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2009年06月30日

気学鑑定家との議論で考えたこと

 昨日、気学鑑定家で、広島在住の知人が上京したので、久しぶりに歓談した。

 気学とは、いわゆる方位の吉凶のことだが、私が籍を置く浄土真宗では、占いのたぐいを一切否定するので、それぞれの立場から「幸せになる法」について論じあった。

 浄土真宗と気学。
 方法論においては、双方が否定し合うのだから「水と油」だが、「幸せになる」という結論は同じなのである。

 私は考えさせられた。
 方法論が「水と油」でありながら、同じ目的地に着けるものだろうか。

 すると知人は、
「山頂に登る道が違うだけだ」
 と言った。

(なるほど)
 と思ったが、あとで考えてみれば、これはレトリックであることに気づいた。

 なぜなら双方は、
「その登山道では山頂にたどりつけないよ」
 という〝方法論の否定〟で成立しているからである。

 そして、こうしたレトリックは日常において、よく用いられていることに思い至った。

「キミの意見は間違っている」
「いや、キミの意見こそ間違っている」

 議論が白熱したところで、第三者が口を開く。
「まあまあ感情的にならないで。二人とも、よりよい結論を求めているということにおいて、目的は同じなんだから」

 よりよい結論とは「相手の意見を否定すること」であるにもかかわらず、
「目的は一緒」
 という言葉でまとめてしまうのである。

投稿者 mukaidani : 05:56

2009年06月28日

重信房子の「自責の念」

 日本赤軍のリーダーだった重信房子被告が、産経新聞の取材に応じて、
「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」
 と語り、自責の念にかられている、と記事は報じている。

 周知のように重信房子は、
「日本だけでは革命を起こせない」
 と海外に活路を求め、日本赤軍を創設。空港内の銃乱射事件やハイジャックなどを引き起こし、東京高裁で懲役20年の判決を受けている。

 その重信房子が、自責の念だという。
「テロリストの女王」と呼ばれた人間が、反省の弁である。

 改心することは「善」であると承知しながらも、それでは重信房子によって人生を棒にふった人や、命を落とした人は浮かばれまい。

 すなわち「一人の人間」としての改心は《是》とするも、「テロリストの女王」としての改心は《非》とすべきだと私は考える。

 重信房子は、口が裂けても「自責の念」を公に語ってはならない。
 リーダーの責務とは、自分についてきた者のために信念を貫くという一点に尽きるのだ。

投稿者 mukaidani : 22:19

2009年06月27日

「これで最後」という〝人生の落とし穴〟

 マイケル・ジャクソンが亡くなり、連日、メディアで取り上げられている。

 今朝、知人から所用で電話がきたが、マイケル関連でスポーツ紙や週刊誌から取材依頼が来ていると溜め息をついていた。

 私はマイケルの歌を聴いたこともなく、関心もなかったが、
《来月13日から、ロンドンで始まる生涯最後のツアー50公演を予定していた》
 という記事を読んで、
(そんなもんかな)
 という気がした。

 つまり「生涯最後」とか、「これっきり」とか「これで引退」というときに限って、不思議とアクシデントに見舞われる、ということである。

 もちろん、それは私の感覚でしかないのだが、「これで最後」という意識が、身の処し方や精神に大きく作用するような気がする。

 うろおぼえで定かではないが、禅を海外に広めた鈴木大拙は、
「人間は、最後の一段で石段を踏み外す」
 といったようなことを書いていたように記憶する。

 どうやら〝人生の落とし穴〟は、「あと1回」「あと1本」「あと1歩」「これが終われば」という《ゴールの設定》にあるのかもしれない。
 
 

投稿者 mukaidani : 10:08

2009年06月26日

「人生論」は逃避であってはならない

 愚妻が「ムダ」ということを口にするようになった。

 メディアで「省庁のムダ」が論議されているで、その影響を受けてに違いない。

「着物なんて、ムダじゃないの?」
「アマゾンですいぶん本を買っているけど、ムダじゃないの?」
「また出かけるの? 何の用事だか」

 なるほど、省庁にはムダがある。
 私にもムダはある。

 だが、仏教的に考えれば、
「この世に不要のものはない」
 ということになるし、このことを私はいつも口にしている。

 だから愚妻に言った。
「この世に不必要なものはないのだ。不要と思うのは、たまたま現時点において近視眼的な価値観で見て」
「私はダマされません!」

 私をニラんだ目は、
(あなたの存在そのものがムダなの)
 と告げているように、私は感じたのだった。

 昨夜、知人の還暦のお祝いを内々でやった。
 人生について、いろいろ語りあった。

 だが、そんな人生論がいかに甘っちょろいものであるか、我が愚妻に対峙して、つくづく思い知ったのである。

「生きる」とは、「目前の現実」と格闘することなのだ。
(人生論は逃避であってはなるまい)
 あらためて、そう思ったのである。
 

投稿者 mukaidani : 09:24

2009年06月24日

騒動を糧とする〝タレント知事〟

 東国原知事が、またぞろ話題になっている。

 衆院選に出てくれと口説く自民党もどうかと思うが、それに対して、自民党の次期総裁候補を要求する東国原知事もどうかと思う。

 だが、よくよく考えてみると、世間を騒がせば騒がすほど、東国原知事は話題になって得をするのだ。

 たとえば、フツーの県知事が
「オレを総裁候補にしてくんなきゃ、出ないよ」
 と言おうものなら大バッシングで、政治生命はチョン。

 ところが、東国原知事は、そうはならないどころか話題独占となる。
 なぜなら彼はタレント知事であるために、世間を騒がせば騒がすほど話題になって、プラスに作用するというわけである。

 大阪府の橋本知事も同様で、そこは心得たもの。
 すぐにこの話題に呼応して、
「自民党は東国原知事が官僚出身の手下のように扱える知事ではないことを理解しているのか」
「簡単に(東国原氏の要求を)け飛ばして大丈夫か。国民から総スカンを食らってしまうのではないか」
 とコメントしている。

 東国原知事の〝総裁候補発言〟などシャレの粋を出ないにもかかわらず、橋本知事は〝火に油〟の煽(あお)りである。

 すると、負けじと、テレビ番組で知名度を増した〝タレント弁護士〟の自民党・丸山参議院が、
「外からの力に頼るのか」
 と噛みついて話題になる。

 自分がタレント人気で当選しておいて、「外から力」はないだろう。

 要するに東国原知事も、橋本知事も、丸山議員も、世間を騒がせば騒がすほど得をするということなのだ。

 そんなタレント政治家の〝煽り〟に、私たちは付和雷同してはなるまい。
 良識とは、そういう見識のことであろうと、私は考えるのである。


投稿者 mukaidani : 23:54

麻生総理は〝政治オンチ〟

 麻生総理が〝火ダルマ〟だ。

 当然だろう。
 鳩山邦夫を切って、西川善文社長の続投を容認するなど、〝政治オンチ〟も甚(はなは)だしいからである。

 コトの背景はともかく、
「首相が悪徳商人の肩を持った」
 という構図になれば国民がどう思うか、考えが及ばないところが〝政治オンチ〟なのだ。

 テレビで人気の水戸黄門を見るがいい。
 黄門様は庶民に君臨する「支配階級」であるにもかかわらず、些末な「悪」を退治してみせることによって人気者になっている。
 葵の御紋に平伏すること自体、社会構造として「悪」なのだが、そうはならないのが「世間」なのだ。

 つまり私たち国民は、大きな失政には気づかず、小さな社会悪に憤るというわけである。

 失政は頬っかむりし、小さな社会悪を退治していれば、麻生総理も人気者になったろうに、なぜそのことがわからないのか、私は不思議でならないのである。

 先日、ある週刊誌から、麻生総理についてコメント求められた。

 電話で話しているなかで、記者が、
「最近、麻生総理の目がうつろになってきているようですが、どう思われますか」
 と言ったので、私はこう答えた。

「目が口ほどにものを言うなら、口は目ほどにものを言う」

 麻生総理の口の曲がりが最近、ひどくなっている。
 あの曲がり方は、「うつろな口」と言うのだ。
 まともな答弁や指示など、できるわけがあるまい。


  

投稿者 mukaidani : 09:25

2009年06月23日

死は必然なり、生は驚きなり

 今日の午前、知人の葬儀があり、昨夜遅く鴨川の仕事部屋から帰ってきた。

(訃報はいつも突然だな)
 そう思ったとき、ふと、
《死は必然なり、生は驚きなり》
 という言葉が脳裏をよぎった。

 どなたの言葉であったか失念したが、
「人間は必ず死ぬもの。それが朝、生きて目が覚めるのは当たり前ではなく、驚きである」
 といった意味だ。

 この言葉に接したとき、
(なるほどな)
 と思った。

 そして翌朝、目覚めたときに、
(おっ、今日も生きている!)
 と驚こうとしてみた。

 驚かなかった。
 バカバカしくなった。

 こうして私は「明日も生きている」と、根拠のない確信を持って日々を過ごし、いざ大病して余命の宣告でも受けたなら、うろたえるのだろう。

 死は必然と言いながら、私たちは〝言葉遊び〟をしているのだ。

投稿者 mukaidani : 13:03

2009年06月22日

「スケールメリット」への懐疑

 体重は減らないが、年齢のせいか、食事の量がたくさん食べられなくなってきた。

 和食にしても洋食にしても、コース料理が胃袋に負担になってきて、馴染みの店を予約するときは、量を工夫してくれるよう伝えるようにしている。

 それでも、昨夜の和食屋さんは胃袋が苦しかった。
 贅沢とわかっていても、苦痛は苦痛である。
 コース料理よりも、畑で収穫した野菜を少量、手料理で楽しむことのほうに惹かれるのだ。

 料理だけでなく、たとえば昨日のブログで空手道の大会について書いたが、こうした大会も、大規模のものより、小さな、手作りのような大会のほうが楽しくなってきた。

 クルマも、買い換えるたびに小さくしている。

 漠然とした思いだが「スケールメリット」、すなわち「規模が大きいことは、いいことだ」という考えに違和感を感じているのである。

 それが年齢からきているものか、あるいは飽食の時代、経済成長の時代を生きてきたことへの反動であるのか、私にはわからない。

 ただ、感覚として「大きいことはいいことだ」という価値観に懐疑の念を抱く自分を意識しているというわけである。

 そして「つましい」とか「ささやか」といった価値観に惹かれる。
 きっと、幸せというやつも、満喫するのではなく、つましく、ささやかでいいのかもしれない。

 ならば「ささやかな幸せ」とは何だろうか。
 言葉で言うのは簡単だが、その答えとなると、実に難しいことを、いま改めて思い知らされている。

 

投稿者 mukaidani : 00:53

2009年06月21日

「指導」の本質

 昨日、北総空手道連盟(千葉県北総地区)の空手道大会があった。

 私も一員だが、同連盟はNPO法人で、
「空手道を通じて、いかに地域に貢献するか」
 ということが真剣に論議されるなど、なかなか先進的な組織だと自負している。

 さて、大会のこの日、子供たちの「態度」が本部席で話題になった。

 開会式での整列ができていない。
 姿勢が悪い。
 私語がある。

「こんなことでいいのだろうか」
 というわけである。

「試合偏重の弊害ではないか」
「礼儀やしつけを抜きにして、空手道の存在意義はあるのか」

 そんなことが話題にのぼり、私もそう思った。

 そして一夜明けたいま、ふと考えた。
(子供たちの礼儀やしつけがなっていない原因は、どこにあるのだろうか?)

 私たち指導者である。
 指導者の私たちに責任があるのだ。

「こんなことでいいのだろうか」
 と問題にされる対象は、子供たちではなく「指導者」ではないのか。

 そして指導者の責務とは、
「礼儀正しくせよ」
 と叱る前に、みずからが礼儀をただして見せることではないのか。

 自戒をこめてそんなことを考えているうちに、指導とは、実は、空恐ろしいことなのだと、あらためて気づいた。

「弟子たちから見て、自分は指導者たり得ているのか」
 この問いを発することから指導は始まるのだと、自分に言い聞かせた。

 確固たる人生観なき指導は、ただの遊びなのである。
  

投稿者 mukaidani : 09:27

2009年06月19日

脊柱管狭窄症の恐怖

 このところ、右膝の状態がよくない。
 脊柱管狭窄症のせいだろうか。
 3年前に発症したとき、神経根ブロック注射を打ち、いまもって痛みはおさまっているのだが、いつ再発するかわからないと医者にいわれていた。

 やばいのである。

 発症時のあの痛さはハンパでなく、歩けなくなってその場にしゃがみこんでしまった。それを何十メートルかおきに繰り返しつつ、歩く。

 楽じゃないのだが、
「死は必然。なんの恐れることがあろう」
 とエラそうなことを口にしている手前、脊柱管狭窄症で狼狽したのではみっともない。

 そこで、
「歩けなくなったら、歩かにゃええがな」
 とニコニコニ笑顔で嘯(うそぶ)く私なのである。

 そんな先日のこと。
 学連の知人から、全日本学生空手道選手権の招待状を頂戴した。

 お礼のメールを出すと、すぐに返信がきて、
「実は小生、脊柱管狭窄症で手術をいたしまして、云々」
 と書いてあるではないか。

 何と!

 私は再度、メールを出して、
「手術について、もうちょっと教えて下さい!」
 とSOSを発したという次第。

 まさに知人のメールはグッドタイミングが、果てまた手術の予兆か。
 なんともイヤな気分なのである。

投稿者 mukaidani : 12:01

2009年06月18日

畑でずぶ濡れになりながら悟る

 今朝は曇り空。
 午後から雨が降るという。

 迷った末、9時前になって、大急ぎで畑へ出かけた。
 今週末から来週一杯まで、畑へ行く時間がとれないからだ。
 例によって指南役の高齢親父、愚妻、私の三人である。

 畑で草引きをしていたら、頭部に〝気配〟を感じた。
 スキンヘッドならではの高感度である。

「雨がくるぞ!」
 私が叫ぶ。

「わかった」
 指南役が、そそくさと帰り支度にかかるが、愚妻は、
「待って、花を摘んでくる!」
 畑の端っこの花壇に走っていった。

 その後ろ姿を見ながら、
(地震がきて逃げ遅れるのは、こういうタイプだろうな)
 と思った。

 いつ雨が降り出すかわからないのだから、まず、やるべきことをやり、その後、いつでも素早く切り上げられることをすべきなのだ。

 花が欲しいなら、まず花を摘み、そのあと草むしりをすればいいのに、愚妻はその逆をやっていたのである。

 おかけで、夕立のような雨に見舞われ、私たちはずぶ濡れになったという次第。

 将棋に「手順の前後」という言い方があるが、「草むしり」と「花摘みと」手順が前後したばっかりにずぶ濡れになったのだ。

 人生においても、私たちはそうと気がつかないだけで、きっと「手順の前後」という過ちをたくさん犯しているのではないだろうか。

 順序が一手違うだけで、結果は天地の差になるのだ。

 

投稿者 mukaidani : 13:33

2009年06月17日

ナンバープレートの語呂合わせ

 車のナンバーを見るのが、私は大好きである。

 その番号を希望した意図を、あれこれ想像するのが楽しいのである。

「11-22」だと、「いい夫婦」という語呂合わせから、夫婦円満を願っているか、仲睦まじい夫婦ということになるが、私は解釈をひとひねりして、

(離婚寸前の夫婦がヨリを戻し、その証として〝11-22〟なんてのもアリだな)
 と、そんな勝手なことを考えながら、ナンバーを見るのである。

 で、昨夜のこと。

 けたたましくクラクションを鳴らして走る車のナンバーが「25-25」だった。

 この「25-25」という数字は、乗用車などよく目にするナンバーで、これまで笑顔の「ニコニコ」の語呂合わせだろうと思っていたのだが、走り去る「25-25」を目で追いながら、ふと、
(不幸、不幸)
 という語呂合わせが脳裏をよぎったのである。

 本人は「ニコニコ」のつもりとしても、見方を変えれば「不幸、不幸」になってしまう。「ニコニコ」と「不幸、不幸」とでは、気分は天地の違いだろう。

 ことほどさように、好意をもって見るか、悪意をもって見るかで、語呂合わせも180度変わってくるということなのである。

 人間の長所と短所も同様で、「好意をもって評価するか」「悪意をもって評価するか」によって、長所にもなれば短所にもなる。
 消極的な人間は、好意をもって見れば「おとなしい人」であり、粗野な人間は「男らしい」、おてんば娘は「活発なお嬢さん」。評価なんてものは、好悪の感情で、いかようにもなるということなのである。

 そんなことを走り去る「25-25」を見ながら思った次第。

 ついでながら、「25-25」にお乗りの人は、どうぞ気を悪くされないように。他意はないゆえ、「ニコニコ」笑顔で運転していただきければ幸いである。

投稿者 mukaidani : 12:04

2009年06月15日

この夏は意地でも着物ですごそう

 このところ、着物に関する本を読破している。

「堅苦しく考えるからいけない。好きに着ればいいのだ」
 と主張する本を読めば、
(そうだ!)
 と意を強くする。

「あなたは洋服を着るときに悩みますか? 着物もそれと同じです」
 という本なら、
(同感!)
 と、嬉しくなる。

 ところが、
「衣紋(えもん)が抜けた男は、〝抜け右衛門〟といって笑われます」
 と、こうるさく書かれた本を読むと、ドキリとさせられる。

 さらに、
「大島はいくら値が張ろうと、あくまでおしゃれ着。改まった場所に着ていくと恥をかきます」
 なんて下りを読むと、気が重くなる。
 着物の知識のない私は、泥大島のアンサンブルがあれば文句あるまいと、リサイクルショップで大枚をはたいて買っていたからである。

 だが、参考までにと、テレビの「時代劇チャンネル」を見ていると、町人も遊び人も、お気軽に着物生活を送っているではないか。

(なんで、わしが着物のことで悩まなきゃいかんのだ)
 と次第に腹立たしくなってくるのである。

 それでも一念発起して始めた着物だ。
 夏物も、長着から夏帯、羽織、袖無し羽織、小物、さらにタボシャツまでそろえた。

 そろえながらも、
(夏のクソ暑いときに、こんなもの着るだろうか?)
 という思いがよぎる。

 だが、暑いといって着なければ、バチ当たり女房が鬼の首でも取ったように非難するだろう。

 それだけはマズイ。

(よし、今年の夏は意地でも着物だ)
 と、実はいま密かに決心したところなのである。


投稿者 mukaidani : 23:58

市民農園で黒煙モクモクだって。

 関西の市民農園で耕作している友人から、怒りのメールだ。

 肥料や堆肥などを入れるビニール袋や、ナイロン紐、風化して割れたバケツなどを、畑の空き地で燃やす人がいるのだそうだ。

 黒煙モクモク。有害ゴミが土場を汚染し、汚染された土壌でつくった作物が人間の口に入る。
「いい土を作って、いいものを食べたいという、庶民の畑でのささやかな夢までが、一部のこころない人たちによってうち砕かれてしまうのか」
 と友人は怒っているのだ。

 まったく、そのとおり。
 まして市民農園といえば、環境問題に敏感な人間が多いだろうに、黒煙モクモクとは言語道断であろう。

 エコだの、環境にやさしいだのと、掛け声はにぎやかだが、電気自動車やハイブリッド車の開発より、「道徳心」「公共心」の開発が先ではないのか。

「グリーン税で税金を安くするなら、黒煙モクモク税を創設して税金を高く取ったらどうだ」
 と、そんな嫌味の一つも言いたくなってくる。

 それにしても、自分さえよければいいといいう人間の身勝手さ。
「いやだねぇ」
 と、自戒しつつ、つぶやいてみるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 11:00

2009年06月13日

わしが66歳以上だと?

 今日と明日の二日間、私が受講している中央仏教学院通信教育のスクーリングが行われる。

 で、今日は朝から会場の築地本願寺に出かけた。

 講義のほか、班ごとに分かれてディスカッションをやるのだが、隣に座った男性と雑談していたときのことだ。
「もう年ですよ。66歳ですから」
 と、私におっしゃったので、
「なんの、お若いじゃないですか」
 と言ったところが、
「あなた、私より年上でしたか」

 これには愕然とした。
 私は58歳なのだ。

(いくらフケて見えるとしても、66歳以上はないだろう)
 と思っていたら、お昼休み。

「ちょっと、そこの若い人」
 とオバちゃんの声。

 知らん顔をしていると、
「ちょっと、そこの若い人。机を運んでちょうだいな!」

 受講生のオバちゃんが、私に声をかけていたのだ。
(わし、若い人か?)
 と、にわかに気をよくした。

 二十代の若いころは背伸びして、うんと大人に見られたかったものだが、還暦を前にすると、今度は若く見られたがるのだ。
 まったく勝手なものだと反省しつつ、年配者には「若い」という言葉が、いかに〝殺し文句〟になるか、あらためて認識した次第。

 それにしても、スクーリングに行って、そんなことを考えているようじゃ、たいした成果は望めないか。

投稿者 mukaidani : 19:54

2009年06月12日

子供と稽古していて指を捻挫するのだ

 このところ小学生を相手に組手の稽古をしている。

 私が相手だと、子供たちが嬉々としている。
 遠慮はいらないし、私がムキになるわけでもない。
 しかも、
「痛テテテ……」
 と、ちょっとばかし演技しつつ相手をする。
 だから楽しいのだろう。

 ところが、おかげで先週も、そして今夜も、私は左手の指を捻挫した。
 子供の蹴りを受け損なったのだ。
 というのもの、きちんと受けると相手の足が痛くなってしまうからで、いかにやさしく受けるかを考えるのだが、子供たちはそうと知らないから不意をついてバンバン攻めてくる。
 それで、つい受け損なってしまうというわけである。

 これもそれも、私の人格が丸くなったせいだというなら結構なことだが、現実はそうでもない。

 道場の若い者にはつい怒鳴ってしまうし、保護観察の若者の態度が気にいらなければ叱りつけてしまうのである。

 もともと短気で、瞬間湯沸かし器。
 気がついたら相手をブン殴っていた、ということも若いころはよくあった。
 二十代のころは、酔っぱらってどこで誰とケンカしたか、血だらけになって帰宅することも、再三ならずあったと、愚妻はいまもチクチク言って私をいじめる。

 そんな私が、子供たちと稽古するのが楽しいのだ。

(この子たちには未来がある)
 そう思うだけで、相手をするのが楽しいのだ。

 齢を重ねるとは、そうい心境になることなのだろうか。
 捻挫した痛みを指に感じながら、ふとそんなことを思うのである。

  

投稿者 mukaidani : 22:51

2009年06月11日

裁判について考える

「電車内痴漢、男性に逆転無罪」
 今日のニュースである。

 痴漢逮捕されたアルバイト男性(23)が控訴審判決で無罪になり、声をつまらせながら会見していた。

 よくぞ頑張ったとエールを送りつつ、それにしても、一審で懲役1年4月の実刑判決が下されたことを、私たちはどう受けとめたらいいのか。

 裁判が一審と二審とで、真反対なのだ。

 裁判とはいったい何なのか、裁判について無知な私は首をひねるばかりである。

 周知のとおり、「足利事件」で無期懲役で服役中だった菅家利和氏が釈放された。

 裁判官というプロでさえ、有罪と無罪と判断が分かれるのだ。

 裁判員制度が始まったいま、人を裁くということの重みを考えないわけにはいかない。

 

投稿者 mukaidani : 21:44

2009年06月10日

畑作業と「相撲の立ち会い」

 畑に行く予定日がことごと雨になり、今朝、しばらくぶりに出かけた。

 一面、草ぼうぼう。

 思わず溜め息が出るが、草は引かねばなるまい。

 私はしゃがみこみ、カマで根を断ち切るようにして草を引いていく。

 2時間がたち、さらに30分が過ぎるころになって、指南役の親父が、
「さあて」
 と、つぶやく。

 いつもなら、ここで私が、
「そろそろやめるかな」
 と呼応し、
「ほうじゃ、またにしよう」
 と指南役が断を下して作業は終わりとなる。

 このあたり、阿吽(あうん)の呼吸と言うのか、相撲の立ち会いに似ているのだ。

 だが今日は、私は本気になって草と格闘している。
 指南役のつぶやきを無視。

 すると、しばらくして指南役が、
「さあて……」
 無視。

 何度かこれを繰り返し、私も疲れてきたので、
「そろそろやめるかな」
 と、呼吸を合わし、
「ほうじゃ、またにしよう!」
 と、いつものパターンになった。

 で、これもいつものように私は愚妻に向かって、
「そっちはどうだ?」
 と声をかける。
「そろそろ帰る?」
 と呼応して一件落着のばすが、今日に限って無視。
 畑の一角に花を植えたものだから、そっちに余念がないのだ。
 
 指南役も、私も、沈黙する。

 15分ほどたって、
「そっちはどうだ?」
 再び、明るく声をかけるも、 無視されて私たちは沈黙する。

 立ち会いの呼吸が合わず、予定時間をはるかにオーバー。夕方から稽古があり、私は仮眠をとる時間がなくなってしまったのである。

 畑作業というのは、実に難しいものであると痛感した一日であった。

投稿者 mukaidani : 13:50

2009年06月08日

昨日は、道場の稽古発表会

 昨日は小学校の体育館を借りて、空手の稽古発表会を行った。

 毎年の行事で、稽古の成果を保護者に見ていただくものだ。

「上手にやる」よりも「できるだけ楽しく」ということで、子供たちも保護者と弁当を囲んで楽しんでくれてようだ。
 支部道場から多数の参加もあり、私にとっても楽しい一日だった。

 それにしても、空手は他のスポーツにくらべてゲーム的要素が少ない。
 基本は反復稽古だし、組手は恐いだろう。型の演舞にしても、一人で演じるのはプレッシャーがある。しかも、礼儀だなんだと、うるさく言われる。

 そういう意味で言えば、子供たちにとって、空手は決して楽しいものではないだろう。

 だから、空手の稽古には「克己心」がいる。
 ここに空手の素晴らしさがある。
 そして武道における段級位とは、樹木の年輪のようなもので、どれだけ自分に打ち克ってきたか、その証(あかし)なのである。

 そう考えるとき、子供たちの稽古に対するモチベーションを何に求めたらいいのか。

「強くなる」「上手になる」「大会でメダルを取る」といったこともモチベーションを高める有効な手立てだろうが、それでは「勉強すれば成績がよくなる」と叱咤激励するのと同じだ。

「成果」を念頭において、現在を努力するという考え方は、成果至上主義であり、成果が得られなければ努力が無意味になってしまう。

 空手の稽古が克己心を養うものとするなら、成果主義であってはなるまい。

 努力する、その過程をいかに楽しくさせるか。
 それは指導者の責務だろう。

(ならば、どうすべきか)

 稽古発表会の演舞を見ながら、自問自答しつつ、人を指導することの難しさを改めて思い知った次第である。

投稿者 mukaidani : 10:58

2009年06月06日

ノドもと過ぎれば、熱さを忘れよ

「鼠先輩」が引退した。

「自分は一発屋」だと自覚し、妻子を養うために芸能界を引退して新たな仕事を探すのだという。

 芸能界は楽じゃないのだ。

 私は週刊誌記者時代を含め、多くの芸能人にインタビューしてきた。

 そんななかで、いつも不思議に思うことがあった。

 スターを夢みて努力してきて、いざ人気者になると、
「忙しすぎて、自分の時間がない」
 と、誰もが不満を口にするのだ。

 スターになるということは、忙しくなるということではないか。

 売れっ子として多忙になることを夢みていながら、いざそうなると不満を言う。
 これが私は不思議でならなかった。

 だが、いまは彼らの気持ちがわかる。

 いや、彼らではなく、人間とはそうしたものだということが、何となくわかるのである。

 いまリストラにおびえていても、いざ好景気によって残業に追われるようになったら、不満を口にするだろう。

 ノドもと過ぎれば熱さを忘れるのが、私たち人間なのだ。

 しかし、これを別の視点から見れば、熱さを忘れるから生きていけるのかもしれない。

 羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹けば、人間は臆病になる。

 臆病が高じれば、精神を病む。

 だから、ノドもとすぎれば、さっさと熱さを忘れ、ノーテンキに生きていけばいいのだ。

 鼠先輩の引退記事に、ふと、そんなことを思った。

投稿者 mukaidani : 10:36

2009年06月05日

えッ、タイゾー君が不出馬だって?

 タイゾー君こと、杉村太蔵議員が、次期衆院選への出馬を断念したそうな。

 これまで、
「北海道1区以外の選挙区から次期衆院選に出馬することは100パーセントない」
 と公言し、最終的に公認が得られない場合、無所属でも出馬すると威勢がよかった。

 そのことを思えば、
「この詐欺野郎!」
 と、罵(ののし)られて当然である。

 政治とは言葉による斗争であり、政治家は自分の言葉に責任を持たなければならないからだ。

 私たち市井(しせい)の人間であれば、
「あっ、ゴメン」
 と謝ればすむが、政治家の「二枚舌」「言行不一致」は許されざるものなのである。

 大阪府の橋下知事は、知事選出馬がウワサされたとき、
「2万パーセントない」
 と言っておきながら出馬した。

 だが、あのときウソをついた橋下氏は、私たちと同じ「市井の人」なのだ。
 だから、
「あっ、ゴメン」
 と、頭の一つもかけば許される。

 ところがタイゾー君は現職の国会議員なのだ。
 だから許されないというわけである。

 さて、そこで日本郵政社長人事に大反対している鳩山邦夫総務相だ。
 信念の男であることを自認し、
「曲がったことは許してはならない」
 と怪気炎をあげているが、政府・自民党から横ヤリが入った今、果たしてその「信念」を貫けるかどうか。

 もし「社長人事反対」を引っ込めたとしたら、どう言いつくろおうとも、タイゾー君と同じ穴のムジナということになる。

 兄の鳩山由紀夫は民主党の党首になった。
 弟の邦夫は「男」になるか、「ムジナ」になるか。
 注目である。
 
 

投稿者 mukaidani : 01:51

2009年06月04日

君島十和子さんと「若さの進化」

 君島十和子さんことを「美のカリスマ」と言うのだそうだ。

 私は寡聞にして知らず、ワイドショーで、彼女の新著サイン会を見て、そのことを知った次第。

 その新著も『ザ・十和子』。
 すごいタイトルだが、43歳にして、彼女の美はどんどん進化してるそうだから、これでいいのだろう。

 美の進化について、彼女はインタビューに答えて、
「これでいいんだと決めつけることなく、もっともっと……」
 そんな意味のことをおっしゃっていた。

 なるほどなァ。
 現況に甘んじることなく、美を求めていくところに「進化」があるというわけか。
 美人のはずだ。

 私なんぞ、
「いまの自分でいいのだ」
 と〝現状肯定の生き方〟だから、「進化」しないわけである。

 だけどなァ。
 美しいことはもちろん結構だが、
「もっと美しありたい、もっと若くありたい」
 と〝求める人生〟も楽じゃないだろうな。

 と、そんなことを思った、その夜のこと。
「館長、何歳?」
 稽古のとき、小学生の女の子たちが、私にきいてきた。
「58歳だよ」
「エエーッ! ウチのお爺ちゃんと一緒だ!」

 そして、別の女の子がポツリと、
「じゃ、館長は年寄りなんだ」

 いやはや、これはショックでしたな。

 やっかみ半分で、「美のカリスマ」を揶揄しつつも、
(やっぱり、もっと、もっと、と若く、進化せねばならぬのか)
 と十和子さんの顔が脳裏をよぎった次第。

投稿者 mukaidani : 09:49

2009年06月02日

京都教育大生の事件に思う

 京都教育大生の集団準強姦容疑。
 しかも、それを周囲の学生数人が見ていて止めなかったという。
 こんな学生が教師になっていくことを、私たちはどう受けとめたらいいのだうか。

 かつて教師は「聖職」と言われた。
 勉強を教える前に、自分自身の「人間性」と「生き方」が問われる職業であるからだ。
 彼らには、その自覚の一切がないのだろう。

 だが、
「卑劣な連中だ」
 と非難する一方で、私は我が身を振り返る。

 空手の指導者として、僧籍にある者として、保護司として、自分は天に恥じないだけの生き方をしているだろうか。

 自問自答し、私は沈黙する。

投稿者 mukaidani : 22:44

2009年06月01日

壁にぶつかったら迂回せよ

 土曜の夜遅く、鴨川市の仕事部屋に来て、日曜は朝から館山の健康ランドに出かけた。

 6月刊行予定本の「まえがき」を書くのが目的だ。

 ザブンと湯船に浸かるや、たちまちアイデアが閃いた。
 嬉しいような、恨めしいような気分だが、忘れないうちにと、急いで上がると、二階の休憩室に行った。

 リクライニングを倒し、ノートパソコンを起動し、キィーボードを打ち始めたところが、前方からイビキ。

 これが、うるさいのだ。

 イラつくが、
(イビキごときで集中できないようでは未熟だ)
 と、自分に言い聞かせる。

 ところが、言い聞かせれば聞かせるほどイライラはつのるのである。

 そこで、
(なるほど)
 と私は悟った。

 無心になろうとすればするほど、無心とほど遠くなるのだ。

 無心になろうとしてはいけない。
(イビキにこだわれ。思い切りイライラしろ)
 と逆療法で臨んでみた。

 すると、どうだ。
 イライラは、バカ正直に、ますますつのっていくのである。

 そこへ愚妻がやってきて、
「どうしたの?」
 私の顔を覗き込む。

「バカ者。あのイビキが聞こえんのか」
「隣の部屋へ行けばいいじゃないの」
 いともあっさり言った。

 そうか、そうだった。
 退避すればいいだけのことだったのである。

 何事も当事者になれば、本質が見えなくなるということを、改めて悟った。
 壁にぶつかったら、越えようとするのではなく、迂回する方法を考えてみることが大事ではないか。
 壁に背を向けるのは逃避だが、迂回は「攻め」なのである。

 そんなことを考えているうちに、
(あッ!)
 何を書こうとしたのか、閃いたアイデアは雲散霧消していたのである。


投稿者 mukaidani : 01:22