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2009年10月31日

亀田兄弟の申告漏れ

「なんや、しっかり稼いどるやんけ」
 と思わせたのが、プロボクシング亀田兄弟の所得申告漏れである。

 それも1億円。
 稼いだ総額が1億円ではなく、申告しなかった稼ぎだけで1億円だというのだ。

 私たちは亀田ファミリーをサカナに、
「しょうもない親子や」
「いや、ファミリーの絆はたいしたもんだ」
 と、上から目線で勝手なことを言っているあいだに、彼らはしっかりと稼いでいたというわけだ。

 かつて、このブログでも書いたが、まさに「悪名は無名にまさる」ということなのである。

 その一方で、ヤクザ組長ら3人が、弁当店の代金を踏み倒したとして逮捕されている。
 弁当店に1か月間、毎日注文を繰り返し、351食分の代金計約14万円を支払わなかったそうで、容疑は詐欺罪。

 報道によると、逮捕された組長は、
「食費や家賃を支払う金もなかった」
 と供述しているのだそうだ。

 ヤクザ業界も不況の嵐でシノギ(稼ぎ)が厳しいというが、それにしても、組長が弁当代を踏み倒すとはなァ。
 産業界の生産指数がどうのというより、日本経済の厳しさがリアルに伝わってくるではないか。

 明日から11月。
 年の瀬に向けて、世相はさらに混沌としてくるだろう。
 くれぐれも事故、事件には注意されたし。

投稿者 mukaidani : 13:14

2009年10月29日

年老いたメタボの駄犬

 我が家の駄犬が、親父の部屋の冷蔵庫の前でワンワンと吼えている。
「ジイさん、はよう何か出さんかい」
 とでも言っているかのような、横柄な吼え方である。
 ちっちゃい身体のトイプードルのくせして、態度だけはデカイのだ。

 私なら一喝するところだが、親父はニコニコ笑顔で、
「おう、そうかそうか」
 と冷蔵庫を開けて、なにやらエサを与える。

 13歳の老犬は老獪(ろうかい)で、腹が減ると、87歳になった親父の部屋へ行って冷蔵庫の前に陣取り、ワンワンとやるのだが、親父はこれを親愛の情と勘違いしているのである。

 それはいいのだが、〝冷蔵庫ワンワン〟で駄犬が太ってきて、
「困っちゃうわねぇ」
 と、愚妻が私にこぼすのである。

 メタボで駄犬の肝臓が腫れているのだそうで、トリミングに連れて行った獣医から、食事制限を厳しく言い渡されたのだそうだ。
「病気になったらかわいそうじゃないの」
 と、しごくもっともなことを言う。

 ならばというので、私が親父に注意をすると、
「しかしのう、冷蔵庫の前に座ってワンワンやられると、かわいそうで」
 と、これもしごくもっともなことを言うのだ。

「しかるに」
 と、私は愚妻に告げた。
「おまえも、親父も、我が家の駄犬を愛しているということにおいて、甲乙つけがたいということだな」
「バカなこと言ってないで、どうするのよ」
「だから、腹いっぱい食べてコロリといくか、食事制限をして長生きをするか。どっちがいいか、これまた甲乙つけがたいことよのう」
「もう、あなたには相談しません!」

 まったく「愛情」とは、なんと難しいものであることか。

投稿者 mukaidani : 20:36

2009年10月27日

野村監督は、なぜ国民的英雄になれないのか

 楽天・野村監督の去就に注目してきた。

 案の定、3年契約の名誉監督の就任要請について、
「断る理由はない」
 と受諾する意向を示した。

 やっぱりなァ。
「楽天の負け、ノムさんの勝ち!」
 ということか。

 老獪な野村監督のことだから、楽天とどう駆け引きをするか、興味をもって成り行きを見守ってきた。

 当初、名誉監督就任を打診されたとき、野村監督は、

「次の監督のことも考えてやらないといけない。亡霊、幽霊みたいな仕事。それが楽天のためになるのかね」
「ファンへのエクスキューズ(言い訳)。怖いんですよ。ファンを静めるために応急措置としての戦術としてとらえている」

 と、実体のない名誉職への就任要請に不快感を示す一方、スポーツ紙も阿吽(あうん)の呼吸で、
《最終的には現場にこだわる〝プライド〟もあって決別を決意。克則バッテリーコーチも退団の意向を固めている。》
 と煽(あお)る。

 ポイントは、野村監督自身は名誉監督自身を断ったわけではなく、「冗談じゃないよ」と不快感を示しただけということ。

 断ればこの話はなくなるが、不快感であれば「交渉は継続中」ということになる。

 そして、楽天の活躍で、
「ノムさんが可哀想。楽天は非情だ」
 というファンの声が起こってくるのを待っていたかのように、名誉監督就任要請について、
「しばらく考えさせてほしい」
 と態度を〝軟化〟。

 それを受けて楽天がどういう条件を出したか定かではないが、おそらく譲歩したのだろう。
「断る理由はない」
 と、受諾したというわけである。

 推測すれば、野村監督は、楽天批判をガンガンやってトラブルに仕立て、交渉のハードルを上げ、実利を手にしたということになるだろう。

 なぜなら、楽天の名誉監督養成が不快であるなら、さっさと断ればいいのに、そうはしないで、批判ガンガンであったからだ。

 もし、これが長島や王であれば、そうはしなかったろう。
 批判もせず、就任要請を丁重に断ったはずだ。

 野村監督の老獪な駆け引きは、「潔さ」を美徳とする日本人のメンタリティーには合わない。

 長島や王が国民的英雄になり、野村がそうはなれないのは、たぶんここに違いがあるのだろうと、一連の〝楽天報道〟を見ながら思った次第。

投稿者 mukaidani : 12:42

2009年10月26日

「鍛錬千日」という考え方

 昨日は佐倉市民空手道大会があった。

 県内各市からの参加者も多く、幼児から一般まで五百名を超える選手が、9コートに分かれての熱戦だった。

 私の道場からも50名ほどエントリー。メダルをもらって喜ぶ者、泣いている者とさまざまたったが、勝っても負けても試合経験を糧(かて)に、精神的にたくましくなってくれれば、空手を習う意味も、試合に出る意味もあるだろ。

 そんなことを思いながら本部席で観戦していて、
《鍛錬千日、勝負一瞬》
 という、高校野球の名監督として知られる蔦文也氏の言葉を考えた。

 意味はいろいろ解釈できるだろう。
「一瞬の勝負のために、千日の苦しい練習をする」
 あるいは、
「千日の苦しい練習に耐えてこそ、一瞬の勝負に勝てる」

 いい言葉だが、仏道を学び始めて、また違った感慨をいだくようになった。
 すなわち、
《鍛錬千日、勝負〝千日〟》

「目的」のために「今の練習」があるのではなく、
「今の練習そのものが勝負である」
 ということだ。

 鍛錬する千日の、一瞬一瞬のすべてが勝負ではないか。
 将来に勝負があるのではなく、「今」にあると思うのである。

「勝負」という言葉は、「充足」あるいは「生きる」に置き換えてもよい。
 日々の練習、あるいは日々の人生において、いかに充実した一瞬を過ごすか。
 指導者の立場で言えば、日々の稽古をいかに充実したものにしていくかを考えなければなるまい。

 試合ももちろん大事だ。
 だが「ゴール」や「目的」にとらわれ、そこから「今」を考えることに私は抵抗を覚えるようになった。

 人生に「ゴール」はない。
 あるのは「今」という一瞬なのだ。
 そして「今」を積み重ねた総体を「人生」とするなら、《鍛錬千日、勝負〝千日〟》であるべきだはないか、と思うのである。


投稿者 mukaidani : 09:28

2009年10月24日

「DNA」の思い出

 すでに故人になれたが、博識で知られるヤクザの親分さんと雀卓を囲んだときのことだ。

「おい、DNAって知ってるか?」
 と親分さんが私に問いかけた。

 DNAという言葉がまだ一般化する前だから、ずいぶん昔のことだ。

「知ってますよ。デオキシリボ核酸でしょ」
 私が当然のような口ぶりで答えると、
「よく知ってるな」
 親分さんは、つまらなさそうに言って黙った。

 私は後悔した。
「何ですか、それ?」
 と聞けば、
「知らないのか? DNAというのはだな」
 きっとウンチクに富んだ面白い話をしてくれたことだろう。

「知っているか?」
 という問いかけにどう答えるべきか。
 返事も質問も、実はとても難しいものであることを、このとき思った。

 いま足利事件の冤罪で、誤ったDNA鑑定が問題になっている。
 このニュースに接するたびに、
「おい、DNAって知ってるか?」
 と問いかけた親分さんのことを、ほろ苦く思い出すのだ。

投稿者 mukaidani : 23:57

2009年10月23日

そして、歯医者へ行ってみると

 今日の午後、歯医者へ行った。
 歯石を取ってもらってから、
「私のはなぜ黄色くなるんでしょうか?」
 と懸案のことを医者にきいた。

「ウーン」
 と、人の良さそうな医者はうなってから、
「まっ、こんなもんじゃないですか」
 関心のなさそうな声で言った。

「こんなもんですか」
「ええ、こんなもんです」
「先生、そこをなんとか白くするにはどうしたらいいんでしょう」
「もちろん白くする方法はありますが、若い人ならともかく、あなたの場合は年齢から言って、アハハハ」
「アハハハ」
 笑うしかないですな。

 それでも医者は私の心中を察してか、
「いい歯をしてらっしゃいますね。まったく問題なし」
 とホメてくれたのだった。

 医院から帰途、
「まっ、こんなもんじゃないですか」
 という医者の言葉を反芻しながら、
(これはいい言葉だな)
 と思った。

 ベストもベターも求めず、原因を究明することもせず、
「まっ、こんなもんじゃないですか」
 と現状を甘受する。

 そう嘯(うそぶ)いてカラカラと笑えば、〝人生の壁〟など無縁になるのではないか。
 歯医者へ行ってよかった。

投稿者 mukaidani : 22:33

2009年10月22日

私の歯はなぜ白くならないのか

 私の歯を見て、「黄色い」と道場の女児たちが言い出した。
 男児が、
「磨いていないんじゃないか」
 と同調する。

「いや、ごしごし磨いてるんが、館長の歯は白くならないんだ」
 私があわてて弁解するが、
「ウソだ」
「ウソだ」
 聞く耳をもたないのである。

 でも、私の歯が白くならないというのは本当のことだ。
 去年、かかりつけの歯医者に愚妻を走らせたところ、
「あなたの歯は、胃液の関係で、きれいにしてもすぐ黄色くなるんだって」
 そう言って帰ってきたことがある。

 それ以来、私の歯は白くはならないとあきらめていたのだが、「黄色い」と道場で言われて、これは放ってはおけないと思った。

 と同時に、
「あなたの歯はすぐ黄色くなる」
 と言った愚妻の弁に疑惑を念を抱いたのである。

 めんどうだから、歯医者へ聞きに行ったフリをして、適当なことを言ったのではないか。

 愚妻のやりそうなことだ。

 疑念は確信に変わり、私はそそくさと、今度は別の歯科医に予約を取った次第である。
 金を出せば白くできることは知っているが、そこまでやるのはモッタイナイ。保険治療の範囲で、ある程度、白くなるのか、ならないのか。

 いや、歯のことよりも、愚妻の弁はホントであったかテキトーであったか。
 それが一年をへて判明する。
 楽しみなことではないか。

投稿者 mukaidani : 10:36

2009年10月21日

ホメる技術

 ホメられて、悪い気がする人間はいない。
 お世辞であっても、だ。
 すなわち「ホメ言葉」は、人間関係の円滑油なのである。

 ならば、これを使わない手はあるまい。

 ただし、「ホメる技術」という言葉があるように、ただホメればいいというものではない。
 見え透いたお世辞は、
(ハハーン、何かウラがあるな)
 と相手に思わせて、逆効果となる。

 で、どうすれば「ホメる技術」を磨くことができるか。
 いろいろ考えた末、ウラ読みに関しては鋭い感性を持つ愚妻相手に訓練することにした。

「おっ、この煮物、うまいな」
 と、手料理ならホメるのは簡単だが、問題は、たとえば刺身など、できあいの食べ物をどうホメるか。

「おっ、この刺身、うまいな」
「Aスーパーで買ったのよ」
「ほう、あの店はなかなかいいものを置いてあるんだな」
「そうなのよ。Bスーパーは安いけど、いいものがなくて」

 愚妻をホメるつもりが、スーパーをホメることになる。
 これではだめだ。

 で、次回、私はこう言ってみた。

「おっ、この刺身、うまいな」
「Aスーパーで買ったのよ」
「しかし、こんなうまい刺身をよく選んだな」
「そりゃ、私もいろいろ研究しているから」
「やっぱりそうか。刺身を選ぶのは難しいからな。たいしたもんだ」
 
 刺身をホメるのではなく、それを選んだ愚妻をホメれば、すっかり上機嫌になったという次第。

 このテは応用がきくので、いろいろ試してみるといいだろう。

投稿者 mukaidani : 14:09

2009年10月20日

サッカー日本代表の新愛称

 サッカー日本代表の新愛称が「SAMURAI BLUE(侍ブルー)」に決まったそうだ。

 大いに頑張ってもらいたいし、期待もするが、しかし、よりによってサッカーに「サムライ」とはなァ。

 茶髪で、ゴールすれば大しゃぎし、外れるとピッチに膝をついて天を仰ぐ。
 オーバーアクションが悪いというのではなく、喜怒哀楽のパフォーマンスは「サムライ」の対極にあるものであって、西洋を発祥とするサッカーにはなじまないものだろうと思うのである。

 先のワールドベースボールでもそうだが「サムライ」という言葉を冠することによって、凛々しく、毅然としたイメージになる。

 そんなことでいいのだろうか。
 イメージやパフォーマンスばかり先行して、言行の一致せざることが多い世相に対して、私は釈然としない思いをいだくのである。


投稿者 mukaidani : 14:56

2009年10月19日

ジイちゃん、バアちゃんの「ジロリ」

 健康ランドの大広間の隅っこのテーブル席で原稿を書いていたら、舞台からドンドコドンと地響きのような音。

 顔を上げて見ると、若い娘さんたちの和太鼓ショーであった。
 短パンにナマ脚なら目の保養にもなるだろうに、無粋にもジャージのような衣裳である。

 で、見てもしょうがないので、目をパソコンにもどして原稿を打ち始めた。

 ドンドコドンドンと、演歌からポップスまで、歌謡曲に合わせて太鼓が鳴り響く。
 曲目からして、なにも和太鼓でなくてもよさそうだが、まっ、このチームはそういう流儀なのだろう。

 私と和太鼓と、集中力の勝負である。
 彼女たちが短パンにナマ足なら負けるかもしれないが、そうでなけりゃ、気も散るまい。

 で、実際、原稿も和太鼓のリズムに乗って調子が出てきたのだが、思わぬ伏兵がいた。

 ジイちゃん、バアちゃんである。

 ドンドコドンドンの音に吸い寄せられるように、大広間にぞろぞろ入ってきて座り始め、やがて満席になった。
 私は六人掛けテーブルに陣取ってパソコンを打っている。

 ジイちゃん、バアちゃんたちが、私をジロリと睨むのである。
(何もこんなところでバソコンなんかやることはないじゃないか)
 ジロリの目がそう告げている。

 これに集中力は乱れ、私はパソコンのフタを閉じると、そそくさと退席したのだった。

 ジイちゃん、バアちゃんのジロリは、和太鼓のドンドコドンより強烈なのである。

投稿者 mukaidani : 03:21

2009年10月17日

「後悔」と「逃避」

 いつか役に立つだろう。
 こう思って資料を保存しておく。

 暮れの大掃除をするときに、そんな資料がごっそり出てきて、
(取っておいたって結局、不要になるんだよな)
 ブツブツ言いながら、思い切りよく捨てる。

 ところが、捨てた資料に限って、
(あっ、しまった!)

 あとで必要になってきて、あせりまくる。

 こんな繰り返しなので、資料は保存しておくべきか捨てるべきか、いつも頭を悩ますというわけである。

 で、今朝。
 起き抜けに、溜まった資料のことが頭をよぎった。
 今年もあと二ヶ月。
(資料をどうするか)
  という思いが潜在的にあったのだろう。

 悩んでいるうちに、ふと気がついた。

 この情報社会で、私が必要とする資料など、いくらでもあるのだ。
 絶版本だって、アマゾンにある。

 つまり、
(あの資料、捨てるんじゃなかった。あの資料があれば)
 という後悔は、仕事に対して〝逃避的〟な気分になっているのではないか、ということに思い当たったのである。

(あの資料さえあれば、すぐにまとまるのになァ。捨てるんじゃなかった。いや、捨ててないかもしれないぞ)

 そんな思いでゴソゴソ資料を探し、
(やっぱり捨てたか)
 とガッカリする。

 そんなヒマがあれば、さっさと別の資料を当たればいいようなものだが、腰が上がらず、捨てた資料にこだわっている。

 その本質は、仕事に対する〝逃避気分〟ではないかと気がついた次第。

 すなわち〝資料〟は一例で、
「過去において後悔するのは、現在における逃避である」
 と、私は考えたというわけである。

投稿者 mukaidani : 09:14

2009年10月16日

欠ければ満る

 民主党の人気がジワリと下がりつつある。

 赤字国債に国民が「ノー」であるなら、マニュフェスの完全実施は先送りになると鳩山総理が言い出した。

 八ッ場ダムから羽田空港ハブ化、普天間基地移設、子育て応援手当の先送りなど、次から次へと政策のほころびが出てくる。

 このまま混乱が続くようなら、
「なんだ、民主党は口先きばっかりじゃないか」
 と、国民が愛想をつかすのは当然だろう。

 絶大な人気で政権を取っただけに、その反動は大きい。
 このことを、お月さんにたとえて「満れば欠けるは世の習い」と言う。

 逆に、自民党にとっては反転攻勢のチャンスだ。
 ことわざにはないが、このことを「欠ければ満るは世の習い」と言うのではないか。

 だから、落ち目だからといってガッカリすることはない。
 トコトン落ちてしまえば、あとは上昇するばかり。
 楽しみなことではないか。

投稿者 mukaidani : 09:25

2009年10月15日

護身術の指導

 午前中、地元中学校の〝家庭教育学級〟に招かれ、保護者を対象に護身術の指導をしてきた。

 大半がお母さん方だったが、みなさん熱心に練習され、〝母親の底力〟を目の当たりにした思いだった。

 2時間の練習では、護身術が使えるまでにはならないとしても、
「我が身を守る」
 という意識を持つことが大切だと思い、日常生活での身の処し方についてもお話させていただいた。

 意図するところがうまく伝ったかはどうかはともかく、身体も家庭も自分で守る時代が到来したように思う。

 このことに異存はないだろうが、我が身はともかくとして、どうやれば家庭を守ることができるのだろうか。
 いや、そもそも家庭に対する「敵」とは何なのか。

 そんなことを考えていくと、どうやら敵は、「外」よりも「内」にいるという結論に行き着く。

 すなわち「家庭を守る」とは、外敵に対処することではなく、「家族の人間関係」を言うのだろうと思うのである。

 一家の主の責任は、だから重いのだ。

投稿者 mukaidani : 13:49

2009年10月14日

運と99パーセントの努力

 エジソンの有名な言葉に、
「天才は1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」
 というのがある。

 この言葉を学生時代に知って、
(なんだ、天才も努力しなくちゃならないのか)
 とガッカリしたことがある。

 二十代になって、
「成功は1パーセントの運と99パーセントの努力」
 というように言い替えて使うようになった。

 すると友人が、
「なんだ、運がたったの1パーセントなら、運なんかなくたっていいじゃないか」

 言われてみればもっともだと思い、何十年もこの言葉を忘れていたが、今朝、風呂に入っていて、唐突にこの言葉を思い出した。

 そして、こう考えた。
「わずか1パーセントにすぎないが、この運に恵まれなければ、99パーセントの努力は実らない」
 すなわち、1パーセントの運は「画竜点睛」ということなのである。

(と、なると、1パーセントの運に恵まれながら、99パーセントの努力をしない人間はどうなるのか?)

 運を頼りに生きてきた私は、ハタと考え、ただただ唸るばかりなのである。

投稿者 mukaidani : 06:39

2009年10月12日

「ジジドル」の時代は来るか

 今日は、放っておいた100坪のほうの畑へ、草取りに出かけた。

 草刈り機を肩から吊って、片っ端からなぎ倒す。
 なかなか気分がいい。
 と、思ったら、ウウーンと苦悶のような音をあげて、草刈り機の刃が止まってしまった。

 見ると、ビニールのヒモが巻きいている。

 そういえば、添え木をしばっていたヒモを解いたとき、
(あとで回収すればいいや)
 と、放り投げていたやつだ。
 草がぼうぼうに伸びていて、ヒモが見えなかったのである。

 機械を止め、ヒモを解くのに格闘しつつ、
「何事も、あとでやればいいや」
 と、その場しのぎにすると、結局、先に行って困ったことになるのだということを思い知らされた次第。

 反省しきりで、インターネットのニュースをチェックすると、辻希美サンがプロデュースする子供服の発売記念イベントに1500人が押しかけたとか。

 そういえば世は「ママドル」全盛である。
 だが、時代はうつろいやすい。
 ママドルのブームにつづいて「ジジドル」「ババドル」の時代が到来するやもしれないではないか。

 来年、還暦を迎える私の時代である。
(畑の草刈りごときで、ノンキに反省などしている場合じゃないぞ)
 と自分に言い聞かせつつ、これまたやっぱり〝反省〟するのである。

投稿者 mukaidani : 22:06

2009年10月11日

マッチの火と、キャンプファイヤー

 チャンスとは〝マッチの火〟のようなものではないのか。

 子供たちの夏期合宿の写真が道場に貼ってあるのだが、キャンプファイヤーの写真を眺めているうちに、そんな思いが唐突に浮かんできた。

 マッチの火は、それ自体はすぐに消えてしまうので役に立たないが、点火することによって、キャンプファイヤーという大きな力になる。

 ただし、マッチでは薪(まき)に火をつけることはできない。

 そこでマッチをすり、灯油をしみこませたトーチに点火し、トーチで新聞紙や小枝などを燃やし、その火で薪を燃え上がらせるのである。

 チャンスも同じだ。
 その到来は、マッチの火のごとく何の力も発揮しないが、ひとたび可燃物に点火すれば燃えさかる炎になる。

 そのためには、チャンスを急いでトーチに点火しなければ、消えてしまう。

 だから事前に、トーチに灯油をしみこませておかなければ、いざマッチというチャンスが到来しても、燃えさかる炎にはならないのである。

 すなわち努力とは、チャンスの到来に備え、トーチに灯油をしみこませることを言うのだと、キャンプファイヤーの写真を見ながら思ったのである。

 努力のないところに、どんなチャンスが来ても、燃えさかる炎にはならないのだ。

投稿者 mukaidani : 01:19

2009年10月10日

オバマ大統領の「ノーベル賞」

 オバマ大統領がノーベル平和賞である。

「なんで?」
 愚妻が素朴な疑問を口にする。
「それはだな、核兵器のない世界を目指すとオバマが言っているからだ」
「あら、目指すって言うだけでノーベル賞がもらえるの? ヘンじゃない?」

 愚妻もたまにはいいことを言うではないか。

「そのとおり。称賛とは偉業をたたえること。つまり〝結果〟に対してなされる評価なのだ。口先だけで評価されるなら、詐欺師はみんなノーベル平和賞だ」
「あなたも一緒ね」
「?」
「仏教がどうとか、幸せがどうとか、勉強がどうとか言っているけど、それって口先だけじゃないの?」

 イヤな女である。

「バカ者。オバマの今回の受賞はだな、評価は〝結果〟に対してだけなされるものではないという、人類の全世界に向けたメッセージなのだ」
「さっきと言っていることが違うじゃないの」
「君子は豹変し、前言にこだわらず」
「だから信用できないのよ。さっ、出かけるわよ」

 今日は保育園の運動会。
 愚妻に引っ張られ、朝っぱらから孫二人の〝応援〟に出かけた。
 孫の遊戯の最中、ふと空腹をおぼえ、
「昼は何食べる?」
 と聞いて、愚妻にニラまれた。

 もうすぐ夕方。
 幼児クラスの稽古が始まる。
 仕事も、押せ押せで溜まってきた。
 明日は早朝から中央仏教学院通信教育部の勉強会。

 オバマのノーベル賞のことなんか、考えているヒマはないことに、いまハタと気がついた。
 私に何の関係もないのだ。

投稿者 mukaidani : 14:40

2009年10月09日

府知事サン、ナメられてんじゃないのかい?

 大阪府の橋下徹知事が、職員の反論メールに対して
「物言いが非常識だ」
 と激怒して、処分したそうな。

 詳細は省くが、橋下知事が全職員にあてて、税金に対する意識の低さを嘆くメールを出したところが、
「愚痴はご自身のブログ等で行ってください。(職員が)メールを読む時間を無駄にしていることを自覚してください」
 という返信。

 これに橋下知事は怒ったというわけだが、怒った理由に私は首を傾げた。

 いわく、
「(一般企業の)社長に『メール読むのは時間の無駄です』と言えますか。一般常識を逸脱している」

 要するに、
「私は職員にナメられています」
 と言っているのと同じなのである。

 ナメた職員も悪いが、ナメられること自体、リーダーとして失格ではないか。リーダーは、畏敬されて初めてリーダーなのだ。

 愚妻に、こんな話をすると、
「あなただって、道場で幼児たちに蹴飛ばされているじゃないの。館長は叩いたり、蹴飛ばしたりしてもいいと思ってるのよ」
 と、鼻で笑った。

 たしかに、
「館長のお腹、ぶよんぶよんしているから叩くと楽しい!」
 と言って、小学生の女の子たちが順番待ちで、私を叩いたり蹴ったりする。

 だが私は、
「一般常識を逸脱している」
 と、子供たちに罰を与えることはしない。

 なぜなら、恐くない私に責任があるからだ。
 府知事と町道場の館長とではスケールが違い過ぎとしても、ナメられているということにおいては同じなのである。

 だけどなァ。
 叩いたり蹴られたりするのはともかくとしても、
「館長のお腹、ぶよんぶよんしている」
 という子供たちのひと言は、この歳になっても傷つくのだ。

投稿者 mukaidani : 02:31

2009年10月08日

「無知」の直感

 私は道場で〝白版〟をよく使う。
 言葉を漢字で説明するのだ。

 たとえば準備運動は自分たちでやらせるのだが、低学年のクラスは、言葉の意味を知らないで号令をかけていることに気がついたからだ。

「ゼンコウクツ!」
 子どもが声をあげる。
 私がふと気になって、
「おい、ゼンコウクツって、どういう意味だ?」
「知らない」
「クッシンは?」
「知らない」

 それで白版に字を書いて、
「クツは『屈』と書いて、この字は〝曲げる〟という意味。前に曲げると『前屈』、後ろに曲げると『後屈』。前と後ろに代わりばんこに曲げるから『前後屈』」

 こういう話をすると、知的好奇心が刺激されるのか、子供たちは熱心に私の話を聞く。

「いいか、稽古というのはだな」
 と、こんな話だとアクビしているのと好対照である。

 で、昨日。
 小学生の高学年に、漢字で説教をした。

 もっと稽古せよ、ということが私は言いたくて、
「『男』という字の意味を知っているか?」
 とイタズラ小僧たちに問いかけた。
「ウーン、わからない」
「この字はだな、田んぼに力と書くだろう? だから男は力いっぱい頑張れということだ。わかったか?」
「館長」
「なん?」
「『女』という字の意味は?」

 不意をつかれて、私は狼狽した。
「まだ調べていない」
「なんだ、館長、知らないの?」
 せっかくの説教も効果なく、なごかやな笑いのうちに幕となった。

 かつて企画関係の仕事を中心にやっていたころ、プレゼンに臨むときは、どこから突っ込まれてもいいように周到にシミュレーションしたもので、説得にはいささかの自信がある。

 ところが、子供たちの不意の質問に私は立ち往生だ。
 子供たちが相手だからといってナメてはいけない。
「無知の人間」であるからこそ、疑問は直感的で、鋭いのだ。

投稿者 mukaidani : 11:25

2009年10月07日

袴の練習で、考えた

 袴(はかま)をつける練習を始めた。

 着物を着るからには、袴は必須とわかってはいるが、これまで躊躇してきた。私は紐を後ろで結ぶのが、絶望的に苦手なのである。

 だが、そうも言ってはおられない。

 一念発起、着付け本とDVDを参考にしながら、じわりと練習を始めたところが、すぐにつまずいた。

 後ろ結びである。
 懸念したとおり、不器用で、これがどうにもうまくいかないのである。

 と言うのも、いまから数十年前、ウチの娘が幼稚園に通っていたときのこと。
 幼稚園の運動会で、私は〝お父さん競争〟に参加した。
 運動会なんか興味はなかったが、
「いっぺんくらい見に行ったらどうなの!」
 愚妻に一喝され、しぶしぶ出かけたのである。
 週刊誌記者だった当時、休日はいつも二日酔いで家でゴロゴロしていたのである。

 で、もののはずみで〝お父さん競争〟に出た。
 徒競走なのだが、途中でエプロンを拾い、これをつけて走るのである。

 ヨーイドンのスタートからエプロンを拾うまで、私はトップで快走。
 ところがエプロンでドジった。

 後ろ結びができないのである。
 あせればあせるほど結べず、結局、ドンケツになってしまったのである。

 このとき私は腹立ちまぎれに思った。
(二度と後ろ結びなどするものか。後ろ結びなんかできなくても、男子の一生に何の関わりもないのだ)

 以来、この歳まで後ろ結びには背を向けてきた。
 実際、男子の一生に、何の影響もなかった。
 ところが皮肉にも、男子にとって一大事の袴で、つまずくことになったのだ。

(人生、ワカラナイモノダナ)
 と、数十年の幼稚園の運動会を、私は思い浮かべるのである。

 人間同士で、ドラブルや不愉快なことがあると、
「ケンカしたってかまやしない。あんなヤツ、二度と会わなきゃいいんだから」
「あんなヤツの世話になることなんか、金輪際ありえない」
 そう思ってケツをまくる。

 ところが、世のなかというやつは、広いようで狭い。
 いつ何時、どういう用事で再会するかわからないし、私も何度か実際に経験した。
 なんともバツの悪いものである。

 そんなこんなで、一時の腹立ちでケツをまくるのは考えものだと、袴の練習をしながら、つくづく思うのである。 

投稿者 mukaidani : 13:20

2009年10月06日

海と、杉の木

 九十九里浜を散歩した。

 波がゆったりと打ち寄せては返っていく。

 海には波を起こしてやろうという意志はなく、ただ引力のなすまま、単調な動きを繰り返しているにすぎないが、それでも時に破壊的な力を私たちに見せつける。

 近くの神社に行ってみる。
 杉の大木があった。
 
 杉の木には伸びてやろうという意志はなく、陽光に枝を広げ、根から水分を吸い上げ、ただ単調な日々を繰り返しているにすぎないが、やがて天に向かう大木となる。

 人間は大望をいだき、その大望のために苦しむ。
 考えてみれば、愚かなことではないか。

 淡々と生きるのがよい。
「海は大望を抱かず、樹木に野心なし」
 私もそうでありたいと願う。

投稿者 mukaidani : 09:23

2009年10月05日

中川元大臣の死に思う

 中川昭一元財務相が亡くなった。

 現時点で死因は不明とのことだが、誰しも〝自殺〟と思ったことだろう。
 私もそう思ったし、メディアもそのようだ。

 死因が何であれ、あの〝朦朧(もうろう)会見〟が原因で中川氏が落選したとき、私はあれこれ考えたものだ。

 まず政界復帰しても、いや復帰すれば必ず、ことあるごとに〝朦朧会見〟が繰り返し放映されるだろう。

 大失態は、その世界にとどまる限り、永遠に繰り返し取り沙汰される。
 これが世のなかであり、政界に限らず、私たちも同じ目にあうのだ。

 だから、取り返しのつかない大失態を演じたら、さっさと身を引き、〝大失態の知名度〟を活かして、転身を図るべきだ。

 たとえば私が中川元大臣であれば、落選を機に政界を引退し、宗教界に転身したろう。
 かの〝朦朧会見〟で「ナカガワ」の知名度は世界的。
 政界という〝煩悩の坩堝(るつぼ)〟での経験や具体的エピソードを披露しつつ、人間の愚かさや欲望、さらに戦争の本質、幸せとは何か、生きるとは何か、といったことを宗教人として説けば、講演の引き合いは世界中から来るだろう。

 何しろ、まだ56歳なのだ。
 政界で再起も結構だと思うが、経験を活かして「平和」と「人生」を説くのも、政治に劣らずダイナミックなことだろうと私は本気で思っていた。

 中川元大臣に、「自分」と「自分の人生」を俯瞰(ふかん)して見る視点があったなら、〝朦朧会見〟を逆手に取る生き方もあったろうにと、残念に思うのである。

 私たちもまた、森で道に迷ったなら、高い木に登って俯瞰することだ。
 あせって、いたずらに歩きまわるのは、道に迷い、出口を見失い、袋小路で絶望するだけなのである。

 中川元大臣に哀悼の意を表しつつ、私はそんなことを考えた。

投稿者 mukaidani : 00:50

2009年10月04日

五輪惨敗と「石原ロジック」

2016年夏季五輪がリオデジャネイロ(ブラジル)に決まった。
 南米大陸で初の開催とあって、オリンピック精神からすれば、これでいいのだと思う。

 問題は東京である。
 私は元々反対だった。

 理由はいくつかある。
 一つは、毎月のようにスポーツの「世界大会」が開かれており、日本でオリンピックを開催することに興味がなかったこと。
 二つ目は、北京で開催されたばかりなのたから、アジア以外に譲るべきだと思ったこと。
 三つめは、国民的関心がなかったこと。
 そして四つ目は、石原都知事のスタンドプレーで始まった招致運動だと感じたこと。

 そういう意味から東京の落選はよかったと思っているが、私が注目していたのは、石原氏のコメントだ。
(きっと屁理屈をこねて、高飛車な態度で居直るんだろうな)
 と、楽しみにしていたのである。

 石原都知事はさすが、私の期待を裏切らなかった。

 五輪招致は知事3期目の公約だっただけに、責任の取り方について記者団から質問が出ると、
「そんな甘いもんじゃないと、いい勉強をした。それを正確に伝えることが、いずれ東京も含めてどこかの(国内)都市が五輪を開催し、世界に範を示す可能性につながる」
 と切り返し、
「途中で(知事を)辞めることは絶対ない」
 と退任を否定したのである。

 ものは言いようで、ポイントは、「失敗」を「教訓」にすりかえていることにある。
 招致運動に150億円も使っておいて「いい勉強」もないだろうが、この失敗を次ぎに活かすということで、居直っているのだ。

「失敗」には常に「教訓」があり、教訓とすることで失敗が許されるのであれば、どんな失敗も責任を取る必要はないということになる。

 犯罪者だって、
「いい勉強をしました。犯罪をおかすことがいかに悪いことであるか、それを正確に伝えることか、犯罪抑止の可能性につながると思います」
 石原ロジックをつかえば、なんとでも言えるのだ。

 古来より日本人の美徳である「潔さ」とは、失敗については一切の責任を我が身に負い、その一方で、失敗という経験と教訓は後世に残すことなのである。

 失敗の責任を取らずして「いい勉強をした」と嘯(うそぶ)く人間を、私は信用しない。

投稿者 mukaidani : 08:21

2009年10月03日

「無言実行」と「有言実行」

 昨日、親父と愚妻と私と、大学病院へ定期診察に出かけた。
 三人そろって少し血圧が高めなので、その診察である。

 で、病院の玄関を入ったときのこと。
 親父と愚妻が、そそくさとマスクをかけ始めた。

 愚妻が私の視線を感じて、
「インフルエンザの予防」
 と答えて、
「あなたもマスクしたい?」
 付け足しのように言ったので、
「いらん!」

 親父も、私の不機嫌な視線を受けて、
「インフルになるといけん」
 言い訳のようにつぶやく。

 何がインフルだ。
「この歳じゃけん、いつ死んでもいい」
 といつも嘯(うそぶ)いているのは誰だ。

 人間は矛盾に満ちた生き物であることは、私自身が誰より承知しているが、やはり「言行一致」でなければ信用をなくすということについて、改めて考えた。

「言行一致」とは、いうまでもなく「言葉」と「行為」が一致することで、これを「信用」という。

 いい換えれば、「言葉」がなければ、「行為」があろうとなかろうと、「信用」は傷つかないことになる。

 だが、さらに観点を変えれば、「言葉」のない人間は、「行為」に保険を掛けていることになる。
 つまり、言行の一致せざることに対する保険である。

 こういう人間は信用できない。

 以上のことから、「無言実行」は信用できず、「有言実行」をもって、私は相手を信用するのである。

投稿者 mukaidani : 08:17

2009年10月02日

コンビニの〝モグラ叩き〟現象

 近所のコンビニが店を閉めたと思ったら、そこから少し離れた場所に新たにコンビニがオープンした。

 コンビニは、次から次へと閉店していく一方で、これまた同一地域に次から次へと新規オープンしている。

 モグラ叩きみたいだ。

 同一地域でオープンさせる人は、
「わしなら成功させてみせる」
 という自信があるのだろう。

 そういえば、ラーメン屋なんか、同じ店舗で店が次々と変わるケースもある。

「釣り糸は魚道にたらせ」
 と、私は常々考えているのだが、釣りはウデよりもまず、そこに魚がいるかどうかだろうと思う。

 そこをすっ飛ばして、
「わしなら釣れる」
 と考えるのは、ただの過信ではないだろうか。

 コンビニの〝モグラ叩き現象〟を見ていて、そんなことを考えた。

投稿者 mukaidani : 06:45

2009年10月01日

今年もいよいよ第4コーナーだ

 今日から10月。

 今年も残り4分の1という第4コーナーをまわったところである。

 競馬で言えば、ここからがゴールまでの直線が勝負だが、人生はそうはいかない。
 直線を過ぎれば、すぐに来年という第1コーナーが待っている。

 ということは、元旦を1年のスタートと考えるなら、第4コーナーは1年の〝追込み〟ではなく、来年のスタートを切るための〝助走〟だと、私は考えるのである。

 では、助走とは何かと言えば、2つある。
 ひとつは来年に向けての諸準備。
 もうひとつは、「心構え」である。

 準備は人それぞれとして、大事なのは「心構え」である。
「人生観」と言ってもいい。

 今年1年の生き方がどうであったかを振り返り、来年は何に価値観を置いて生きるかを考えるのである。

 昨日、面白い記事をネットで見つけた。
《生活楽しむ男性、脳心疾患リスク減=女性は差なし》
 という厚労省研究班の記事だ。

 要するに、大規模疫学調査によると、
「生活を楽しむ意識の高い男性は、脳卒中や心筋梗塞など循環器疾患になりにくい」
 ということである。

 ストレスとの因果関係によるのではないかと推測しているが、女性は元来、ストレス発散がうまいので、「生き方」による差は出にくいということだ。

 だから女性はともかくとして、「男は、生活を楽しんでいる人間ほど病気にもかかりにくい」ということに、私は考えさせられる。

「生活に苦労し、周囲に神経をつかい、頑張ったからこそ、その〝対価〟として病気にかかりにくい」
 というならわかる。

 ところが、極楽トンボのごとく日々の生活をアッハハと愉快に笑って過ごし、それゆえ病気にもかからないなれば、何だか「ドロボーに追い銭」のような、不公平な気分になってくるのである。

 どうやら人生というやつは、努力が報われることはあっても、「苦労」とか「心配」といった感情に根ざすものは、報われるどころか逆効果であるということのようである。

 大金を稼ぐのは難しいが、アッハハと笑って暮らすことなら、誰でもできるだろう。

 第4コーナーでは、追込みのムチを入れるのではなく、たとえばそんなことを考え、アッハハと笑う〝助走〟をしてみて、新年のスタートを心がけるのが最上だろうと私は思うのである。

投稿者 mukaidani : 06:23