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2009年12月30日

順風のときに「最悪」を考えよ

 右足の中指を何気なく触って、
(ありゃ?)

 感覚がないのである。
 ここ数日、右膝に違和感があるので、脊柱管狭窄症の影響かもしれない。

(ヤバイなァ)
 と思いつつ、しかし脊柱管狭窄症があるのは4年前からわかっている。

 わかっているにもかかわらず、いまになって「ヤバイなァ」と思うのは、覚悟のほどができていないということになる。

 つまり、調子がいいときは忘れていて、いざ具合が悪くなると、あたふたとするというわけだ。

 これじゃ、だめだ。

 何事も順風のときに「最悪」の状態に思いをめぐらし、しかと覚悟することが大事なのではあるまいか。

「順風のとき」というのがポイントで、順風であるから最悪の事態について考えても、気持ちは平静でいられる。

 たとえば、会社勤めが順調なときは、リストラ後の生活設計について考える余裕はあるが、いざリストラされてからでは前途真っ暗で、生活設計どころではあるまい。

 脊柱管狭窄症も同じで、調子がいいときに「痛みが再発したらどう対処するか」を冷静に考えておけば、具合が悪くなっても、
(ヤバイなァ)
 という思いは小さくなるはずだ。

 たぶん「死」も同じだろう。

 いずれ確実に死ぬとわかっているのだから、元気なときに「死」についてきちんと思いをめぐらせ、しかと覚悟しておくべきだろう。

 これも「元気なとき」というのがポイントで、病気になって入院してから、
「人間は必ず死ぬのだから」
 と思えば、気持ちは落ち込む。

 ところが「元気なとき」は、死は現実感がないため、不安なくして考えられるというわけである。

 そして人生はマラソンと同じで、「終点」を見据えて日々を走ってこそ、頑張ることができ、その結果として充実が得られるのではないだろうか。

投稿者 mukaidani : 12:03

2009年12月29日

「行雲流水」を考える

 高校生のころ、『行雲流水』という言葉に惹(ひか)かれた。

 当時、坂口安吾の同名の小説を読み、内容は忘れたが、「行雲流水」という言葉が強烈に印象に残った。

 長じて、『行雲流水』が禅語であることを知る。
 意味は、
「空を漂う雲のように、川を流れ行く水のように、いっさいものにとらわれることなく自由に生きていく」
 というもので、ますます気に入り、いまも気にいっていて、そうありたいと念じている。

 昨夜、愚妻にそのことを話し、
「来年こそは〝行雲流水〟で行こうと思う」
 と言うと、
「それ以上、〝行雲流水〟をやってどうするの!」
 バチ当たりが、人生の深淵を知らず、マジに怒っていた。

『行雲流水』とは、解脱(げだつ)の境地を言うのではない。
「自由に生きようと願って、それを果たせない浮き世の現実にあってなお、しかと生き抜いていきなさい」
 と諭す〝逆説〟であると、私は解釈する。

「であるから」
 と愚妻に諭すのだ。

「私が〝行雲流水〟で生きていこうと言うのは、なまけるという意味ではなく、来年も頑張るということなのだ」
「そうかしら」
 口の端をゆがめて、
「来年も、と言ったら、今年も頑張ったみたいに聞こえるじゃないの。〝来年こそは〟の間違いじゃないの?」

 愚妻のへらず口も、年内あと2日。
 よくぞ1年、私は耐えたものである。

投稿者 mukaidani : 14:45

2009年12月26日

ガキ大将がいなくなった

 最近、「ガキ大将」がいなくなった。
 空手の指導を通じた私の実感である。

 横並びと言うのか、良くも悪くも突出する子供がいなくなり、代わりに可もなく不可もなくの、おとなしい優等生が増えてきたように思う。

 ガキ大将がいなくなった一因は、リーダーシップの欠如だと思う。

「オレの言うことを聞け」
「オレにまかせろ」
「オレについてこい」

 牽引する子供がいなくなったのだ。

 なぜか。

 責任を取りたくないからだ。

 ガキ大将は威張る反面、グループを率いる責任がある。
 イタズラがバレたときは、首謀者としてこっぴどく叱られる。
 他のグループとケンカするときは、矢面に立たなければならない。

 つまり、損得といういまの子供たちの価値観からすれば、ガキ大将は割りにあわないわけだ。
 ガキ大将は「いなくなった」のではなく、「なり手がいなくなった」ということなのである。

 事なかれ主義の子供たちには、チャレンジ精神が希薄だ。
「余計なことをして失敗するよりは、やないほうがいい」
 と考える。

 そんな子供が、果たして魅力ある人間に育つだろうか? 人生の勝者になれるだろうか?
 答えは言うまでもないだろう。

 私たち大人も、いや血気盛んなはずの若者も同じだ。
「周囲との協調」ということを第一義に考えているように見えて、実は「事なかれ主義」に過ぎないのである。

 いま、鳩山総理のリーダーシップが問われている。
 小沢幹事長の豪腕が取り沙汰されている。
 要するに「優等生」と「ガキ大将」の違いなのである。 

投稿者 mukaidani : 21:31

2009年12月25日

神棚とクリスマス

 幼児をつれた若い母親が、入会の説明を聞きに道場へやってきたときのことだ。

 私が説明していると、母親がふと道場正面に目をとめ、
「神棚があるんですか」
 と眉間に眉を寄せて、
「我が家はクリスチャンですから」
 そそくさと帰って行った。

 どんな教団か知らないが、なかなか立派な信者さんだと感心しつつ、あきれたものだ。

 実を言うと、私は得度して僧籍を持って以後、道場の神棚は気にはなっていた。
 だが、道場の神棚は「神道」としての意味ではなく、稽古において無事息災を願う象徴として古来より続いているものだ。
 そういうことから、あえてこだわることもあるまいと、これまでどおりにしているわけである。

 今日はクリスマス。
 イエス・キリストの誕生を祝うキリスト教の記念日であるが、クリスチャンでない人にその意識はなく、バレンタインデーと同列のイベントの一つになっている。

 なんのことはない、道場の神棚と同じなのである。

「クリスチャンでもないのに、どうして大騒ぎするのか」
 と〝非クリスチャン〟が目くじらを立てれば、クリスチャンは、
「どうしてクリスマス本来の意味をわかってくれないのか」
 と嘆くことだろう。

 何事においても、広まってしまえば、本来の意味を離れて一人歩きしていくものなのだ。
 それなのに、本来の意味を知って欲しくて広めようとする。
 矛盾である。

投稿者 mukaidani : 13:15

2009年12月23日

努力するようではダメだ

 道場のほか週2回、近くにある中学校の剣道場で空手の稽古をしている。

 道場の稽古は、段級位や年代に分けて稽古しているので、年齢や技量を超えて一緒に稽古する機会をつくるためである。

 だが、道場と違って、学校の広い剣道場は寒い。
 で、昨夜の稽古は、子供たちの要望で走ろうということになり、中学生の黒帯たちにまかせ、リレーなどゲーム的な走りを始めた。

 すると、どうだ。
 走ること、走ること。
 普段の稽古はチンタタラやっている子どもも、大マジメに、そして必死に走るのである。

 それを見ていて、
「人間、努力するようではダメだ」
 という言葉を思い浮かべた。

 すでに故人になられたが、気学の大家の平山喜堂先生が、私におっしゃった言葉だ。
「人間、好きなことなら寝食を忘れて没頭する。そこには努力という意識はない。だから、努力するようでは、まだまだダメなんだね」

 努力は尊いが、努力を必要とするようでは、本物ではないということだ。

 嬉々として走る子供たちを見ていて、そんなことを思った。
 彼らにとって空手の稽古は努力。
 努力という意識を超えさせるにはどうすればいいか。

 同様に仕事も人生も、いかに「脱努力」であるべきか。

 昨夜は、あれこれ考えさせられたのであった。 

投稿者 mukaidani : 09:07

2009年12月21日

「年齢」を考える

 昨日、ある懇親会の席で、年配の方に年齢を問われ、
「もう59歳です」
 と答えると、
「なんの。若くていていですね。まだまだいろんなことができて、うらやましい」
 と言われ、面食らった。

 還暦以後は余生のつもりでいるのに、70歳を過ぎた人から見れば「若い」ということになる。

 一方、私から見れば30代は〝人生の駆け出し〟で、40歳になって以後を、
「若いね」
 と言う。

 私が担当する保護観察対象には30代も40代もいるが、
「もう30歳ですからね。ヤバイっスよ」
「いやあ、もう40代になってしまいました」

 たいていこんな言い方をする。
 私から見れば「人生、これから」の年代でありながら、当人たちは人生の〝たそがれ期〟に入ったように思っている。

 いや、20代の女の子でさえ、
「やだァ、あと5年で30歳だもん」
 と、そんな言い方をする。

 どうやら年代に限らず、年齢に関しては常に「もう」という意識があるということか。

 なぜそうなのか考えると、たぶん、それは〝人生に急かされている〟せいではないだろうか。

 30代、40代で退職後のこと、老後のことを考える時代であることを思えば、なるほど人生は短く、
「もう40歳」
 という気分にもなるだろう。

 今年もあと10日。

《短い人生、そんなに急いでどこへ行く》

 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎるのである。

投稿者 mukaidani : 10:52

2009年12月19日

稽古で大アクビ

 昨夜、稽古の最中、私が大アクビをした。

 すると小学4年生の女の子が、ツカツカと私のそばにやってきて、
「私たちが一所懸命に稽古しているのに、どうして館長はアクビをするの」
 と抗議してきた。

 これには私は驚いた。

 抗議に驚いたのではなく、「自分たちは一生懸命に稽古している」と思っていることに驚いたのである。

 私の眼には、チンタラと楽しそうに稽古しているように見えるが、当人たちは、そうは思っていないというわけで、これには大いに考えさせられた。

 私たち大人は当然のこと、ものごとを客観的尺度でとらえるが、子供たちはそうではなく、「自分の思い=主観」でとらえているということである。

 となれば、「主観的人間」に対して客観的視点から注意しても、言うことを聞かないのは道理であろう。

 したがって子どもに注意するときは、「主観」と「客観」をジョイントする視点なり理屈が必要ということになる。

「いやあ、すまん」
 と、4年生の女の子に謝りながら、
「一所懸命に稽古しているから、ずいぶん上手になったんだろうね」
 と客観的視点へ誘導すべく、そろりと話を振ったところが、
「上手にならないから一所懸命やってるんじゃないの」

 そんなこともわからないのか、という眼で私をニラんだ。
 小学生といえども、ことほどさように女の子の指導は難しいのである。 

投稿者 mukaidani : 13:21

2009年12月17日

笑う門に福来たる

一笑一若一怒一老

「いっしょう いちじゃく いちど いちろう」
 と読む。

 中国の格言で、
「笑うと笑った分だけ若くなり、怒るとその分だけ老いる」
 という意味だ。

「笑い」は体内ホルモンの分泌をうながすといわれるが、医科学と無縁の昔から、人間は経験則で笑いの効用を知っていたということか。

 要するに「笑う門に福来たる」ということなのである。

 宮崎県の東国原知事が紳助にオファーされたとかで、漫才選手権『M-1』の審査員になるそうだ。

 自民党総裁の椅子を条件に衆院選に出るとか出ないとか、地方政治がどうとか世間を騒がせたのはいつのことだったろう。

 それ以後、すっかりご無沙汰だと思っていたら、漫才選手権の審査員でカムバック。
 元々は漫才師として活動していたというから、〝宮崎のセールスマン〟も、そろそろ賞味期限が切れてきたということか。

 あの〝東国原ブーム〟はなんだったのだろう。
 ちょっと、笑っちゃいますな。
 でも、この場合の「笑い」は、笑っても福はやっては来ない。

 なぜなら、この笑いは「失笑」であるからだ。

投稿者 mukaidani : 23:08

2009年12月16日

爺さんが畑でホメられた

 畑もシーンズオフになった。
 100坪の畑は返上して、近場の20坪だけ。
 86歳の親父が〝専任〟として自転車で通っているのだが、当初は週に1回程度だった。
 それが秋口から3日に1回と、畑に行くピッチがあがってきた。

 で、ある日のこと。

 爺さんがニカッと笑って、
「畑で、ときどき顔を合わす人から〝農家をやっとったんですか〟言うて訊かれたんじゃ」
 作物を上手に作っていると、ホメられたのだそうだ。

 人間、いくつになってホメられるのは嬉しいとみえ、爺さんの喜ぶまいことか。
 なるほど、それで3日に1回になったわけか。

「そんなの、お世辞に決まってるじゃないか」
 なんてヤボは、もちろん言わない。

 私は声を落とし、真顔で言った。
「オヤジ、ホメられた以上、ヘタな野菜を作ったら笑われるぞ」

 爺さん、真剣な顔でコクリと頷き、それからというもの、毎日畑へ出かけるようになった。
 事情を知らない愚妻が、
「朝行って、昼からも行ったわよ」
 と感心する日もある。

 ホメられるということがいかにプレッシャーになるか、86歳の親父を見ながら納得しつつ、
(いや、このプレッシャーを「生き甲斐」と言うのかもしれない)
 と、さらなる納得をした次第である。

投稿者 mukaidani : 22:34

2009年12月15日

老老介護に孤独死の時代

 今日は愚妻を大学病院へ連れて行った。
 たいしたことではない。
 白内障で1年ほど前から経過を見ているのだ。

 白内障を放っておいて、愚妻の運転に支障が出ると私が困るから、首に縄をつけて連れて行っているというわけである。

 愚妻の診察が終わるのをロビーで待っていると、老老介護が実に多い。
 お婆さんが、お爺さんを車椅子に乗せて押していたり、その逆もあったりで、いよいよ日本は老老時代に入ってきたということを実感する。

 そういえば、昨日のニュースで、〝ひとり暮らし高齢者〟の安否確認用に、造花を配布している自治体があるというのがあった。

 朝起きてこの造花を玄関に掲げておけば、
「今朝も元気です」
 というサインなのだそうだ。

 このニュースに、私は思わずうなった。

 自治体の配慮は素晴らしい試みであり、長生きはおめでたいことではあるが、朝起きて造花を玄関に掲げ、「今日も元気です」というサインを近所に出すという行為が、私には何となくもの悲しく感じられたのである。

 今日。
「生きてますか?」
「うん、生きているよ」

 明日。
「生きてますか?」
「うん、生きているよ」

 明後日。
「生きてますか?」
「――」
「あっ、亡くなった!」

 孤独死をなくそうという自治体の試みと誠意は尊いとしながらも、人間は本来、無量寿経に説くがごとく「独生独死独居独来」なのだ。

 私なら人知れず死んで本望だ。
 いや、孤独死を本望とする覚悟をもって生きていきたいと願うのである。

 しばらくして、愚妻が診察を終えて出てきた。
 心なしか、しょげて見える。
「年が明けたら手術しなくちゃいけないみたい」
 不安そうな顔で言うから、私は厳しく叱責した。
「バカ者! 老老介護に孤独死の時代だ。白内障ごときで、なにをうろたえておる!」

 愚妻はキョトンとして、
「あなた、どうかしたの?」

 所詮、ノンキな女なのだ。

投稿者 mukaidani : 15:49

2009年12月14日

「転ばぬ先の杖」という人生観

 着物を着て、どこへでも行けるようになった。
 袴(はかま)も何とか大丈夫。

 要するに馴れたのである。

 これまで、帯の結び方から袴の付け方、着崩れの直し方など、本やDVDを見ながら熱心に研究。外出しても、おっかなびっくりであったが、それが何ともなくなった。

 というより、着物の着崩れなんか気にする必要はないということに気がついたのである。

 眼からウコロは、愚妻がファンの時代劇チャンネルだ。
 見るとはなしに見ていて、ハタと気がついた。

(そうだ、江戸時代はすべての人が着物を着ていたのだ!)

 この当たり前のことに、なぜいままで気がつかなかったのだろう。

 彼らは着物を着て、チャンバラもすれば、尻端折りして走りもする。
 着崩れだ何だと気にしてる人間は1人もいないのだ。

 要は馴れなのだ。

 ところが、私は知識から入ろうとした。
 着崩れした場合など、いろんな仮定を立て、その対処法を研究した。

 頭で描く仮定だから、「もし」という仮定はいくらでも出てくる。
 それをすべてクリアして踏み出そうとするから、結局、なかなか踏み出せないでいたというわけである。

 もし着崩れすれば、その都度対処していけばいいのだ。
 そのことに気づいて、目からウロコというわけである。

 人生も同じだ。
 あれこれ仮定を立て、その対処法をまず考える。
 病気になったら、失業したら、住宅ローンが返せなくなったら、受験に失敗したら、とあれこれ仮定を立て、その対処を考えてから行動に移そうとする。

 だから、いつまでたっても不安がぬぐえないでいる。

 着物と同じように、まず着ること。
 まず人生を踏み出すこと。
 つまり着物も人生も、習うより馴れろということなのだ。

 そして、この〝馴れ〟を人生経験というのだろう。

「転ばぬ先の杖」
 ということわざがある。

(もし、転んだら)
 という仮定に立った考え方だ。

 転ぶかどうかわからないことに心を砕いて杖を探すより、まず歩き出すことが肝心なのではないか。

 転んだら起き上がればいいのだ。

 それに、人生、転ぶと決まったわけではないのだ。

投稿者 mukaidani : 11:26

2009年12月12日

新型インフルと「人生の実相」

 新型インフルエンザにかかって、道場を休む子が少なくない。
 学級閉鎖になるくらいだから、それも当然だろう。

 昨日、新型で休んでいた小学生が稽古にやってきたので、
「風邪は治ったのか?」
 と声をかけると、ムッとした顔で、
「風邪じゃないよ、新型インフルだよ」
 と私に抗議した。

 あるいは先日、弟が新型で、兄が従来のインフルエンザにかかった小学生がいる。
「ボク、新型。お兄ちゃん、古いやつ」
 と、弟が得意そうに私に言い、兄は面白くなさそうな顔をして黙っていた。

 妙なもんじゃないか。
 秋口など、新型インフルにかかったことを内緒にしていたのだ。
 そのころ、やはり兄弟で道場に来ている子の兄が一週間ほど休んでいるので、
「兄ちゃん、どうした?」
 と弟に問うと、私の耳元でささやくように言った。
「ママが内緒にしとけっていったんだけど、兄ちゃん、新型インフル」

 ところがいまは、どうだ。
 ここまで新型インフルが広がったので、みんな慣れっこになって、
「ボク、新型」
 と、あたかも流行の最先端を行っているかのように、得意そうに言うのである。
「赤信号、みんなで渡れば何とやら」
 というやつなんだろう。

 いま、大不景気である。
 金詰まりであることは本来、カッコ悪いはずなのに、みんな平気で、
「金がない」
 と言うようになった。

 相手にそう言われて、
「そうだろうな」
 と、こっちも納得する。

 悩みも同じで、「自分だけ」が悩むから苦しいのであって、みんなが同じように悩んでいれば平気なのだ。

 どうやら、ここいらに〝人生の実相〟が潜んでいるような気が、私はするのである。
  

投稿者 mukaidani : 22:32

2009年12月11日

いよいよ冬本番か

 今日は朝から冷たい雨。

 午前中、保護司の研修会に出て、午後から原稿を書き始めたら唐突に年賀状のことが脳裏をよぎり、沖縄の書家・玉城芳岳先生に電話する。

 昨年から年賀状は手書きにすることにして、「献壽」という文字の手本を書いてもらった。
 それで、今回も何か手本を書いてもらおうというわけである。

「寒いねぇ」
 私が言うと、
「そうですか。沖縄は暑くて、クルマはエアコンを入れて走っていますよ」
 のんびりした声が返ってくる。

 飛行機で3時間足らずの距離だというのに、こうも気候は違うのか。

 今日は、これから9時まで3コマの稽古が始まる。
 寒さに立ち向かってホメられるのは若いうちだけ。
 還暦を前にして風邪でも引こうものなら、笑われるだろう。

 いよいよ冬も本番。
 地球温暖化だというので、この冬は暖かいと期待していたのに、何だ、この寒さは。

 8年間通った沖縄の太陽が恋しくなる。
 

投稿者 mukaidani : 16:35

2009年12月10日

セカンドライフについて思う

 今月、59歳の誕生日を迎えたのを機に、人生にとって不要のものを整理しようと思い立った。

 で、何が不要か。

 愚妻の顔が真っ先に浮かんだが、これはとんでもないことだと、あわてて打ち消した。
 彼女がいなければ、洗濯機も電子レンジも使えない自分に気がついたからだ。
 愚妻は〝整理〟するのではなく、末永く大事に使用するものであると、考えを改めた

 となると、何が不要か。
 これといって思い浮かばない。
 思い浮かばないと、しゃくになってくる。

 で、ハタと気がついた。
 クレジットカードである。

 これまで、金だのプラチナだのと気まぐれで何枚も持っている。
「おい、カードの年会費は全部でいくらだ」
 愚妻に命じ、金額を聞いて唸った。
 ナント、ただ所有しているだけで、年間これだけの金を払っているか!

「バカ者、おまえは何とおろかなことをしているのだ」
 叱りつけると、
「あなたが勝手に入会したんでしょ」
 身の程知らずが、例のごとく刃向かってくるのである。

「過去を問うてはならない。大切なのは〝いま〟だ。即刻、不要のカードを整理せよ」
 と命じて、
「いいか、これから始まるセカンドライフに向けて大きく人生の舵を切るから、そのつもりでいよ」

 すると愚妻はめんどくさそうに、
「誰がセカンドライフなのよ?」
 と、神経を逆なでするような言い方をした。

「バカ者。わしに決まっておるではないか」
「あなた、会社勤めじゃないでしょ。ファーストもセカンドもないんじゃないの」

 返答に詰まった。
 言われてみれば、フリーライターを皮切りに渡世してきた私の人生は〝毎日が日曜日〟のようなもので、「退職」というケジメがないのだ。
 したがって、論理的に〝第二の人生〟はないということになる。

(私にはセカンドライフがないのか)
 ガク然とし、人生の大損をしているような気分になったのである。

 亭主の悲哀を知らず、愚妻はノンキにテレビで時代劇を見ている。
 女が長生きする理由が、何となくわかるような気がした一瞬である。

 私はセカンドライフのある人を、心底うらやましく思うのだ。

投稿者 mukaidani : 10:39

2009年12月08日

好評番はヤバイのだ

 プロゴルファーのタイガー・ウッズが、スキャンダルで〝火の車〟だ。

 不倫だの、愛人が6人だのとメディアはにぎやかなことだが、考えてみれば、ゴルファーに愛人がいて何が悪かろう。

 タイガー・ウッズがここまで叩かれるのは、彼がプロゴルファーであったからではなく、「紳士」のイメージで売ってきたからである。
 これが札付きの〝不良ゴルファー〟であったなら、
「またか」
 と、苦笑ですまされるだろう。

 これまで営々と「善行」を積んできても、たった一つの「悪行」で信用はガタ落ちになる。

 いや、善行を積めば積むほど、
「まさか、あの人がねぇ」
 と、反動は何倍にもなって襲ってくるのである。

 ところが〝大ワル〟は、たった一つの「善行」で、
「おっ、いいところあるじゃん」
 と、みんながホメてくれる。

 私の道場でも、稽古をサボってばかりの子どもが、たまたま一所懸命やっていると、
「おっ」
 と見直したりするし、反対に稽古熱心な子がたまたま手を抜いていると、
「こらッ、何やっとる!」
 叱責を飛ばす。

 不公平だと思うが、これが現実なのである。

 だから「マジメ」「いい人」「有能」なんて評判はヤバイのだ。
 それなのに、多くの人は評判を求めて「善行」を積むのだから、愚かなことではないか。

 私など、愚妻がこう言って罵るのだ。

「怠け者」「横着」「極楽トンボ」「いい加減な男」「飽きっぽい」「唯我独尊」

 罵詈雑言の嵐だが、実はこれ、私はちゃんと計算済みなのだ。
 すなわち、大ワルを演出しておけば、たった一つの「善行」で、愚妻はコロリと私を見直すことになるのだ(たぶん)。

投稿者 mukaidani : 23:00

2009年12月07日

「やるしかないこと」は、やるしかない

 昨日は、朝から夕方まで、声明(しょうみょう)の勉強会だった。

 声明とは「仏教の経文を朗唱する声楽の総称」ということだが、ひらたく言えば、お経に節がついているものと思っていただければいいだろう。

 聞いていて気持ちがとても落ち着き、素晴らしいものだが、これが難しいのである。

 本腰を入れて練習しなければ上達は望めないが、さりとて雑用に追われて時間もない。

(こまったなァ)
 と思ったが、考えてみれば、時間があろうとなかろうと、やるしかないという「現実」に気がついた。

 声明に限らず、「やるしかない」とわかっていながら、あれこれ理由をつけ、「できないこと」の言い訳にしてしまう。

 よくないですな。

 どんな理由があるにしろ、「やるしかないこと」は、やるしかないのである。

 一つのことに言い訳する人間は、すべてのことに言い訳をする。

 そして、言い訳しながら人生を終えるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:50

2009年12月04日

「ウツ病」と「人生の過敏」

  ウツ病が10年で2.4倍、100万人を超えたという。

 厚生労働省が3年ごとに実施している患者調査でわかったそうだ。

 原因としては、
「うつ病の啓発が進み、軽症者の受診増も一因」
 という専門家の指摘もあるが、私がなるほどと感じたのは、やはり専門家の次のコメントだ。

「軽症のウツは自然に治るものも多い。しかし日本ではウツを早く発見し、薬を飲めば治るという流れが続いており、本来必要がない人までが、薬物治療を受けている面があるのではないか」

 このコメントのなかでも、
「自然に治るものも多い」
 という一語に、私はうなった。

 つまり、「自然に治るもの」は「病気」ではなく、
(ちょっと調子が悪いな)
 といった程度のもので、これは日常的に誰にでもあることだ。

 ところが、なまじウツ病の啓蒙が進んだため、ヤバイ、とばかり医者にかかれば、
「ウツですね」

 かくして「病気」になってしまうというわけである。

 ウツに限らず、現代は「過敏社会」のような気がしてならない。

 エコ問題しかり、仕分けしかり、リストラしかり、不景気しかり、夫婦問題しかり、親子問題しかり、学校教育しかり。

 過敏に反応しすぎているものは、いくらでもある。

 むろん、それらが自然に解決するとは思わないし、問題可決の努力は必要だ。
 だが、過敏に反応しすぎることによる弊害もまた、あるような気がするのだ。

 ことに人生においては、「過敏」は禁物。
 気にしなければすぎていくものを、過敏に反応して頭を抱えるから「不幸」になるのだ。

 良寛さんの詩の一節に、
《騰々任天真》
 というのがある。

「騰々(とうとう)として天真(てんしん)にますかす」
 と読み、
「ゆったりと天の命ずるままに生きている」
 という意味で、私の好きな言葉だ。

 風は、右からも左からも、上からも下からも、ときに強く、ときに心地よく吹き寄せてくるものだ。

 すなわち、風という浮き世の一つひとつに一喜一憂し、過敏に反応していたら、人生などやっていられないのである。

投稿者 mukaidani : 10:19

2009年12月03日

七五三、そしてクリスマス

 11月某日、孫二人の七五三で、お宮参りをした。

 神社でお祓いをしてもらうので、みんなで一緒に行こうと愚妻が言ったとき、私は憤然として、
「なにを言うか! 末席とはいえ、僧籍にあるものが神社になぞお参りできるか!」

 これを伝え聞いた娘は、
「バカみたい」

 私の親父は、
「堅いこと言うて、どうしょうもないのう」

 そして愚妻は、
「ヘソ曲がり」

 娘婿だけが、遠慮がちに、
「そうですか」
 と、言葉少なに言ったそうだ。

 非難ゴーゴーの四面楚歌。
 かつては神仏習合であったし、地元神社に詣でるのは、宗教行為ではなく慣習のようなものだ。
(まっ、いいか)
 四面楚歌に屈して、お宮参りにつき合ったという次第。

 さて、七五三が終わったと思ったら、今度はクリスマスである。
「あなた、プレゼントは何にするの?」
 愚妻がマヌケたことを聞いてくる。

「バカ者!」
「わかってるわよ。あなたは坊さんだと言いたいんでしょうけど、子供にそんなこと、わかるわけないでしょ」

 めずらしく理詰めで反論して、
「で、プレゼンは何にするの?」
「娘にきいてみろ」
 思わず返事した。

 クリスチャンならともかく、日本人はキリストさんの誕生日を祝うのだ。
 これもまた宗教行事ではなく、〝慣習〟であるとするなら、意味もなく祝うことになる。
 ヘンな話じゃないか。

「おい、どうだ」
 私は愚妻に言った。

「我らは仏教徒なんだから、あえてクリスマスの日に、孫たちにお釈迦さんについて話して聞かせたらどうだ」
「いいんじゃないの」
 愚妻は、テレビの『水戸黄門』に視線をクギづけにしたまま、上の空で返事したのである。
  

投稿者 mukaidani : 22:14

2009年12月02日

さて、肉食をやめてみると

 四つ足の肉を食べなくなって、そろそろ2ヶ月になる。

 なぜ肉を断ったかというと、理由はない。

 酒をやめたときもそうだった。

 私の人生の師匠が、
「もう酒はいいんじゃないか」
 何気なくおっしゃった一言で、
(そうだな)
 と、漠然と思った。

 それだけのことだ。

 ただ、私のことをよく知らない人に、
「酒はやめたんです」
 と正直に言って酌を断ると、
「身体の具合でも?」
 と、まず健康のことを聞かれる。

「いえ、健康ですよ」
 と答えると、その次は探るような目で見る。
(こいつ、酒乱だからやめたんじゃないか?)
 そんな疑念のまなざしなのである。

 これでは信用にかかわると思い、いまでは、
(すみません、酒はダメなんですよ)
 と言って断るようにしている。

 肉も同様で、
「コレステロールですか?」
 と健康のことを聞いてくる。
「いえ」
 と否定すると、
「仏教の関係ですか?」
「いえ、まったく関係なし。ただの気まぐれです。鳥は食べますから」
 正直に告げても、
「ウーム」
 と、なんとなく不審の目で私を見るというわけである。

 だけど、この年齢になると、「何かを始める」より「何かをやらなくなる」という生き方のほうが、私には気分がいい。

 すなわち「捨てていく人生」である。

 身体だって石鹸をつけて洗い流せば気分が爽快であるように、20代から70、80代まで、それぞれ節目において〝人生の風呂〟に入って垢(あか)を洗い流す必要があるのではないだろうか。

「人生の垢を洗い流す」
 とは、これまで当たり前としてきたことを「やめる」ことだと、私は思っているのである。

 明日、12月3日は、私の59回目の誕生日である。
 歳を取るごとに、ワクワクしてくるのはどうしてだろうか。

 たぶんそれは、肩肘張らず、「頑張らない生き方」というものに、とても魅力を感じているからだろうと、思っているのである。

投稿者 mukaidani : 16:17