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2009年08月31日

開票速報を不謹慎に楽しむ

 予想どおり民主党の圧勝である。

 愚妻とテレビの選挙区速報を見ながら、
「おっ、あいつも落ちた!」
「こいつも落ちた!」

 不謹慎ながら、自民党の大物議員の落選を楽しんだ。
 まっ、サディスクティックな快感というやつですな。

 で、早々に就寝。
 明け方に起きてテレビをつけて見ると、小選挙区で続々落選だった大物議員が、比例代表で結構、復活しているではないか。

(なんだ、つまんねえ)
 と、これまた不謹慎に思ったものだ。

 麻生首相は敗因の一つとして、「毎年、総裁が代わらざる得ない状態」を指摘し、安倍、福田を暗に批判したが、当の福田は他人事のように、
「反省すべきところは反省して、これからやっていかなければならない」
 と、当選コメント。

 これじゃ、自民党が愛想をつかされるのも当然だろう。

 当選した者も落選した者も、自民党の各候補者の声を聞いていると、
「自民党が悪いのであって、オレが悪いわけじゃない」
 という居直りを感じる。

「こんな会社、しょうがねぇな」
 という不満と同質のものである。

 自分たちが組織を維持するという気構えがなく、組織に寄りかかっているから、そう思うのだ。

 組織という御輿(みこし)はみんなで担ぐものであって、それにブラ下がる人間が増えれば、御輿が地に落ちるのは当たり前なのである。

 それにしても、
「みなさんのおかげです!」
 と、ペコペコと頭を下げるのは今だけ。
 明日から「先生」と呼ばれ、エライ人になるのだ。

投稿者 mukaidani : 04:45

2009年08月30日

期待もせず、悲観もせず

 とうとう海にもプールにも行けなかった。

「泳ぎたい」
 というのではなく、
「泳ぎにも行けないような生活をしてはいけない」
 という思いを、この夏は引きずっていたのである。

 だから、どうしても泳ぐつもりで、クルマに水着や着替え、バスタオル、ビーチサンダルなど一式を積んでいた。

 だが、一式を用意しつつ、
(こりゃ、たぶん泳ぐことはないな)
 という思いがあった。

 何事もそうだが、私の場合、準備万態ととのえると、たいていうまくいかないのである。

 たぶん、
(この願望は叶わないだろう)
 という思いが意識下にあり、その裏返しとして「準備万態」になるのではないかと、そんなふうに思っている。

 だから、力を入れれば入れるほど、成就はしないというわけである。

 言い替えれば、肩の力を抜き、準備もせず、
(まっ、どっちでもいいや)
 と〝いい加減〟に構えていれば、
「ラッキー!」
 ということが起こることになる。

 期待もせず、悲観もせず。

 あるがままを甘受していれば、人生、そうそう捨てたものでないことがわかってくるだろう。

 今日は朝から小雨。
 これから保護司の仕事で、連絡が取れなくなった対象者の居住確認に出かけなければならない。

 そのあとで、投票に行こう。
 選挙は「期待もせず、悲観もせず」とは対極にある。
 神経をすり減らすわけである。
 
 

投稿者 mukaidani : 09:00

2009年08月29日

押尾「保釈」、酒井「解雇」

 酒井法子が所属事務所を解雇され、押尾学が保釈されることになった。

 酒井法子は、これから「廃人」になるかどうか、生涯にわたる厳しい戦いが待っている。

 一方、押尾学はどうなのか。
 ほとぼりがさめたら、芸能界復帰ということになるのだろう。

「更正のチャンスを与える」
「彼の才能を惜しんで」
 とか何とか、理屈をくっつけて。

 だが、酒井法子と押尾学を比較した場合、押尾学のほうが、より罪が重いのではないか。
 法律的にはともかく、私はそう思う。

 覚醒剤は「被害者なき犯罪」と言われるように、被害者は「自分自身」なのだ。
 自分で金を払って覚醒剤を購入し、自分の命を削っていく。
 だから「被害者なき犯罪」と言われる。

 押尾学はどうか。

 MDMAを一緒に飲んだ女性が危篤状態になり、恐くなって逃げ出したのだ。
「すぐに119番通報してくれていれば助かったかもしれない」
 という遺族の無念さは当然だ。

 押尾学が恐れたのは、自身のスキャンダルだろう。

 これから公判であきらかになっていくだろうが、もしそうであるなら、押尾学は人間として、もっとも恥ずべき行為をしたことになる。
 
「法律的罪悪」と「人間的罪悪」。

 押尾の罪は重い。

投稿者 mukaidani : 08:26

2009年08月28日

歯磨きチューブ

 朝、歯を磨くたびに、歯磨きチューブのことを考える。

 いまのチューブは、どこから押し出しても形状がつぶれないため、最後まで使い切ることができるが、昔は違った。

 握りやすい真ん中あたりをグニュと押し出すと、そこがつぶれ、〝お尻〟のほうのヤツは押し出せなくなる。

 だから、
「端っこから絞り出すように使え」
 と両親によく怒られたような記憶がある。

 それから考えれば便利になったものだ。

 だが便利になったぶんだけ、「端っこから絞り出す」という〝配慮〟は不要になった。

 歯磨きチューブに限らず、世の中、どんどん便利になっていくということは、〝工夫〟や〝配慮〟を不要にしていくということでもあろう。

 これが「人間関係」の処し方に影響してはいないだろうか。

 歯磨きチューブの真ん中を握ってグニュと押し出すような無神経な人間が多くなってきたような気がする。

 朝、歯を磨くたびに、自戒をこめてそんなことを思うのである。

投稿者 mukaidani : 07:23

2009年08月27日

酒井法子の事件は「他人ごと」か

 今日は薬物をテーマに保護司の研修会があった。

 薬物を断つための更正プログム等、保護観察所主任官の解説を聞きながら、やはり酒井法子のことを考えてしまう。

 彼女は周知のとおり、覚醒剤の反応が出ないための時間稼ぎをしたり、虚偽証言をしたりと大バッシングだし、社会的な影響を考えればそれも当然だろうとも思う。

 だが、その一方で、酒井法子の今後のことを私は考えてしまう。

 覚醒剤を断ち切れるか、ということである。

 これは、私たちが想像する以上に厳しい。
 酒やタバコですら、辞めるには大変な葛藤があることを思えば、その厳しさは想像がつくだろう。

 和田アキ子だったか、
「芸能界に安易に復帰させるべきでない」
 といった旨の発言をしているが、芸能界へ復帰云々よりも、「人間として復帰」できるかどうかを、私は心配する。

「酒井法子がどうなろうと知ったことではない」
 と言えば、そのとおりだろう。

 自業自得と言えば、まさにそうだ。

 だが、人間は弱い。
 明日は我が身かもしれないのだ。
 そう思うとき、酒井法子に無関心ではいられない。

 彼女は覚醒剤を始めた動機について供述を始めているが、それはあくまで〝行為〟としての動機であり、
「なぜ始めたか」
 という〝真因〟は、本当は彼女自身にもわからないのではあるまいか。

(どうして、こんなバカなことをしてしまったのだろう)
 それが彼女の本音であり、「どうして」という疑問の答えは容易には見つかるまい。

 なぜなら、その答えは、人間の心が持つ「不可解さ」と「危(あや)うさ」を解き明かすことであるからだ。

 それは容易ではなく、しかも「不可解さ」と「危うさ」は万人が有するものだ。

 そのことを考えるとき、酒井法子の事件に無関心でいられないと、私は思うのである。

投稿者 mukaidani : 16:58

2009年08月26日

私は、本当はヒマなのではないか?

《自由人》とは、仏教から来た言葉だ。

《自》は「みずから」、《由》は「由(よ)る」ということから、
《みずからによる人》と読み、
「煩悩にまみれた〝不自由〟な境涯から解き放たれた人」
 という意味である。

 もちろん、受け売りである。

 毎回そうだが、三日間の集中講義で私が得るのは、そんな枝葉末節のことばかりで、情けなくなる。

 いや、こうした勉強にかかわらず、私は何事も〝本線〟からはずれた部分に、いつも目がいく。

 いま帰宅の新幹線の車中だが、京都駅のホームに五十代とおぼしき尼さんがいた。
 もちろん剃髪である。

 だが、ツルツルのピカピカではない。
 おそらく剃って、二、三日目のようだ。

 その頭部を見ながら、私は尼さんが頭を剃る姿をあれこれ考えてしまうのである。

 どんなカミソリを使うのか。

 二日に一回なのか、三日に一回なのか、本当は毎日剃っているのだが、風邪でも引いて剃っていないのか。

 自分でも、
(くだないことを考えて、しょうもないな)
 と思うのだが、そういうことがつい気になってしまうのである。

 そう言えば、新幹線を乗る前、浴衣を来た若者がいた。
 丈が短く、ツンツルテンで、まるで旅館の浴衣風だが、手にセカンドバックを持っているから、それなりにカッコつけて着てきたのだろう。

 私は彼を目で追いながら、彼はどういう気分でその浴衣を着たのだろうか、と考える。
 これから、どこへ行くのかと考える。
 仕事は何をしているのだろか、と考える。

 要するに、どうでもいいことをあれこれ考えてしまうのである。

 そんな私は、忙しがっているが、本当はヒマなのではないかと、いま考えながらこのブログを書いている次第。

 明日は、保護司の研修会で薬物がテーマだ。
 酒井法子の事件が進行中で社会的関心が高い問題だけに、薬物については、きちんと〝本線〟の勉強をしようと、自分に言い聞かせているところである。

投稿者 mukaidani : 19:17

私は、本当はヒマなのではないか?

《自由人》とは、仏教から来た言葉だ。

《自》は「みずから」、《由》は「由(よ)る」ということから、
《みずからによる人》と読み、
「煩悩にまみれた〝不自由〟な境涯から解き放たれた人」
 という意味である。

 もちろん、受け売りである。

 毎回そうだが、三日間の集中講義で私が得るのは、そんな枝葉末節のことばかりで、情けなくなる。

 いや、こうした勉強にかかわらず、私は何事も〝本線〟からはずれた部分に、いつも目がいく。

 いま帰宅の新幹線の車中だが、京都駅のホームに五十代とおぼしき尼さんがいた。
 もちろん剃髪である。

 だが、ツルツルのピカピカではない。
 おそらく剃って、二、三日目のようだ。

 その頭部を見ながら、私は尼さんが頭を剃る姿をあれこれ考えてしまうのである。

 どんなカミソリを使うのか。

 二日に一回なのか、三日に一回なのか、本当は毎日剃っているのだが、風邪でも引いて剃っていないのか。

 自分でも、
(くだないことを考えて、しょうもないな)
 と思うのだが、そういうことがつい気になってしまうのである。

 そう言えば、新幹線を乗る前、浴衣を来た若者がいた。
 丈が短く、ツンツルテンで、まるで旅館の浴衣風だが、手にセカンドバックを持っているから、それなりにカッコつけて着てきたのだろう。

 私は彼を目で追いながら、彼はどういう気分でその浴衣を着たのだろうか、と考える。
 これから、どこへ行くのかと考える。
 仕事は何をしているのだろか、と考える。

 要するに、どうでもいいことをあれこれ考えてしまうのである。

 そんな私は、忙しがっているが、本当はヒマなのではないかと、いま考えながらこのブログを書いている次第。

 明日は、保護司の研修会で薬物がテーマだ。
 酒井法子の事件が進行中で社会的関心が高い問題だけに、薬物については、きちんと〝本線〟の勉強をしようと、自分に言い聞かせているところである。

投稿者 mukaidani : 19:17

2009年08月25日

今朝も風呂から一日が始まる

 六時、京都のホテルで起床。
 すぐに風呂に入る。

 私は朝風呂が大好きで、朝風呂に入ってから行動を起こす。
 だから朝風呂に入れないような生活や日程は極力、避けるようにしているので、朝風呂に入らない日は年間を通して数日なのである。

 そう言えば先日、食事の席で、
「私は風呂が大好きなんです」
 と話したら、
「それはそれは」
 と目を丸くして、
「月に何度くらいですか?」
「毎日ですよ」
「毎日?」
「ええ、朝と夜と」
「まさか……」

 彼はソープランドと勘違いしていたのである。

 9時から集中講義が始まるというのに、思いつくまま、バチ当たりなことを書いてしまった。
 夕方5時までの長丁場。
 さて、ひと踏ん張りだ。

投稿者 mukaidani : 07:51

2009年08月24日

私の「つもり馬券」

 いま午前9時半。
 新幹線の中である。
 これから京都へ出かける。
 2泊3日。仏教の集中講義である。

 毎年、参加しているが、「わっかったつもり」になるだけで、ちっともわかっていないのだが、なんとなく知識が増えたようで、気分はいいのである。

「つもり」と言えば、かつて「つもり貯金」というのがはやったことがある。

 たとえば、「旅行に行ったつもり」になって、そのお金を貯めるというやつである。
 まさに「積もり積もれば何とやら」だ。

 で、唐突に競馬のことを思い出した。

 かつて私たち夫婦は、競馬にこっていた時期がある。

 といっても、馬券代は私が払い、勝ったら配当金は愚妻が手にするのだ。
 たぶん、そのころ何か事情があって、愚妻のご機嫌を取っていたのだろう。

 愚妻は負け続ける。
 お金は亭主もちだから、気楽にあれもこれもと買ってくれるのだ。

 窓口に買いに行くのは私で、愚妻はゴンドラ席で優雅ワインなど飲みながら待っている。

「冗談じゃねぇよ」
 とブツクサ言っているうちに、ふと思いついた。
(馬券を買ったつもりにすればいいではないか!)

 かくして、私は自分の馬券だけを買い、愚妻のぶんは「買ったつもり」である。

 もちろんナイショ。

 で、的中したときだけ窓口に行くふりをして、財布から配当金を払うというわけである。

 これなら、いくらハズレても構わない。
 万馬券が出れば真っ青だが、幸いにもハズレつづけ、私は財政破綻をまぬがれた。

 十余年前の、私の「つもり馬券」である。

投稿者 mukaidani : 09:32

2009年08月22日

子供たちの「クレーム」

 私の道場の審査会は、春秋の年2回だ。
 受審できなかったり、落ちたりすると次回は半年先になる。
 だから何とか合格させてやりたい思い、審査会の2ヶ月くらい前から、私は気をもむ。

 ところが、子供たちのなかには、私の気持ちを知らず、稽古に不真面目な子がいる。
 注意すると、そのときは真面目にやるのだが、すぐにペチャクチャやり始めるのだ。

 そこで、「受審保留者」というリストをつくって貼り出し、
「ここに名前のある者は、いまのままでは受審させない。しかし、真面目に稽古すればリストから外す。つまり保留者にチャンスを与えたわけで、それを活かすかどうかは、キミらの問題である」
 と、そんな説明をした。

 罰則で動かすことは指導者の敗北だというのが私の考え方なのだが、今回は実験の意味で、あえてやってみた。

「じゃ、受審しない!」
 とケツをまくるか、恭順の意を表するか、ポーズだけ取るか。
 どんな反応があるか楽しみにしたのである。

 ところが、
「Aクンも一緒に騒いでいたのに、どうしてAクンはリストに入っていないんですか」
 という〝クレーム〟が数人から来たのである。

 これには私は驚いた。
 ガッカリした。

 本来、自分が「保留者」になったことを反省すべきで、他の人間がどうであれ、関係ないことなのだ。

 彼らの〝クレーム〟は、
(なんであいつは許されて、自分たちはだめなのか)
 という不満であり、「保留者」になったことへの反省はないということなのである。

 つまり彼らは、ものごとに対して、「絶対値」でなく「他人との比較」で判断しているということだ。

 私たち大人にたとえて言えば、駐車違反をしてキップを切られたときに、
(みんな違法駐車してるのに、なんでオレだけが)
 という憤懣(ふんまん)と同じなのである。

 違法駐車した自分を反省すべきであって、「みんな違法駐車している」という憤懣を抱くのは間違いであることに気がつかないのだ。

 私は子供たちのクレームに対して、他人と比較することの愚かさについて話そうかと思ったが、まだ年齢的に理解できまい。

 そこで、とりあえず、
「Aクンは緑帯だ。茶帯のキミたちが稽古をなまけるのとは意味が違う」

 きつい言葉で、しかし彼らのプライドをくすぐっておいた。
 何となく納得したようで、以後、稽古に身が入ってきたようだ。

 そんなこんなで、子供の指導というのは、いかに難しいものであるか、つくづく感じている次第。

 今月は、毎週土曜日の午後3時から、初段受審者のための特訓を行っている。
 彼らも大変だろうが、私は3時から稽古すれば、午後の9時まで6時間、道場に立つことになる。

 原稿は溜まっているし、
(特訓なんてやらなきゃよかったかな‥‥)
 と、チラリと後悔が頭をよぎる。

 指導者も大変なのだ。

投稿者 mukaidani : 11:39

2009年08月21日

自分に対する懐疑

 昨日は受刑者の面接のため、某刑務所へ行ってきた。

 保護司の役目とはいえ、受刑者に会うのはいつも気が重いものだ。

 受刑者に対してではない。

 自分は自由な娑婆にいながら、塀の中の人間に更正を説く自分に対して、気の重さをおぼえるのだ。

(おまえが、そんなエラそうなことを言えるのか)
 と責める気持ちもある。

 自分に対して懐疑する思いが、どこかにあるのだろう。

「みなさまの暮らしを守ります!」
 選挙候補者たちが声を張り上げている。

 そう言い切れる彼らは、たいしたものだ。

 とても私にはマネのできないことだから。

投稿者 mukaidani : 07:13

2009年08月20日

「桝添発言」で愚妻の怒り

「新型インフルエンザの本格的な流行が、すでに始まったと考えていい」
 桝添厚労相が緊急の記者会見を開いて、そう言ったそうな。

 だけど、
「ここまで拡大することは予想していなかった」
 という発言はないだろう。

 しかも、今春の発生時にくらべて国民の関心が低下したとの懸念を表明し、
「見えないリスク、新しいウイルスへの警戒を解いてはいけない」
 とは何事だ。

 新型インフルはたいしたことなく、騒ぎすぎだと、やっきになって沈静化させたのはいったい、どこの誰だ。

 麻生総理など、口をひん曲げて、
「国民のみなさまに、冷静に対処をお願いしたい」
 と、くりかえし語っていたではないか。

「今春の発生時にくらべて国民の関心が低下した」のではなく、「低下させた」のだ。
 そのことを頬っかむりして、いけしゃあしゃあと「懸念の表明」である。

 発生当初、愚妻はマスクをしこたま買いこみ、これで安心とニンマリしていたのだが、
「冷静に対処をお願いしたい」
 と、麻生総理が何度も口をひん曲げるにおよんで、愚妻も〝沈静化〟。マスクはもう不要とばかり、あちこち気前よく差し上げたのである。

 それが一転、
「国民の関心が低下したとの懸念」
 だの、
「見えないリスク、新しいウイルスへの警戒を解いてはいけない」
 だのと言われて、愚妻の怒るまいことか。

「だから自民党の言うことは信用できないのよ!」
 マスクのうらみは怖いのだ。
 どうやら桝添発言で、自民は少なくとも愚妻の一票を失いそうである。

投稿者 mukaidani : 07:33

2009年08月19日

「決意」をしない決意

 今朝も5時から、親父が庭でガタゴトやっている。

 ここ数日そうだ。

 元気なのはいいが、私の部屋は庭に面した二階なので、目が覚めてしまう。
 私の起床時間は6時なので、5時に目が覚めたのでは1時間も早い。
 で、庭の〝騒音〟を耳の奧で聞きながら、うつらつらした結果、寝過ごすことになる。

 寝過ごせば仕事の予定が狂い、押せ押せになるという悪循環になるわけだ。

 さりとて、元気にしている親父に注意するのも忍びなく、
(もうすぐ初秋。夜が明けるのが遅くなるまでの辛抱だ)
 と自分に言い聞かせている。

 それにしても、親父はなぜ早起きしてガタゴトやれるのだろうか。

 そなんことを考えて、ハタと思い当たった。
 昼寝するからだ。

 いや、正確に言うと、
「眠くなったら、いつでも寝られる」
 という気楽さがあるから、早朝のガタゴトが苦もなくできるのだろうと、私は結論づけたのである。

 よく言われることだが、禁煙は「やるぞ」と決意してはならない。
 決意するから、その反動で失敗する。
(一生、吸えないのか)
 という思いが焦燥感を駆り立てるというわけだ。

 だから、決意しないで、
(吸おうと思えばいつでも吸える。とりあえず今日だけガマンしよう)
 という気楽さが大事というわけだ。

 人生も同じかもしれない。
(よし、今日からやるぞ)
 と決意をするから、何事も三日坊主で終わってしまう。

(とりあえず、やってみるか。無理ならやめればいよい)
 この〝気楽な決意〟こそ、長続きするコツかもしれない。

 親父のガタゴトを聞きながら、そんなことを考えた次第。
 

投稿者 mukaidani : 08:56

2009年08月18日

「お金ビンボー」と「時間ビンボー」

《時は金なり》という諺(ことわざ)がある。

 私はこの諺を〝時給的〟にとらえていた。
「時間を有効に使って生産性を上げれば、それだけ利益を生む」
 という考え方だ。

 この諺の意味について辞典を引くと、
《時間はお金と同じように大切な価値がある》
 とあるから、この解釈は正しい。

 だが最近、
(ちょっと待てよ)
 と思うようになった。

《時は金なり》とは、
「時間は、お金と同じに考えよ」
 ということではないのか、と思うようになったのである。

 たとえば時間に追われるのは、「資金繰り」と同じで、時間という「予算」の立て方と使い方が悪いのだ。

 時間がなくなってきて徹夜で仕事をするのは「借金」と同じで「借時」なのだ。

 あるいは、予定より前倒しで仕事を片づければ時間に余裕ができ、これが「時間の貯蓄」となる。

 すなわち、時間はお金と同様、予算をきちんと立て、ムダ使いをなくすことが大事というのが、《時は金なり》の真意ではないかと考える次第。

 お金がなくてピーピーするのが「金欠病」なら、時間が足りなくてヒィーヒィーするのは「時欠病」。

 さらに「お金ビンボー」に「時間ビンボー」。

 ビンボーは経済的な意味だけではないのだ。

投稿者 mukaidani : 06:17

2009年08月17日

畑の草ボウボウにア然

 昨朝、ほぼ一ヶ月ぶりに畑に行った。
 これまで借りている100坪の方だ。
 草ボウボウであることはわかっているが、私の日程にくわえて天候不順で、畑に行く機会を逸していたのである。

 畑に行ってみて驚いた。
 一面、子供の背丈ほどの草がボウボウなのである。
 歩くには、草をかき分けなければならない。
 ジャガイモとカボチャの収穫が目的だったが、どこに植わっているかわからないのである。
「こりゃ、だめじゃ」
 という親父の一言で作業打ち切り。
 家路についた次第。

 で、本日。
 所用をすませて夕刻、草刈り機をクルマに積んで畑へ出かけ、100坪の草をなぎ倒した。

 ところがジャガイモも、カボチャも、植えた場所がわからないのである。
「どうしてわからないの? 自分で植えたんじゃないの」
 素朴な疑問を呈する愚妻に、
「ウーム」
 私は唸り、
「またにしょう」
 畑を後にしたのだった。

「草は伸びる前に取らんにゃいけんのう」
 帰りのクルマの中で親父が言う。

 言われなくてもわかっている。
 わかっていてできないのが「人生」ではないか。

 畑はいろなことを教えてくれるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 20:35

2009年08月16日

「ポメラ」を買った

「ポメラ」を買った。
 犬ではない。
 文章を入力する機能だけを持つデジタル機器だ。

 大きさは文庫本のサイズで、重さは約370グラム。
 いまブームのミニパソコンよりも断然軽く、起動がわずか2秒。単四乾電池2本で20時間も使えるのだ。
 しかも、実質価格は2万円を切る。

 私は「メモ」もしくは「文章入力」に特化したデジタル機器が欲しかったのだが、これまでなかった。

 パソコンにくわしい連中にそのことを話すと、
「そんなもの作って、誰が買うの」
 と鼻で笑ったものだが、私はいずれそんな機器が出るものと、根拠のない確信を抱いていた。

 で、昨年11月、ポメラが発売になったではないか。
(ほら、見ろ!)
 とばかり、秋葉原へ買いに走った。

 買いに走ったが、
(でも、文書入力だけじゃなァ)
 と、ポメラをいじりながら、浅ましくも日和(ひよ)ってしまった。

 それで、ポメラに後ろめたさがあり、今日まで買わなかったというわけである。

 で、この間、ミニノートを2台買った。
 いつも携帯して、ちょこちょこっとアイデアフラッシュなど、メモ程度の文章を書くためだ。

 インターネットもできるから便利ではあるが、なにしろ起動が遅いのだ。しかもバッテリーの消費が気になるし、コードで充電しなければならない。
 ちょこちょこっとメモするには不便なのである。

 そこで、かつて日和ったことをポメラに詫び、購入したという次第。

 まだ使い始めだが、これがすこぶる便利なのだ。
 ランダムにメモを打っておいて、それをUSBコードでパソコンに取り込み、そこで編集なり、きちんとした文章にすればいいのである。

(よし、これで仕事がはかどるぞ!)
 と気合いが入ったのはいいが、使用説明書を読んだり、インターネットでポメラの体験記を検索したり、たちまち一夜が過ぎようとしている。

 果たして、仕事にどれだけプラスするか。
 心もとないながらも期待しているのである。

 と、ここまで書いて、そういえばこの間、ちょちょこっとのメモ用に、高価な手帳を買って持ち歩いていることを思い出した。

 この手帳を買ったときも、
(よし、これで仕事がはかどるぞ!)
 と気合いが入ったはずである。

 何だかイヤな予感ではないか。

投稿者 mukaidani : 04:01

2009年08月15日

「理屈」と「屁理屈」

 いつも思うことだが、「理屈」と「屁理屈」はいい勝負だ。

 イベントのプランナーが出してきた企画が地味だったので、
「そんなんじゃなくて、アッと驚く企画を考えてよ」

 私がケチをつけて、
「常識の延長には、常識の発想しか出てこないんだよ」
 と言うと、プランナーはムッとした顔をして、
「プロは常識の延長で考えるんです。絵空事なら子供でも言える」
 と切り返してきた。

 どうです?
 どっちも、もっともらしいでしょう?

 酒席で先輩が、
「目先の利害にこだわるな。そういうのを〝木っ端を拾って大木を流す〟と言うんだ」
 と説教するので、私は言い返した。
「でも、木っ端一つ拾えないような者が、大木なんか拾えんでしょう」

 あるいは、
「いいか、息を吸うには、ます吐くことが大事だ」
「でも」
 と私が言い返す。
「吐くためには、まず吸わなければならないのでは?」
「バカ者! そういうのを屁理屈と言うんだ」

 さて、どっちが「理屈」で「屁理屈」でしょう。

 説得術なんて、そんなものなのである。
 

投稿者 mukaidani : 08:44

2009年08月14日

「民主主義はペテン」と鮨屋のおやじ

 昨夕、半年ぶりに千葉県某市の鮨屋へ顔を出した。

 飲食店というのは、何かの拍子に足が遠のくと、そのままズルズルと行かなくなるものである。

 稽古がない夜は月曜、木曜、日曜の3日しかないので、この鮨屋に限らず、どうしてもご無沙汰になってしまうのだ。

 で、鮨屋である。

「忙しい?」
 私が話をふってみる。
 鮨屋が忙しければ、景気は回復基調である。

「ヒマだね、ヒマ。本当にヒマ」
 おやじさんが顔をしかめたところで、テレビで党首討論が始まった。

 麻生総理が、景気対策がどうのと口を曲げてしゃべっている。

 おやじさんは鮨を握る手を休めず、チラリとテレビを見やって、
「まったく麻生の野郎、何を考えているんだか」
 さんざん悪口を言ってから、
「どうして、こんな世の中になっちまんだろうねぇ」
 と、つぶやくように私に問いかけた。

「まっ、アメリカのサブプライム問題が‥‥‥」
「おいおい、アメリカのことまで知っちゃいねぇよ。オレはただ、何十年もこうやって一所懸命に鮨を握っているだけで、なんの悪いこともしちゃいない。それをアメリカがどうの、百年に1度の不景気がどうのと言われても、困っちまうぜ」

 確かにそうだ。
 サブプライム問題にしても、経済危機にしても、あたかも〝天災〟のごとく報道しているが、これは〝人災〟なのだ。
 ゼニ儲けに走った連中がマネーゲームという〝火遊び〟をして、それが大火事になったのである。

「まったく、誰が責任をとってくれるんだ」
 と言うおやじさんの怒りはもっともだろう。

 それなのに麻生総理は、
「エー、100年に1度の経済危機を迎え、何より経済対策に力を入れてまいりまして、その効果がようやく‥‥‥」
 テレビでノンキなことをしゃべっている。

 だが、麻生総理が悪いのではない。
 彼を選んだ自民党議員が悪いのであり、その議員を選んだ国民に責任があるのだ。

 おやじさんにそう言うと、怒りで顔を朱に染めて、
「なんでぇ、民主主義ってのはペテンのことだったのかい!」
 トロを握る手に、ググッと力が入るのであった。
 

投稿者 mukaidani : 02:21

2009年08月13日

背筋の痛み

 ここ数日、腰が痛い。
 骨ではなく、背中の筋である。

 もう何年になるだろうか。
 市の体育指導委員になった初年度のことだ。
 地域の軽スポーツ大会でソフトバレーをやったのだが、私はボールを追って受け損ない、ゴロリンとひっくり返ってしまったのである。

 いや、痛いの何の。
 左腰部に激痛が走り、動けなくなったのである。

 どうやら筋を痛めたようで、幸いにも先輩指導委員に柔道整体師がいて、すぐに応急処置をしてくれたのだが、このとき彼が私の耳元でボソリとつぶやいた一言が、いまだに頭に引っかかっている。
「キミね、軽スポーツでケガする人なんかいないんだよ」

 ヘタだとあきれたのか、バカ熱心にプレーしたことへの揶揄(やゆ)か、果てまた「手抜きしなさい」という助言だったか。

 いまもこうして時折、痛みが出ると、あのときの先輩の一言が甦(よみがえ)ってくるのである。

 
 

投稿者 mukaidani : 09:38

2009年08月12日

「芸能人と薬物」考

 なぜ、芸能人は薬物に手を出すのか。

 押尾学、酒井法子と薬物事件が続いたこともあって、こんなテーマの記事が目につく。

 なるほど、薬物に手を出す芸能人は後を絶たないが、その背景として「仕事の不安定さ」を指摘する識者は多い。

「いつ人気がなくなるかわからない」
 という不安である。

 私は週刊誌記者時代、芸能人にずいぶんインタビューしてきた経験から、そうした不安はよく理解できる。

 だが、仕事が「不安定」なのは芸能人だけではない。
 プロスポーツ選手もそうだろうし、私たち物書きだってそうだ。
 いや、先行き不透明な時代にあって、誰しも仕事に不安を抱いていることだろう。

 だからといって薬物に走るわけではない。

 芸能人が抱く不安は、一般人のそれとは「質」が違うのだ。
 別の言い方をすれば、
「彼らの仕事(人気)には実体がなく、達成感に裏打ちされた自信を持てないでいる」
 ということになるだろうか。

 歌が上手だからといって売れるわけではない。
 演技が上手だからといって、人気俳優になるわけでもない。

 逆に、音痴もどきの歌手が売れ、ダイコン役者がキャーキャー騒がれる。
「おバカキャラ」という得体の知れない〝ウリ〟で、人気アイドルが生まれたりする。

 すなわち「実体」というものがなく、売れっ子になった当人が、なぜそうなったか理解できないのが「芸能人の人気」なのである。

 一方、同じ「不安定な仕事」であっても、たとえばプロスポーツには「技術」という実体がある。
 努力し、他の選手たちより技術的に優秀で、勝負に勝つことで栄冠を手にする。

 プロゴルファーの宮里藍が練習もしないで、
「あら、勝っちゃった」
 ということはないのだ。

 だからプロスポーツ選手は、不安定な仕事であり将来に不安を抱くとしても、不安の対象は明確で、それは「自分の技術」なのだ。

 ところが芸能人の抱く不安は、不安の対象が漠然としていて、自分でもわからない。

 芸能人は「不安定な仕事」に苦しむのではなく、「なぜ人気者になったかわからないという不安」に苦しむのである。

 週刊誌時代、元横綱・輪島関の連載対談を担当したときのこと。
 毎回、ゲストに人気芸能人を呼ぶのだが、彼らはよくこんなことを言っていた。
「相撲っていいですね。強い者が勝つ。勝ち負けがハッキリしている世界がうらやましい」

 これに対して輪島関は、いつもこう切り返した。
「でも、芸能人は実力がなくても人気者になれるんだからね。うらやましいよ」

「不安」は心の持ちようなのである。 

投稿者 mukaidani : 02:36

2009年08月11日

雨で、海水浴を断念

 昨日は、前々から海へ行く予定であった。

 千葉房総の白子海岸に仕事部屋を借りたので、ボードに腹ばいになって〝波乗り〟をしようというわけである。

 足ヒレはあるので、海で遊ぶ子供用のボードを2つ、さらに愚妻用にライフジャケットとゴーグルを買って用意していた。

 仕事も溜まっているが、夏は待っちゃくれない。
 お盆が過ぎれば、残暑モードから一気に初秋へと突入していく。
(早いとこ泳がなければ)
 と、あせっていたのだが、台風の影響で千葉も朝からどしゃぶり。
 やむなく断念した次第。

 すると、あれほど海水浴にイレこんでいたのに、気持ちは空気が抜けた風船状態で、
(何だか海はめんどうくさいな)
 と思い始めた。

 そういえば、この天候不順で、着物を着る機会がない。
 大枚を叩(はた)いて夏着物や羽織を買ったというのに、まだ一度も着ていないのだ。

 すると、あれほど着物にイレこんでいたのに、気持ちは空気が抜けた風船状態で、
(何だか着物はめんどうくさいな)
 と思い始めた自分に気がついた。

《騎虎の勢い》
 という故事があるが、何事も「エイ、ヤッ!」でやらずしてひと息ついてしまえば、気持ちは萎(な)えるということか。

 海へ行けなかったかわりに、そのことに改めて気づいたとすれば、それはそれで是とすべきだろう。
 私は何事もいいように考えるのである。

投稿者 mukaidani : 00:50

2009年08月10日

ホームで駅員が駆け寄ってきた!

 昨夕のことだ。

 都内の某地下鉄駅のホームで、じっと天井を見つめていると、タタタタッと足音がして、
「どうかしましたか!」
 若い駅員が固い表情で駆け寄ってきた。

「別にどうもしませんが、何か?」
 私が驚いて問い返すと、
「いえ、じっと上を見てらしたもので、何かあったのかと」
 駅員が狼狽しながら言った。

 私が天井に不審物を見つけたか、あるいは乗り換えに迷っていたとでも思ったのだろう。
 悪いことをした。

 だが、考えてみると、私は昔から上を仰ぎ見るのが好きなのである。
 空を見たり、ビルのてっぺんを見たり、天井を見たり。

 理由はわからない。
 ただ、好きなのである。

 そう言えば、ある手相鑑定師が、
「人間は仕事や人生に行き詰まると、じっと我が手のひらを見つめる」
 と私に話してくれたことがある。

 手相には〝人生の設計図〟が書かれており、行き詰まると、本能的にそれを見て、解決策を探ろうとするのだそうだ。

 ならば、「上を仰ぐ」のはどういう心理であろうか。

 人間は落ち込むとうつむき、絶望すると天を仰ぐという。
(だから、上を仰ぎ見るのは、あんまりいいことではないのかもしれないな)
 と思いつつ、電車に乗った。

 仕事が溜まって忙しいのに、私は時々、どうでもいいようなことを熱心に考えるのである。

投稿者 mukaidani : 10:15

2009年08月09日

「マイバック」と「万引き」

 国も推奨するエコ対策の「マイバック」が万引きに悪用され、スーパーが頭を抱えているそうだ。

 これまでスーパーは「買い物かご」と「レジ袋」を前提として、防犯など店の運営をやってきたのだから、マイバックに代えれば予期せぬ歪(ひず)みが生じるのは当然だろう。

 つまり世の中というやつは、軟弱な土地に建つ家のようなもので、ちょこっとでも改築しようとするとバランスが崩れ、家はグラリと傾いてしまうのである。

「軟弱な土地」とは、矛盾のことだ。
 たとえば「CO2の排出」と「経済成長」、あるいは「たくさん稼ぎたい」と「楽をしたい」など、世の中の仕組みも、私たちの精神構造も、矛盾の上に微妙なバランスを取りつつ成り立っている。

 だから「改革」など、現状を少しでも変えようとすると、バランスを崩すというわけである。

 エコも同様だ。
 環境にやさしくしようとすれば、これまで成り立っていたバランスが崩れて、プラス面とマイナス面の両方を生じる。

 エコは新たなビジネスチャンスである同時に〝非エコ〟で稼いできた企業は既得権を失うことでもある。
 すなわち、良くも悪くも、「誰かが笑えば、誰かが泣く」のが世の中なのである。

 だから、歳を拾うと保守的になる。
 現状が変わればマイナス面が生じることを経験で知っているからだ。
 老い先短くなるにしたがい、プラス面を享受するより、マイナス面で苦労するほうを厭(いと)うようになるのは当然だろう。

 そんなことを考えつつ、
(自分は保守的になってきただろうか?)
 と自問してみるのである。


投稿者 mukaidani : 01:46

2009年08月08日

酒井法子と「人生の危うさ」

 押尾学の逮捕は「さもありなん」だが、酒井法子の覚醒剤容疑による逮捕状は「まさか」であったろう。

 NHKもトップニュースで報じていた。

 酒井法子が覚醒剤にどう関わってきたのか定かではないが、世間の反応は、
「どうしてあんなバカなことを」
 というものだ。

 当然だろう。
 私も、そう思う。

 しかし、そう思う私も世間も、
「自分なら、そうはしない」
 という立場。

 つまり、酒井法子は「あっち側」で、自分は「こっち側」。
 今回の一件に限らず、事件が起きるたびに私たちが取るスタンスである。

 でも、本当に私たちは「こっち側」にいるのだろうか?

 犯罪者になろうと思って生まれてくる人間はいない。
 覚醒剤に関与すれば、自分や家族の立場がどうなるか、わからないわけではない。
 わかっていて、悪の道にはまりこんでいく。

 すなわち私たちは、そうと気がつかないだけで、「こっち側」と「あっち側」の塀の上をヨロヨロと歩いているに過ぎないのだ。
 人生なんて危ういものだと、つくづく思うのである。

 今月と来月、保護司の研修会は「覚醒剤」と「薬物」がテーマだ。
 薬物については、これまで何度も研修を受けてきているので、いかに人間を蝕(むしば)むかはよく知っているが、
「なぜ手を出すか」
 について、実は私はよくわかっていない。

「好奇心から」
「痩せられると聞いて」
「疲れが取れるから」
 といった動機はもちろん承知しているが、そういうことではなく、もっと深いところの因果関係である。

 すなわち、「悪」とわかっていて手を染める「人間の心」だ。
 薬物に限らず、教師の児童買春、公職の破廉恥罪などなど。
 彼らもまた「こっち側にいる」と思って、これまで生きてきたはずである。

 そして私も同様、「こっち側にいる」と信じきっている。
 恐いことではないか。

投稿者 mukaidani : 02:13

2009年08月07日

合宿先にて

 今年の子供合宿は40名と例年より少なく、中高生が手伝ってくれるので大助かりだが、それでもやはり〝戦場〟である。

 ことに夜。
 騒がないように注意するが、そこは子供たち。
 まあ賑やかなものである。

 消灯後、1年生が2人、いっしょに私のフトンにやってきて、
「家に帰りたい」
 と小さな声で言う。

「どうして?」
 などと、やさしい声をかけてはいけない。
 やさしくすると、たいていシクシクと泣き出すからだ。
 同情を引くのは子供の〝武器〟なのである。

 だからここは毅然と、
「我慢しなさい!」
 と、つき放す。
 とりつく島をなくし、観念させるのがよろしい。

 しばらくして、また同じ2人がやってきた。
「館長」
「なんだ」
「アゴが痛い」
「ボクは口のところが痛い」

 彼らなりに知恵をしぼったのだろう。
「だから家に帰りたい」
 と訴えるのである。

 私は思わず吹き出しそうになったが、やはり毅然と、
「寝れば治る!」

 2人はすごすごフトンに潜り込み、ものの数分もすると寝息を立てていた。
 観念したのである。

 翌朝の2人は晴れ晴れとした顔をしていた。
 彼らなりに、一晩を克服したのだ。

 このブログを合宿先で書いている。
 いま自由時間。
 まもなく朝食。
 そのあと9時から稽古である。
 

投稿者 mukaidani : 07:17

2009年08月06日

説教という「ひとりよがり」

 稽古の終わりに、全員で正座して挨拶をする。

 このとき私は、子供たちに思いついたことなど話をする。

 空手のことに限らず、挨拶をすることの大切さ、人に迷惑をかけてはならないことなど、何かしら子供たちに役立てばと思って話をする。

 で、一昨日。
 幼児・小1のクラスで、先夜の花火大会のことを彼らに問いかけた。

 花火はなぜきれいなのか、ということを引き金にして「人間の感情」というものに話を持っていき、さらにここから人のことを好きになったり嫌いになったりすることの「不思議さ」について話をし、「みんな仲よく」を説くつもりであった。

「エー、花火を見てきれいだと思った人?」
「ハーイ」
 と元気よく手をあげる。
「じゃ、どうして花火はきれいなのかな?」
「きれいだから、きれい!」

 ワイワイ答え始めたところで、幼児(女の子)が、
「館長、まだ、お話、終わらないの?」

 これには私もガク然とした。

 よかれと思って話をしていたが、それは私のひとりよがりで、心の中でアクビしている子供も少なからずいるということ。
 すなわち、どんなに相手のためを思って話をしても、人間は「聞きたい話」には耳を傾けるが、そうでなければ退屈なだけということなのである。

 今日から一泊二日で、子供たちの空手合宿だ。
 あれもこれも話して聞かせようと思ったが、やめた。ケガをしないよう楽しんでくれればそれでいい。「生きていく知恵」は、彼らが体験を通して培っていくことだろう。

投稿者 mukaidani : 08:54

2009年08月05日

押尾学の逮捕劇

 恥ずかしながら、押尾学の名前と顔が一致しなかった。

 名前はもちろん知っていたが、イケメンの若手俳優というだけで、顔は知らなかった。

 今度の逮捕で、
(なるほどイケメンだわい)
 と感心した次第。

 ただ、かつてのインタビュー映像などを見ていると、あの態度や視線の配りは、〝ちょい不良〟のものですな。

 クスリをやっていたとか、女と遊んでいたと聞いても、
(そうだろうな)
 と思うような若者である。

 私は保護司をやっていて思うのは、不良の多くは、「自分の立ち位置」が見えない青少年が多いといことだ。

 自分がこういうことをすれば、親をはじめ周囲に迷惑をかけるというこが見えないのだ。

 押尾学で言えば、「自分がクスリで事件を起こせばどうなるか」ということに考えが及ばないのである。

 名が体をあらわすのであれば、押尾学は今度の事件で、人間にはそれぞれ「立ち位置がある」ということを学んで欲しいものである。
 

投稿者 mukaidani : 08:12

2009年08月04日

「川の流れ」をイメージして生きる

 田中角栄元首相の語録に、
《未(いまだ)ついに海となるべき山水も しばし木の葉の下をくぐるなり》
 というのがある。

 この言葉は、戦前の尋常小学校唱歌にある『忍耐』からとったもの。

 人生を川にたとえて、
「苦しかろうが、いまに広い海に出るけん、もうちょと辛抱せえよ」
 という意味だ。

 私も最近、人生を川にたとえて考えるようになった。
 自分の意志と関わりなく、川上から川下に流されていくのが人生で、急流があれば澱(よど)みもあり、木の葉の下もくぐるというわけだが、ポイントは「川上から川下」というところにある。

 私はこれを「時間の経過」ではなく、仏法で言う「因縁の流れ」ととらえる。
 因縁について述べると長くなるので、誤解を承知で乱暴に言ってしまえば、私たちが、いわゆる「運気」と呼んでいるものである。

 運気という〝川〟は、川上から川下に流れている。

 だから不運のときは、
「しばし木の葉の下をくぐるなり」
 と流れに身をまかせておけば、いずれ大海へ出る。

 ところが、川上から川下へという自然の摂理を知らず、そして流されることを善(よ)しとせず、
「人間、努力だ!」
 と、流れに逆らって上流へ向かって必死に泳ぐ者がいる。

 その意気は立派だが、流れに逆らう生き方は、おのれの力の過信であり、驕(おご)りではないか。
 最近、そう考えるようになったのである。

 人生という川の流れに身をまかせて生きていけばいい。
 よしんば大海に出ようと、澱みに止(とど)まったまま終わろうと、どっちでもいいのだ。

 すなわち、すべてを甘受する生き方だ。
 苦労や矛盾は、克服したり乗り越えたりするのではなく、甘受するものだろうと思うのである。

 そんなわけで、私は最近、「川の流れ」をイメージしつつ、
(流れに逆らうな)
 と自分に言い聞かせているのである。

投稿者 mukaidani : 08:08

2009年08月03日

「職人気質」について考える

 昨日、仕事部屋の引っ越しで房総半島をクルマで走っていたら、「がんこおやじ」と冠した飲食店の看板が目に入った。

 私は前々から、この手のウリが釈然としないでいる。

 偏屈な大工の棟梁とか、無愛想な板前など、いわゆる「職人気質」というやつがホメ言葉のようになっているが、私はこれが好きではないのだ。

 こう言うと、
「てやんでぇ、こっちとら、腕前を売ってるんだ。気にいらなきゃ、とっとと帰(けぇ)れ!」
 こんな啖呵(たんか)が返ってきそうだが、私に言わせれば、
「プロが腕前を自慢してどうする」
 ということなのだ。

 医者は病気を治して当たり前、作家は文章を書いて当たり前、漁師は魚を獲って当たり前、ホステスは接客して当たり前。
 そんなものを自慢したり、ウリにするのは間違いなのである。

 プロは腕前に「プラスアルファ」があってこそ、真のプロではないだろうか。

 私が通うマッサージ屋は、腕前はもちろんだが、施術の最中、気配りしつつ楽しい話題を提供してくれる。

 親父がかかりつけの病院の先生は、診察中、畑の話など、親父が喜ぶ話題を口にしてくれる。

 これがプロだと私は思うのだ。

 すなわちプロの力量とは、技術をタテ、気配りなど人間性をヨコとし、それを掛け合わせた面積のことを言うのである。

「気にいらなきゃ、とっとけぇてくれ!」
 こういう人間は「エセ職人」であって、本当の職人は、もっともっと謙虚なのである。

投稿者 mukaidani : 07:22

2009年08月02日

「花火はエコか?」という興ざめ

 昨夜は印旛沼花火大会だった。

 道場の前からよく見えるので、花火を堪能してから、ふと、
「おい、花火ってCO2が出ないのか?」
 愚妻にきいた。

「火薬だから出るんじゃないの?」
「ウーム。エコじゃないのう」
 すると愚妻があきれ顔で、
「何もいま興ざめなことを言わなくてもいいじゃないの」

 確かに興ざめであったと、これは素直に反省。
 
そう言えば昨日、民主党都議が自党のマニフェストに噛みつき、〝身内〟からの批判ということでニュースになっていた。

 民主党が重要政策をまとめた「政策集」の一部が、マニフェストで抜けているとかで、
「ふざけるなマニフェスト! 本心をひた隠し」
 と、自分のホームページで批判しているわけだ。

 どうして、この都議は、衆院選という大決戦を前にして、わざわざ自分が所属する民主党の足を引っ張るような批判をするんだろうな。

 ウソをつくのはもちろん論外として、マニュフェストは選挙用なのだから都合のいいように書くのが当たり前。どんなにマニュフェストがフェアであろうと、選挙に負ければ意味がないのである。

 どうやらこの都議は、本末転倒。民主党が政権を取ることより、マニュフェスが大事ということか。

 民主党が政権を奪取する千載一遇のチャンスに、何とも〝興ざめ〟な都議がいたものである。

投稿者 mukaidani : 06:34

2009年08月01日

片山さつき女史が「土下座」

「小泉チルドレンの星」と言われ、「歩くプライド」と揶揄(やゆ)される片山さつき女史が、1500人の支持者を前に、壇上で土下座したそうな。


 生活のために身体を売るのが売春婦なら、選挙のために心もプライドも売るのが候補者ということか。

 
「そうまでして選挙に勝ちたいか」
 と蔑(さげす)みつつ、
(いや、まてよ)
 と思い直した。

 片山女史は、ひょっとして、「当選」ということより「落選」することに耐えられないのではないか。

 つまり、落選して「それみたことか」と嘲笑されるのが、プライド女史の彼女には耐え難いのではないか、と思ったのである。

 土下座は一時の恥辱(ちじょく)で、当選してしまえば、また威張ればいい。
 プライドはいくらでも取り戻せる。

 しかし落選すれば、「次」はない。
「それみたことか」
 という嘲笑を挽回するチャンスはなくなるのだ。

 落選の嘲笑と、土下座の恥辱。
 ふたつを天秤にかけ、片山女史は土下座を選んだのだろう。
 そう考えれば、女史のプライドは相変わらず「健在」ということになるのである。

 それにしても、キャリアウーマンのバリバリ女史が、一票欲しさに土下座するのだ。
 これを選挙の恐さと取るか、人間の醜さと取るか。
 あれこれ考えさせられる女史の土下座であった。 

投稿者 mukaidani : 08:50