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2009年11月30日

「質問」「回答」そして「人生」

 ときおり道場生が、技のことで質問してくる。

 それだけ稽古熱心であるということで、大いに結構。

 ただし、指導者に「答え」を求める質問が許されるのは中学生までだと私は思っている。

「身体をさばいてからの反撃がどうしても遅くなるんですが、どうしたらいいでしょうか」
「さばいたときに腰が浮くからだ。少し沈めるようにしてみろ」

 一例をあげれば、これが中学生の質問と私の回答。

 高校生以上になって、こんな甘っちょろい質問をするようではだめで、
「さばいてからの反撃がどうしても遅くなるんです。それで、こういうやり方はどうかと思っているんですが、見ていだけますか?」
 と、こうでなければならない。

「回答」を求めるのではなく、「回答」を苦労して探してみて、それが正解であるかどうかを指導者に確認することが、本当の意味で「質問」になるのだ。

 疑問をいだくことが成長の糧(かて)になるのは、回答を得るからではない。
 回答を求めて苦しみ、試行錯誤するからなのである。

 もちろん、このことは空手に限らない。
 人生においてもしかり。
「どうすれば、この悩みから解放されるでのでしょうか?」

 試行錯誤という努力をせずして、回答だけを求めようとする。
 幸せになれるはずがないではないか。

投稿者 mukaidani : 21:59

2009年11月29日

歌舞伎俳優の人気って何だ?

歌舞伎俳優の中村獅童と、女優の黒木メイサとの〝熱愛〟がニュースになっている。

(フーン)
 と、ネットの記事を読み流して、ふと「歌舞伎俳優」という言葉に引っかかった。

 襲名によって芸名がころころ変わるのでよく、名前と顔が一致しないが、歌舞伎俳優はスキャンダルやゴシップで私たちに認知されているのではないか、という思いがしたのである。

 歌舞伎は日本の伝統芸能であることは言うまでもないが、歌舞伎役者の知名度は、本業である歌舞伎の舞台ではなく、ドラマや映画、さらに芸能ニュースによってもたらされている。
 少なくとも、私が彼らのことを知るのは、ワイドショーなど芸能ニュースによってである。

 これは、考えてみたら実に不思議なことだ。

 スポーツ選手はプレーで、歌手は歌で、芸人は芸で、小説家は作品で世間に認知され、それから人気が出て、さらにスキャンダルやゴシップがメディアをにぎわしていく。

 ところが歌舞伎役者は、いきなりスキャンダルやゴシップがメディアに登場し、それによって世間に広く認知されていくのだ。
 たとえテレビや映画などで賞を総なめにしようとも、それは本業ではない。

 そこで私は、ためしに愚妻に話をふってみた。
「おい、中村獅童を知ってるか?」
「知ってるわよ」
「何者だ」
「歌舞伎俳優じゃないの」
 軽蔑のまなざしで見たので、私は言った。

「じゃ、おまえは歌舞伎の舞台で彼を見たことがあるのか?」
「ないわよ」
「見たこともないのに、なんで歌舞伎俳優だとわかるんだ」
「屁理屈ならよそで言って」
「バカ者。そういう浅薄なものの見方がよくないと、私は言っておるのだ」
「だったら、私は歌舞伎につれて行けばいいじゃないの」

 バチ当たりは、コトの本質に気がつかないで、私を責めるのである。
 

投稿者 mukaidani : 14:03

2009年11月27日

非行青少年と「欲」

 これまで保護観察処分になった青少年を担当してきて、ひとつ気づいたことがある。

 彼らの多くは「人生に対する欲」が希薄なのだ。

 金を稼ぐ、出世する、あるいは幸せな家庭を築く、といった「人生の欲」が希薄であるため、人生を逆算して、
「将来、そうあるために、自分はいま何をなすべきか」
 という視点を持てないでいる。

 だから、
「なんか、いいことないかなァ」
「かったるいなァ」
 という日々となり、そんな仲間が集まれば、自然に非行の道に入っていくことになる。

 となれば、彼らが人生に対して「欲」を持つことで、非行から立ち直れるのではないか、と考え、これまで保護観察対象者に接してきた。

 だが、よくよく考えてみると、犯罪の多くは「欲」が根底にあるではないか。
 窃盗、強盗、詐欺、経済犯など、みんな「欲」が動機である。

 となれば、「欲」を持てば非行から立ち直るという考えは浅薄で、短絡に過ぎるということになる。

 では、非行に走った青少年に対して、何を諭(さと)せばいいのか。

 さんざん悩んだすえに、結論は、
「自分の人生にどう向き合うか」

 この視点を彼らが持つように働きかけることではないか、と考えたのである。

 だが、言うは易く、行いはなんとやら。

 私自身が、還暦を前にしながら人生に確信を持てないでいるというのに、青少年に何を説けるというのか。

 自問自答はエンドレスで続き、保護司という役割の難しさを改めて感じるのである。
 

投稿者 mukaidani : 11:02

2009年11月26日

難儀な時代になったものだ

 昨夜は、さしもの私も驚いた。

 稽古が始まる前のことだ。
 椅子に座る私のまわりに、小学校低学年の女の子たちがまとわりついて、
「館長、歳はいくつ?」
 とか何とか言って、私をからって楽しんでいた。

 私から見れば孫たちのようなものなので、からかわれるのはいっこうに構わないのだが、準備体操が始まってもキャッキャッと遊んでいる。

 これはよくない。
 ケジメは大切なので、
「ほら、準備体操しろ!」

 私が怒鳴って、女の子のケツをパンと叩くや、
「あッ、館長、エロ!」
「エロ!」
「エロ!」
 囃し立てるように言ったのである。

「なんだ、それ」
「知らないの? 女の子のお尻を触るのはエロなんだよ」

 私は唸(うな)った。
 唸ったまま返答につまり、ますます唸った。

 自分たちは私の背中に飛びついたり、スキンヘッドに触ったり、尻に蹴りを入れたりと勝手放題をしていながら、なんたることを言うのか。

 まさか低学年の女の子の口から、こんな〝からかい言葉〟が出てこようとは思いもよらないことだった。

 意味もわからず口にしているのだろうが、なんとも難しい時代になってきたものではないか。

 そのうち医者だって、女の子には聴診器を当てられなくなるだろう。

 いやホント、難儀な時代なのである。  

投稿者 mukaidani : 02:15

2009年11月23日

雨漏りがしたら屋根を見よ

「派遣」という労働形態がヤリ玉にあげられたのは、去年の師走だった。
 テント村ができ、食事の〝年越し支援〟が連日ニュースで流された。

「弱者を切り捨てるな」
 という世論の批判を受けて、政権を取った民主党は派遣禁止、最低賃金制度の政策を進めている。

「よくやった」
 と本来なら誉められるところだろうが、中小零細企業にとって正規雇用は負担が大きいため、社員を雇おうとしない。

 その結果、
「社員として雇ってもらえず、さりとて派遣は禁止。どうやって生きていけばいいのか」
 という〝新たな社会問題〟が出てきたのである。

 結局、〝古い家の雨漏り〟は、バケツで受けていたのでは間に合わないということなのだ。
 あっちもこっちもと次々に雨漏りして、まさに〝モグラ叩き〟。屋根を直さない限り、これは続く。

 ところが民主党は、近視眼的にバケツの数を増やすことばかりに腐心している。

 もちろん当面の対策として、バケツの数を増やすのは大切だが、〝屋根の修理〟をどうするか。
 この視点がなければ、私たちはこれから先も〝雨漏り〟に悩まされることになるだろう。

 このことは国政に限らない。
 私たちの人生においてもしかり。
〝雨漏り〟がしてきたら〝屋根〟を見ることだ。
 いつまでもバケツを持って右往左往していたのでは、何の解決にもならないのである。 

投稿者 mukaidani : 22:22

2009年11月21日

「片面」しか見ない生き方

 森羅万象、すべて「陰」と「陽」で成り立っている。

 と言うよりも、「陰」があるから「陽」が存在し、「陽」があるから「陰」が存在する。

 わかりやすく言えば、「夜」があるから「朝」という概念が存在する。

 もっとわかりやすく言えば、「ブ男」がいるから「イケメン」が存在するわけで、すべての男がハンサムであったなら、「イケメン」は存在しないのである。

 このことから、「存在するすべてのもの」は、陰と陽を合わせ持つことによって「存在する」ということになる。

 となれば、「幸福」も「不幸」も煎じ詰めて考えていくと、
「幸福の中に不幸が存在し、不幸の中に幸福が存在する」
 ということになる。

 ところが私たちは、一面しか見ようとしない。

 宝くじに当たれば
「ラッキー!」
 となるが、宝くじに当たったばっかりに身を持ち崩すこともある。
 
 すなわち「ラッキー」の中に「アンラッキー」が同居しているというわけだ。

 あるいは大病という「不幸」に見舞われた人が、病床にあって初めて「生きることの幸せ」に気づいたとしたら、大病は不幸であって同時に幸福である、ということになる。

 こう考えていくと、「幸福」も「不幸」もなく、「ラッキー」も「アンラッキー」もなく、「損」も「得」もなく、私たちはただ片面だけを見て、喜んだり悲嘆にくれたりしているだけなのである。

 片面しか見ない生き方は、だから人生に裏切られるのだ。

「不幸は仏の顔をして現れ、幸福は修羅の顔をして現れる」
 私の造語だが、心して生きていきたいと思う。

  

投稿者 mukaidani : 02:24

2009年11月19日

私はサッカーに馴染めない

 ナビスコ杯の決勝で破れた川崎フロンターレに、Jリーグ関係者らが怒っているのだそうだ。

 落胆した選手のうち数人が、表彰式で来賓との握手を拒み、しゃがんだり壁に寄りかかったりして態度が悪かったからだと、メディアが報じている。

 どうしてJリーグ関係者は怒るんだろう。

 私はかねて、ゴールしたときの喜びを現す、あのパフォーマンスが大嫌いなのだが、
「喜びを素直に表現してどこが悪い」
 として許されるのであれば、負けてフテ腐れるのも素直な感情表現として許されるべきではないだろうか。

 スポーツマンらしさとは、勝ったときは負けた相手を思いやり、負けたときは勝った相手をたたえることを言うのだ。

 ところがサッカーは、負けてボー然とする相手の前でハシャぐのは許されて、負けて腹立ちまぎれの態度が許されないのは妙な話ではないか。

 謙虚であることこそ日本の美徳だと信じる私は、だからサッカーには馴染めないでいるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 01:15

2009年11月17日

「仕分け人」の弁明

「奥さんの悪口をよく書かれますが、大丈夫ですか?」
 私のこのブログについて、心配してくださる人が最近、何人かいた。

「悪口ではありません。人間の愚かしさについて、参考までに書いているだけです」
 私は毅然と反論する。

「それに」
 と、これは声に出さず、
「愚妻は自分のパソコンを持っているが、私のブログを読むことはないのです」

 ついでながら、愚妻は拙著も読んだことがない。
 一冊も、である。

 だから、
「何を書いているの?」
 とも訊ねない。

 訊ねるとしたら、
「印税はいつ入るの?」

 よく言えば、生命力の強さ。
 ありていに言えば、「人間の愚かしさ。煩悩の塊」ということになろうか。

 だからこうしてブログで紹介するわけだが、先日、こともあろに私の友人が自宅に電話をしてきた折り、電話に出た愚妻に、
「それにしても、奥さんの悪口、ブログでずいぶん書いているねぇ」

 余計なことを言ったのである。

 私はその事実を知らずにいたのだが、昨夜のこと。
 世間話でもするかのように、
「何だかよく知らないけど、私の悪口をずいぶん書いているんですってね」

 不意をつかれたのである。

「いや、そんなことはないんじゃないかな」
「電話で聞いたけど」
「人は面白おかしく言うもんさ」
 必死で態勢を建て直しつつ、ふと昨夜のニュースを思い出した。

 例の「仕分け人」とかいう政府の行政刷新会議。
 メンバーの女性が、21世紀職業財団の業務内容を、
「能なしでもできるかもしれない」
 とした発言に対する釈明のコメントである。

 彼女はこう言って陳謝した。
「言葉のチョイスを間違った。不適切な言葉を使った。申し訳なかった」

 形勢不利と見た私は、このセリフを参考にした。
「言葉のチョイスを間違ったかな。あるいは不適切な言葉を使ったかもしれない」

 愚妻は一瞬、考え込んで、
「それって、謝っているの? 私には居直っているように聞こえるけど」

 言葉のチョイスを間違った、とは「言い方が悪かっただけで、ホンネは変わらず」ということではないのか、と愚妻は主張するのだ。

「なるほど。キミもたまには鋭い指摘をするじゃないか」
「じゃ、私の悪口を書いているってことなのね!」
 般若の顔になって言った。
 阿修羅像には憂(うれ)いがあるが、般若はただ恐いだけである。

 それでも、私はひるまず言った。
「私だって、キミのいいところを書きたいんだ。だけど、いいところがないじゃないか。私だって困っているんだ」

 このあとどうなったかは、あえて書くまい。
 ただただ「仕分け人」の弁明を拝借したことを私は後悔するばかりであった。


 
 

投稿者 mukaidani : 01:14

2009年11月14日

「いい人」は貧乏くじを引かされる

 民事事件の争いは、「0対100」ということは、まずあり得ない。

「20対80」になるか、あるいは「40対60」になるか、いわば過失割合をめぐる攻防である。
 だから、うまくゴネれば得をすることになる。

 北朝鮮のゴネ方を見ていると、
(これは民事の手法と同じだな)
 と思う。

 拉致問題、核問題でゴネ、いまもゴネ続けているが、今度は韓国軍の高速艇と、北朝鮮警備艇が黄海で銃撃戦をやり、またもや北朝鮮がゴネているのだ。

 韓国サイドの発表によると、
「越境した北朝鮮警備艇に対して警告射撃を発したところ撃ち返してきたので応戦した」
 ということだが、おそくらそのとおりだろろう。

 6カ国協議の問題もあり、ゴネ得を狙う北朝鮮に対して、韓国が挑発するとは考えられないからである。

 ところが北朝鮮は、
「おんどりゃ! こうなりゃ、わしも黙っとらんど!」
 と、韓国にケツをまくって見せた。

 非は自分にあろうとも、そんなの関係なし。〝民事〟の手法で、とことんゴネ始めたというわけである。

 メディアの解説によれば、今後開かれると予想される米朝対話に向けて緊張状態をつくりあげることで、北朝鮮が有利にコトを運ぼうとしているとのことだが、まさにそのとおりだろう。

 北朝鮮はともかく、現実に高い確率で「ゴネ得」は存在する。

 たとえば、いま吹き荒れるリストラの嵐。
 ケツをまくってゴネる人間に対しては、〝馘切り役〟も敬遠し、〝いい人〟や〝おとなしい人〟からリストラされていく。ペット犬は足蹴にしても、噛みつく犬には決して近寄らないのである。

 悲しいことだが、いつの時代も、「ゴネ得」をいさぎよしとしない「いい人」は、結局、貧乏くじを引かされてしまうのだ。

投稿者 mukaidani : 11:53

2009年11月13日

人間は〝懲りない生き物〟である

 私の空手道場の隣が居酒屋である。

 酒をやめてから顔を出すことはなくなったが、日中、店主と顔を合わすと、
「不景気で、まいっちゃいますよ」
 と、こぼす。

 この居酒屋は人気で、いつも客が入っているのだが、それでも客が減ったと店主は嘆くのである。

 ビールの業界団体の調査によると、居酒屋などに寄らず自宅で晩酌を楽しむ「家飲み派」が86・2%に上るそうだ。
 これは、調査を始めた4年前より10ポイントも上昇。サラリーマンの節約志向が改めて浮き彫りとなったと、メディアは報じている。

 このことは、見方を変えれば、10人に1人しか居酒屋などに寄らないということだ。
 隣の店主が嘆くのはもっともだろう。

 節約志向といえば、ユニクロが大躍進である。
 躍進の要因について、テレビで某コメンテーターが「良質、安価、ハイセンス」をあげていたが、そうだろうか。

 ついこの間まで、私たちにとって商品の価値は「高価格」にあった。
 どんなに商品がよくても「安価」ものはカッコ悪く、粗悪品でも「高価」であれば、それが価値だった。

 だからユニクロの躍進は「良品を安価で」ということではなく、不景気を引き金にして、たまたま私たちの価値観が節約志向になっただけではないか。

 景気がもどれば、価値観は再び「高価格」にもどっていくだろう。

 金融バブルに懲りたはずのアメリカで、再び同じことが繰り返されようとしている。
 戦争は人類が誕生したころから、延々と繰り返されている。
 人間は、実は学習機能を持たない「懲りない生き物」なのである。
 

投稿者 mukaidani : 00:05

2009年11月11日

何事も〝ほどほど〟をもって最上とする

 調べごとがあって、中国古典の『菜根譚(さいこんたん)』を読んでいたら、
『花は半開を看(み)、酒は微酔(びすい)に飲む』
 という一節があった。

「花を見るのなら五分咲きを、酒を飲むなら微酔(ほろよ)いで盃を置くのがよい」
 という意味から転じて、
「何事も、ほどほどをもって最上とする」
 という教えだ。

 耳が痛いね。

 私たちは何事もトコトンまで貪(むさぼ)ろうとする。

 食事なら、満腹になるまで箸を置こうとしない。
 健啖家といえば聞こえがいいが、要するに、ただの大食漢に過ぎず、犬やネコと同じなのだ。

 名誉しかり、出世しかり、財貨しかり、幸福しかり。
 ほどほど手に入ればそれ以上を求めるべきでないにもかかわらず、人間は満腹になって動けなくなるまで求め続ける。

 偉そうなことを言えるような立場ではないが、この歳になってようやく〝半開〟と〝微酔〟の説く意味が、実感として理解できるようになってきた。

「ほどぼとに、ほどほどに」
 自分に言い聞かせ、実際にそうやってみると、気分はとても爽快なのである。

投稿者 mukaidani : 21:11

2009年11月10日

市橋容疑者の美容整形

千葉県市川市の英国人女性遺棄事件で、逃走中の市橋達也容疑者が逮捕された。

 美容整形外科医は、
「整形手術で、別人になることも可能」
 と、口をそろえてメディアにコメントしているが、そのなかで思わず唸ったのが、
「市橋容疑者の整形は、美男になるための手術ではない。病院は不審に思うべきだ」
 というコメントである。

 なるほど市橋容疑者は、手術で眉毛を下げている。
 何でもありの時代とはいえ、金を払って、わざわざブ男にする客がいるだろうか?
 このことに不審をいだかないとしたら、この医者の鈍感ぶりには、ただ感心するばかりである。

投稿者 mukaidani : 22:51

2009年11月09日

人間は〝雑事〟で一生を終える

 今朝、粗大ゴミを捨てにリサイクルセンターへ出かけた。

 原稿が遅れていてそれどころではないのだが、12月は混雑するし、今日を外すと行く日がないため、前々から予定していたのだ。

 で、いざクルマに積み込んでみると1回では無理。
(まずいなァ)
 と予定が狂ったことに嘆息しつつ、大急ぎで午前中2往復。

 そして昼から100坪の畑へ出かけ、草の除去作業に3時間余りを費やした。
 シャワーを浴び、道場の仕事部屋に入ったところで、保護観察の10月分の報告書を提出していないことにハタと気がつき、大急ぎで書く。

 しかも今夜は、受刑者の家庭訪問がある。
 資料を読み、思いをめぐらせ、場所を地図でチェックする。

 なんやかんやで1行も書けず、結局、夜に仕事を持ち越すことになる。

 トルストイだったか誰だった忘れたが、
「人間は〝雑事〟で一生を終える」
 とか何とか言っていたような気がする。

 つまり人間は〝社会的動物〟である以上、生きていくうえにおいて、仕事以外の用事がたくさんあるのは当然ということなのだろう。

(なるほどなァ)
 と納得しつつ、しかし、溜息は漏れるのである。

投稿者 mukaidani : 19:37

2009年11月07日

医学と人生の「名医」とは

 首が痛い。
 最初、寝違いを起こしたのかと思っていた。

 ところが三週間以上たっても治らない。
 で、今朝、病院へ行った。

 5年前、ヒザの痛みが脊柱管狭窄症からきていることを見つけてくれた医者で、私は全幅の信頼おいている。

 レントゲンの結果、少しゆがみがあるということだが、
「ま、脊柱管狭窄症の人は、がいして首筋もよくないものです」
 明るくおっしゃって、
「私だって、忙しいときは肩も首も張ってきてつらいんです」

 歳を拾えば、あっちこっちガタがくるもんだ、と言外におっしゃったのだろう。
「そうですね。気にしないようにします」
 私も明るく返事した。

 脊柱管狭窄症によるヒザの痛みは、神経根ブロック注射で消え、その後、痛みは出ていないが、これについてもお医者さんは、
「ま、痛くなったら、なったときに考えましょう」
 明るい言葉に、私の返事も、
「そうですね」
 と明るくなる。

 なるほど、患者の不安を取り除いてくれるところが、名医の名医たるゆえんだろう。

 感心しながら病院をあとにして、途中、なじみの鰻屋に寄った。
 店のご主人に、
「そこの病院に行ってきたんですよ」
 と告げると、
「お見舞いなの?」

 ご主人には、この私が病気になるようには見えないということか。
 これはこれで、気分は悪くないのである。
 もし〝お世辞〟た゜としたら、ご主人は私の気分をよくするということにおいて、「人生の名医」ということになる。

 医学も人生も〝名医〟とは、「相手を安心させ、喜ばす人」ということになるのだろうと、今日はつくづく思ったのだった。

投稿者 mukaidani : 20:06

2009年11月06日

〝スイカに塩〟という逆発想

 私はスイカが大好きだ。
 しかし愚妻は、スイカがあまり好きではない。

 だから夏のあいだ中、選挙運動のごとく、
「スイカ、スイカ」
 と連呼して、何とかありついてきた。

 そして、スイカを食べるたびに、甘みを引き出すために塩をふるという〝逆転の発想〟に、いつも感心するのである。

「甘くするためには砂糖をまぶす」
 というのが常識で、塩を振るなど誰が考えようか。

 だから私は、何かを発想するとき、いつも〝スイカと塩〟のことを考える。
 つまり〝逆発想〟だ。
 根拠はないが、とりあえず逆のことを考えるてみる。

「お金を手にしたければ、まずつかうことだ」
 私は愚妻を前にして言う。
「いいか、私は決して好きで無駄づかいをしているわけではないのだ。おまえの頭では理解できないかもしれないが、これが〝スイカに塩を振る〟という逆発想なのだ」
「あきもせず、くだらないことばかり言えるわね」
 バチ当たりがフンと鼻を鳴らし、私は言葉につまって押し黙るのである。

 そのスイカの季節もいつのまに過ぎ去り、ミカンの出番となった。
 愚妻はミカンが大好きだから、いつもテーブルの上に載っかっている。
「このミカン、おいしいわよ」
 愚妻が口に放り込みながらノンキな声で言う。
「塩をくれ」
「ハッ?」
「ミカンに塩をふると甘くなるかもしれん」
「バカみたい」
 またしてもバチ当たりは鼻を鳴らすのである。

 しかし、どんなに鼻を鳴らされようとも、人生の要諦は〝スイカに塩〟の逆発想にあるものと、私は信じて疑わないのである。

投稿者 mukaidani : 23:56

2009年11月05日

「言葉」と「人格力」

 江戸時代、禅宗の高僧に仙崖(せんがい)という人がいた。

 日本最古の禅寺、聖福寺に請われて入り、123世となるのだが、権威を嫌い、生涯を黒の袈裟(けさ)で通した。

 その仙崖禅師の言葉に、
「鶴は千年、亀は万年、我は天年」
 というのがある。
 長寿であれ短命であれ、自分は天から授かった寿命をまっとうするだけだ、という意味で、これは禅僧として悟りの境地と言っていいだろう。

 ところが。
 仙崖禅師は87歳で亡くなるのだが、臨終にさいして何と言ったか。

「死にとうない、死にとうないで」

 そう言ったのである。

 まさかの言葉に耳を疑ったのは、枕頭で見守っていた弟子たちである。
 あわてて真意を尋ねたところが、
「ほんまに、ほんまに」
 と答えたという。

 さて、「死にとうない」という仙崖禅師の言葉をどう取るか。

 もし、私がそう言ったのであれば、
「ジタバタして、まったくしょうがねぇな」
 と悪口を言われるだろう。

 だが、相手が仙崖禅師となると、受け取り方は違ってくる。
 きっと深い意味があるはずだと真意を探る。
 私も探った。

 その結果、
(ハハーン。きっと仙崖は、〝ことほどさように生への執着は断ちがたきもの〟ということを、臨終の言葉をもって教えたに違いない)
 そう結論した。

 真偽はもちろんわからない。
 わからないが、
「あの人の一言(いちごん)にはきっと深い意味があるに違いない」
 と考えさせるところが、偉人の偉人たるユエンだろう。

 言葉自体に「力」があるのではない。
 誰がそれを発したかによって「力」をもってくるのだ。

 同様に、どんな立派な言葉も、凡人がそれを口にしたのでは、凡庸な言葉になってしまうということになる。

 これが「人格力」というものだろうと、考える次第である。

投稿者 mukaidani : 22:49

2009年11月04日

露天風呂のハゲ頭

 今日(といっても正確には昨日になったが)、仕事部屋からクルマで十五分ほどの温泉健康ランドへ出かけた。

 今年一番の冷え込みだそうだが、午後の陽光は燦々(さんさん)で、露天風呂へ行くと、
(あっ、ハゲ!)

 湯船につかって後ろ向きになった中年の〝てっぺんハゲ〟が、ピカピカと陽光燦々を照り返していたのである。

 その様子がユーモラスでつい笑ったのだが、考えてみれば(いや、考えるまでもない)、剃髪している私こそ、毛の一本だにない大ハゲではないか。
 私が湯船につかったならば、ピッカピッカは〝てっぺんハゲ〟の比ではあるまい。

《人の悪き事はよくよく見ゆるなり、我が身の悪き事は覚えざるものなり》
 という親鸞聖人の言葉を思い浮かべていると、
「顔は人のためある」
 という言葉を、ふと思い出した。

 足の裏はもちろん、首を無理にひねれば背中さえも〝自分の眼〟で見ることができるのに、顔だけは絶対に見ることはできないのだ。
 鏡で見る顔は、「写った顔」であって、直接見る顔ではないのである。

 このことから「顔は他人のためにある」というのだが、他人のためにあるということは、他人が不快になるような顔をしてはならないということだ。

 そんなことを反省しつつ、露天の湯船に手足を伸ばした。
 私のハゲ頭は陽光に輝いているだろうか。
 たぶん、ピッカピッカ光っていることだろう。
 当の私は決して見ることのできない光景なのである。

投稿者 mukaidani : 00:07

2009年11月02日

「今しかできない」という殺し文句

 昨日から、房総白子の仕事部屋に来ている。

 日帰り温泉に浸かって手足を伸ばしながら、
(何事も元気なうちだな。病気して入院でもすれば、温泉も楽しめなくなる)
 そう思った拍子に、
(なるほど、そうか!)
 と開眼した。

 すなわち自分の行為は、「いましかできない」で正当化できるということである。

「旅行は行けるときに行かなくちゃ。病気でもしたら、〝あのとき行っておけばよかった〟って後悔するぞ」
「そうだ、そうだ」

「何でも食べられるうちに食べておかなきゃ。病気でもして、食事療法するようになると後悔するぞ」
「そうだ、そうだ」

「若いうちだ。ぞんぶんに人生を楽しまなきゃ」
「ソウダ、ソウダ」

 自問自答して、
(よし!)

 私は湯船から出ると、意気揚々と愚妻に告げた。
「おい、和服を楽しめるのもこうして元気なうちだな。羽織でも買うか」
「ごまかすのは他人だけにして」
 ニコリともせずに言って、
「仕事できるのも元気なうちじゃないの」
 手強い相手なのである。
  

投稿者 mukaidani : 06:22

2009年11月01日

ノンキに緊張せよ

 人生の要諦は「待つ」にある。
 プロ野球日本シリーズを見ていて、ふとそう思った。

 好球必打。
 すなわち、「運」という〝人生の好球〟をじっと待つ。
 好球が来ないのに、打ち気にはやってボール球に手を出せば、凡打になるのは当然なのである。

 だが、漫然とバッターボックスに立っていたのでは、いざ好球が来たときに打ち損じてしまう。
 だから、緊張感を持って、じっと待つ。

 問題は、その緊張感に耐えられるか。
 人生の勝負はここで決まるのだ。

「ノンキに緊張せよ」
 これが人生の要諦だろうと、思った。

 今日から11月。
 残り2ヶ月を、ノンキに緊張しつつ過ごしたいものだ。

投稿者 mukaidani : 08:09