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2009年09月30日

格差医療

 健康保険がきかない高価な薬がある。

 つまり、命はお金で買えるということだ。

 すでに故人になったが、お金持ちだった知人がガンになったとき、いろんな治療法を試し、
「オレに金がなかったなら、とっくに死んでいるよ。命は金で買えるんだな」
 と、しみじみ私に語ったことがある。

 その知人も、結局、ガンには勝てず、亡くなっていく。
 お金でどこまで命が買えるものか私にはわからないが、病気に対して、保険がきかない薬や治療法があることは事実だ。

 これがなぜ、社会問題にならないのだろか。

 臓器移植と「命」といものがあれだけ論議されているなかで、金銭による「格差医療」がなぜ問題にされないのか。

 私は不思議でならない。

投稿者 mukaidani : 10:15

2009年09月29日

「食中毒」と「ガッツポーズ」

 神戸のホテル内にある『なだ万』が、コース料理で食中毒を起こし、3日間の営業停止になった。

『なだ万』といえば周知の高級和食店だ。
 その『なだ万』の食中毒を、どう見るか。

「『なだ万』ですらそうなんだから、そこいらの店が食中毒を起こして当たり前だ」
 と考えるか、
「あってはならないこと。『なだ万』よ恥を知れ!」
 と考えるか。

 前者の考え方は、「高級料理店」という評価に対して、
「まっ、そうは評価されているけどさ」
 と〝醒(さ)めた目〟で見ており、後者は、
「なんたって日本を代表する和食店だ」
 と賛辞の目で見ている。

 醒めた目で見れば、
「食中毒はあってはならないことけが、たまにはミスることだってあるさ」
 ということになり、この「まっ、いいじゃん」という〝なあなあの見方〟はやがて、高級和食店の地位そのものを落としていくことになるだろう。

 賛辞の目で見ている人は当然、
「『なだ万』よ、二度とこのようなことがないように猛省せよ」
 と怒り、この怒りをして、高級料理店を高級たらしめていくことだろう。

 私たちにとっては、どっちでもいいことだが、店にとっては死活問題になるのだ。

 今場所、大相撲で優勝した朝青龍のガッツポーズが横綱審議委員会で問題になっている。

 批判の急先鋒は内館牧子委員で、
「朝青龍はいつも反省している。狼少年だ。心が充実せず、技も磨かれず、けいこ不足で体がぷよぷよ。優勝はまぐれだ。心技体を鍛えて出直していらっしゃい」

 これに対して、鶴田卓彦委員長は、
「あの程度はいい。個人的に違和感はない。国民もそう思っているのではないか。あの体力と精神力があれば、まだまだ頑張れる」
 と擁護した。

 横綱を、上記の「高級料理店」に置き換えればどうなるか。
「まっ、いいじゃん」
 と発言した鶴田委員長は、ご本人も気づいていないだろうが、相撲を醒めた目で見ていることになる。

 反対に内館委員は、相撲を心から愛しているのだ。
 だから怒るのである。

 委員長からして「まっ、いいじゃん」ということは、もはや横綱は品格を求められないということの証明と言っていいだろう。

 勝てばいい、儲かればいい、という〝格差社会〟の現状において、「精神性」を求めてこそ、大相撲は本当の意味で人気を得るだろうに、委員長のノーテンキな発言を聞くと、大相撲の凋落は当然ということか。

 私たちも同様で、批判精神を失い、
「まっ、いいじゃん」
 と〝許容〟する比率が高くなってきたら、それだけ人生に醒めてきたということになるのだ。

投稿者 mukaidani : 01:03

2009年09月28日

「長寿」と「短命」

 昨日、所用があって本願寺築地別院へ出かけた。
 日曜日とあって、本堂は参拝者が多かった。

 私も手を合わせたあとで、ふと「寿命」ということが気になってきた。
(長生きすることは、いいことなのか)
 という思いである。

 世のなかには、病気や事故などで、生きたくても生きることのできない人がたくさんいる。
 そういうことから言えば、長寿は喜ぶべきことだろう。

 だが、現代人の多くが老後に不安を抱えているように、「長生き」そのものが不安のタネになっている。
 病気を克服し、長寿を願って医学が進歩し、長寿になるにつれて「生きること」が重荷なってくる。

 ならば、さっさと死ねばいいようなものだが、死にたくはない。
 短命もいや、長寿もいや、死ぬことはもっといや、というわけで、まさにこれこそ人間のワガママの極(きわ)みだろう。
 このワガママを苦悩の源泉であるとするなら、宗教が人間にとって不可欠であることがよくわかるのである。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
 ということわざがあるが、私たちの「苦悩」もそれと同じではないか。

 つまり「苦悩の正体」は、「死に対するワガママ」であるということだ。

 死は必定であるにもかかわらず、「早い」だ「遅い」だ「短命」だ「長寿」だと、勝手な思いを抱いている。

 子育ての最中の親御さんにとっては、我が子を残して死ねないという思いはあるだろう。
 それが親の愛であり、人情というものだ。
 だが、明日のことは誰もわからないのだ。

 となれば、やはり、きよう一日を精一杯生きることでしか、人生の充実はないということになる。

「短命」を「長く生きることができなかった苦しみ」とするなら、「長寿」は「長く生きたことの苦しみ」ということになる。

 どっちに転んでも苦しみなら、笑顔の絶えない一日でありたいと、私は思うのである。
 

投稿者 mukaidani : 11:21

2009年09月26日

「一畳の人生」について考える

 私は二階建ての家に、愚妻と親父と三人で住んでいる。

 しかも、仕事部屋は道場にもある。

 本来であれば、生活も仕事もスペースはじゅうぶんのはずなのに「狭い」のである。

 これが私には不思議でならず、各部屋をジロジロと眺めて見て、はたと気がついた。

 余計な物が多いのだ。

 書籍、資料、衣類、置物、生活小物などなど、「あればいいが、なくてもいい物」が、そこいらじゅうにある。

「いつか役に立つ」は、結局、役に立つことはないと知りながら、捨てられないでいるというわけである。

 と、そんなことを考えているうちに、
《千畳敷に寝ても一畳》
 ということわざが唐突に浮かんできて、
(なるほど、そういうことなのか)
 と、納得したのである。

 つまり、人間が寝るスペースは、どんな大邸宅に住もうと一畳あればじゅうぶんで、残りのスペースは〝不要のもの〟で一杯になっていくということである。

 家が多くなれば当然、一畳分を引いた残りのスペースが広くなるわけで、それだけ〝不要のもの〟が多くなり、狭く感じるということになる。

 だから、住まいの広さに関係なく、常に「狭い」という不満が生じるのが、私たち人間というわけである。

 これは、住まいに限るまい。
 お金も、地位も、欲もすべてそうだろう。
 どんなに稼ごうとも、どんなにエラくなろうとも、結局、常に不満が残るのだ。

 人生はやはり、簡素であることがいちばんの幸せであるかもしれない。

 今春、良寛の「清貧」について本を書いたが、いま改めて「清貧」について思いをめぐらせている。
「一畳の人生」――。
 すがすがしくて、最高の贅沢であるかもしれない。   

投稿者 mukaidani : 11:18

2009年09月25日

ミラーイメージの法則

 スポーツ心理学に「ミラーイメージの法則」というのがある。

 ひと口で言えば、
「相手に向けて発した気は、自分に返ってくる」
 ということで、指導者の心得として用いられる。

 たとえば、対戦相手のミスを願ってゲームをするのはマイナス感情であり、マイナスの気を発すると、自分の能力も低下するというものだ。

 あるいは自チームの選手がミスをしたときに、
(あの野郎、しょうがねぇな)
 とマスナスの気を発すると、自チームのポテンシャルは落ちてくる。

 だから、野球の試合などで仲間がミスをすると、
「ドンマイ、ドンマイ」
 と励ますのは、選手はそこまで意識をしていないだろうが、ミラーイメージの法則にかなったことなのである。

 このことはもちろん、スポーツに限らない。

 たとえば私は愚妻のことを悪く言うが、これはマイナス感情であり、私自身に悪影響を及ぼしているのだ。
 最近、仕事の能率があがらないのは、ミラーイメージの法則からいって、愚妻の悪口のせいだと気がついたのである。

 人の悪口を言ったり、意地悪な感情を抱いたり、心の中で罵声を浴びせたりするのは、ミラーイメージの法則によって全部、我が身に跳ね返ってきているのだ。

 こうしてみると、やはり素直で、清い心の持ち主がハッピーになるということなのだろう。

 反省し、
「よし、わしは仏様のような人間になる」
 と愚妻に告げると、
「あら、死んじゃうの?」
 と弾んだ声をあげた。

「バカ者。〝仏様〟になるんじゃない、〝仏様のように〟なるんだ」

 せっかく愚妻の悪口を書くのはよそうと思っていたのに、書かないで腹に溜めるとストレスになってしまう。

 だから書いて、ストレスを発散させるのだ。

 そして、ストレスを発散すればするほど、ミラーイメージの法則によってストレスはますます溜まっていくという〝アリ地獄〟に私は落ちていくに違いない。

 
  

投稿者 mukaidani : 04:12

2009年09月24日

審査会を終えて

 昨日、私の道場の秋期審査会を終えた。

 子共から大人まで70名ほどの受審者だ。

 審査するのは私のほか、支部の師範、本部指導員など4名。
 試合ではないので、巧拙はともかく、一定レベルを満たしていれば合格とするが、それでも5名が11月末に再審査、迷いに迷って数名を合格とした。

 本来、再審査という制度はないのだが、5名は茶帯クラスであり、また稽古も休まず来ているので、不合格にするのは教育的見地からよくないと思ってのことである。

 迷った末の合格者も、「迷ったら合格」という教育的見地からそうした。

 地位が人間をつくることはよく知られているが、段級も同じだ。昇段級するにつれ、それに見合った技量になっていくものである。

 いや、このことは地位や段級に限るまい。

 相手を「信用」すれば、信用に足りる人間になる。
「信頼」すれば、信頼に足りる人間になる。

 だが、そうは思いつつも、
「相手が信用に足りる人間になるなら、信用しよう」
 と、逆発想をしてしまう。

 私の課題である。
 

投稿者 mukaidani : 03:36

2009年09月23日

日帰り入浴の〝若いパパ〟

 九十九里の白子は、テニスのメッカとして知られる一方、温泉の町でもある。

 それが気に入って、この地に仕事部屋を借りたわけだ。

 クルマで十分ほど行けば温泉健康ランドがあるし、あちこちの温泉旅館で日帰り入浴をやっている。

 で、昨日午後は、仕事部屋から歩いて五分ほどのところにある温泉旅館へ出かけた。
 
 展望浴場から、サーファーたちの波乗り姿が見える。
 その上空を、エンジン付のモーターパラグライダーがのどかに飛んでいる。

 徹夜明けであったが、湯船に手足を伸ばしながら眺める景色は、なんとも気分がいいものであった。

 と、そのときである。

 湯船から出た三十前後の若いパパが、
「洗面器を片付けなさい。ほら、椅子も」
 と、幼い我が子に毅然と命じたのだ。

 幼児も、
「うん」
 と素直に答えて片付け始めた。

 この光景を見ていて、日本の若いパパも捨てたもんじゃないと見直した。
(こんなパパに育てられる子供は幸せだろうな)
 とも思った。

 若いパパは私に軽く会釈して風呂場を出て行った。

 私は展望の窓に目をもどす。

 ついさっきまで、いい眺めだと思っていたサーファーやモーターグライダーが、何やら急に色あせて見えてきた。

 いま風呂から出て行った若い親子の〝景色〟のほうが、私には何倍も何十倍も素晴らしく見えたのである。

投稿者 mukaidani : 00:35

2009年09月22日

煩悩は「加速」する

 どうやっても消滅できないのが煩悩(ぼんのう)だとされる。

 要するに「欲」のことだ。

 しかもその欲は、求めて際限がない。

 だが原始の昔から月にロケットを飛ばす現代まで、人類の歴史は「欲」を原動力として発展してたと言っていいだろう。

 もちろん視点を変えれば、それが「発展」であるかどうかは意見の分かれるところだろうが、社会通念に従えば、人類の歴史は発展の歴史である。

 すなわち「より早く、より便利に、より快適に」という欲(煩悩)が、経済発展という〝お金もうけ〟とリンクすることで発展し、いまも加速し続けているというわけだ。
 このことは、経済とリンクしするということにおいて、医学も福祉も教育も例外ではない。

 となれば、煩悩が人間を苦しめ、不幸にする諸悪の根源である以上、今日の科学的・経済的・医学的・福祉的発展は、煩悩によって咲いた徒花(あだばな)ということになる。

 つまり、煩悩を消滅しようとする努力は、いま言った社会通念上の「発展」を否定することになる。

 難しいですなァ。

 釈迦の教えに従えば、原始の昔こそに幸せの原型ということになる。

 新幹線がなくても、パソコンがなくても、ファッショナブルな服がなくても、美味なる料理がなくても、ちょっとした病気で死のうとも、それこそが幸せということになる。

 だが、煩悩は消滅できないものであるから、原始生活には決して満足しないだろうし、実際、しなかった。

 と言うことは、私たちがそうと気づかないだけで、洞窟に暮らした太古の昔から、煩悩が加速してやがて月にロケットを飛ばすであろうことは、既定のことであったということになりはしないか。
 月面に着陸したからといって、
「人類にとって偉大な第一歩」
 と、はしゃぐことはないのだ。

 ならば、人類はこれからどこへ向かうのか。

 そんな思いにとらわれつつ、
(くだらないこと考えてないで、早く原稿を書かねば)
 と気はあせる。

 ついこのあいだ、「生産性こそ命」の勝間和代女史の高著を拝読したばかりだというのに、ちっとも身になっていないのだ。

 でも、しょうがない。
 
 私は、「脳」ではなく「煩悩」が人一倍、大きいのだ。

 私は勝間女史のように生産性人間にはなれないのだ。

 くだらぬことが次から次へと加速しつつ浮かんでくるのは、これはやむを得ないことなのである。

投稿者 mukaidani : 00:56

2009年09月21日

地方分権

 地方分権が加速し、財源と権限の大幅移譲になるようだ。

 地方分権は大いに結構だと思うが、それで本当に私たちはハッピーになれるのだろうか。

 つまり自治体にカネが流れ、権限が強化されることと、そこに住む私たちの生活が向上することとはイクオールではないのではないか、という懐疑である。

 つまり、地方ほどボス政治が横行する現状を考えれば、増えた財源はワルたちの私服をこやすことになるだろう。

 郵政民営化と同じで、「やってみたらとんでもなかった」という懸念を私は抱く。

 どんな高邁な理念も、どんな立派なシステムも、それを運用するのは人間である。
 地方分権の大合唱には、その最も重要な視点が抜け落ちているように、私は思えるのだ。

投稿者 mukaidani : 09:36

2009年09月20日

民主党の不協和音

 今日は午後から長生郡白子町の仕事部屋にやってきた。
 8月に鴨川からここへ仕事部屋を移して、本格的に利用するのは初めてである。

 何となく落ち着かない。
 犬小屋を移すとき、犬の匂いのついているフトン(?)などを一緒に移せというが、何となくその意味がわかるような気がした。

 政権与党となった民主党が矢継ぎ早に斬新な政策を打ち出し、何となく落ち着かないでいたところ、財務省と国家戦略室との間で、早くも主導権争いの不協和音が聞こえてきた。

 なんたって多くは元自民党議員だ。〝自民党の体臭〟がプンプン匂ってくるようで、犬小屋の引っ越しではないが、何やらホッとしているところである。

投稿者 mukaidani : 17:11

2009年09月19日

愚妻の浅知恵

 二、三日前、メガネの洗浄スプレーを買うよう愚妻に頼んでおいた。

 で、ふとそのことを思い出して、
「おい、メガネのスブレー、どうした?」
 と問うと、
「まだよ」
 と答えるので、
「そうか」
 と私は納得した。

 で、昨夜。
 風呂で歯を磨こうとして、歯間ブラシが切れていることに気がついた。
 そういえば歯間ブラシを買ってくるよう愚妻に頼んでいたことを思い出し、
「おい、歯間ブラシ、どうした?」
 と問うと、
「まだよ」
 と答えた。

 私はこのとき、ハタと気がついた。
 愚妻は、私の依頼など、すっかり忘れてしまっているのだ。
 ところが、
「忘れていた」
 と言おうものなら、
「バカ者!」
 私が怒るものだから、
「まだよ」
 と答えているのだ。

 なるほど「まだよ」という返答には、
「忘れてなんかいませんよ。諸般の事情で、まだ実行していないだけ」
 というニュアンスがこめられているのである。

 私はうなった。
 ああ言えばこう言うで、私に鍛えられた結果、愚妻はちゃんと知恵を働かせるようになったのである。

 ただし、何でもかんでも「まだよ」で切り抜けようとするところが、甘い。

 私なら、
「明日の午後、買いにいくつもりなの」
「ずっと気になっているんだけど忙しくて」

「まだよ」に、もっとバリエーションをつけて「忘れていた」をごまかすだろう。
 愚妻の浅知恵では、まだまだ私には勝てないのだ。

投稿者 mukaidani : 00:50

2009年09月18日

酒井法子の謝罪会見

 スーパー銭湯のサウナ室で、酒井法子被告の謝罪会見を観た。

 しきりに謝罪していたが、一視聴者としては、謝罪してもらうことにさして意味はないように思った。

 まして「お騒がせしたこと」については、謝るどころか逆で、メディアも視聴者もゲップが出るほど楽しませてもらったではないか。

 そんなことより、覚醒剤を断ち切ることができるかどうか、彼女は真剣に対峙する必要がある。

 覚醒剤依存を「病気」ととらえれば、「完治」はないとされる。
 だから覚醒剤を断つということは、
「完治はしないが、回復し続けている状態」
 ということになる。
 これは生涯にわたって続くことで、それほど前途は厳しいのだ。

 彼女はこれまで何度も覚醒剤をやめようとしたはずだ。
 やめようとして、やめられない自分を嫌悪しつつ、覚醒剤を使用してきたのだろうと思う。

 数年前、アルコール依存症だった私の友人は自殺した。
 酒に依存する自分を嫌悪し、嫌悪しつつも依存してしまう自分に悩み、みずから命を断った。

 覚醒剤依存、アルコール依存と戦う人の葛藤と苦しさを考えれば、健常者の悩みや苦労はママゴトのようなものだろう。
 私はいつもそのことを思うのである。

投稿者 mukaidani : 02:14

2009年09月17日

総裁選の嘲笑

 昨日の深夜、新大臣の就任記者会見の様子をテレビで見ていた。

「本当にできるのか?」
 という、これまで民主党に抱いていた懐疑は、少し払拭されたのではないだろうか。

 それに引き換え、自民党の総裁選は嘲笑である。
 これまで総裁の椅子をめぐって権力闘争をしてきたはずなのに、自民党が存亡の危機に立たされるや、
「あたしゃ、今回は結構でござんす」
 と逃げの一手である。

 総裁選を前倒しして衆院選を戦うべしと、大騒ぎしたのは、ついこのあいだのことではなかった。
 どんなきれいごとを言おうと、彼らに政治家としての信念も矜恃もないということがよくわかる。
 自民党の危機にのぞんで〝火中の栗〟を拾ってこそ政治家だろう。

 我が身が可愛いのはわかる。
 私も自分が可愛い。
 しかし、だからといって「節」を曲げていことにはなるまい。

 人間は、後ろめたいとき、「言い訳」をする。
「しかじか、かくかく」
 と、いかに自分が正しいかを力説する。

 だが、どんな理屈を並べようと、所詮、それは自己正当化にすぎない。

「言い訳」なら3歳の子供だってするのだ。
  

投稿者 mukaidani : 10:46

2009年09月16日

お香の匂い

 道場の一隅に私の仕事部屋がある。

 八畳ほどの広さで、長机に本箱が数個、冷蔵庫、複合コピー機、さらに小さなテーブルと椅子が四脚。狭くてコクピットのようだが、気分転換や考えごとをするときは、道場に出てうろうろ歩きまわる。

 夏は道場にゴザを敷いて昼寝をする。
 これは気分がいいものだ。

 それはさておき、私は仕事部屋で香を焚く。

 以前は、お寺の本堂の〝線香臭〟があまり好きではなかったが、いまは大好きである。取っつきにくいものほど、ハマるというが、これは本当である。

 で、気に入ったお香を買ってきて焚くわけだが、先日のこと。

「何か匂わない?」
 小学生の男の子たちが道場で話をしている。
「匂うね」
「何の匂いだろう」
「あっ、葬式の匂いだ!」

 この会話を聞いて、香の匂いが道場に漏れないよう、私は気をつけるようになった。

 葬式の匂いであって大いに結構なのだが、なぜ「結構」であるか、子供たちに説明するのは難しい。

「キミたちも、そのうち死ぬんだよ。だから、今日という一日を精一杯に生きなさい」
 そう言って、納得する子が何人いるだろうか。

 子どもに「命の尊厳」を教えることは大事だ。
 だが命は、「死」があってこその「生」である。
 子供たちに「死」から見た「命」を教えるのは正しいことなのだろうか。

 かつてお寺であった〝日曜学校〟のように、一定の時間をかけ、継続的に「命」を説いていくならよい。

 しかし、たまたま匂ったお香を引き金にして、「命」を説くのは誤解の元だろう。

 空手指導者に、そこまで求められるものではあるまいと思いながらも、曲がりなりにも僧籍にある者としては、どうしても考えてしまうのである。

 さて、どうしたものか。
 そんなことを考えながら、道場には匂わないよう、先ほどお香に火をつけた。

投稿者 mukaidani : 14:05

2009年09月15日

「人生苦」と「四元凶」

《のにのに病》というのがあるのだそうだ。

「親切にしてあげたのに」
「めんどう見てやったのに」
 という《のに》である。

「やなきゃ、やらなきゃ」が《きゃあきゃあ病》で、「やらねば、やらねば」が《ねばねば病》。

 これに《のにのに病》を加えて、自分を苦しめる三元凶ということになろうか。

 いや、《けどけど病》もある。
「やろうと思ったけど」「行こうと思ったけど」の《けど》だ。

 これを加えて四元凶ということにしよう。

「親切にしてあげたのに」という《のにのに病》に罹(かか)ると、絶えず不満にさいなまれる。

「やらなきゃ」の《きゃあきゃあ病》と、「やならねば」の《ねばねば病》に罹ると、いつも何かに追い立てられているようで、気持ちが落ち着くときがない。

 そして「やろうと思ったけど」の《けどけど病》に罹ると、いつも自己嫌悪に陥ってしまう。

 気持ちか落ち着かず、絶えず不満にさいなまれ、しかも自己嫌悪に陥るとなると、人生、悲惨だろう。

 ところが、そうと知りつつ、仕事に雑用に人間関係に追われ、「のに」「きゃあ」「ねば」「けど」の四元凶の日々になってしまう。

 では、どうすれば四元凶から解き放たれるか。

 私の場合は、
「水は低きに流れる」
 と自分に言い聞かせる。

 水は放っておいても低い方へ流れ行く。
 いや、低い方へしか流れないという「現実」を甘受するのだ。

 裏切られることもあれば、失敗もするだろ。
 完璧をめざしたところで所詮、無理な話。
「やらないよりはいい」
 と、ベストでなくベターで物事を考えるのである。

 こんな私のことを、愚妻は、
「いい性格だわね」
 と皮肉を言う。

 バチ当たりもここに極まれりで、
「バカ者! 四元凶に苦しむことになるぞ」
 憐憫の心から私が注意すると、
「フン」
 と鼻で笑って、
「あなたに苦しめられることを思えば、何だって平気だわ」
 平然と言ってのけた。

 どうやら愚妻に対してだけは、四元凶も避けて通るようである。
 

投稿者 mukaidani : 01:23

2009年09月14日

「人気者」とは〝踏み台〟のこと

 オバマ大統領が政治生命をかける保険改革で、数万人規模の抗議デモがワシントンであったという。

 アメリカの保険問題のことなど、さして興味もないし、それはアメリカ国民が決めることであって、とやかく言う筋合いでもない。

 ただ、圧倒的人気で大統領に当選したオバマですら、政策反対派から激しいブーイングを浴びていることには考えさせられる。

 つまり人気の本質は、「私にとって、どれだけ都合がいいか」ということで上がったり下がったりするものであり、「人格」で評価する人気は、「私の都合に関係ない人」に対するものなのである。

 と言うことは、クラスや職場の人気者は、「みんなにとって都合のいい人」ということになる。

 そして、「みんなにとって都合のいいこと」が「自分にとって都合のいいこと」であるなら結構だが、利害は基本的に対立するものである以上、人気者の本質は〝踏み台〟にすぎないのである。

 ところが、多くの人はこのことに気がつかない。
「人気者」をホメ言葉であると思っている。
 周囲の人間は巧妙に「人望家」と言い替え、当人を有頂天にさせたりもする。

 悲しいかな、人間関係とはかくも世知辛いものなのである。

 だから「人気者」「人望家」と周囲から評価されたら要注意。
 かのオバマ大統領でさえ、持ち上げられてドスンと落とされるのだ。
 
  

投稿者 mukaidani : 02:19

2009年09月13日

合宿先にて

 今朝は、鳥の囀(さえず)りで目が覚めた。

 例年、合宿は河口湖で行い、ここ秩父は初めてだが、山間の旅館は風情があっていいものだ。

 1泊2日と短い合宿だが、社会人にとって参加するのは大変だろう。
 昨夜も夜9時過ぎて、宴なかばに到着した者もいる。今朝、稽古にだけ来る者たちもいる。

 夜来の雨は上がり、初秋のやわらかな日差しと鳥の囀り。

 なかなかいいものである。

 まもなく朝の稽古が始まる。
 

投稿者 mukaidani : 07:35

2009年09月12日

もうすぐ審査会

 道場の秋期審査会が近づいてきた。

 男の子はさすがに訊いてこないが、女の子は合否についてそれとなく探ってくる。

「館長、わたし、受かる?」
 と、直截に訊いてくるのは低学年。

 3年生あたりになると、
「館長、わたし、受かると思う?」

 受かるか否かではなく、「思うか」と訊いてくる。
 知恵がついてきているのだ。

 ところが、これが6年生になると、
「わたし、入会したのが幼稚園のときだから、もう6年。お母さんが、まだ初段になれないのかって言うから、困っちゃう」

 困っちゃうのは私で、さすが6年生ともなると、泣き落としも巧妙なもの。

 男女は同権ではあるが、
(やっぱり男と女は違うんだな)
 と、微笑ましくもあり、感心しきりなのである。

 今日はこれから大人の合宿で、秩父へ出かける。
 年間行事のなかの、楽しみの一つである。

投稿者 mukaidani : 06:05

2009年09月10日

感情は「デジタル」である

 テレビで、貧困や饑餓、悲劇を報じたあと、にぎやかなCMが入る。

 ゴクゴクとうまそうにビールを飲むCMやダイエット、化粧品などのPRだ。

 番組の悲惨な話に深く同情しつつも、それらCMに何の違和感も抱かない自分に、慄然とする。

「所詮、他人ごと」
 という思いが根底にあるからだろうが、しかし「気の毒だ」という同情心もまた、ウソではない。

 そこで、ふと思った。
(人間の感情はアナログではなく、デジダルではないのか?)


 悲しみや不安、あるいは喜びは、引きずるように見えて、実はページをめくるように変えられるものであるということだ。

「泣いたカラスがもう笑った」
 と昔から言うが、まさにそのとおりなのである。

 感情を引きずるのは、余韻に浸りたいか、同情されたいか、悲劇の中に身を置くことで〝自己弁護〟しているかのいずれではないだろうか。

 言い替えれば、「気持ち」は切り替えられるということなのだ。

 ネガティブな感情を引きずるのも、それを断ち切るのも、それこそ「気持ち一つ」だと、テレビのにぎやかなCMを見ながら考えた次第。

 難しいことではない。
 人間は〝忘れる生き物〟なのだ。
    

投稿者 mukaidani : 23:25

2009年09月09日

「個の時代」の加速

 来週末からシルバーウィークが始まる。
 気がつかなかったが、テレビの放送で知った。
 
 海外旅行は満席、国内旅行も大人気とか。

 不景気だ、リストラだ、子供手当だ、雇用の確保だ、老後対策だという論議はいったい何なんだろう。

 これが「格差社会」の実態とするなら、格差社会はますます広がるだろう。

 なぜなら、下層階級にいるうちは格差社会を批判し、ひとたび中層階級になれば、あとは知らんぷり。海外旅行を楽しむことになる。

 つまり格差社会とは、下から上への「這い上がり競争」なのだ。

「格差社会」を批判すればするほど、この競争は激化する。

 福祉社会の進展に見えて、実は逆行しているのではないか。

 頼れるのは自分だけ。
「個の時代」はさらに加速する。
 私はそう思っている。

  

投稿者 mukaidani : 09:07

2009年09月08日

シャンパンの誘惑

 昨日は午後3時から、愚妻と100坪のほうの畑の草取りに出かけた。

 草刈り機では地中の根っこの部分が取れないので、カマをつかってガリガリと地面を引っかいて草を取っていくのだが、これが楽じゃないのだ。

 初秋とは言え、陽はまだ空にあって汗はダラダラ。
 立ち上がると、フラリとくるのである。

 で、夜。
 ひと風呂浴びて、近所にある馴染みにのフランス料理店に出かけた。

 道々、愚妻が、
「きょうはシャンバンにしようかしら。よく冷えたやつ」
 と私に問いかける。

「勝手にしろ。おまえが何を飲むかまで、わしは関知せん」
「あなたも飲めばいいじゃないの」
「アホ。わしは酒をやめとるじゃないか」
「でも、あんなに汗をかいたんだから、一杯くらいかまわないじゃないの」

 ここで、私の脳裏に、
(それもそうだな。あんなに頑張ったんだから)
 そんな思いがよぎる。

 と同時に、
(なるほど人間というやつは、禁を犯したり悪事に手を染めるときは、自分に言い訳をするんだな)
 という思いが一方でした。

 禁煙して20年になるが、あのときも、
(切りが悪いから来月からにしようかな)
(やっぱり新年からだ。なんたって一年計は元旦にあるんだから)
(一度にやめなくても徐々に減らしていけばいいんだ。何事も急激なことはよくない)

 何だかんだ自分に〝言い訳〟し、なかなか禁煙できなかったものだ。

 そんなこんなの経験から、人間は自分の意志に背いた行動を取るときは、自分に対して「言い訳」をするということがよくわかっている。

(頑張って汗を流したんだ。一杯くらいかまわないじゃないか)
 という「言い訳」は、心の隅に飲酒に対する後めたさがあるということなのである。

 たがら飲んではならない。

 私はいつものようにオレンジュースを、愚妻はシャンパンを注文し、
「よく冷えてておいしわ」
 と、ノーテンキなことを言っている。

 アホなやっちゃ。

 私が賢明にも踏みとどまったからいいようなものの、もうちょっとで愚妻の甘言にコロリといくところだったのである。

 
  

投稿者 mukaidani : 07:59

2009年09月07日

厚顔、見習うべし

 小池百合子議員が、早々と町村派を離脱した。

「派閥政治の時代は終わった」
 というのが離脱の理由だが、私の目には〝泥船〟から飛び降りたように見えるが、どうだろうか。

 そう言えば、総選挙の責任者だった古賀誠も、選挙を目前に控えてさっさと辞任し、選挙区へ帰ってドブ板選挙で当選した。

 選挙の責任者ではなくなったのだから、自民党の大敗北について責任を問われることもない。

 小池も古賀も当面、音なしの構えでいて、そのうち場面を見てしゃしゃり出てくることだろう。

 お二人の身の処し方は、まさに「武道的」である。
「来る」とみれば「引き」、「引く」と見れば「押し」、ヤバイとなればパッと見切って安全な場所に身体を置き、戦況を見守る。

 そして、仲間の軍勢が優勢になるや、
「どけどけ!」
 と最前線に躍り出てくるというわけだ。

 小池のことを「渡り鳥」、古賀のことを「ひきょう者」と揶揄(やゆ)する声もあるが、とんでもない。
 彼らこそ、「生き方の達人」なのである。

 私も、そういう生き方をすれば、もっと違った人生になったろうに、変わり身がヘタなのだ。
「来る」と見れば「押し」、「引く」と見れば「引き」、ヤバイとなれば突撃する。

 これは〝玉砕の人生〟であり、私の生き方は、およそ〝武道的〟ではなかったことに改めて思いを馳せるのである。

 小池はエライ。
 古賀はエライ。
 まさに厚顔、見習うべし。

投稿者 mukaidani : 01:58

2009年09月06日

「意志の強さ」とは何か

 昨日、薬物をテーマに保護司の研修会があった。

 講師は、千葉ダルク・施設長の白川雄一郎氏だ。

 ダルクとは薬物依存者の社会復帰を手助けする民間の〝リハビリ施設〟で、全国に約50カ所ある。

 お話は具体的で、とても参考になったが、次の言葉にとても興味を引かれた。

「薬物を断てないのは、意志が弱いわけじゃない。意志を使う方向が間違っているだけ」

 覚醒剤がよくないと知っていても、やめようとしない。家族を失い、職を失っても、覚醒剤を使用し続けている。
 意志は強いのだ。
 ただ、その意志を発する方向が間違っているだけ。
 その方向を変えれば、クスリは断てる。

 薬物を例にしたお話だったが、これは人生すべてに言えることだろう。

 酒飲みは、二日酔いになろうが、金がなくなろうが、頑張って飲み続ける。

 煙草を吸う人は、肺がんの危険があろうが、喫煙場所が制限されようが、意志強固にして吸い続けている。

 ゴルフに行くときは、どんなに朝が早かろうが、嬉々として出かける。

 政治家は選挙で駆け回り、土下座までして一票をお願いする。

 みんな意志が「強い」のだ。

 ところが、いざ断酒しようとするとできない。
 禁煙もできない。
 志を立てても、三日坊主で終わる。

 そして、
(ああ、なんと自分は意志の弱い人間であることか)
 と嘆く。

 だが、本人は気がつくまいが、「意志が弱い」を〝言い訳〟にしているのだ。

 本当は意志は強いのだ。

 だた、その意志の強さを発揮する方向が違っているだけなのである。

 示唆に富んだ言葉だった。

投稿者 mukaidani : 08:36

2009年09月05日

心の〝健康〟ということ

 同世代と話をすると、健康のことが話題に出るようになった。

 秋口という気分的なものもあるのだろうが、やはり年齢からくる話題だろう。

 血圧が高いとか、尿酸値がどうとか、血糖値がどうとか、あれこれ披露し合って、
「やっぱり健康が第一だね」
 という結論に落ち着く。

 しかし、「身体の健康」についてはマジメに考える一方、「心の健康」について考えることは少ないようである。

 すべては心の持ちようが決めるということからすれば、身体よりもむしろ「心の健康」が大事ではないだろうか。

 となれば、身体と同様、心もまたトレーニングが必要ということになる。

 身体の健康のためにウォーキングに精を出すなら、〝心のウォーキング〟も必要であるということだ。

 食生活に気をつけるなら、日々の対人関係や心の処し方に気を配らねばなるまい。
 価値観、人生観を、しかと確立しなければなるまい。

 ただ、そんなことをつらつらと考えつつも、
(しかしなァ)
 という思いもよぎる。

 身体も心も健康は大事ではあるが、こだわり過ぎては本末転倒。

 健康であろうとするために、かえって苦しい人生になる。

〝健康餓鬼〟になってはなるまい。

投稿者 mukaidani : 09:53

2009年09月04日

自分に「値打ち」を付ける

 民主党の小沢一郎代表代行が幹事長に就任することになり、朝からトップニュースでテレビが報じている。自民党は小沢氏の〝剛腕〟に戦々恐々ということのようだ。

 なるほど小沢氏は剛腕だが、先の選挙運動で私が感心したのは、「自分に対する値打ちのつけ方」だ。

 たとえば小沢氏は、各地方の連合幹部などと会合を重ね、二次会のカラオケまでつき合うなどして、
「あの小沢さんが、ここまでつき合ってくれた」
 と、連合幹部が感激したという。

 つまり、こういうことだ。

 人間関係というやつは、10人に頼まれごとをし、時間をやりくりして9人までの頼みを引き受けて尽力したとする。

 ところが、落ちこぼれた1人は、
「なんでオレだけ」
 と恨み、悪口を言って歩く。
 頑張って9人の世話をしたのに、悪評が足を引っ張ることになる。

 逆はどうか。
 10人に頼まれごとをして、1人しか引き受けない。
 すると、落ちこぼれた9人に恨みは残らない。
 恨みが残らないだけでなく、「頼みごとを引き受ける」ということに対して、大きな値打ちがつくのである。

 もし小沢氏が気さくで、普段からつき合いのいい人間であれば、二次会につき合ったからといって誰も感激しまい。

 反対に忙しくて二次会を断ろうものなら、
「なんだ、あいつ」
 と悪評になる。

「自分に値打ちをつける」とは、こういうことを言うのだ。

投稿者 mukaidani : 07:53

2009年09月03日

時間のムダは「助走」にあり

 これまでより30分早くし、朝5時30分に起きるようにした

 時間のやりくりをいろいろ検討てみた結果、この時間の起床でなければ予定がこなせないからである。

 だが、それでも「生産性」はあまりあがっていない。

 睡眠時間は減ったが、時間に余裕ができたせいで、ついついインターネットでニュースを見たりする時間が長くなっしまったのである。

 で、「便利」ということについて、つくづく考えさせられた。

 インターネットのおかげで、資料の検索やコミュニケーションなど非常に便利になったが、便利すぎて、ネットサーフィンに時間を消費したりと、新たなムダが生じるようになった。

 携帯電話だってそうだ。
 いつでもどこでもすぐに電話できるので、使いはじめたときはとても便利だと思ったが、便利すぎてムダ話が多くなってしまった。

 すなわち、「便利」と「ムダ」は比例関係にあるということに気がついたわけである。

 いつだったが、脳学者の茂木健一郎氏が、仕事などをはじめるときは「助走してはならない」といったようなことテレビで語っていた。

 私に即して言えば、原稿を書く前にニュースをサーフィンしたり、お茶を飲んだり、爪を切ったりしないで、
「すぐかかれ」
 というわけである。

 なるほど、「時間のムダは助走にあり」ということか。

 あれこれ考える前に、即行動。

 これからはそれでいこうと、いま反省しているところである。

投稿者 mukaidani : 06:23

2009年09月02日

「肩書き」について考える

 衆院の議員会館で、落選議員の引っ越しが始まった。
 480議席のうち、半数近くの大移動だそうだ。
 サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙に落ちたら〝タダの人〟。
 お気の毒なものである。

 私はこれまで、《肩書き》にこだわる人間、《肩書き》を乱発する組織を笑ってきた。「長」のつく人間が「ヒラ」より多い零細企業だってあるのだ。

 だが、よくよく考えてみると、「人間の値打ち」というやつには客観性がなく、したがって《肩書き》でしか判断できないのではないか、と最近思うようになった。

「私は仕事ができます」
 と言ってみたところで説得力はないが、
「私は部長です」
 と言えば、なんとなく「エラいんだな」と思ってしまう。

 そういう意味で、《肩書き》は大事と言うわけだ。

 落選議員は《肩書き》がなくなる。
 だから「元議員」とか「前議員」という《肩書き》をつける。
 だが、大物政治家になけば、「現」も「元」も「前」も不要だ。

 すなわち、小物であるうちは《肩書き》で勝負、大物になれば《名前》で勝負。《肩書き》は不要ということになる。

 こうしてみると、《肩書き》にこだわるのは「小物の証明」ということになる。
 やはり、笑われて当然ということか。

投稿者 mukaidani : 07:01

2009年09月01日

今日から稽古

 先週、道場は夏休み。

 今日から稽古が始まる。

 稽古休みは四日だけなのに、ずいぶん長く休んだような気がする。
 たぶん生活の一部になっているからだろう。
 ルーチン化したものは、それを休むと、生活にポッカリと穴が空いたような気分になるということか。

 定年退職すると、そんな気分になるのだろうと、自由業の私は勝手に推察するのである。

 民主党が、「郵政民営化見直し法案」を提出するという。
 あの小泉フィーバーは何だったのだろうか。

「手術のやり方が間違っていたので、もう一回お腹を切ります」
 そんなことを言われているような気分だ。
 

投稿者 mukaidani : 07:07