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2009年05月30日

「パパ」と「父さん」と「倒産」

 学生時代、広告代理店のバイト説明会に行ったときのことだ。

 詳細は忘れたが、会議室に何十人も応募者が集まっていたから、バイト料がよかったのだろう。

 仕事は広告取り。

 いま思えばあやしげな会社で、社長が応募者を前に、
「よく笑った人から採用します」
 と言った。
 営業は笑顔が大事ということである。

 で、社長が言った。
「私の家では、子供にパパと呼ばせています。なぜだかわかりますか?」
 ひと呼吸おいて、
「だって、父さんはまずいでしょう?」

「倒産」を「父さん」に引っかけたダジャレだが、よく笑った人から採用されるのだから、みんな必死でアッハッハ。会場を揺るがすほどの爆笑であった。

 私はバカバカしくなって席を立った。
 いまも追従(ついしょう)でバカ笑いする人を見ると、あのときのことを思い出す。

 未曾有の大不況で、いま広告業界は冬の時代を迎えた。
 あの広告代理店の社名も忘れてしまったが、存続しているのだろうか。
「私の家では、子供にパパと呼ばせています。なぜだかわかりますか?」
 なぜか、あのときの言葉は30数年たったいまも忘れないのだ。

投稿者 mukaidani : 12:36

2009年05月29日

はや6月と嘆息しつつも……。

「一夜明けてみてどうですか?」
 今朝、早々に編集長氏から電話。
 昨夜、酒席で盛り上がった執筆テーマについてどう思うか、という電話である。

「面白いね」
「でしょう。これは絶対にいけます。で、〆切、昨夜のスケジュールで大丈夫ですか?」
「そうだね」
 曖昧な返事に、
「本当に大丈夫なんですか?」
 編集長氏の声がとたんに険しくなり、
「もちろん大丈夫!」
 私は力強く返事をして電話を切った。

 今年も、はや6月。
(今日は昨日の続きであってはならない)
 と思いながらも、
(だけど、ジェットコースターじゃあるまいし、毎日がそうそう変わるわけもないしなァ)
 嘆息しつつ、今日も一日が始まった。

 嘆息するのは幸せな証拠だ。
 本当に苦しいときは、溜息さえ出ないものだ。
 自分にそう言い聞かせながら、溜まった原稿を書き始めた。

投稿者 mukaidani : 12:58

2009年05月28日

プリウスの価格設定はセコくないか?

 トヨタの新型プリウスが、予約も含め10万台もの受注があったそうだ。

 その要因は周知のように、価格設定の値下げ。ホンダのインサイトが低価格で大人気となったため、プリウスは当初の予定価格より30万円ほどダウンして発売したわけである。

 値下げ、大いに結構で、誰も文句を言わないからあえて言うが、
「だったら、最初からその価格で売ったらどうだ」
 と、私は嫌味のひとつも言いたくなってくる。

 つまり、インサイトが発売されなければ、プリウスは1台につき、現利益より30万円を確実にもうけていたことになる。
 安くなったのではなく、当初の価格設定が儲けすぎ、とも言えるのだ。

 なんだかなァ。
 ビジネスは戦争だと承知しながらも、世界のトヨタにしちゃ、ちょいとセコイような気がするのである。

 本日は雨。
 それでも午後から約束が二つほどあったので、都内へ出かけた。
 トヨタの悪口は、雨のせいかもしれない。
 私は雨が嫌いなのだ。


投稿者 mukaidani : 23:49

2009年05月27日

自分の性格を「変える」ということ

 連日、中央大理工学部教授の殺害事件が報じられている。

 逮捕されたのが教え子ということから、なぜ凶行に至ったか、動機について世間の関心が高いからだろう。

 私は「動機」には、さして関心がない。

 人が人を殺すのだから、それが身勝手な理由であろうとも、動機はさまざまあるだろう。
 この事件に限らず、動機は〝引き金〟であって、本質はもっと別なところにあると思うからである。

 私が関心を持ったのは、容疑者の自宅から押収されたノートに、
「もっと人とコミュニケーションを取らなきゃ」
「消極的な自分を変えたい」
 といった書き込みがあったということだ。

 就職や転職で失敗を重ねた原因が、こうした自分の性格にあり、それが屈折して殺害動機に発展したのではないか、という報道もあるが、私が関心を持ったのはそういうことではなく、
「消極的な自分を変えたい」
 という思いに対して、容疑者はどう対処したかということである。

 コミュニケーションの悩みや、消極的な性格に対する悩みを抱いている人は少なくない。
 だが、そういう人たちは、悩みの本質がどこにあるか考えたことがあるだろうか。

 悩んでいる人は、必ずこう言うのだ。
「考えてるさ。だけど、どうやって自分を変えていいか、わからないんだ」

 この言葉にウソはないだろうし、悩んでいることはよくわるかるが、これでは解決しない。
 なぜなら大いなる勘違いをしているからだ。
 性格は「変える」のではなく「変わる」ものなのだ。

「変えよう」と思うから、変わらないのだ。

 たとえて言えば、背の低い人がそれを悩み、背を高くしようとしても不可能だ。
 だが、背が低いことは人生とって決してマイナスでないと悟れば、背が低いという悩みは解消される。

 性格を変えることも、それと同じだ。
「消極的な自分でいいのだ」
 と、しかと気づくことによってコンプレックスは解消され、「積極的な人間」に変わっていくのである。

 では、どうすればそれに気づくか。
 
 手前ミソになるが、ヒントとして一例をあげれば、武道をやるのもいいだろう。

 性格が、消極的だろうが積極的だろうが、一心に稽古し、汗を流しているうちに、精神的な意味で何かが確実に変わっていく。
 空手を始めて、性格が明るくなる人はいても、暗くなる人はいない。
 大人も子供もそうだ。

 ここに「性格が変わるヒント」があるように、私は考えるのである。 

 


投稿者 mukaidani : 11:54

2009年05月25日

フンドシに学ぶ「自意識」

 道場内にある仕事部屋で原稿を書いていて、ふいに風呂に入りたくなり、健康ランドへ行くことにした。

 昨夕のことだ。

 愚妻に電話し、自宅前で拾った。

 と、愚妻が思い出したように、運転する私に言った。
「あなた、フンドシじゃなかった?」

 ハッ、と思い出した。
 そうだ。
 今日はフンドシを穿いていたのだ。

「私、恥ずかしいじゃないの」
「バカ者。おまえと一緒に風呂に入るわけじゃない」
「そうだけど……」
 そんな会話をしつつ、健康ランドへ向かう。

 実を言うと、私も後悔していた。
 ちょっと恥ずかしいのである。
 だが、そんなそぶりを愚妻に見せるわけにはいかないのだ。

 健康ランドに着き、私は作務衣を脱いだ。
 白い越中フンドシである。
 他の客はチラリと一瞥しただけで、ジロジロ見る者はいない。

「恥ずかしい」というのは所詮、自意識のなせるワザなのである。

 フンドシに限らず、世間は自分で思うほど、感心をもってはくれないということが、よくわかった。

 フンドシに学んだ「自意識の愚かさ」である。

投稿者 mukaidani : 12:17

2009年05月24日

「頑張る」が心負担

「頑張って」という言葉が心の負担になる。

 犯罪被害者白書に、そんな手記が掲載されているそうだ。

 ひき逃げ殺人事件で兄を失った女性(29)が書いたもので、
「頑張って両親を支えてあげて」
「お兄さんの分までしっかり生きて」
 そんな周囲の言葉に、何を頑張ればいいのかわからず、ひどく落ち込んだという。

 そして、両親の悲しむ姿を見ているうちに、
「自分が代わりに死ねばよかったのではないか」
 と、生きていることに罪悪感を覚え、
「両親を支えねば」
「苦しみから逃れたい」
 という2つの感情で板挟みになり、やがて死を考えるまで精神的に追い込まれたという。

「頑張って」
 と励ました周囲の人たちに罪はない。

 私たちもまた、善意から「頑張って」と励ます。

「何を頑張ればいいのか」と吐露するこの女性の言葉は重い。

 人生において「頑張る」とはどういう意味なのだろうか。

 あらためて考えさせられた。

 

投稿者 mukaidani : 08:41

2009年05月23日

森田健作知事の自称「剣道二段」

 いやはや、我が千葉県の森田健作知事が、剣道二段を〝自称〟していたんだそうな。

 それも、四十年以上も。

 これに対して森田知事は、高校1年生のころに、範士の先生から腕前を認められ、
「わかった、二段許す」
 と言われたとかで、
「ですから私は剣道二段だと、四十数年、言ってきたんです。その思いは変わりません」
 と弁明している。

 しかしなァ。

 こんな理屈が通るなら、昇段審査は不要ということになる。

「おッ、おまえ、五段の実力はあるな」
 師範がリップサービスすれば、
「よっしゃ、わしは五段だ!」
 ということになる。

「それって、ウソじゃん」
 と突っ込まれれば、
「私は師範にそう言われたんだ。その思いは変わらない」
 と居直ればよいということになる。

 ただ、私が感心するのは、この「思いは変わらない」という主張である。

 真偽という土俵に上がらず、
「誰が何と言おうと、私の思いは変わらないんだ」
 と「我が思い」を全面に出せば、ウソもホントもなくなってしまう。
 つまり別の土俵を森田知事はつくっているわけである。

 だが、これは巧妙な詭弁。

「公約違反じゃないか!」
「違う。実行するという思いは、いまも変わらない」

「何よ! 私を幸せにしてくれると言ったじゃないの! ウソつき!」
「違う。キミを幸せにしたいという思いはいまも変わらない」

「思い」という言葉でくくれば、何だって言い逃れができるのである。

 それにしても、四十年以上も「ボクは剣道二段」と公言して後ろめたさを感じなかったのだろうか。

 森田知事はノーテンキなのか、それとも厚顔なのか。

 本来であれば、段位の〝自称〟など目くじら立てるほどのことはないと思うが、剣道と青春で売ってきた人間だけに、
(なんだかなァ)
 という思いがするのである。

投稿者 mukaidani : 10:01

2009年05月22日

「未練」は不幸の元凶である

 昨日、話題の阿修羅展を見に、カミさんと上野の国立博物館へ出かけた。

 朝10時30分にもかかわらず、すでに「70分待ち」の表示。しかも、ゾロゾロと四方から見学人が集まってきているではないか。

「やめた。恐竜展に行くぞ」
 急きょ、科学博物館に予定変更。
 私は、待つ、とか並ぶ、というのが大嫌いなのである。

 で、帰途。
 浅草の和服店「ちどり屋」へ寄って、浴衣と単衣を選びながら、阿修羅の代わりに何とかザウルスを見てきたと言うと、
「閉館まぎわに行けば、すいているそうですよ」
 と奥さん。

 カミさんが、私の顔をチラリとうかがう。
「よし、行くぞ!」
 と言い出すのではないかとヒヤヒヤしているのだ。

 だが、私は一度決断したことは、たとえ後悔しつつも貫く。
 もう阿修羅は見ないと決めたら、絶対に見ない。
 鉈(なた)で雑木の枝を払うように、未練は力まかせに断ち切ってしまうのである。

「いいか」
 自宅に向かうクルマのなかで、私がカミさんに諭した。
「阿修羅が恐竜になったっていいではないか。これは、ご縁なのだ。阿修羅にだわってはいけない」
「私は最初からこだわってないわよ。阿修羅、阿修羅と言ったのはあなたじゃないの」
「だから、そういうことも含めて、きれいさっぱり忘れてしまうのだ。未練こそ、苦しみの元凶ぞ。わかるか?」

 カミさんは返事をしなかったが、身勝手と言われよう、未練は人生の大敵だと、私は思っている。
 星の数ほど夢を描き、片っ端から捨てていけばいいのだ。

投稿者 mukaidani : 08:35

2009年05月21日

女はリアリスト

 万年筆を買った。

 お経がなかなか覚えられず、紙に書いて覚えようというわけである。

 昨日のブログで、メモ用の手帳は100円ショップに限ると書いたが、万年筆はそうはいかない。
 字を書くことの「ときめき」とでも言うのか、
(あの万年筆を使いたい)
 という気持ちが起きることが大事なのだ。

 これまで30余年前に買ったモンブランの太字を使っていた。
 私が週刊誌記者として駆け出し当時、万年筆は「物書きの魂」とか何とかという一文を読んで、
(よし!)
 と、ン万円という大枚をはたいて買った。
 30年余前のン万円は大金で、高価な万年筆をいたわるように使ったものだ。

 ところが、昨年の暮れあたりからインク漏れをするようになった。
 メーカー修理に出したが、やっぱり直らない。
 だが、このモンブランは30余年も苦楽を共にした「同志」である。
 駆け出し当時、なけなしのお金をはたいて買った思い出の万年筆である。
 リタイヤさせるのは忍びなく、手をインクで汚しつつ、いままで使ってきた。

(しかし――)
 と、私は思い直した。

 拙著で「諸行無常」を説きつつ、思い出の万年筆に固執したのでは言行不一致ではないか。

 そこで、
(よし!)
 と踏ん切り、新しい万年筆を買ったという次第。

 この話をカミさんにすると、私の断腸にも似た思いを一顧だにせず、
「書けない万年筆なんか、捨てちゃいなさいよ」
 と、そっけない返事であった。

 奥さんから三行半をつきつける熟年離婚が大流行だそうだが、カミさんのこの態度に、
(なるほどなァ)
 と、納得した次第。

 女はリアリストなのだ。

投稿者 mukaidani : 06:42

2009年05月20日

メモ帳の購入で考えた

 メモ用の手帳を買った。

 思いついたことをメモする忘備用の手帳である。

 これまで、100円ショップで買ったり、いろん種類のメモ帳を試してみたが、イマイチであった。
 書き殴るため、あとで読み返してみて判読できないことがあるのだ。

 これではメモ帳の意味がない。

 なぜそうなるのか考えてみて、
(これは安い手帳を買うから、字が乱雑になるに違いない)
 という結論に達した。

 で、さっそく奮発して、革表紙の手帳を買った。
 なるほど、丁寧にメモをつける。

 ところが、丁寧すぎて、メモを取るのがおっくうになるではないか。
 しかも、手帳が傷つくのではないかと思って、乱雑に扱えない。
 
 これではメモ帳の意味がない。
 
 メモ帳はやはり100円ショップのやつに限る。
 何事も、高けりゃいいというものではないのだ。
 そのことに気がつかされたということで、メモ帳に1万円を投じた意味があると、自分に言い聞かせるのである。

投稿者 mukaidani : 07:00

2009年05月19日

夫婦で献血をしようとしたら……。

 昨日、カミさんの運転免許更新につき合った。

 運転免許センターの敷地内に献血施設があったので、立ち寄った、
 これまで何度か献血をしているのだが、最後に献血してからずいぶん年数が経っていたからだ。

 女房は注射嫌いで躊躇していたが、
「バカ者。社会のお役に立たなくてどうする」
 と一喝し、腕をつかんで献血施設に入った。

 必要事項を諸類に記入し、2階に上がって採血となるが、その前に問診があった。

 問診は先に女房。
 ところが、浮かない顔で出てくると、
「糖尿病の薬を飲んでいると、献血はダメなんですって」

「ダメな女だ」
 舌打ちをして、今度は私の問診。

女医「何か薬は飲んでらっしゃいますか?」
小生「いえ。高血圧の薬くらいですね」
女医「薬は何種類ですか?」
小生「2種類です」
女医「申しわけありませんが……」

 高血圧の薬は1種類であれば可だが、2種類ではダメだと、誠に申し訳なさそうに告げたのである。

 私としては、電車で席を譲ろうとして断られたような、いわく言い難い気分であった。

 外でカミさんが待っている。
「どうかしたの?」
「断られた。血圧の薬は1種類までだ。今度、病院へ行ったら1種類にするよう医者に言うぞ」
「バカみたい」

 カミさんはケタケタ笑いながらも、どこか安堵しているようだ。
 献血できないというのは、何となく社会の落伍者になったような気分になるもので、女房のケタケタは「私だけじゃない」という安堵感なのだろう。

 健康でなければ、献血もできないのだ。

 健康はやつぱり大事だと、しみじみ感じた次第。

投稿者 mukaidani : 11:50

2009年05月15日

何と、クロマニヨン人がペンダント

 約3万5000年前に彫られたビーナス像のペンダントが発見されたのだそうだ。

 つまり、クロマニヨン人がペンダントをしていたというわけである。

 東京大学総合研究博物館の西秋良宏教授は、
「年代的に見て欧州に現生人類が進出した直後に、彫刻といった芸術が花開いたことを示す成果だ」
 とコメントしている。

 我が愚妻は、指輪だ、ピアスだと宝飾品が大好きで、かねて苦々しく思っていた私は、つい先日、
「バカ者! 虚栄を追うのは現代人の悪癖だ!」
 と、一喝したばかりなのである。

 ところが3万5千年も前からペンダントのおしゃれをしていたとなると、「現代人の悪癖」という私の論拠は崩れ去ってしまうではないか。

 愚妻とはニュースをよく話題にするのだが、このクロマニヨン人のペンダントのことだけは、私は口をつぐんだのである。

 それにしても、3万5千年前のおしゃれである。
 どうやら美を求めるというのは、人間の根源的なものかもしれない。

 とするなら、美人にイケメンがモテモテになるのは当然ということだろう。
 きっと3万5千年前の当時も、美人コンテストがあったのではないか。

 〆切原稿はそっちのけで、妄想はどんどん翼を広げていくのである。


投稿者 mukaidani : 16:03

2009年05月13日

感情を口で説明してはならない

「私は怒っているんだぞ」
 と、自分で言ったのではインパクトがない。

(あっ、怒ってるかも)
 と、相手が自分で推測してこそ、インパクトがある。

 なぜなら人間は、無意識に自分の「推測」を正当化しようとするからで、
(怒っている)
 と相手が推測すれば、それは相手にとって「怒っている」という事実になる。

 だから、インパクトがあるわけだ。

 このことは映画を観ていればわかる。

 役者が、感情をセリフで言ってしまったのでは、つまらないのだ。

「よし、オレが殺(や)やるぜ」
 と、主人公にセリフで言わせるのは陳腐で、黙ってドスを抱いて部屋から出て行かせることで、
(あっ、殺りに行くぞ!)
 と観客に推測させたほうがインパクトは、より強くなるというわけである。

 で、今日の稽古。
 試しに不機嫌な顔で道場に出てみた。

(あっ、館長の機嫌が悪いぞ)
 と子供たちが推測してヒビってくれれば、いつもよりマジメに稽古するのだはないか、という実験である。

 結果はどうか。
「館長、お腹でも痛いの?」
 小学2年の女の子が私の顔を見上げて言った。

「い、いや……」
 所詮、私は〝大根役者〟ということか。

投稿者 mukaidani : 21:35

2009年05月11日

森光子さんの思い出

 森光子さんに国民栄誉賞が贈られた。

 89歳にして、あの元気。

 しかも、「もっといい演技ができるようになりたい」とおっしゃる謙虚さ。

 お世辞でなく、森光子さんはそういう人だろうと思う。

 私が週刊誌記者として駆け出しだった二十代。
 ある人のご自宅で、初対面の森光子さんと雀卓を囲んだことがある。

 徹マンになり、私は大敗してスッカラカン。
 バラ銭だけがポケットに残っていたので、電車で何とか帰宅はできると思っていたら、
「おい、森さんをお送りしてくれ」
 と知人が言うのだ。

 知人は、私がタクシーで帰るものと思っているので、森光子さんを送ってから帰れ、というわけである。

「タクシー代がないんです」
 とは言えない。

 駆け出しとは言え、私も週刊誌記者。カッコつけていたのである。

 こうなれば、森さんを送り、そのまま自宅までタクシーで帰って着払いにするしかない。帰宅して、もし女房が外出していたらヤバイが、そんなことを言っている場合じゃない。何しろ携帯のない時代である。


 私はハラをきめ、タクシーを呼んだ。
 私が先に乗り、途中で下りる森さんが隣に座った。

 そして、旧テレビ朝日の近くまできて、
「ここで結構です。遠まわりさせてごめんなさいね」
 と森さんが言って、私の手にさっとお札を握らせたのである。

 それも、決しておしつけがましくなく、もうしわけなさそうにして。

「いや、そんな」
 と私はカッコつけたが、森さんは、「じゃ」と笑顔を残して、さっと降りていったのだった。

 その後、お目にかかる機会がないままでいるが、あのときの森光子さんの気づかいと間(ま)のよさは、いまも鮮明に覚えている。

 粋(いき)とは、あのような所作を言うのだろう。
 いまも私のお手本になっている。

 


 

投稿者 mukaidani : 20:23

2009年05月09日

子供の名前を、ひっくり返して呼んでみた

 幼児クラスの一人の名前を、ひっくり返して呼んでみた。

 夢人(ゆうと)という名前を
「トーユー」
 と呼んだのだ。

 すると
「そんな呼び方するな!」
 と、ムキになって怒ったので、試しに何人か他の子供たちの名前をひっくり返して呼んでみた。

 正梧は「ゴーショー」、翔也は「ヤーショー」、紗里奈は「リサナ」……。
 すると、みんなが、
「ボクは? 私は?」
 と、せがむので、一人ひとり名前をひっくり返して呼んでやると、キャッキャと言って喜んでいる。むくれていたはずの「トーユー」までもが、ニコニコ笑顔になっている。

「トーユー」という呼び方がイヤだったのではなく、自分だけが特別な言い方をされたことが気にいらなかったということなのだ。

 そして、みんなの名前をひっくり返して呼ぶと、今度はフツーに呼ばれることが〝特別〟となり、仲間はずれにされたような気分になってしまう。

 やんちゃなはずの子供たちが、「みんなと同じであること」に安心感をおぼえるのだ。
 このことを、私たちはどう考えたらいいのだろうか。

 いまの世のなか、横断歩道でさえ、みんなで渡れば赤信号でも平気なのだ。
 私もそうであり、だからこそ、みんなと同じであることに安心感を抱く自分に、私は危惧を覚える。

 理由はわからない。
 ただ、内なる声が、
「異端であれ」
 と、私に言うのだ。

 私は「異端」でありたいと願う。

投稿者 mukaidani : 20:18

2009年05月06日

副署長の酒気帯び運転

 今日のニュースを見て驚いた。

 愛知県警守山署の副署長が深夜、飲食店から守山署まで酒気帯びで自家用車を運転した疑いで、書類送検されるという。

 副署長の酒気帯び運転に驚いたのではない。

 勤務中の同署員が、駐車場で副署長の酒の匂いに気づいたことが発覚の原因であるということに、驚いたのである。

 酒の匂いに気づいた署員がどういう立場なのか記事には書いていないし、検査に至る過程も判然としないが、やるもんではないか。

 相手が副署長であろうが、上司であろうが、署で毎日顔を合わせていようが、
(酒臭い!)
 となれば厳正に対処するという警察の厳正さは、もちろん評価されるべきだろう。

 だが、その一方で、
(なんだかなァ)
 という思いも、私はするのである。

 私のようなチャランポランな人間は、副署長を注意はしても、飲酒の疑いで検査までしなかったろう。

 副署長は、おそらく懲戒免職になる。
 立場からして、警察官の酒気帯びは言語道断であることは言うまでもないが、それを承知しながらも、
(なんだかなァ)
 という思いが後を引いて、複雑な思いがするのである。
 
 

投稿者 mukaidani : 15:38

2009年05月04日

習慣の恐ろしさ

 私は朝風呂の習慣がある。

 自宅にいて、外出するときは、ひと風呂浴びてから出かける。

 今朝、早くに畑に行って、ナス、ゴーヤ、サツマイモ、ミズナなどを植え、ジャガイモの芽欠きに草取りと、全身汗びっしょり。

「さあ、帰ってから風呂へ出かけるぞ」
 女房に告げて、畑を後にした。

 で、帰宅するや、いつもの習慣で風呂に火をつけておいて身体を洗い、湯船につかっていると、女房がドアを開けて、
「健康ランドへ行くんじゃなかったの?」
「行くさ」
「じゃ、どうして風呂に入っているのよ」
「……」

 習慣とは、げに恐ろしいものである。

投稿者 mukaidani : 22:09

2009年05月02日

着物と「人生の自信」

 このところ、着物で過ごしている。

 先日は、都内へ初めて着物で出かけた。

 クルマで行ったので、着崩れしないかと膝頭に力を入れて運転したせいで、内腿が痛くなった。

 帰途は、着崩れしてもかまわないので気楽に運転したが、着崩れしなかった。

 着物の指南書を読むと、「とにかく馴れること」と、どの本もブログも書いてあるが、「馴れる」とは、神経質にならなくても、そうそう着崩れはしないということを体験で知れ、ということなのだろうと理解した次第。

 それにしても、着物で街中を歩くと、人の視線を感じる。

(このオッサン、ヒマだな。真っ昼間から着物でプラプラしゃがって)

 自意識過剰であることは承知しながらも、そんなふうに考え、何となく気恥ずかしくなってしまうのである。

 だが、それが自意識であれ、周囲の視線を意識し、気恥ずかしさに耐え、それに馴れてくると、妙な自信がわいてくる。

 居直りである。

 居直れば、これが不思議と、自分自身に対しても自信がついてくるのである。

 こんな経験からも、服装は人間の意識を大きく変えるということを、つくづく思う。

 どんな格好でもいい。
(ちょっと気恥ずかしいな)
 と思う服装をしてみるといい。

 人生観は確実に変わるはずである。


投稿者 mukaidani : 12:58