くのである。

投稿者 mukaidani : 00:14

2010年01月21日

枝葉末節に眼を奪われるな

 今日、経営コンサルタントで、倒産回避のエキスパートである立川昭吾先生に所用があり、何年かぶりにお会いした。

 かつて漫画サンデー誌で、『裁きの銀』という連載劇画のシナリオを私は書いたが、そのモデルが立川先生だ。

 相変わらずエネルギッシュで、
「小沢問題、面白いですか?」
「ええ」
「どうして?」
「逮捕まで行くのかどうか、面白いじゃないですか」
「でもね、私のように経営という戦場の最前線にいる者からすれば、小沢さんの問題も大事だろうけど、いまのこの経済危機をどうするのかと危惧しますね。緊急課題を放っておいて、メディアも国会も小沢問題一色。正気の沙汰とは思えない」
 正論をズバリ。

 そういえば、かつてウラ社会で活躍していた知人が、
「芯(しん)をつかめ」
 と、口癖のように言っていたことを思い出した。

 これを私流に解釈すれば、
「枝葉末節(しようまっせつ)に眼を奪われるな」
 ということだ。

 枝葉(えだは)がいかに見事に繁っていようと、それは幹(みき)があってのこと。幹がなければ、枝葉は存在しないのだ。

 しかるに私たちは、見事な枝ぶりに眼を奪われてしまう。
 その結果、幹という〝本体〟を見失ってしまうというわけである。

 小沢問題、日本航空の問題、さらに環境、失業、不景気、教育などなど、耳目を引く話題や事件は多いが、
「私たちにとって、それらがどいういう意味を持つのか」
 という〝幹〟を見る視点を忘れてはなるまい。

 この視点は、天下国家のことに限らない。

「なぜ生きるのか」
「なぜ仕事をするのか」
「なぜ腹を立てるのか」
「なぜミエを張るのか」
「なぜ恥ずかしがるのか」

 日々の生活において、私たちは枝葉に眼を奪われ、幹という芯を見失ってはいないだろうか。
 だから風が吹くたびに、右に左に揺れる枝葉を追って、右往左往する。

 人生に疲れるのは、きっとそのせいだろうと、立川先生とお会いした帰途、つらつらと、そんなことを考えた。

投稿者 mukaidani : 22:14

2010年01月20日

不景気を楽しむ

 不景気の大合唱だが、我が家は違う。
 なぜなら、我が家は一生を通して「好景気」がないのだから、必然的に「不景気」という概念はないということになる。

「どうだ、よろこべ」
 愚妻に言うと、
「それもそうね」
 と、珍しく賛意を表した。

 人生に居直っているのだ。
 女とは、なんと強いものではないか。

 で、愚妻と二人して〝不景気ごっこ〟を始めた。

 昼はたいてい外食するのだが、じっくりとメニューを眺めて、他店とくらべて、高いとか安いとかを話題にして楽しむのだ。

「50円、高いな」
「次からこの店、やめよう」
「ウム。不景気だからな」
 クククク、と笑って楽しむ。

「あら、サラダ、注文しないの?」
「バカ者。不景気だぞ」
 クククク、と笑う。

「トイレ、ちゃんと流したの?」
「バカ者。不景気だぞ」

 不景気という言葉は、まさに〝葵の御紋〟で、
「ひかえおれ! 不景気の印籠が眼に入らんか!」
 この一言で、人生はスイスイと渡っていけるのである。

 

投稿者 mukaidani : 22:34

2010年01月18日

逮捕された石川議員の「生き方」

 地検特捜部に逮捕された民主党衆院議員、石川知裕容疑者は、小沢幹事長の書生から金庫番、側近議員へとステップを踏んだ。

 その過程においては、小沢幹事長の逆鱗に触れ、小沢邸の玄関先で泣きながら土下座し、赦しをこうたこともあるという。

 そうしたお陰で、議員バッチをつけるまで出世したわけだが、その結果、〝小沢がらみ〟で地検に逮捕された。

 逮捕前、地検の厳しい追及に、
「もう耐えられない。死にたい。聴取にも応じない」
 と涙ながらに周囲に語ったという。

 石川議員の人生が狂ったのは、どこに原因があるのだろうか。

〝小沢だのみ〟であったことだ。
 小沢氏に嫌われたら、石川議員の政治家としての人生はなくなる。
 だから泣きながら土下座もし、地検との板挟みで苦しみ、そうして最後に逮捕された。

 小沢氏だから悪い、というのではない。
 特定の人間だけをたより、その人間の力を頼りに政界に生きていこうとした「生き方」が間違いであったろうと思う。

 自分の人生は、自分の力で生きていくものだ。
 だから、志(こころざし)の実現のため、死ぬほどの努力はすべきだと思う。
 だが、土下座をするという生き方は間違っていよう。
 なぜなら、土下座は人間としての尊厳の放棄であり、尊厳を放棄して、人生が幸せになるわけがないからである。

  

投稿者 mukaidani : 12:04

2010年01月16日

我が〝予算〟を仕分けする

 このところ、無駄遣いをしなくなった。

 自分で、自分の「事業仕分け」を始めたからだ。

 かの民主党の仕分けで、蓮舫さんの居丈高な態度がとても面白く、自問自答でマネているのだ。

「なんですか、この帯代5万円というのは?」
 もうひとりの私(蓮舫議員)が、そろりと質問してくる。
「エー、着物の帯であります」
 私が緊張しながら答える。

 すると〝蓮舫議員〟が、キッと眼を据えて、
「帯がないと着物は着られないんですか」
「必要欠くべからざるものです」
「では、おうかがいします。いまの着物は何で締めているんですか?」
「帯です」
「じゃ、帯は持っているじゃありませんか。予算は廃止!」
「そんな」
 かくして、私は帯を買わず、5万円が浮いたというわけである。

「なんですか、このフランス料理3万円というのは?」
「たまには、パッと豪勢にいこうかと思いまして」
「どうして豪勢にいくのですか?」
「人生の楽しみです」
「あなたはじゅうぶん人生を楽しんでいるじゃありませんか。予算は廃止!」
 かくして、私はフランス料理を食べず、3万円が浮いたというわけである。

 で、愚妻に自慢した。
「おい、聞け。わしはたった2回の事業仕分けで8万円を節約したぞ」
 すると愚妻はニッコリ笑顔で、
「よかったわ。民主党は浮いたお金を子供手当にまわしたんでしょ。あなたは何にまわしてくれるの?」

 事業仕分けは、本当に賢明なことなのだろうか。
 私の頭は混乱するばかりなのである。

投稿者 mukaidani : 23:40

2010年01月15日

逮捕された石川議員は〝真冬のカエル〟

 小沢幹事長の逮捕はあるのか。

 私設秘書だった石川知裕衆院議員の逮捕で、メディアも私たちも、関心はこの一点といっていいだろう。

 石川議員がすべてをゲロするか、頑として黙秘で踏ん張るか。

「おまえ、どう思う」
 テレビニュースを見ながら愚妻に問うと、
「しゃべるに決まっているでしょ」
 あっさり言ってのけた。

「どうしてだ?」
「あの顔、見ればわかるじゃないの。お汁粉、食べる?」
 愚妻にとっては、たいしたニュースではないようだ。

 もっとも、私たちにとっても〝小沢疑惑〟は昔からあった。
(小沢なら、いろいろやってるんだろうな)
 と思っていただけに、楽しみながら事件の展開を見ているといったとろか。

 さて、石川議員はゲロするか、黙秘するか。

 こういう場合、被告の根性が問題にされるが、私はそうは思わない。

 被告が踏ん張れるかどうかは、
「親分が自分の骨を拾ってくれるかどうか」
 という信頼関係による。

 責任の一切を負えば、必ずやそれら報いてくれるという絶対の信頼感があれば、とことん親分をかばうだろう。

 とみろが、
(責任の一切を負っても、ほどぼりがさめたらポイされるかもしれない)
 という疑いの心がちょっとでもあれば、結局、ゲロってしまうだろう。

 ゲロするか黙秘するかは、本人の根性の問題ではなく、親分の人徳の問題ということなのである。

 小沢幹事長はどうか。
 たぶん、ポイするだろうな。
 剛腕で冷酷だもの。

 となれば、石川議員も、公設秘書も、ゲロゲロゲロゲロ、真冬のカエルになることだろう。

投稿者 mukaidani : 23:03

2010年01月12日

カツラのCM

 カツラのテレビCMが、やたらと目につく。

 カツラをつければ、暗い人生がバラ色に変わるかのようだ。

 ケチをつけるわけではないが、これは「ハゲは恥ずかしいこと」という前提に立ってのことだろう。

 ハゲのどこが悪いのか。

 私はスキンヘッドにしているが、得度する前から坊主頭だ。
 それも5厘カット。
 恥ずかしいとも何とも思わなかった。

 こんなことを言っては身もふたもないが、大枚をはたいてカツラをつけたところで、
「容姿において大勢に影響はない」
 と思われる人も少なくないではないか。

 頭が薄くなったからといって嘆くことはない。
 ハゲをトレードマークにせよ。

 これはハゲに変わらない。
 肥満でよし、ダサくてよし、ビンボーでよし、地位も名誉もなくてよし。

「今日も笑顔で暮らしている」
 という〝自己満足〟さえあれば、人生はハッピーなのだ。

 ハゲをカツラでごまかすような生き方で、人生がハッピーになんぞ、なるわけがない。

投稿者 mukaidani : 22:37

2010年01月11日

なるほど、百年に一度の不景気である

 いま、やっとこさ原稿を書き終え、送稿したところだ。

 原稿書きに加えて、金、土、日と所用がつづき、ブログを書く時間がなかった。

 明日から稽古が始まるので、今日は拙宅の自室と、道場内の仕事部屋を片づけたいのだが、親父と愚妻と3人で、朝10時から新・旧2カ所の畑へ出かける約束をしている。

 いまから寝れば3時間ほどしか眠れない。
 午後からに変更したいところだが、庭でゴソゴソと物音がしている。
 親父が早々に出かける用意をしているのだろう。

 雨が降ってくれればいいのだが、今日もいい天気のようだ。

 しょうがない。
 ひと眠りして頑張るか。

 寝る前にニュースをチェックしたら、小沢幹事長の政治資金に関するニュースがにぎやかだ。
 億単位の話だもんな。

 私なんか、つい先日、マンガの単行本が発売され、そのすぐあとに出版社がヤバイことになった。
 私の時代小説を週刊のコミック誌で連載し、それを一冊にまとめて出版したもので、書き下ろしではないから、まっ、しょうがないか。

 愚妻もノー天気に、
「あら、出版してすぐ倒産するなんてヘンな会社」
 とアホなことを言っている。

 景気と無関係の人生を送ってきた私だが、なるほど「百年に一度」の不景気であると、実感しつつ「お休みなさい」である。

 
  

投稿者 mukaidani : 06:56

2010年01月08日

今年は〝柳に風〟でいこう

 今日は昼に九十九里の仕事場から帰宅し、午後から出版社で打ち合わせ、そのあと某新年会に顔を出した。

 久しぶりに会った編集プロの知人が出版不況を嘆く。
「出版社に書籍の企画を持ちこむと、〝それって、売れますか〟なんて訊くんだよね。みんな数字にビクビクしている」

 商売だからもちろん数字を抜きにして成り立たないが、これまでは書籍にしろ雑誌にしろ、「面白いかどうか」で企画を判断した。

「自分が面白いと思ったものは売れる」
 という編集者の信念である。

 ところが、出版界のこの不況で、面白いかどうかよりも、
「売れるのか」
 という思いが先に立ってしまうというわけである。

 私もいま2冊を同時進行で書き進めているが、もし「売れるのか」と問われれば、こう答える。
「すべてはご縁のものです」

 今年は「ご縁」をキィーワードに何事もこだわらず、〝柳に風〟で過ごそうと思っている。
  

投稿者 mukaidani : 23:55

2010年01月07日

私のブログに愚妻がご機嫌ななめ

 このところ愚妻の機嫌がよくない。
 年賀状のせいである。

「ブログ、楽しみにしています」
 といった一文が、私宛の年賀状に何通も添えられているからだ。

 ありがたいことだが、これが愚妻には気に入らない。

 いつかこのブログで紹介したと思うが、友人が所用で拙宅に電話してきたおり、
「ブログ読んでます。奥さんもいろいろ大変ですね」
 といったことをもらしたからである。

 悪いことは重なるもので、たまたま別の知人が、
「奥さんの悪口ばかりブログに書いてある」
 といったようなことを冗談で言ったのである。

 さらにさらに、道場に来る幼児が愚妻に、
「眼が悪いの?」
 と心配顔で言ったのだ。

「あら、どうして知ってるの?」
 愚妻が問うと、
「ウーン、よくわかんないけど、お父さんがパソコンで見たんだって」

 さあ、愚妻の怒るまいことか。
「ちょっと、何でもかんでも私のことをブログ書いてるみたいじゃないの」
 私に抗議したのである。

 そんな経緯があるものだから、年賀状に「ブログ、読んでいます」なんて一文があると、
「まさか、まだ私の悪口を書いているんじゃないでしょうね」
 ご機嫌ななめになるというわけである。

 愚妻も自分のパソコンを持っているし、メールもインターネットもやるくせに、私のこのブログには絶対にアクセスしない。
 たぶん意地になっているのだろう。

 昨年は太宰治の生誕百年だとかで、今年も太宰ブームがつづいているそうだ。
 私がもし太宰のごとく私小説を書けば、売れるより何より、愚妻の逆鱗に触れてエライことになるだろう。

 太宰はやっぱりたいしたもんじゃないか。

投稿者 mukaidani : 19:55

2010年01月06日

「人間は考える葦」の真意

 今日は九十九里の仕事部屋へ行き、夕方になって近くの温泉健康ランドへ出かけた。

 露天風呂につかっていると、初老の男性が入ってきて、
「陽が長くなったなァ」
 身体を沈めながら長閑(のどか)につぶやき、遠くの空を仰いだ。

(ノンキなこった)
 と、我が身を棚に上げ、
(こういうタイプはウツ病とは無縁だろうな)
 そんなことを思いながら、何となくウツ病のことを考えているうちに、ウツとは何と理不尽な病気だろうと腹が立ってきた。

 ウツになる人は、完璧主義だとか、きまじめだとか、責任が強いとか言われているが、よくよく考えてみると、これらはみな、人間として素晴らしいことではないか。

 きまじめで責任感が強い人がウツになり、チャランポランでノホホンと生きている人間が人生を謳歌するとなれば、これほど理不尽なことはないと思ったのである。

 だが、さらにもっと深く考えてみると、きまじめで責任感が強いことを「善」、チャランポランであることを「悪」とする前提が、果たして正しいかどうか、ということである。

 太古の昔、人間は天気まかせで、その日暮らしをしていた。
 現代の価値観で言えば、チャランポランな日々である。

 ところが、かのパスカルが「人間は考える葦(あし)である」と喝破したごとく、人間には知恵がある。

 だから、
「天気まかせの、その日暮らしをしていてはだめだ。しっかり働いて、食料を蓄えておこうじゃないか」
 と、立ち上がった人間がいただろう。

 これに対して、旧来のチャランポラン派は、
(冗談じゃねぇよ)
 と思いつつも、しっかり働いてくれるなら結構なこと。
「素晴らしい! あんたは勤勉で、マジメで、責任感が強い人だ」
 とか何とかヨイショし、自分は働くふりをしてノンキに暮らした。

 たぶん、こんなことから、きまじめで責任感が強いことが「善」ということなっていったのではあるまいか。

 つまり人間は本来、チャランポランであったものが、「考える葦」であるがゆえに、妙な具合になったというわけである。

 そんなことを露天風呂で考えつつ、私はハタとパスカルの真意に気づいた。
 パスカルは人間の知恵を賛美したのではなく、
「人間は考える葦である。ゆえにウツにならないよう気をつけろ」
 と警告を発していたのである。


 

投稿者 mukaidani : 21:54

2010年01月05日

顔と〝苦労の年輪〟

 アメリカ16代大統領のリンカーンは、閣僚の人選を顔できめたというエピソードがある。

 ウソのようなホントの話だ。

 組閣にさいして、側近が、ある人物を閣僚に推薦したところが、リンカーンは、顔が気に入らないという理由で却下したのだ。

「そんな無茶な!」
 側近は驚いて、
「顔は生まれつきのものじゃありませんか」
 と抗議すると、リンカーンは言った。
「40歳にもなれば、人間は自分の顔には責任をもたねばならない」

 今朝、私は風呂に入って鏡で自分の顔を見たとき、リンカーンのこの言葉が脳裏をよぎった。

 そして、自問した。
(40歳で顔に責任を持たなければならないなら、還暦を迎える私はどうなんだ?)

 まじまじと鏡の顔をのぞきこむ。
 歳月が樹木に年輪を刻むように、人間の顔もまた、それぞれの人生が刻まれているはずだ。

 ところが、シワはあっても〝人生の年輪〟はどこにもないではないか。
 私も人並みには苦労してきたと思っているが、その痕跡がないのである。

 しばし考え、
(なるほど)
 と合点した。

 人間は、苦労が顔に出る人間と、そうでない人間がいるのだ。

 そして、我が身の不幸に思い当たった。

 私は苦労が顔に出ない人間だから、極楽トンボのように見られてしまうのだ。
 これほどの不幸があるだろうか。

 顔を履歴書とし、判断したリンカーンは人間を見る眼が甘いと、私は湯船に身体を沈めつつ結論づけたのである。

 

投稿者 mukaidani : 18:48

2010年01月03日

大学駅伝のテレビ観戦

 大学箱根駅伝で、東洋大が2連覇した。

 86歳の親父は駅伝が大好きで、昨日も今日も朝からチビリチビリやりながらテレビ観戦で、
「おっ、手の振りがおかしいぞ」
「おっ、顔をゆがめとる。もうすぐ坂じゃけん、やられるかもしれんど」
 何だかんだと勝手な講釈をたれている。

 面倒なので、私は相槌も打たないが、おしゃべりな愚妻はそこがわからない。
「でも、箱根に出場するって、たいしたもんよねえ」
 余計なことを言うから、86歳が即座にそれに喰いつき、
「そもそも予選会を勝ち抜くというのは」
 講釈は延々と続くのであった。

 それにしても、駅伝、野球、ボクシング等々、「観戦」とは何とも楽なものではないか。

「走れ!」
「根性だ!」
「何やっちょる!」

 自分はコタツで一杯やりながら、勝手なことを言っていればいいのだ。

 人生レースも「観戦者」でいられたなら、これほど楽しいものはあるまいに、と86歳の〝講釈師〟を横目で見ながら思うのである。
 

投稿者 mukaidani : 16:37

2010年01月02日

初詣は中止だ

 初詣に行かなくなって、今年で4年目である。

 かつては近くの成田山新勝寺へ出かけ、参道の鰻屋へ立ち寄るのが正月行事だったが、得度してから当然ながらやめた。

 成田山は真言宗で、私が得度したのは浄土真宗。

 いくら鰻を食べに行くのがメインとはいえ、新年初頭、親鸞さんを差し置いて、空海さんに手を合わせるというわけにはいかない。

 行くなら当然、築地本願寺だ。
 千葉の佐倉市から都内築地までちょっと遠いのだが、本日は「今年こそ」との決心である。

 本音を言うと、鰻のかわりに、帰りは浅草へ寄って着物を見ようという魂胆だ。
 いつも行く店に電話して、正月営業については確認してある。
 あとは愚妻をたぶらかして、お金を出させればOK。

「おい。初詣のあと、浅草へ寄って食事でもご馳走しようか?」
「自分で買ってよ」
 ジロリとにらむ。
「まだ何も言ってないじゃないか」
「あなたの魂胆なんか、わかってわよ」

 身銭を切れば、この先ずっと自分で買わされることになる。
 これはまずい。
 どうするか。

 しばし考えてから、
「初詣は中止。天気がいいから風呂へ行くぞ」
 君子は豹変するのだ。

 そんなわけで、本日は午後からスーパー銭湯へ出かけ、露天風呂につかりながら、次回のチャンスを待つことにしたのである。

 

投稿者 mukaidani : 19:06

2010年01月01日

「一年の計」と「三日坊主」

 一年の計は元旦にあり、で、
(よし、今年こそ!)

 あれをやろう、これをやめようと、決意を新たにした人も少なくないだろう。

 だが、この新たなる決意も長続きせず、
「三日坊主」
 という言葉が脳裏をよぎり、意志の弱さに嘆息することになる。

 だが、心配ご無用。

 私もこれまでいろんな決意を新たにし、意志の弱さというものをいやというほど知らされて落ち込んだこともあるが、最近はそういうことはなくなった。

 それは、以下のような「気持ちの流れ」でいくのだ。

 まず「一年の計は元旦にあり」で、新年初頭に決意を新たにする。

 これがうまく続いていけば、
「継続は力なり」
 と自分に言い聞かせ、さらなる継続を目指す。

 ところが、継続どころか、たちまち腰砕けになれば、
(なるほど、「三日坊主」とはうまいことを言ったもんだ)
 と納得し、
(ならば今年は、「終わりよければ、すべてよし」でいこう)

 すぐさま〝目標〟を切り替えるのである。

 そうすれば、三日坊主の腰砕けで落ち込むこともなく、前向きに日々を生きていけるというわけである。

 かくのごとく、人生というやつは、気持ちの持ちようでどうにでもなるのだ。

 ともあれ、謹賀新年。

 今年もよろしく。

投稿者 mukaidani : 10:08